カテゴリ:宇宙の神秘哲学論( 6 )

SF小説:『VALIS』 に見る超宇宙論

<VALIS あらすじ>
  語り手 I(私)は Horselover Fat であると同時にSF作家 Philip K.Dick でもあるというドッペルゲンガー的な人称で綴られているが、作中では各々別 個の独立したキャラクターとして登場する。神からの情報を担ったピンクの光線が自らの脳に直接照射されるという神秘体験により、息子 Christpher の先天的疾患を知らされた Fat はそれを契機に、既成の様々な神秘思想(マニ教、オルフェウス教、etc.)を貪欲に換骨奪胎しながら神とこの宇宙を巡る壮大な宇宙創世論を秘密経典("Tractates:Criptica Scriptura")という形でしたためてゆく。

ある日偶然友人の Kevin と観た映画 VALIS の中に、自らの神秘体験と数多く一致を見出した Fat は、その映画製作者でロックスターの Erick Lampton との接触を図ろうとする。劇中 VALIS は太古の時代に打ち上げられた人工衛星として描かれているが、Lampton, その妻 Linda, さらに映画の音楽を担当したMiniと出会ったとき、Kevin,Dick,Fat,そしてカトリック信者の David は自らを造物主と名乗る Lampton から恐るべき事実を聞かされる。

VALIS とは高度のテクノロジーであり、あらゆる時空に偏在する唯一の理性である。自分の妻Linda との間に Sophia という娘が生まれたが、彼女こそ人類が長いこと待ち望んだ<救世主>に他ならない……。Sophia のいる狭い飼育場に案内された私たち四人は、Sophia から「あなたたち三人しかいない」と告げられ、その瞬間 Fat と Dick の人格は統合され、Fat が実は Dick の妄想が生み出した人格であり、狂っていたのはFatではなく Dick のほうであったことが判明する。

しかし Sophia はより多くの情報を彼女から引き出そうとしたMiniにレーザー光線を照射されて殺されてしまい、その瞬間 Fat と Dick の人格は再び分裂する。真の神を求めて旅に出たFatからある日電話を受け取った Dick は、Fat が今ミクロネシアにいること、そしてさらなる旅が続くであろうことを聞かされる。


<語句説明>
Kabbalah

  12世紀から13世紀にかけて成立したユダヤ神秘思想。Harold Bloom は Kabbalah を「Sefirot という大胆な比喩的表象にあからさまに依拠した Scripture(聖書)解釈学」としているが、具体的には Sefirot と呼ばれる十個の根源的な心的概念に基づき、神聖なヘブライ文字 22字を組み合わせることにより、より大いなる叡智が得られるとされている。その原理を機械的に具現化したのが 13世紀、ライムンドゥス・ルルスにより考案された「アルス・マグナ(大いなる術)」。


Gnosticism
 "Gnosis"は、ギリシャ語で「知識」を意味する。その教養によれば、人間の生活の場は幾層もの天球に囲まれた牢獄のようなもので、死語の人間の魂がその故郷である欠けたるもののない充満の場 Pleroma に戻ることを妨げる各天球の監視人たちのことを Archon という。その主神こそユダヤ教でヤハウェと呼ばれるこの世の創造主 Demiurge なのだが、Gnosis においては下級の霊的存在と考えられている。


Introduction
  フィリップ K.ディックの死の前年に刊行された『ヴァリス』は、グノーシス主義に立脚しながらディック独自のオカルト神学の集大成の様相を呈していますが、その内容について簡単に触れておきたいと思います。女友達グロリアの自殺が契機となって、徐々に狂気の兆候を見せ始めていくホースラバー・ファットは、二度にわたる自殺未遂の末、神からの情報を担ったピンクの光線を照射されるという形で神に遭遇します。

「神とは情報である」と確信するホースラバー・ファットを冷ややかに見つめる私、フィリップ・ディックは、ある日友人の無神論者ケヴィンとともに、マザーグースと名乗るロックスター、エリック・ランプトンが監督・主演する映画『ヴァリス』を見に行きますが、当時の大統領ニクソンに代わって、フェリス・F・フレマウントなる男が大統領の座に就いている別 次元のアメリカを描いているその奇妙な映画の中に、自らの神秘体験との多くの符号を見出したファットは、さらにその映画が様々なレベルで、観衆の意識をすり抜けて潜在意識に直接暗示を与える情報が込められていることを知ります。

さらにエリック・ランプトン自身から、ファットが長いこと捜しあぐねていた<救世主>が既に存在していること、その<救世主>こそ、妻リンダとヴァリとの間に生まれた娘ソフィアに他ならないということを聞かされます。しかし、邪悪な闇の時代の終焉とともに「智恵」Wisdom の時代が訪れることを告げる<救世主>、二歳のソフィアも結局は殺されてしまい、ファットによる真の<救世主>を求めての旅がさらに続いてゆくだろうというところで物語りは終わります。

ディックとファットとの捻れた人称の効果 によって、さながら「夢の人称」、つまり、夢の世界においては、自分自身がその世界の造物主であると同時に作中キャラクターでもあるという関係を反映したこの人称の効果 によって、来るべき覚醒、つまり真の神との遭遇を予感させつつ幕を閉じるわけですが、その幕切れ直前に登場する正に「機械仕掛けの神」デウス・エクス・マキーナ、つまり、Vast Artificial Living Intelligence System、巨大な人工知能としての神というこの奇妙なビジョンについて以下考察を進めてゆきたいと思います。なぜ、AI が神なのでしょうか。


1. Kabbalah and Criticism
 まず、グノーシスについてかんたんに触れておきたいのですが、要するに、この悪しき世界の創造者デミウルゴスとは別 に、真の神がこの世界の背後に隠されているのではないかという認識に立脚した神秘思想と言うことが言えると思います。以下、ハロルド・ブルームの『カバラーと批評』の誤読理論に依りながら、いくつかのテクストを突き合わせていくかたちで考察していきたいと思います。

