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自己と個性化の過程 2

2.自己の表現、そのかたち
  「自己実現」「個性化」が人間としての究極の目的であることは疑いようのない事実ですが、そこに到達点があるかというと、そうではありません。人は自己実現の過程で、ある種の理想像のようなものを設定するでしょうが、その像は永久不変なものではなく、むしろ日々変化するものでしょう。

自己実現は常に発展してやまない可能性に満ちており、それゆえ、その『過程』を歩むことに大いに意義があるのです。この可能性に満ちている点が、人間の優れた点です。人は常に進化する可能性を持っているのです。これは神にも悪魔にもない、人間の財産です。

そして、地球上の進化の頂点に立つ人間の誇りであるように思います(「誇り」が「驕り(おごり)」になってはいけませんが…)。我々は自身の魂そのものを見ることができないように、自己そのものを見ることは出来ません。しかし、自己の象徴的表現を通して、その働きを知ることが出来る、つまり意識化することが出来るのです。

自己の象徴は様々なカタチをとるのですが、それが人格化した姿としては、男性における「老賢者」、女性における「至高の女神」などが挙げられます。この姿は個人の夢にも、世界中の物語の中にも現れます。主人公が苦難の旅の中で身動き取れない状況に陥ったとき、老賢者や至高の女神は、その閉塞を打ち破るだけの、価値ある助言や忠告を与えてくれます。(物語やゲームなどでは、閉塞を打破できるアイテムを与えてくれたりします)

実際、自我の力で問題を解決しようと努力に努力を重ね、しかし解決には至らず、疲弊し、まさに絶望しようかというとき、我々の知らない自己に働きが起こり、我々の知りえなかった高次の解決法を授けてくれる場合は多いようです。(この辺は、禅の公案にも通じるものがあるかもしれません。禅の場合、考えて考えてなお分からず、ふと考えることを放棄した瞬間に、(葉が落ちるなどの)ふとした自然現象などをきっかけに、悟りを得る場合も多いように思います)

この自己の働きと、老賢者の像は、まさに相重なるものです。我々の知らぬ、未知なる叡智を示し、閉塞状態を打破する「ヒント」や「きっかけ」を与えてくれます。(とはいえ、自己や老賢者の言うことに「聞く耳」を持っていることが必要となってきますが…)

老賢者の像は、時に「老人の知恵を持った子供」として現れることがあります。このモチーフは、夢などにもよく現れますが、一見、弱そうであったり、価値の低いものに見えるものが、実際には価値ある知恵を持つ存在であるところが非常に興味深く感じます。また、別の見方として、子供という可能性に満ちた姿をとっている点も興味深いです。

また、現実問題でも、若い者や子供の意見の中にも、有用な知恵が隠されている場合もあるし、若くして経験を積んだ者が深い洞察や見識を示すこともあります。そしてこのような時、受け取る側が、若さや幼さを理由に、その知恵を簡単に無視したり否定したりすれば、大事な宝を失うことにもなるでしょう。(ここでも「聞く耳」が必要になります)

何度も言いますが、自己実現は素晴らしいものですが、同時に苦難の道でもあります。
ユングが「自己実現は高くつくものだ」と言ったように、実際には出来れば避けて通りたいくらいの苦難の道です。自己実現の道を歩もうとしてからも、投げ出したいと思ったり、実際一時的に投げ出すこともあるでしょう。

そのことを経験的に知らずに、安易に自己実現を勧めれば、それをなす側も、それに付き合う側も、その苦しさに耐えられなくなるのではないでしょうか。あるいは、実際に自己実現の過程を歩んでいる人は、安易に勧めないだろうし、また付き合うだけの強さや耐性も、ある程度持つと言えるかもしれません。

ある種の症状に苦しむ人は、苦しい自己実現の道から逃げ出そうとしているために、ほかの意味の苦しさを味わっている、という見方も出来ます。すべきでない苦労をしている、と言ってもいいかもしれません。しかし、言い方を変えれば、本人も自覚していない実現すべき可能性を持った人だ、という言い方も出来ます。こういうことを考慮すると、同じ苦労をするにしても、本来取り組むべき仕事と向き合い、その道を歩む方が建設的であるように思われます。

そして、こういう場合、いかに自己や無意識に耳を傾けるか…ここが大事なようです。自分が無価値なように思っているものの中に、何かしらの可能性を見出し、「なんだ、こんないい面もあったのか」と気づくと、人間としてより成長できる面もあるでしょう。そういう仕事を通して、自分に欠けているものを補完し、全体性に近づいていくのです。

