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「影」(シャドー)との戦い

  元型の中で特に有名なものに「影」があります。元型の知識がなくても影の表現を使う人は多いのではないでしょうか?

小説や映画のモチーフとしても、多数存在するでしょう。影とはいわゆる、自分で認めたくないマイナス面、足りない部分、間違った態度、暗黒面、抑圧された願望などを示します。頭で、「~しては駄目」、「~するのは、いけないこと」と思っていること、思い込んでいることも、無意識に追いやられ、「影」になります。

これは社会的に否定されているような事もそうですが、ある地域、あるいは文化、家族の中だけでも、否定されているような事が、「影」として無意識下に抑圧されることもあるようです。ここで注目すべきは、その否定されている事が、必ずしも一般的に否定されている事とは限らず、むしろ、自分が思い込んでしまっている事であったり、誰かに思い込まされてしまっている場合も多いことです。(あるいは、その集団だけが思い込んでいること、だったりします)

例えば、「攻撃的なことはすべて駄目」と厳しく教え込まされた子供は、過剰な攻撃性は勿論のこと、むしろ子供として当然である範囲の攻撃性まで否定し、無意識の領域に抑圧するかもしれませんし、その生き生きとした活発性まで押し殺し、無意識に「影」として抑圧するかもしれません。

(とは言え、まったく容認するのが危険なのは言うまでもありません。礼儀や規範、倫理観を教育するのは大事です。要は、バランスですかね。そして、正しい基本姿勢を持つことと、時には例外をゆるすこと、両方大事です。この辺は、親も子も、両方学ぶことでしょうか)

人は個人なりの価値観を持っています。あるいは持たされています。そして、それにそぐわない存在を無意識の領域に押しやる傾向があるようです。これが自身の価値観によるものならまだいいのですが、周りから持たされた価値観であったなら、少し悲しい気もします。

人であるならば誰だって持つ本能的なものを、考えもなしに否定され、それを持つことがあたかも害悪であるように教育されたら、どうでしょう?

例えば、人が本能的に持つ暴力性を全く否定され、それを少しでも見せようものなら、ヒステリックにその人間性までもが否定されたような言い方をされたら、どうなるのでしょう?

その暴力性を発散させる、マンガや小説、映画、ゲーム、遊びを取り上げられたら、どこで発散させればよいのでしょうか?

そんなものはどこかに捨てよ、とでも言うのでしょうか?無意識の領域に追いやれというのでしょうか?それがどんなに危険な行為であるかの認識がないのでしょうか?

影と向き合うことなく、ただそれを抑圧し続ければ、影は際限なく肥大化します。自我で手に負えなくなった影はとんでもない事態を引き起こします。その責任を個人に負わせる気なのでしょうか?(あるいは、抑圧させた自分の責任は不問にして、単にゲームや映画を槍玉に挙げるでしょうか?)

人であるなら、一般的に「悪」だとされるものを誰もが持っています。またそれを消すことはかないません。全く悪意のない人間は、その時点で、もはや人間ではないような気もします。その人は神様であるか、自分を認識できない人であるか、どちらかかもしれません。

だからといって、悪なる存在を全く容認するものでもないし、ましてやそれに支配されて良いものではありません。安易に犯罪を容認したり、反省もない者を赦すのもおかしいでしょう。(それを助長するような媒体を野放しにすることもありません)

では、どうすればよいか?自身の影と向き合い、対決するしかないと思います。ともかく、自身の影を認識する事が大事です。自分の認めたくないマイナスの傾向、これを知ることです。

最近は、「やさしい人」がいて、この影の認識を阻害するような人もいます。これは一見やさしい事ですが、「人間成長の妨害」につながる事でもあります。例えば(非常にざっくりした言い方を敢えてすれば)、誰かをかばったり、擁護するのは、「反省している相手」「マイナスを認識した相手」に対してです。(あるいは、不当な低評価を受けている人、ありもしない罪を着せられたり、言ってもないことを、あたかも言ったかのように吹聴されたりして、孤立している人…そのような人に対してです)