ブルームはグノーシス主義を曲解(ミスプリジョン)の理論、つまり、創造的な誤読の理論であると定義づけていますが、具体的に言いますと、およそ詩人というものは、先輩格の詩人を何とかして追い抜こうとするものであるが、先行する詩人を「読む」際には極力影響を受けまいとして、防衛の構えを取ることにより、その先行詩人の解釈には何らかの「修正」が働いてしまう。

結果 、詩人が自らの「詩作」として打ち出すものは、先行する詩人の[誤読](ミス=リーディング)の結果 であり、従って、「読む」ということは歪めて「書く」ということ、「書く」ということは歪めて「読む」ということであると言う定式が打ち出されるのである。この定式が極めてグノーシス的であるとしながら、ブルームはさらに以下のように言っています。

それではグノーシス主義を自認するディックの手から成るこの『ヴァリス』が、いかなる「影響の不安」のものに成立したのか、以下、ドストエフスキーの『白痴』をディックのプレカーサーと見立て、その「影響=誤読」の元にいかなる「知られざる神」を見据えようとしたのか、さらに考察してゆきたいと思います。SF作家であると同時に純文学者を自認し、SF以外の様々な文学作品をも貪欲に吸収していったディックにとって、ドストエフスキーもまた看過しえない作家であったのではないでしょうか。


2. The Idiot
  1866年に発表された『白痴』(The Idiot )において、ドストエフスキーは、公爵レフ・ニコラーイェヴィッチ・ムイシキンというフィギュアを借りてキリストに最も近い人物を文学的に造形しようと試みました。作中冒頭、スイスの療養先から戻ってきたムイシキン公爵が遠縁に当たるイェパーチン将軍夫人を訪れ、自らの来歴を語るシーンがあるのですが、そのムイシキン公爵の独白を通 して、The Idiot と VALIS とを結ぶ幾つかの興味深い符号が見えてくるように思います。ディックは idiot という語を、ファットの手から成る「秘密経典」の中で以下のように定義しています。

ここで言う「共通思考」とは一体何を指すのでしょうか。以下、The Idiot を具体的に参照していきながら考えてゆきたいと思うのですが、 The Idiot のなかで Valis をいう単語がダイレクトに使うわれているところが二つの作品をより直接的に結びけることになるのではないでしょうか。

スイスの県名としてのヴァリスとディックのヴァリスの綴りとはアルファベットaの一字が異なっているように見えますが、ディックの VALIS の作品冒頭における『大ソビエト辞典』を引いて VALIS の字句説明が Vast Active Living Intelligence System from an American film とあり、American film の頭文字 A をアクロニムに加えれば、スイスの県名の Valais のアナグラムが成立するように思われます。続けて、さらに興味深い叙述を The Idiot の中に観ることができます。

ここでイェパーチン将軍夫人のいう「神話」が具体的に何を指すのかということについては作中後にも先にも触れられていないのですが、これは『旧約聖書』の「民族記」第22章に現れるバラムとのエピソードではないかと考えられます。以下「民族記」から引用してみたいと思います。

西洋文学の源流を辿れば『聖書』に行き当たるという当然といえば当然の帰結ですが、ディックとドストエフスキーがともにこの「民族記」のエピソードを土台に自らの作品世界を構築したのだとすれば、その背景には二人を結びつける何か共通 項があるのではないでしょうか。

これはグレッグ・リックマンの指摘によるのですが、一つには二人ともが側頭葉癲癇だったのではないかという説があります。側頭葉発作は特に「光と音」に敏感に反応すると言われていますが、もしそうであるなら、この両者が特に聖書中のエピソード、ろばのいななきによる覚醒と言う逸話に着目したとしても不思議ではないように思います。

ここでは "system" という語がきわめて極端な使い方をされているのですが、The idiot のこの文脈においてはムイシキン公爵の神の属性 (Godhead) を共有する何物かという意味での "system" という意味合いを読み込むことができるように思うのです。

そして The Idiot から VALIS へというシークエンスの中でこの "system" という語を捉えるなら、この話は VALIS における the common thought of the Brain, つまり「共通思考」へと繋がってくるように思われるのですが、このトピックはまた最後に触れたいと思います。

何れにせよ、聖書研究家を自認するディックがこのバラムのエピソードを知らぬ はずがなく、The Idiot 中のこの特定されてない「神話」という空白部に、聖書をブループリントしながらも、VALIS という作品を先行する様々な神秘思想のミス=ライティング、ミス=リーディングというグノーシス的フォーミュラに立脚した百科事典的ファンタジーと見るならば、1851年に刊行されたハーマン・メルヴィルの Moby-Dick を視野にいれて考察を進めていくことは非常に有効な手続きであるように思います。例えば、Moby-Dick,

第32章 Cetology 「鯨学」とあるように、モビー・ディックを追うことが取りも直さず先行する様々な鯨文学を「漁取」していくことであるとするなら、さらに第42章においては具体的に Ophites(拝蛇教)というグノーシスの一派の魔人像にモビー・ディッがなぞらえられているとするなら、そこに立ち現れてくるのはグノーシスにおける不完全で悪しき神、デミウルゴスに外ならないのではないでしょうか。

トニー・タナーは『言語の都市』の中で Moby-Dick を「物に名をつける」過程全体の物語であるとし、エイハブの究極的な過失は名前と物の一致を信じたことにあるとしています。以下に引用する箇所はイシュメールが抹香鯨の皮膚に刻まれた無数の文様を指しての叙述です。

ここにおいては、グノーシスにおける「知られざる神」というものがどこまでいっても概念把握不可能なもの、つまり表象しえない何物かであるということが寓話的に描かれているように思えるのですが、同様に VALIS においてもこの言葉と物を巡る確執を、意識では捉えることができず、読手のサブリミナル・レベルに直にメッセージを送り込む Mini の音楽、という形で反復しているように思います。

