神秘思想家G・グルジェフ

b0140046_6514982.jpgゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフ(Георгий Иванович Гурджиев, 1866年1月13日? - 1949年10月29日)は、ロシアの神秘思想家。

神秘思想家として紹介されることが多いが、著作・音楽・舞踏によっても知られる。ギリシャ系の父とアルメニア系の母のもとに当時ロシア領であったアルメニアに生まれ、東洋を長く遍歴したのちに西洋で活動した。20世紀最大の神秘思想家と見なされることもあれば、怪しい人物と見なされることもあるというように、その人物と業績の評価はさまざまに分かれる。

欧米の一部の文学者と芸術家への影響、心理学の特定の分野への影響、いわゆる精神世界や心身統合的セラピーの領域への影響など、後代への間接的な影響は多岐にわたるが、それらとの関係でグルジエフが直接的に語られることは比較的に少ない。

人間の個としての成長との関係での「ワーク」という言葉はグルジエフが最初に使ったものであり、近年ではもっぱら性格分析のツールとして使われている「エニアグラム」はグルジエフが初めて一般に知らしめた。精神的な師としての一般的な概念にはあてはまらないところが多く、弟子が精神的な依存をするのを許容せず、揺さぶり続ける人物であった。

グルジエフという名前は生来のギリシア系の姓をロシア風に読み替えたものであり、表記としては「ジェフ」も一般的であるが、ここでは便宜上、参考文献の題名も含めて「ジエフ」に統一した。生年については公文書上の記録が一貫しないために諸説があるが、伝記作家ジェイムス・ムアらが主張する1866年説が一般的であり、グルジエフが自分の生年に触れた数少ない言辞の記録(米国国会図書館蔵)とほぼ一致する。


グルジエフの生涯
  グルジエフはギリシア系の父、アルメニア系の母のもとにアルメニア(当時ロシア領)に生まれた。生年には諸説があるが、伝記作家のジェイムス・ムアはこれを1866年としている。

グルジエフが1910年台にロシアにあらわれる前の前半生は、自伝的な著作である『注目すべき人々との出会い』に描写されている。その叙述には寓話的なところもあり、すべてを事実として読ませるように意図して書かれたとは受け取りにくいが、少なくともそのあらましと一部のエピソードは実人生を下敷きにしたものであろうことが近親者の証言などからうかがわれる。

グルジエフは少年時代のこととして、父親からの独自の教育からの強い影響に言及している。父親は裕福な羊飼いだったが、牛疫によって多くの羊を失い、経済的な困窮のなか、小さな木工場を立ち上げる。グルジエフは少年時より家業を手伝うとともに、各種の工芸や小規模の商いをもって生計を助けた。

父親は吟遊詩人でもあり、父親からギルガメシュ叙事詩を聞かされたことが「失われた古代の叡智」への関心のひとつのきっかけとなった。ロシア、ペルシャ、トルコが国境を接し、宗教と民族が混交するこの地で少年時代を送るなか、グルジエフはいくつかの不思議な現象を目撃し、それはやがて人間の生の意味をめぐる探求への衝動となった。

グルジエフの家族はまもなく、当時ロシア帝国が要塞の建設を進めていたカルスへと移った。グルジエフは、そこで学校に通い、医者もしくは技師になることを目指して勉学にふけるとともに、聖歌隊の一員となり、カルス陸軍大聖堂のボルシュ神父を最初の師として、精神的な事柄への関心をさらにつのらせ、やがて近傍の聖地や遺跡などの探訪を始める。学業を終えたグルジエフは、機関車の火夫として働くなど、鉄道に関係した仕事につき、鉄道建設に先立つ調査にも関与して、「正規外の収入」を得たこともあったという。

自伝によると、グルジエフは友人とアルメニアの古都アニの廃墟で、伝説的な教団の実在を示唆する古文書を掘り出し、これがアジアとオリエントの辺境をめぐる長い旅の最初のきっかけとなった。

放浪時代のグルジエフは「真理の探求者たち」というグループに属し、彼らはかつて存在したと信じられる「唯一の世界宗教」を求めて東洋の各地を放浪し、修道院や精神的な共同体、遺跡などを訪れ、神話や象徴なども含めた秘教的知識を収集したという。

「真理の探求者たち」のメンバーが集まったときには、それぞれの専門分野での研究成果を互いに分かち合い、知識を統合したという。グルジエフには、ひとつの専門領域として、催眠という現象への関心があった。のちに執筆された著書『ベルゼバブの孫への話』によると、その関心には、医学的または心理学的な側面のほか、特に集団心理としてあらわになる人間の暗示にかかりやすさやただ自動的に何かをしてしまう傾向に関する研究という側面があった。