「反省の無い者」「マイナスを認識してない者」をかばったり、擁護したりするのは時に害悪になります。反省や方向転換のチャンスを奪うことにもつながるでしょう。(特に大きな罪を犯したものについては、尚更です)周囲にも、本人の成長にも、悪影響を及ぼします。

考えてみてください、散々好き勝手をして、何の反省もないまま成長し、いい歳の大人になったら、どうするのでしょうか?そんな人がいつまでも周囲に受け入れられるはずがありません。
周囲に非難されても、それを隠され、認識できず、やがて、過剰に保護してきたものは死に(あるいは去り)、残された、歳だけ大人で中身は子供の人は、どうやって生きるのでしょうか?

身勝手なせいで周囲からも受け入れられず、その理由も分からず、悩み、孤立し、悩み、孤立し、そういう人はどうすればいいのでしょうか?この状況を生み出した人に罪はないのでしょうか?

それが教師であったなら、どうでしょう?
親であったなら、どうでしょう?
影響力のある人だったら、どうでしょう?
マスコミや弁護士だったら、どうでしょう?

…この辺は、十分考えるべきことだと思います。
話を戻します…

影も万物と同様に、一面的ではありません。つまりマイナス面ばかりではありません。本能的であるがゆえに、人間的であるとも言えます。上っ面だけで影を殺している「聖人君子」にうそ臭さを感じることもあると思います。(ただ、真に自己と対決し、影と戦っている聖人も勿論いると思います)逆に、影とうまく付き合っている人からは、人間的な魅力を感じるのではないでしょうか?
人生の達人というやつです。

また、「決め付け」や「思い込み」を考慮するなら、あるいは、それを刷り込まれたことも考えるなら、「影」として抑圧しているようなものも、実は、「意外といいもの」であったり、「そうそう悪い事でもないもの」であったり…そういう場合も多いです。

例えば、子供として当然とも思える「甘えること」や「駄々をこねること」…それを「わがままは、いけないから…」と否定し、無意識に抑圧し、それが成長してから爆発することもあります。そして、よくよく聞いてみると、ある事情から、幼いながらに甘えることを我慢し、自分より幼いのものの世話を焼き、我慢して、我慢して、頑張って、頑張って…そうして、成長してから、ついに我慢できなくなり、「甘えたい気持ち」が爆発することもあります。

また、爆発するまで気づかなかったり、爆発しているのに気づかない場合も多いようです。その「影」を認識することを避けたが為に、身体を壊すことも、病になってしまうこともあります。確かに、事情があるのだから、基本的に、甘えを我慢することも大事でしょう。でも、子供なんだから、時には甘えていいはずです。

そういう気持ち、自分の本心、隠された気持ちを、無意識から受け取り、可能であれば、今からでも甘えたり、その気持ちを伝えることも大事です。

それが無理だとしても、
「ああ、甘えてよかったんだ」、
「それでよかったんだ」、
「そういう気持ちも大事なんだ」…そう気づくこと、答えを出すことも大事でしょう。つまり、心の方向転換が、重要になります。

このような例は、いくつもあります。
「意地悪すること」
「嘘をつくこと」
「恥をさらすこと」
「お金に執着すること」
「権威を追い求めること」 … などなど。

上記は一見、それをしないに越したことはない、と思うようなことですが、見方を変えると、
「意地悪はしない方がいいが、ちょっと位そういう気持ちがあった方が、人間らしい部分がある」「また、それが許される間柄、相手もある」
「嘘はできればつかない方がいい。でも、ちょっとくらい嘘をつくくらいの方が、人間らしい部分もある」、

「また、許せるような嘘も、かわいい嘘もある」、
「それでうまく収まる場合もある」、
「恥はできれば見せたくないものだが、恥くらい誰だってかくものだ」、
「また、恥を見せてもいい間柄の人も多い」、
「恥をかくことで関係が深まる場合もある」、