逆に言えば、外向型の人が内向型の人を簡単に馬鹿にしたり、直観を主機能とする人が感覚機能を簡単に蔑視したりするのは、せっかくの可能性を殺しているともいえます。ある意味では、自分の劣等な部分と対面し、それをなんとか統合しようとする努力が「個性化の過程」「自己実現の過程」だと言えるのですが、このような統合性を示す例として「男と女の結婚」や「男女の結合」、「陰と陽の結合」などがあります。これは夢や物語のモチーフであるとともに、宗教的なモチーフでもあるように思います。

確信犯的に脱線します。
このように人間としてより成長するための姿としての「結婚」を考える場合、現代の現実世界の結婚に違和感を感じます。現実はそう甘くない、とか言うのは簡単です。そう、簡単なのです。簡単にくっついたり、別れたりしていいのでしょうか? その未熟さに気づいているのでしょうか? 気づいていても逃げているのでしょうか?(まあ、簡単に離れているわけでもないでしょうが…。それに、離れない事がいいこととは、決していえません)

その昔(昔でもないかもしれませんが)、離婚した人が不当に低く見られたことを考えれば、気の毒に思いますが、それを歪曲して、「離婚率が高いほど文化が高い」などと声高に言う人がいる始末。その背景には、低いアニマ・アニムスがあるのかもしれません。更に進んで、「同性愛は素晴らしい」なんて団体まであり、それが国に認められたりする。これにも私は違和感を感じます。何でもかんでも簡単に大歓迎!!なんてのは、いかがなものか?考えることを放棄していないでしょうか?

「人間としての権利」は守られるべきである。「趣味嗜好」の傾向も、守られるべきだ。しかし、本来取り組むべき仕事の象徴表現として、離婚や性的な不適応などが現れている場合、安易に表層の問題のみの解決にこだわることは、正しいのでしょうか? それよりは、そこに隠された真の問題を模索し、向かい合うほうが建設的であるように思います。

離婚や、性の不適応や、同性愛者であることが理由で、人間としての権利を奪われたり、人格までも否定されたら問題ですが、だからといって、それが素晴らしい、と言っていいものではないように思います。それは、あまりに思慮の浅い行為ではないでしょうか。

繰り返しますが、まずは離婚や性的不適応、同性愛などの問題の背後にある「真の問題」を明確にしていくほうが意義深いように思います。逆に(意識的にか無意識的にかは別にして)、真の問題から逃げるために過剰に表層の問題にこだわるのはいかがなものでしょうか。それは安易な道であると同時に、本来ある可能性を殺してはいないでしょうか。不適応→適応という、成長の過程を奪ってはいないでしょうか。

そして、特に危惧すべきは、こういう問題を思想活動や政治的な運動に利用しようとする人たちが世の中にはいることです。この辺は十分に注意した方がいいと思います。(とはいえ、最後に何を選択するかは、本人のすべき仕事です。誰が代わってくれるものでもないし、誰かが誘導したりコントロールしていいものでもないでしょう。ただ、こういう考え方もあるという事です)

話を戻します。
このような二者の合一による全体性の象徴で、人格化されたものではないものに、『曼荼羅』があります。ここでは、統合による全体性が、幾何学的な図形として表れています。ユングもまた、自身の夢の中で、曼荼羅の夢を度々見たそうです。これはユングの著作にも残っています。

このような曼荼羅は、ある個人が心的な分離や不統合を経験している際に、それを統合しようとする心の内部の働きの表れとして生じる場合が多い、とユングは言っています。更にユングは言います「これは明らかに、自然の側からの自己治癒の企てであり、それは意識的な反省からではなく、本能的な働きから生じたものである」

そして河合隼雄氏も言います。「意識的には分裂の危機を感じ、あるいは強い不統合性を感じて解決策もなくて困っている人が、この曼荼羅象徴が生じることによって心の平静を得、新たな統合性へと志向していく過程を経験すると、人間の心の内部にある全体性と統合性へ向かう働きの存在、自己治癒の力の存在を感ぜずにはおれないのである」

自己の象徴としては、他に、「宝石」や「動物」があります。物語には、「宝石」を求めて冒険する話も多いようです。これは曼荼羅に共通する幾何学的な精密さと、得がたい高価なもの、という2点が強調された姿でしょうか。また、未だ意識化されない面が強調されると「動物」の姿で現れることもあるようです。無意識的要素は、夢の中などでも度々動物の姿などをとって現れます。
おとぎ話などで、この「動物」が主人公を助けることがあるのも興味深いことです。