のちにグルジエフは革命や戦争といった形でのこうした集団心理の働きをたびたび目撃し、トルコによるアルメニア人大虐殺のおりには、父親を失っている。人間の「自動的精神」が彼の大きな関心事だった。彼は人間の精神の脆さを研究し、それに打ち克つ方法を知ることをみずからの課題とした。彼は革命や動乱の危険な場にしばしば身を置き、3回にわたり「流れ弾」に当たって重傷を負った。

国境を越えて遍歴するのは容易ではなかったはずだが、グルジエフはこの時期、諜報面でロシアに協力していたのではないかという説もある。イギリスとロシアとの間でのアジア支配をめぐる「グレートゲーム」が展開されていたこの時代、精神的な探求者が旅のなかで見聞きすることにさえ大きな戦略的価値があったので、必ずしもスパイではなくても、これはありえる話かもしれない。

巨大な対立の狭間に身を置いて、その対立から自分の「存在」を肥やしてくれるものを手に入れるという、グルジエフの教えを通底するテーマは、このような体験のなかで育まれたのであろう。

1900年台になるとグルジエフはようやく遍歴の時代を終え、モスクワに姿をあらわし、小さなグループを指導する。1915年には当時すでに神秘思想家として名の通っていたピョートル・ウスペンスキーに出会う。しばらくのち、音楽家のトーマス・ド・ハートマンがグループに加わり、グルジエフとともに数々のピアノ曲の作曲にあたった。

ウスペンスキーはのちに離反し、グルジエフの名前を表に出すことなくグルジエフから教わったことに基づく一種の体系を独立して教えるようになる。ウスペンスキーはグルジエフの思想を体系的に記録していた。ウスペンスキーはそれを出版せずに世を去ったが、ウスペンスキー夫人はグルジエフの許可を得てその出版を決めた。その記録『奇蹟を求めて』は、後代においてグルジエフの教えが広く知られていくきっかけとなった。

1917年、ロシア革命が勃発した。グルジエフは弟子たちを連れてコーカサス山脈を越え、ロシア国内の動乱から危うく逃れた。特に危険なこの旅路のさなかでは、グルジエフはグループのメンバーに強い結束や命令への服従を求めたが、目的地に辿り着いた後には一転して、弟子たちの依存を許容せず、主体的な意志なしにグループの一員として留まることが困難となるような試練を意図的に作り出したことが、弟子たちの手記から窺われる。

グルジエフの一行は、コンスタンチノープルやベルリンでの滞在を経て、パリ近郊の森の中にあるプリオーレ館に落ち着く。グルジエフはここでかねてより蓄積してきた「人間の調和的発展」のためのメソッドの実践的な追求を本格的に始めた。肉体労働、音楽、舞踏、講義など、多彩な活動が展開された。

夜には特殊な舞踏もしくは体操の訓練があった。これは「ムーヴメンツ」と呼ばれ、グルジエフが各地に伝わる様々な神聖舞踏を組み合わせて独特なものにまとめあげたものである。動きは複雑で、身体の複数の部分の独立した動きの統合や頭の働きと体の働きの協和を要し、特殊な芸術であるとともに心身の調和的発展に向けての挑戦となることが意図されていた。

グルジエフの思想はヨーロッパの知識層に知られるようになり、とくにイギリスとアメリカ合衆国の一部の作家や思想家や芸術家の間での反響が大きかった。しかしグルジエフは、こうした欧米の知識層による思想の受け入れを必ずしも歓迎せず、のちにはグルジエフと彼らの間に対立が生じるまでになった。

グルジエフは最後の著作である『生は<私が存在し>て初めて真実となる』のなかで、「自己想起」や「自己観察」などの言葉をめぐる誤解など、知に偏った解釈や一面的な理解の弊害を指摘している。

1924年、グルジエフはアメリカに渡り、ムーヴメンツのデモンストレーションや講演で成功を収める。しかし同年、自動車事故で重傷を負い、やがて学院の閉鎖を宣言する。怪我から回復したグルジエフは、それまでの活動を大幅に縮小し、執筆に力を注ぐようになる。『ベルゼバブの孫への話』に始まる三部作はAll and Everythingと題され、宇宙、人間、意識、生命に関わるほとんど「ありとあらゆる」問題を扱ったものである。正式に出版されたのはグルジエフの死後である。