アメリカ文学史上幾度となく立ち現れてくる、この言葉と物を巡る永遠の対立に一条の光を投げかけているのが、グノーシス主義が新プラトン主義とともにその成立過程において多大な影響を及ぼしあったカバラーというユダヤ神秘思想であるように思います。<語句説明>を見ていただければわかると思うのですが、このカバラーこそが神=言語というラディカルな等式を打ち出してしまうのではないか、さらにその等式こそが、神=AI というヴィジョン背景にもあるものではないでしょうか。


3. Kabbalah and AI
 以下の考察は主に西垣通氏の『ペシミスティック・サイボーグ』によりながら進めていきたいと思います。ユダヤ人は聖書に字義通 りの意味のほかに神が密かに与えた隠された意味があるのではないかと考え、カバラーという聖書解釈学を発展させたのですが、その本質を一言で言えばこの宇宙の森羅万象を数理的・幾何学的に解き明かし、そのプロセスのうちに神との一体感を得ようとする神秘思想であるということがいえると思います。

この聖書解釈における数理的・記号操作的側面 を機械的に実現しった仕掛けである「アルス・マグナ」から17世紀ライプニッツの「普遍記号学」を経て、20世紀の人工知能(AI)へと至る一つのシークエンスが存在すると言われていますが、要するに単純な記号に分割された概念を、その記号のメカニカルな操作によって組み合わせてある種の<思考機械>であるという点において一つの流れがあるのです。

そもそも人工知能は、より多くの事象、願わくば森羅万象に対応しうる人間に限りなく近い万能コンピューターというコンセプトから出発しているわけですが、人間の精神的な営みにおける理性/感情のうち、コンピューターの理論言語に換言しえない感情の部分を捨象した時、およそあらゆる事象に対応しうる論理的思考様式というものが要請されてくるわけです。

そして、そもそも土着文化さえも有さないユダヤ人は、どこにいっても通 用する、より普遍的な思考様式、つまり論理的な思考様式によって自らの身の保全を余儀なくされる長いディアスポラの歴史の中で、独特の<普遍論理思考>を生み出していったのですが、それこそが、正に神とAIを結びつける一本の太いパイプとなるのです。

つまり、全宇宙を統べる統一的原理は聖書に由来するというカバラー的発想と、あらゆる世の事象をすべからく論理言語に還元しようとするコンピューターとが結び付くわけです。もともとアメリカン・ピューリタニズムは、清教徒が旧約聖書を重んじ、英国脱出を出エジプトに準えたというように、聖書主義という点においてユダヤ主義との間にかなりの親近感、20世紀ヨーロッパにおけるユダヤ迫害がその攻勢をますます強めて、ユダヤ人にとっての約束の地アメリカが大量 のユダヤ難民を受け入れたとき、現代の知識工学=人工知能の母体が形成されたのです。

世界最初のコンピューターは1946年、砲撃兵器の弾道計算の目的でペンシルヴァニア大学で開発されたENICAであるとされていますが、ハンガリーからの亡命ユダヤ人論理学者、フォン・ノイマンによる、計算手順を示すプログラムを記憶装置にあらかじめ記憶させる<プログラム内蔵方式>の発案により、コンピューターは単なる計算機械から、より普遍的な思考機械への変貌を遂げるのです。そしてその背後にあったものこそユダヤ的、カバラー的思考様式であり、何よりナチス・ドイツへの恐怖心であったのではないでしょうか。


Conclusion
  ディックの VALIS という作品における God as AI というヴィジョンも、つまるところ、聖書解釈学(神=言語)をメカニカルな記号操作(AI)によって行おうとするカバラー的文脈によって借定されてくるのではないでしょうか。

VALISの「秘密経典」において、人間の思考様式がコンピューターのアナロジーで捉えられていますが、、ここで発表内容1および2で保留していた The Idiot における "system" という言葉を、VALIS における the common thought of the Brain を介して、この computer-like system と一直線に結び合わせた時、そこには取りも直さず、<普遍論理思考>を介して神を共有するシステムとしての、カバラーとAIとを結び付けるユダヤ的図式が浮かび上がってくるように思われます。

  何れにせよ、我々が考えている以上に、logic は magic を内に秘めているのではないでしょうか。

--------------------------------------------------------
<Work Cited>
<Primary Sources>
Dick, Philip K., VALIS. 1981; New York: Vintage Books, 1991.

Bloom, Harold. Kabbalah and Criticism. New York: Continuum, 1983.
Dostyevsky, Fyodor. The Idiot. Tr. David Magarshack, 1969; London: Penguin Books. 1955.
Melville, Herman. Moby Dick. 1851; Oxford: Oxford UP, 1988.
Mullen, R. D. et al.eds On Philip K. Dick: 40 Articles from Science-Fiction Studies. Therre Hault
 . Therre Hault
   & Greenstle SF-TH Inc., 1992.
Robinson, Kim Stanley. The Novels of Philip K. Dick. Michigan: UMI Research Press, 1984.
Sutin, Lawrence. Divine Invasions: A Life of Philip K. Dick. London: Harper Collins Publisher, . London: Harper Collins Publisher, 
  1994.
--- edIn Pursuit of Valis: Selection from the Exegesis. Lancaster: Underwood Miller, 1991.
--- ed. The Shifting Realities of Philip K. Dick. New York: Pantheon Books, 1995.
Tanner, Tony. City of Words. New York: Harper & Row Publishers, 1971.
Warrick, Patricia S., Mind in Motion: The Fiction of Philip K. Dick. US: Southern Illinois
 . US: Southern Illinois
   University, 1987スペンス、ジョナサン『マテオ・リッチ 記憶の宮殿』古田島洋介(東京:平凡社、1995年)
巽孝之「マサチューセッツ最後の皇帝-コットンマザー、あるいは病としての歴史」『現代思想』1989年2月号(東京:青土社、1989年)
西垣通『ペシミスティック・サイボーグ』(東京:青土社、1994年)
西垣通『思考機械』(東京:筑摩書房、1995年)
--------------------------------------------------------
[PR]
by sigma8jp | 2009-01-02 15:54 | 宇宙の神秘哲学論 | Comments(0)