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3.「時」
 「自己実現の過程」「個性化の過程」を歩もうとするには、「その時」というものがあるように思います。悩みに悩みぬき、あるときは逃避し、疲弊しながらも、なんとか自分の足で立とうとする、そんな「時」があるように思うのです。

ユングは「自己実現は高くつく」と言いましたが、その通り、自己実現は偶然出会う幸運でもなければ、簡単なアドバイスにより達成されるような甘い話でもないようです。それよりは、理不尽な不幸に巻き込まれて、旅に出発し、幾たびの苦難を乗り越えながら、なんとかお宝を手にするといった物語との方が共通点が多いように思います。

そして、そこには危険が常に付きまといます。まさしくこれは冒険でしょう。そして冒険せねば得られぬ宝もあるのです。町で平穏に暮らす選択肢もあります。危険な冒険に出て宝を求める選択肢もあります。しかし、宝を欲するなら自分で得るしかありません。自己実現の宝に分け前はないのです。(苦難の旅を共にした――そんな場合は、素敵な分け前があるでしょう)

人生の後半において、自分の内面と対決せねばならない「時」が来るのは、容易に想像できるのではないでしょうか?世間から人生の成功者のように思われる人も、「その時」には、自分の空虚な心に気づき絶望するかもしれません。

会社から仕事を奪われた人が、「その時」には、仕事以外に何もなかった自分に気づき、立ち尽くすかもしれません。この「時」を、不幸だと嘆くか、新しい可能性だと思うかは、その人次第です。他人の慰めなど、虚しいだけです。

河合隼雄氏が『寿命の話』として、グリムの面白い話を提供してくれています。神様はロバに三十歳の寿命を与えようとしましたが、ロバは荷役に苦しむ生涯の長いのを嫌がったので、神様は十八年分短くすることを約束しました。

次いで、犬もサルも三十歳を長すぎると言って辛がるので、神様はそれぞれ十二歳と十歳分だけ短くしました。さて、そこに人間がやって来たのですが、人間が三十歳の寿命が短いというので、神様は、ロバ、犬、サルから取った年齢分、十八、十二、十歳の合計を人間に与えたので、人間の寿命は七十歳になりました。

人間はそれでも不満げに退いたのですが、この物語のよると、それ以来人間は、三十年の人間の生涯を楽しんだ後、あとの十八年は重荷に苦しむロバの人生を送り、続く十二年は噛み付こうにも歯の抜けてしまった老犬の生活をし、後の十年は子供じみたサルの年を送ることになったそうです。

これは非常に興味深い物語です。
「重荷に苦しむロバの人生」、「噛み付こうにも歯の抜けてしまった老犬の生活」、「子供じみたサルの年」…これらの喩えは笑えません。

このような物語は、論理的な人生の説明よりも、よほど胸を打つものだと思います。
読む各人に様々な情動を与えてくれるのではないでしょうか。

この物語を読むと、長寿を得た人間の不幸話の印象が強いのですが、現実世界に生きる人間の一人としては、せっかく得た寿命という貴重な「時間」を有効に使い、動物の人生を送るのではなく、せめて人間として年齢の分だけ価値ある人生を送りたい――そう思います。

ただ、三十歳までを生きた人生を、そのまま晩年にまで生きようとしても無理があるでしょう。実際の世界でも、「若さ」や「強さ」に固執し、それを売り物にしようと努める人もいます。しかし、それが限界に達したとき、急降下が始まります。この急降下が悲劇であることは容易に想像できるはずです。急降下ではなく、自負を持ってゆっくり下る、これが出来る人は「人生の達人」でしょう。

現代では、若さに固執するあまり老いを否定して生きたり、親の責任を放棄して、友達や兄、姉として子供と接するような人もいます。しかし、これが正しい姿なのでしょうか?老人の叡智、親の責任、それらはどこに消失してしまったのでしょう。少なくとも、未熟な親が未熟な子を育て、その子がまた未熟な親になり、未熟な子を育てる、このような無限ループだけは脱したいものです。

自分の責任を放棄した仮初めの姿ほど醜いものはありません。むしろ、年齢の分だけしっかり生きた人には、老いというよりは、そこに成熟がみられるように思います。そして、そこには老いを受け入れた人の美しさがあるのではないでしょうか。自己実現の「時」がいつ来るかは誰にも分かりません。このような「時」は、一般に言う時計で測定できるような「時」と区別して考える必要があるでしょう。