グルジエフはヨーロッパでの最初の試みで、ヨーロッパの知識人たちや自分のそれまでのアプローチに絶望したようであり、自動車事故の後、古い弟子たちの多くと関係を断つ一方で、1930年台には、アメリカで新しいグループを発展させたり、パリではソリタ・ソラノやキャサリン・フルムをはじめとするアメリカの女流作家たち数人のグループを相手に、新しいアプローチを試したりしている。

このようにして、長いブランクの後、ロシア時代やプリオーレ時代のワークとはかなり趣が異なる、内的な性格が強まったグルジエフ晩年のワークのアプローチが生まれた。

この大幅な方向転換に伴い、もっぱら思想面でグルジエフから影響を受けていた欧米の一部の知識人との間での亀裂は深まり、すでに離反していたウスペンスキーや他の知識人を中心として、グルジエフに由来する思想をグルジエフのその後の方向性とは切り離して広めようとする動きが生じた。

一般に「フォースウェイ」(第四の道)という言葉は、グルジエフがこの言葉に与えた元来の意味を離れて、グルジエフ自身が支持しなかったこの動きとの関係で使われることが多く、Wikipedia英語版でのFourth Wayのエントリはこれを意識したものとなっている。

1940年台になると、グルジエフはパリの自宅のアパルトマンで、ジャンヌ・ド・ザルツマンを中心とする小さなグループでワークを主導するようになった。グルジエフは執筆を打ち切り、現在では「サーティナインシリーズ」として知られる一連のムーヴメンツの創作を始める。『ベルゼバブ』の朗読、内的なエクササイズへの取り組み、ムーヴメンツの稽古などを主体とする集まりはだんだんに規模を増しつつ、戦時中も継続された。

この親密なグループでのやりとりの内容はグルジエフの指示によって克明に記録され、その一部は米国国会図書館に保存されている。その内容は個人に焦点を合わせた具体的な取り組みへの指示や助言が中心であり、グルジエフの活動前期におけるワークとの顕著な違いとして、個人の問題と結び付いた切実な問題を離れての思想や理論をめぐる質疑応答はなく、その方面はすべてを『ベルゼバブ』に一任した形になっている。

グルジエフのパリのアパルトマンでの集まりは会食を伴うのが常であり、戦後ますます数を増していった訪問者らにグルジエフはみずからの手で用意した食事をふんだんにふるまい、「愚者への乾杯」(Toast of the Idiots)として知られる乾杯の儀式を含んだ会食の場での緊張と笑いとユーモアが伝説的な色合いを帯びて当時の弟子たちの手記に描写されている。

終戦とともに、長く遠ざかっていたアメリカとイギリスの弟子たちが、ウスペンスキーのかつての生徒たちも含めてパリのアパルトマンに殺到し、ふたたび活動は広がりを増していった。1949年10月29日、グルジエフはパリのセーヌ河岸のアメリカン・ホスピタルにて逝去する。


■人間の役割
 「ワーク」とはグルジエフに由来して一般化した言葉だが、グルジエフは著書ではこの言葉をほとんど使っていない。著書ではそれに対応するものとして、「存在に伴う義務」(being-duty)、あるいは「意図的な苦しみと意識的な働き」(intentional suffering and conscious labor)という主題を提示している。

「存在に伴う義務」は、普遍的な文脈のなかで人間が果たすべき役割とそれに応じた個の成長の可能性との関係で語られている。「意図的な苦しみ」は「自発的な苦しみ」(voluntary suffering)とはニュアンスが異なると述べられており、「ワーク」もしくは「意図的な苦しみと意識的な働き」は個人の真正な利益にかなったことであることが示唆されている。これは「真に自己を利する者だけが真に他者を利する者となる」というグルジエフの別の言葉と結び付く。


■宇宙観・小宇宙観
  グルジエフはその宇宙観において、創造の源泉から発する原初の力が徐々に物質性を高めながら銀河群・太陽群・惑星群などを次々に形成していく創造の流れと、そうして生まれた被造物がこの流れを逆に遡ろうとする回帰の流れ、そしてこの二つの流れの間での均衡をもって存続する宇宙を描いた。

創造の流れは被造物に生命と意識を授けるが、これはトップダウンの流れであるから段階が進み、末端に近づくごとに質が落ちることは避けられないため、創造の流れは退化への流れでもある。グルジエフはこれに対抗する進化の流れのなかでの生命と意識の役割を強調した。


■三の法則と七の法則
「三の法則」は、能動・受動・中和(もしくは肯定・否定・和解)という三つの力の作用をもって、物事や現象の成り立ちを理解するための見方を提示する。