F・K・ディックの小説 『VALIS』 を読んで by 松岡正剛

b0140046_15264040.jpg  ブライアン・オールディスは早々と「ディックとバラードだけが読むに足る作品を書いている」と選んでみせた。アーシュラ・ル・グインは「わが国のボルヘス」という、グインにとっての最大級の賛辞をつかった。ティモシー・リアリーはディックを20世紀をとびこえて「21世紀の大作家」と名付け、さらには「量子時代の創作哲学者」と褒めちぎった。ジャン・ボードリヤールは「現代の最も偉大な実験作家である」と書いた。

アート・スピーゲルマンは「20世紀前半におけるフランツ・カフカと20世紀後半におけるフィリップ・K・ディックは同じように重要である」と言った。きっと1963年にヒューゴー賞を受けた『高い城の男』を読んだのだろう。あれは哲学的迷路というものが初めて稠密なSFになった記念碑だ。舞台は第2次世界大戦後にアメリカの西部が日本によって、東部がドイツによって分割統治されるという、とんでもない設定のネーベンヴェルト(パラレルワールド)になっていた。

いまおもえば、あの主人公ホーソン・アベンゼンこそ、その後のディックの作品に繰り返しあらわれる「コイノス・コスモス」(社会的共有世界観)と「イディオス・コスモス」(個人的幻想世界観)との対決を辞さない男の原型だった。しかし長いあいだ、ディックが何かの原型や母型を求めているとは思われていなかった。

ディックはもっと多様な才能の持ち主だと思われていた。ロンドンタイムズが「あらゆる種類の文学を試みたフィリップ・K・ディックこそが欧米の前衛作家の全員の顔色をなからしめている」と書いたのもそのせいだったろう。 こういうぐあいにディックをめぐる評価には尖ったものも、その才能に感嘆しきっているものもあるのだが、しかし、いまなおその真骨頂が文学としても思想としても申し分なく語られているとは思えない。とくに『ヴァリス』においては――。 Vast Active Living Intelligence System。

これが“VALIS”の正式名称である。本書を訳した大滝啓裕の訳以来、「巨大にして能動的な生ける情報システム」と訳されているヴァリス。ディックのボルヘスふうの知的トリックだが、架空の『大ソビエト事典』第6版には、次の説明があるという。「巨大にして能動的な生ける情報システム。アメリカの映画より。自動的な自己追跡をする負のエントロピーの渦動が形成され、みずからの環境を漸進的に情報の配置に包摂かつ編入する傾向をもつ、現実場における摂動。擬似意識、目的、知性、成長、環動的首尾一貫性を特徴とする」。

小説『ヴァリス』のなかではこの名は、これまたディック得意の仕掛けによって、同名のSF映画として登場する。ロックグループのマザー・グースのエリック・ランプトンが監督・脚本・主演している映画だ。エレクトロニクスの天才が経営するレコード会社とホワイトハウスを二つの舞台にした映画で、どうもニクソンの陰謀と失脚が“VALIS”とおぼしいシステムによって動かされていたという筋書きになっているらしい。

「らしい」というのは、こうしたことは小説『ヴァリス』の登場人物たちの断片的な会話によってしか語られていないので、映画の“実態”はわからない。ようするにヴァリスはこのSFの題名であって、映画の題名なのである。 だいたい小説『ヴァリス』そのものが多重の構造というよりも、多重の構想が錯綜して、こう言っていいなら、古代から未来をさえ引き取って進む。要約はほとんど不可能に近い。

主人公ホースラヴァー・ファットは親しいガールフレンドのグロリアの自殺を止められなかった。これが発端である。ファットはこのことに耐え切れず、自分が自殺を幇助したとか贖罪をどこに求めるかといった精神的苦痛によって、しだいに狂い始める。ファットの妻もドラッグのせいか、前年に精神病で死んでいた。 主人公が狂い始めたのだから、この先、いったい何が実際に進行したストーリーで、何が妄想によって語られたものなのかは判別しがたくなってくる。

時代は1960年代後半から70年代にかけてのことになっている。事態の進行は、ファットの友人の「わたし」によって報告されていく。そこにファットの「日誌」が絡む。「日誌」にはたいてい宇宙が情報で構成されていることとか、脳がその情報の配置の一部しか感知できないこととか、世界は理性によってはとうてい理解できないといったこととかが断片的に述べられている。

ファットはこのような宇宙的汎知性を最初は「ゼブラ」と名付けた。“それ”がシマウマの縞のような混合的な“Active Living Intelligence”と見えたからである。こうしてファットは「神」に出会い、ピンク色の光を体験し、完全な死をめざす。

物語はこのように進むのであるけれど、ディックが死んでからのちに判明したように、この物語に始まった“ヴァリス三部作”は、それまでディックが書いてきたディストピア・オデッセイとは決定的に異なるものが発散していた。ディックはこの三部作を書いて1982年に死んだ。まるで三部作は遺言なのである。実際にも作品にはディック自身の終焉を取りこみ、死を予感したディックがそれまであえて紆余曲折を見せつつ人類の宿命を問題にしてきた多様なテーマを、一種の黙示録めいて提出しようとしたようなところがあった。

なぜディックがそのような試みに突入していったのか、それがなぜ「巨大にして能動的な生ける情報システム」の宿命になっていったのかは、まだほとんど議論されないままにある。というのも、この“ヴァリス三部作”によって、ディック自身が発狂してしまっていたのではないかという憶測が流れ、そっちの話題にディックが包まれてしまったからだった。この憶測はいまなお否定されてもいないままになっている。