「お金に執着し過ぎるのは醜いが、執着がないと暮らしていけないし、それも問題だ」、
「適度な執着は、全然問題ない」「それが豊かさにつながることもある」、
「権威だけを追い求めるのは虚しいが、権威から逃げたら得るものは少ないのでは?」、
「適度に追い求めた方が、得るものは大きい」、
「権威『だけ』では虚しいが、権威に付随するいいものがあるかもしれない」

…そういう風に、例外をゆるせたり、意識や価値観の方向転換ができればしめたものです。
抑圧してきた感情は、消化され、新しい見識となるかもしれません。但し、忘れてはならないのが、基本姿勢を捨て去らぬことででしょう。

当たり前ですが、意地悪が推奨されたり、嘘が讃えられたり、恥が当たり前になっていいはずがありません。ただ、現代日本を考えると、過剰な擁護、恥の消失、礼儀の喪失…そういうものが進んでいるようにも感じます。また、それを推奨する、教師や団体があるのは悲しいことです。

また、このような事についてもう少し語るなら、一般に悪とされる感情や思いも、確かにそれを実行するといけないし、罪にもなるが、それを思う分には問題ないし、そういった感情すべてを殺す必要はないという部分もあります。要は、実行しなければいいと思います。実行するにしても、許される範囲で、許されるような場所ですればいいのです。

もう少し具体的に言うなら、暴力的なことも、それを想像する分には罪はないし、それをスポーツなどで、活動性として消化すれば問題ないでしょう。ゲームの中で発散するのも、いいと思います。(ゲームの中のことを、現実にやっちゃダメですけどね)性的なことも、それを想像することは、ある意味健全だし、許される範囲で処理することに罪はないでしょう。(逆に、それを頭ごなしに否定したり、そんなことは考えないような年頃の者に、教育と称して刷り込むのは、大きな間違いだと思います。はっきり言って、ずれています。お馬鹿な話です)

この影は夢の中によく登場するようです。自分が認めたくない存在が夢に現れることは誰しも経験するところではないでしょうか?そして影は夢の中では自分と同性のものとして現れることが多いようです。(兄弟として現れることもあるようです)

一般的な悪ではないにしろ、その個人が否定的に考えているという見方をすれば、以前に述べたタイプ論の対立する態度や機能が影として現れやすい、とも言えます。内向的態度と外向的態度、思考と感情、直観と感覚、その片方のみに重きが置かれるとき、相反する存在が影としてむくむくと活動したりします。

また、このような場合、個人的にはどうにも許されない(認めなくない)存在であっても、世間一般からすれば当たり前であることも非常に興味深いことです。個人の内的世界と、現実という外的世界では真実が違うのです。これを認識することは重要です。内的世界の真実と、外的世界の事実、両方が大事にされるべきであると考えます。

この影なる存在ですが、夢の中だけではなく、現実世界でも姿を現したりします。なんだか知らないがどうにも許せない人、別に嫌いではないけれど、あの行動だけはどうにも許せない、そんな時は自身の影を相手に投影している場合が多々あると思います。勿論すべてが投影であるとは言いませんが…。

しかし、投影している相手でも、意外に好感が持てる面を見出すこともあります。そしてそんな時、心の内になんともいえない変化が生じるのではないでしょうか?「おや?」「へ~」「そうかぁ…」などなど…

この嬉しい驚きが重要です。これが価値観の修正、生き方の受容に深く関わります。

影との対決にも同じことがいえるようです。影なる存在を全く抹殺するというよりは、その中に意外なよい面を見出し、折り合いをつけ、うまく付き合っていけばいいのです。それが統合の始まりでしょう。特に自身の劣等機能においては、とても悪なる存在とはいえないのですから、補助機能の力を借りて、徐々によいお付き合いをすればいいと思います。