「七の法則」は、ひとつひとつは「三の法則」に基づいて成立する事象が連なっての物事の進展のプロセスの「不連続性」に対する見方を提示する。これは「オクターブの法則」とも呼ばれ、ドレミファソラシドの音階のなかで半音の欠けた(ピアノの鍵盤では間に黒鍵のない)二つの箇所、つまり「ミ~ファ」の箇所と「シ~ド」の箇所が、物事の自動的な進展が困難となる箇所(インターバルまたはギャップという)を表しているという。

グルジエフによれば、エニアグラムは「三の法則」と「七の法則」の結び付きをあらわしている。


■三つのセンター
 人間の全体としての働きに関与する三つの中枢。思考センター、感情センター、運動センターと命名され、頭・心・体に対応する。機能的な中枢に留まらず、そこから自分という思いが生じうる、三つの主観の座として描写されている。

グルジエフによれば、この三つのセンターはお互いから完全に独立しており、この三者間には満足なコミュニケーションが成立していないのがふつうである。グルジエフはこれを自分のなかに三人の人物にたとえ、ありふれた状態におけるこの三者間での不和から脱し、この三者が調和的な成長を遂げることの必要性を強調した。


■クンダバッファ
  グルジエフの著書のなかで「クンダバッファ」は人間が現実を直視することを妨げる生物学的な安全装置として描写されている。言葉の由来としては、サバイバル上の便宜のためや心の平和を守るために現実からの衝撃を回避するための緩衝器(バッファ)という言葉を、背骨を通じて働く力としての「クンダリーニ」という言葉の前半と合わせている。

グルジエフは著書のなかで「クンダ」とは「反射」であると述べている。それが意味するのは自己防衛や保身のための反射機能が自動的に頭を動かす状態であり、いわゆる「クンダリーニの覚醒」を求めての修行の多くはじつはこの隷属的な状態の追求であるかもしれないことが示唆されている。


■第四の道
 グルジエフが一時期に使った言葉として、ウスペンスキー『奇跡を求めて』を通じて広く知られるようになり、現在では多くの団体が使用するようになった言葉である。グルジエフは人間の分裂を解消し、眠りから覚めるための道について、これまでの宗教の伝統を三つに分類したうえで、第四の道を提示した。

第一の道 - 行者の道 肉体に働きかける(苦行)
第二の道 - 修行僧の道 感情に働きかける(信仰)
第三の道 - ヨーギの道 知識と精神に働きかける(訓練)
第四の道 - 肉体・感情・精神に同時に働きかける

グルジエフはこの「第四の道」を世間にありながら世間に属さない道として描写している。


■グルジエフの音楽と舞踏
  グルジエフは、ロシアの作曲家であるトーマス・ド・ハートマン(1885-1956)との共作で数々のピアノ曲を残した。ハートマンの手記によると、グルジエフはピアノを一本指で弾くことで、あるいは口笛によって旋律を指示し、ハートマンがそれを展開させていくと、さらにグルジエフが新しいパートを加えるなどして、曲が生み出されていった。

これらの曲は作風の違いからいくつかに大別され、全集の多くでは、「アジアの歌と踊り」(エスニック系の作品集)、「聖歌」(キリスト教系の作品集)、「ダルヴィッシュの儀式」(スーフィ系の作品集)、「魔術師たちの闘争」(同名のバレエのために作曲された作品集)などのタイトルを使用している。

ハートマンとの共作以外にも、グルジエフ自身の演奏の録音が残されており、公開されているものもある。

グルジエフが教えた数々の舞踏や体操は「ムーヴメンツ」と総称され、200余りの作品が現在まで伝えられているという。グルジエフの自伝的著作に基づく映画『注目すべき人々との出会い』の最後に映像が収められている。


■現代のワークグループ
 グルジエフ・ファウンデーションなどが正統性を主張し、アメリカとイギリスの団体が主導し、各国のサークルと提携している。非公式の名称ではあるが宣伝上で「グルジエフ・ウスペンスキー・センター」を名乗っているのは、ロバート・バートンが主宰する「フェローシップ・オブ・フレンズ」という団体であり、他のグループとは直接の接点を持たない。

日本では、グルジエフの著作の訳者である浅井雅志氏が同氏の主宰するイーデン・ウェスト・キョートというグループについて言及している。グルジエフに関する本の著者である郷尚文氏は海外のグループとも交流しながら、同氏が主宰するムーヴメンツ等のプログラムを提供している。ワークグループは多様性を増し、更にそれ以上にオクターブの法則による偏向も含みながらも、活動を続けているといえる。
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by sigma8jp | 2008-12-03 07:07 | グルジェフの覚醒プログラム | Comments(0)
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