いまではディックのファンにはすっかりお馴染みになった「2-3-74」は、1974年2月から3月にかけて、ディックが不気味で異様な夢や幻覚や音声に見舞われたときの体験を示す符号である。ディックはこのときフィボナッチ数列の光の放列の奥にグノーシス的な叡知のときめきを感じた。この「2-3-74」体験をへて、ディックは数年間にわたってグノーシス主義やクムラン宗団の文献を読み、その周辺を探索し、そしてついに『ヴァリス』を書いたのであろうとおもわれる。執筆は1980年に突入していた。続けて『聖なる侵入』『ティモシー・アーチャーの転生』を発表した。これが“ヴァリス三部作”である。

ぼくが『ヴァリス』を読んだのは、翻訳が出てまだ数日もたっていなかったころである。一読、三分の一ほど進んだところで、なんと「エントロピーによる虚無」って書けるのかと思った。そして、この奇怪な物語装置は太古から続いているある種の神秘宗教の総決算であって、また、それを十全に処理しきれなかったディックの科学主義が消費しつくせなかった残骸のように見えた。

宇宙の大エントロピーが生命という小エントロピー(負のエントロピー状態)にさしかかって、生命誕生以来の何事かの「情報システム上のいたずら」を数十億年にわたってしてきたことはわかっている。それが遺伝情報における“誤植”という事件であった。その途中で人類という“別の知性”が派生して、その知性が個体としてはたかだか数十年で夥しい死を数珠つなぎに経験してきたこともわかっている。言葉や道具や絵画や機械はその途中にもたらされた「別のいたずら」による産物である。

しかし、このことが宇宙の情報システムのどんな誤作動によるものか、またその誤作動をどうして一部の人類が解読しようとしたのかは、まだわかっていない。ディックはいつしか、宇宙の一部ないしはホロニックな全体のそこかしこに「生ける情報」(Active Living Intelligence)があると見て、それが生命情報システムとして人類にさしかかったものを「プラスマテ」と名付けることにした。

プラステマといっても特別のものじゃない。一般にはこのプラスマテのことを「精神」とか「魂」とよんでいる。人類とは本来はホモ・プラスマテなのである。ディックは、宇宙の情報エントロピーはまわりまわってこのプラスマテ形態になっていると考えた。ここまでは、とくにディックだけに特有な独創ではない。プラスマテとよぶかどうかをべつにすれば、ほとんどの哲人や宗教者はそういうことがありうると考えてきた。ぼくのようなぼんくらにも、そんなことは20代の後半にほとんど見えていたことだ。その一部の直観は『自然学曼陀羅』にも書いたし、その後の『遊学』にも散らしてある。

だからここまでのことは、宇宙生物学、遺伝情報論、ヘラクレイトス、ゾロアスター教義、インド六派哲学、新プラトン主義、カバラ文献、パスカル、スピノザ程度を読むだけでも、十分に見当がつく。いや、古代宗教者の大半がプラスマテに近いことをアヌやらヌースやら般若やら六現観といった別の言葉で言いあらわしていた。

ところが、ディックはこのプラスマテはごく一部の人間にしか感知できなかったと考えた。そして、その一部の人間にエリヤやアスクレピオスやテレピヌスや、そして魔術師シモンやイエスやクザヌスやヤコブ・ベーメを充てた。こうなると、これは「菩薩はプラスマテの受信者であった」とか「グノーシスは宇宙情報システム解読の記録であった」と言っているようなもので、ここからはディックの狂気と妄想なのである。PKDカルトなのである。PKDはフィリップ・K・ディックの頭文字のことをいう。

けれどもこのPKDカルトが“ヴァリス三部作”を記述させた。でなければ、残念ながら、こんな“傑作”は生まれない。それはそうなのである。ディックはついに長年にわたった「コイノス・コスモス」と「イディオス・コスモス」との対決に決着をつけたのだ。が、それだけに、そういう決着の経過を描いた『ヴァリス』を読むことは、人類が総じて受容した情報システムの正体と向きあうことを読者に強要することになり、ぼくのような優しい心情の持ち主からすると(ふっふっふ)、こういう対決を読者が引きかぶるのはあまりに気の毒のようにも思えるのである。

つまりは、この最期の“ディック”は真剣すぎるのだ。そして、そのわりにはその後の事態が“Vast Active Living Intelligence System”を宇宙というより、地球に引きずりおろしてしまったことを、不幸にもディックは予感できなかったと言うべきなのである。このことはぼくも参加した『インターネット・ストラテジー』(ダイヤモンド社)を読んでもらえば、すぐに見当がつく。

こうして『ヴァリス』の読み方にはいろいろの楽しみ方を変奏したほうがいいということになる。

第1には、おそらく最も知的な読み方が翻訳者の大滝啓裕が試みたように、ここに頻繁に登場してくる神秘思想を複合的に賞味することだろう。とくにシモンの知やグノーシス思想について、これほど興味深く採りこんだものはなく、それを啄むだけでも十分に楽しめる。

第2に、ディックの精神の軌跡を追いながら読むのは、正統SF派の読み方で、多くのSF読者が試みてきたはずだ。ただしこのためにはル・グインをはじめ60年代SFのエキスを浴びていなければならず、こうした免疫がないままに“ヴァリス三部作”から入ってしまうと、たいへんな混乱を生じるだろう。知がずたずたにされてしまうということもある。が、ディックが文学として認められるには、このような読者をこそ通過しなければならなくなっている。

第3に、もうちょっと気楽に読む気なら(これは実は不可能に近いのだが)、先にディックが書いたエッセイを読んでおくことだ。『フィリップ・K・ディックのすべて』(ジャストシステム社)というノンフィクション集成が刊行されているので、ここに収録されているディックの文章で地ならしをしておくといい。リドリー・スコットが『模造記憶』と『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』を下敷きに、かの『ブレードランナー』を映画にしたのはよく知られている。しかしディックがこの短い原作が映画になりうることを1968年にとっくにノートとして発表していたことなどは、この『フィリップ・K・ディックのすべて』でなければわからない。