神学者パウル・ティリッヒは時を以下の二つに分けて考えています。ひとつは「クロノス」で、これは時計で測定できる時間です。一方、「カイロス」は時間の質の体験で、例えば、何かに熱中していて時計の時間的には長いのに、感覚としては瞬間にさえ感じてしまうような体験です。またある人は、「カイロス」を神が定めた「時」という言い方をします。ここでは、意義深い何かを感じる「時」、何かを成そうという内的衝動に駆られる「時」、運命の「時」とでもしましょうか。

自己実現の問題と、このカイロスの問題とは密接な関わり合いを持ちます。例えば、外向的に生きてきた人が、内向的な生き方にも意義を見出さねばならない「時」、家庭を顧みなかった人が家族の病気に際して、家族と深く向き合わなければならなくなった「時」、自分の中の弱さや欠損を否定したり抑圧して生きてきた人が、それに気づき、なお逃れられず、どうしても向き合わねばならなくなった「時」、これらのカイロスを大切にしないと、この人は自己実現の道を誤ることになりかねません。

しかし、カイロスを大切にするばかりに、クロノスを忘れてしまうと、外界に対して適応した態度であるペルソナを損なう恐れがあります。勤務時間、面接時間、劇場の開演時間、約束の時間、これらのクロノスを守ることは社会人として最低限の常識です。クロノスのみに囚われると大事なカイロスを見逃してしまうし、カイロスのみに囚われると大事なクロノスを見誤ってしまいます。
ここでも、バランスが問題になります。

そしてその「時」を見極めることも重要になってきます。カイロスをとるか、クロノスをとるかは、難しいところでしょうし、場面場面で違います。一般に、人はクロノス的な時間を(人生を?)過ごすことの方が多いでしょうが、何かに熱中したり、深く関わったりと、カイロス的な時間を過ごすこともありそうです。また、ある意味、必要でしょう。それが社会的には価値の低いものであっても、です。

自己実現もそうですが、人生の重要な「時」に、我々は不思議な現象に出会うことがあります。
それは偶然という言葉でくくるには、あまりにも意味深い現象であり出会いです。例えば、「夢のお告げ」と考えられるような夢を見ることもあるでしょう。祖母がやさしく笑う夢を見て、覚醒した瞬間に電話が鳴り、祖母の死を知ることもあるかもしれません。あるいは、夢の中でのアニマが現実世界にも現れるかもしれません。

このような『意味ある偶然の一致』をユングは重要だと考え、これを因果律によらない一種の規律であると考え、非因果的な原則として『共時性』(シンクロニティー)と名づけました。ここで注意せねばならないのは、「因果律によらない」ことです。上記のような例でも、祖母の夢を見たから祖母が死んだのではありません。仮に、地震の夢を見たとしても、その夢を見たから地震が起きた訳ではないのです。

このような共時性の現象を因果律によって説明しようとすると、偽(ニセ)科学や偽魔術、インチキ宗教などに陥ります。祈ってもらった「から」、症状がよくなった。信心しなかった「から」、悪くなった。そんな都合のいい解釈はないでしょう。良いことは神のおかげ、悪いことは本人のせいでは、自分の努力が価値の低いものになります。

せっかくの人生を愚弄されたようにも感じます。(まあ、実際問題、本人の努力を放棄して、仕事そのものを神頼みならぬ、神任せにして、放り投げている人もいるかもしれませんが…)また、それが過剰な商売や思想活動につながっていたなら、罪は重いと思います。

共時性の現象を見るときは、原因を探るよりは、その現象が当人にとって何を意味するのか考えるほうが、より建設的でしょう。
共時的現象が、何と何をつなぎ、何を教えようとしているのか? …それが大事なのかもしれません。

「個性化の過程」は自分だけの理想像、なるべき姿、人生の仕事を模索し、それを成し得ようとする作業であり、過程です。それは既存の価値観でもなければ、誰かに押し付けたものでもないし、世間の流行によるものでもありません。無意識の深遠から突き動かされ、自我と自己とがタッグを組み、人間の深い部分からの要求を、この我々が生きる世界で体現することです。
言い換えると、「自分だけの人生をしっかり歩むこと」、「自分だけのヒーロー、ヒロインになること」だと言えるかもしれません。
by sigma8jp | 2008-12-01 20:25 | ユングの「個性化とマンダラ」 | Comments(0)
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