ともかく、影から逃げたり、抑圧したりしない事、但し、支配もされぬ事、まずは認識してみる事、
将来的には、うまく付き合っていく事(統合する事)、それが大事でしょうか…

ただ、人間として生きてきた過程で形成した価値観を変更するのは容易な作業ではありません。傍(はた)から見たら何でもないような事も、当人にとっては、生きる信条である場合もあるのです。捨てられない想い、もっと言うと、捨てられない誇りでもあります。

だからこそ、悩むこと、悩みきること、疲弊し、心砕けるような思いをすること、失敗すること、心に染むような想いをすること、痛感すること、…それらにも意味が出てくるように思います。

それがあってこそ、「変わりたいです」と心から言い、「ああ、こうしよう」と強く決心できる部分があります。心から叫び、本心を絞り出せるとも、言えるでしょうか。それ位にならないと、変えられない価値観、信条、生き方もあります。他人から見ればくだらない事でも、そうなのです。何しろ、共に生きた、戦友や兄弟、家族のようなものなのですから…。

この「影」は、人間が成長しようと思うなら、比較的はじめの段階で対決すべき存在です。したがって、理解もそうそう難しくないように思います。また、「自己実現を…」というような人でも、この「影」と対決してないような人、まだ対決途中のような人を見受ける事があります。ただ、そのような人に対して、「そんなことは無理に決まっている」と言うのも、子供じみているでしょう。

出来ないのではなくて、順序が間違っているのであり、初めにすべき仕事を忘れていたり、見ていないだけです。自己実現が不可能なわけでもないし、むしろ、その高尚な志は尊重すべきです。ただ、大事な仕事を忘れていることも、見逃してはなりません。浅薄な指摘も、浅薄な見逃しも、共に避けたいものです。

「影」には、「生きられなかった半面」という面もあります。嫌いなあの人が生きた生き方、本当はしたかったのに、出来なかった生き方、(あるいはそれは、自我が思いもしなかった事かもしれません)憧れたのに、抑圧した生き方…そういう意味合いもあります。今まで述べたことと、意味合いは同じです。

しかし、ここに注意が必要です。抑圧してきた生き方を受け入れるのは大事ですが、それを職業と混同するのも、また危険です。それは職業として活かせるものかもしれない。でも、それは職業とは別に、すべきことかもしれない。この見極めは、大いに重要です。失敗すれば、職も、家族も、信用も、財産も失います。

が、しかし、その一方で、そそれでもしたい」、「何が何でもしたい」…そういうものもあります。あるいは、自分が、「駄目だ」、「できっこない」、「今更、目指しようがない」…そう思っているようなことでも、何らかの方法があるかもしれません。したがって、このような問題は、簡単に薦められないし、簡単に無理だとも言えないです。

大事なことは、信用できる人に相談し、できるだけ多くの意見を聞き、最後に自分が判断し選択することでしょうか。結局、自分の人生は自分で決めるしかないのです。

「どうせ無理」でもいけないし、「全部誰かのせい」でも、ありません。
自分の人生を引き受けることは、カウンセリングでは大事な仕事の一つです。
(誰かが代わってくれることでもありません)

先ほど、影との対決は、比較的人間成長の初期段階ですべき、という風なことを言いましたが、
これは年齢をさすものではありません。自分と向き合ってから、とか、人間的に成長しようと思ってから、とか、人生に決着をつけようと思ってから、とか、カウンセリングを受けるようになってから、…そういう意味です。

また、このような理由で、影に苦しむ人は意外に多く、その種類も、多種多様です。しかし、その体系に傾向や特徴があるのは、今回の講座を読んで感じ取っていただけたのでは? と思っています。ここで感じ取れたような切り口で、見えてくるようなこともあります。まあ、一人でやるのは危険ですから、専門家や、それなりに経験を積んだ人と共にやることをお薦めします。
by sigma8jp | 2008-12-01 19:44 | ユングの「アーキ・タイプ」 | Comments(0)
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