第4にの楽しみ方は、ディックへの入口を『高い城の男』か『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』か『ユービック』にし、それからおもむろに『ヴァリス』を楽しむことだ。これならひょっとしてハリウッド映画のように読める。つまり『ヴァリス』という映画を見るつもりで読むとよい。

以上はむろん老婆心である。ディックはカフカともル・グインとも違うし、ボルヘスやエーコほどの幻想制御もしていないということを、また、ティモシー・リアリーやデレク・ジャーマンのポスト・ジェンダーふうの陽気をもちあわせていないということを、老婆心から語ってみたにずきない。
しかし、どんな読み方をしようとも、『ヴァリス』(と、その続編)が、今日考えられるかぎりの「宇宙と脳と神秘哲学をめぐる情報システム」を扱った最初で最大の唯一の文学思想的な試みであったことからは、読者は逃れようはないとも思うべきである。

ぼくは面倒なのでここには書かないが、カルトを脱出するのはそんなに難しいことではないけれど、そんなことを考えるより、やはりいったんはディックの周到で狂気に満ちたPKDカルトに浸ることなのである。そうすれば、これだけは請け合うが、読み終わったのちに、何が何だかわからない自分がそこにぽつんと取り残されるのを感じることだろう。が、そのぽつんとした自分こそ、死を前にしたフィリップ・K・ディックが入念に仕上げたディックその人の虚無そのものなのだった。

------------------------------------------------------
b0140046_15125775.jpgフィリップ・K・ディック
『ヴァリス』
1982 サンリオSF文庫・1990 創元SF文庫


Philip K. Dick : VALIS 1981
大滝啓裕 訳

--------------------------------------------------------
[PR]
by sigma8jp | 2009-01-02 14:45 | 宇宙の神秘哲学論 | Comments(0)

小説:VALIS 『秘密教典』(フィリップ・K・ディック)

「秘密教典」
1. 一つの「精神」がある。でもその下で二つの原理が争っている。


2. その「精神」は光を招き入れ、それから闇を招き入れる。その相互作用によって時間が生成される。最終的に、「精神」は光の勝利を宣言する。時間は止まり、「精神」は完全となる。


3. かれは物事の見かけを変えることで時間が過ぎたように見せかける。


4.「精神」の前にあっては物質は可変だ。


5.かれはずっと昔に暮らしていたが、いまなお生きている。


6.実時間はC.E.70 年にエルサレム神殿の崩壊とともに止まった。

そして1974 年にまた動き出した。その間の時期は、「精神」の「創造」を猿まねしているだけの、まったく偽の穴埋めだ。


7.休眠状態の種子の形で、生きた情報として、プラスマテハチェノボスキオンの埋められた文書図書館で紀元一九四五年までまどろんでいた。

イエスがあいまいに『芥子の種』で言っていたのはそういうことだ。

その種は『鳥たちが巣を作れるほど大きな木へと育つ』とイエスは言った。

イエスは自分自身の死だけでなく、すべてのホモプラスマテたちの死を予見していた。

かれは文献が発掘され、読まれ、プラスマテが交接する新しい人間宿主を差しだすのを予見していた。

だがかれは、プラスマテが二千年近くも不在となることも予見した。


8.生きた情報として、プラスマテは人間の視神経を溯り、松果体にたどりつく。

プラスマテは人間の脳を雌の宿主として使い自分自身を複製して活性形態となる。

これは異種間共生だ。

ヘルメス学の錬金術師たちは、古代の文献からこれを理論的には知っていたものの、再現はできなかった。

なぜならかれらは休眠状態の埋まったプラスマテを見つけられなかったからだ。

ブルーのは、プラスマテが帝国によって破壊されたのではないかと考えた。

これをにおわせたためにかれは火あぶりとなった。

「帝国は終わっていなかった」


9. Dico per spiritum sanctum. Haec veritas est. Mihi crede et mecumin aeternitate vivebis.

10.現象界は存在しない。それは「精神」が処理した情報の実体化だ。


11.われわれが「世界」として経験する、変化する情報は、展開する物語だ。

その物語はある女の死について語る。

この女性は、ずっと昔に死んだけれど、原初の双子の片割れだった。

彼女は聖なるシジギイの半分だった。

この物語の目的は、彼女とその死を階層することだ。

「精神」は彼女を忘れたくない。

だから「脳」の推論は彼女の存在の永久記録で構成され、それを読めば、そういうふうに理解できるだろう。

「脳」が処理する情報のすべて――それはわれわれにとっては、物理的な物体の配置と並べ替えとして経験される――は、この彼女を保存しようという試みだ。

石ころや岩や棒きれやアメーバは、彼女の痕跡なんだ。

彼女の存在と他界の記録は、いまや孤独となった苦しむ「精神」によって、現実のいちばん卑しい水準の上に秩序化されている。


12.この孤独、この後に残された『精神』の苦悶は、宇宙のあらゆる構成要素に感じられた。

その構成要素はすべて生きている。

だから古代ギリシャ思想家たちは物活主義者だった。


13.「精神」はわれわれに語りかけてはおらず、われわれを手段として語っている。

その語りがわれわれを通過して、その哀しみが不合理な形でわれわれを満たす。

プラトンが気がついたように、世界の魂には一筋の不合理なものがある。


14.この情報、あるいはこの叙述は、自分の中の中立的な声として聞くことができるはずだ。

でも何かがおかしくなった。

すべての創造物は言語だし、言語以外の何物でもないのだけれど、でもそれは何か説明のつかない理由のために、われわれは外にあるものを読むこともできないし、自分の中で聞くこともできない。

だから、われわれは白痴になったんだと言おうか。

なにかがわれわれの知性に起こった。

おれの理由づけはこうだ:脳の部分の並び方が言語だ。

われわれは脳の一部だ。

したがってわれわれは言語だ。

だったら、なぜわれわれはこれを知らないのか? 

われわれは自分がなんであるかさえ知らず、まして自分がその一部を構成する外的現実が何なのかなんてまるで知らない。

「白痴」ということばの期限は「私的」ということばだ。

われわれはそれぞれ、私的存在となってしまい、もはや脳の共通の思考を共有していない――識閾下の水準以外では。

よってわれわれの実際の生活と目的は、われわれの識閾以下で執行されている。


15.脳の思考は、われわれには物理的宇宙の中の並び方や並び替え――変化――として体験される。

でも実は、それは実際にはわれわれが物質化している情報と情報処理なのである。

われわれは脳の思考を単なる物体として見るだけでなく、むしろ物体77の運動、あるいはもっと正確には、物体の配置として見る。

でも並び方のパターンは読み取れない。

そこにある情報を抽出することはできない――つまりそれを、その実体である情報としては引き出せない。

脳による物体の結びつけや結び直しは、実は言語なのだけれど、でもわれわれの言語のようなものじゃない

(というのもそれは自分自身に向かってのもので、自分の外のだれかや何かに向かってのものじゃないからだ)。


16.「精神」は喪失と哀しみのため発狂してしまった。

よってわれわれは、宇宙、つまり「脳」の一部なんだから、部分的に発狂している。


17.二つの領域がある。

上と下だ。上の領域は超宇宙I または陽、パルメニデスの第一形態から派生したもので、意識があり、近く力もある。

下の領域、または陰、パルメニデスの第二形態は、機械的であり、盲目的で高効率な原因で動き、決定論的で知性をもたない。

それは死んだ源から発するものだからだ。

古代にはそれは「アストラル決定論」と呼ばれていた。

われわれはおおむねこの低い領域にとらわれているけれど、秘蹟を通じて、プラスマテを手段として、解放される。

われわれはあまりに封じ込められているので、アストラル決定論が破られるまで、われわれはそれがあることにさえ気がつかない。

『帝国は実は終わっていなかった』。
[PR]
by sigma8jp | 2009-01-02 14:35 | 宇宙の神秘哲学論 | Comments(0)

2つの喜び(Two Pleasures)「愛と放棄」

人間は2つの対極で喜びを感じます。
  1つは「愛」。仏教的に言えば「執着」と言え換えられますが、何かに対する愛情や自己愛そのものに人は癒しを感じます。その反対に「前進」又は「克服(超克)」という、例えば昨日まで出来なかった逆上がりができるように成長した時、又は今まで分からなかった数学の原理が理解できた時などに感じる喜びがあります。

西洋神秘学では「放棄」と呼び、人が成長するに際、何かを克服する時、過去の自分を乗り越え超克する時の喜びです。仏教それも天台山や高野山の密教に反れますが、ここには有名な胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の2つがあります。

胎蔵界曼荼羅は「愛」の世界であると喩えられ、そして金剛界曼荼羅は「智」の世界であると喩えられます。前者をマトリックス(MATRIX)と呼ぶ人もいますが、まさにその意味です。愛と智の2つはお互いに存在しなければ片方も存在し得ないけれども、性質・意味はお互いに相反する。大きく言えば矛盾する。

フロイトは「愛」と「死」を対立させ、ユングも似たような図案を描いていましたが、結局人は知らず「愛」に漬かった状態から「智」により己は何者かを明確にして行くことで成長するという点で、密教(仏教)と心理学は非常に近似していると考えます。

ニーチェは東洋の仏陀と呼ばれることがありますが、つまりはフロイトやユングの心理学的における一つの理想的境地が、仏教におけるそれ(解脱と呼んで良いかは置いておきますが)と一致するのではないかという考えに基づきます。

もちろん、仏教を科学または哲学としてではなく、神秘的宗教として深く信仰する方にはこれが非常に不快であり許し難い冒涜に感じる方もいるようですが、短絡に言ってしまえば上のようになります。

さて多くの「癒し」では前者の「愛」を扱いますが、ニーチェの超人とは平たく言ってしまえば、後者の「智」により次々に己を乗り越え前進することにより「健康になる人=癒される人」のことを言うと考えて良いでしょう。

現存するこの世の全てのモノ(現象)は確かに「愛」の化身なのですが、つまらない表現ですが、愛は盲目であることが問題になります。「愛」のみでは盲目になるが故に「智」の剣により己を切り刻み無明を明らかにして行くことが必要なのですが、これが仏教(密教であり禅)であり錬金術であると考えています。
[PR]
by sigma8jp | 2008-12-22 16:36 | 宇宙の神秘哲学論 | Comments(0)

ニーチェの言葉「善悪の彼岸」とは

  ニーチェの書物で「善悪の彼岸」という、とても格好が良い名前の物がありますが、この言葉は結局何が言いたいのかというと、平たく言ってしまえば「善悪の境界線は無いよ」ということです。実存主義とは「客観の不在」の哲学であると言いましたが、つまり「客観的に正義と言われるものは定義不可能である」という立場から出発する哲学ということです。

これが「神は死んだ」という非常に有名なツァラトゥストラのセリフになり、一見すると悲観的で無神論的な言葉になる訳ですが、錬金術ではかの有名なエメラルド・タブレットに書かれているとされる「上なるものは下なるものが如し、下なるものは上なるものの如し」という表現になります。

禅においては仏陀すら殺せと言う言葉もありますが、結局、錬金術の奥儀に至るにはこの1つの意外な出発点・進入路から開始されるということなのでしょう。仏教における八正道なるものがありますが、過去、この扱いにずいぶん困りました。

正しい行い、正しい見方、正しい・・・・となるのですが、そもそもその「正しい」が分からないから探究するのに、そんなこと出来るわけが無いだろうという素朴かつ堅固な疑問が解けないまま、30年近い時間が費やされて行きました。

いや、実際に現在でもおそらく圧倒的大多数の方々は意識ないし無意識的に「正しい」と思われることをやっておられる。それが何か漠然としており時に大きく小さく不安を感じたり動揺しつつも、それでも隣人・知人との関係を大切にし、父母を敬い、困っている人に手を貸してあげることを美徳としているかもしれません。

ここで少し研究的な思考に切り替えますが、ユダヤ人にはユダヤ人の、イスラム(イスラム教徒)にはイスラムの、日本の仏教徒にはそれの、それぞれ「徳」または「善」とされることがあり、結局これはバラバラではないのか?と。さらに細かく分けて、日本人の仏教徒のAさんと、同じく日本人で仏教徒のBさんは、共に浄土宗であったとしても結局その人たちの価値観は必ずしも一致しない。いや、必ず一致しないと言って良い。

ニーチェは「善」を大胆に「民族が最も必要としつつ、しかし行うことが困難であることをその民族の善(徳)とした」というようなことを書いており、ある民族(たしか蒙古人)は弓の上手なことが至上の善であったなどと書いております。

数千年前、旧約聖書の時代には、イスラエル民族のみならず多くの民族では、敵または周辺の民族を激しく打倒し、殺し滅ぼすことは紛れもない「善」であったと思いますし、この旧約聖書を現在も道徳(善)の根本に据えるイスラエルの民は21世紀の現在であっても隣国・敵国を打ち滅ぼすことには容赦がありません。従ってこれはとても自然な行為です。

結局、道徳なるものは全人類で単一とは言えず、それぞれの民族または個人で小さくまたは大きく異なり、整合しない。日本国内の仏教の各宗派ですら、全派統一でお経を読む会を行おうとして、結局話がまとまらなかったという話があります。

ニーチェは牧師の家に生まれますが、幼少の頃から非常に道徳的(?)に育ったようであり、ある雨の日、はるか向こうから我が家に向かい、走りもせずに歩いて来る息子について母が尋ねると、「だって学校では雨の日に走ってはいけませんと言われていますもの」と答えたという話が残っています。

そのような彼が晩年には、「道徳そのものは存在しないが、物事の道徳的解釈は存在する」ということを言い、自らをインモラル(非道徳)な者として激しく「道徳の撲滅キャンペーン」を開始します。彼は何とかしてこの「道徳というものが人々が素朴に考えるように存在していない」ことを知らせようとして、激しい奇妙な文体の作品を作るのですが、当然ながら殆ど誰にも理解はされませんでした。

結局ですが、何か宗教的または哲学的に善ないし道徳について非常に詳しく考える必要がある人が、この意外なる進入路を見つけてしまうのかもしれません。ですので、ある方で皮肉なのか敬意からか、ニーチェを非常なる「モラリストである」と評する方もおられますが、まあおそらく上のことをご存じなのでしょう。

ツァラトゥストラの有名な場面の一つに、彼が白昼、行燈を灯し狼狽して「神はどこにいるのか?」と街をさまよう場面があります。それを見た人々は「見ろ、ツァラトゥストラが真昼に行灯を灯して神を探している」と嘲弄するのですが、ここにかつて激しく「神」または「真理」を追い求めたニーチェの姿が見えます。この場面を見て、同情するべきではないと知りつつも、非常に真摯に真理を追い求めたニーチェに心が揺さぶられます。
[PR]
by sigma8jp | 2008-12-22 16:34 | 宇宙の神秘哲学論 | Comments(2)

『自然哲学大綱』 ニコラ・フラメル著

■《書 誌》
 ニコラ・フラメルは1330年頃パリに生まれ代書人を営んだ。またパリ大学直轄の写字・写本生でもあったが、これが厳格な試験を課され組合をなす高い地位の仕事であったことが、彼のパリ市民・ブルジョアとしての側面をあらわしている。

他の錬金術文書の著者、トリツメギストゥス、バレンティヌス、ローゼンクロイツの伝統に漏れることがなく、実在の謎について議論は喧しいが、パリのサンジャック・ラ・ブーシェリ教会への寄与貢献が、彼の錬金術的成功のひとつの証左ともいわれている。

その主著『聖なる寓意の書』(邦訳・ヘルメス叢書「象形寓意図の書」)は、サン・ドニ街イノサン墓地のアーチに彫らせた錬金術の重要な寓意図についての注釈であるが、この書物の来歴も、フラメルが代書人の仕事中手に入れた「ユダヤ人アブラハム」なる人物の書物に因っているという、重層的な謎を秘めている。


【金属種の起源を訪ねて】
  金属変成のなんたるかを識らんとする者は、それらがいかなる素から産まれ来たるのか、いかにして鉱石のかたちをむすぶのか、こうした命題へと答えを導かねばならない。大地のはらわたと血脈のなかに、いかに金属変成が遂げらるのか、あやまたぬように観照するべきである。


【硫黄と水銀 男性・女性 揮発・不揮発 龍・蛇 四大元素】
 大地からとりだされた鉱石にはさまざまに種類がある。その変成にかんする主題が提示されるのも、彼ら金属が霊的なものに由来するからなのだ。ゆえにあらゆる金属たちは、硫黄と水銀という、内に秘めたる性質へと還元するだろう。

あらゆる金属が祖とするのは、まさにこの硫黄・水銀なのである。それらふたつは諸元素から構成された金属種子であって、かたや男性かたや女性である。男性原理たる硫黄は、火と風にほかならない。火たるまことの硫黄は卑俗のそれではなく、なんらの金属物質をふくむものではない。

女性種子たる水銀は、地と水にほかならぬ。これらふたつの種子は、いにしえの賢者らの称するところ、それぞれ二頭の「龍」あるいは「蛇」である。一方は翼をもち、他方にはそれがない。火に燃へども飛ばぬ硫黄は、翼なき龍である。また有翼の蛇は水銀であって、風に支えられているがゆえ、しかるべき刻が満ちれば火から飛び去ってゆく。これは火に耐えうるほどには、固着の性質をもっていないためである。


【メルクリウス】
  さて、これら二匹の蛇は、各々わかたれれば再びむすぶ。それはメルクリウスの秘めたる力にもとづく、つよき性質のなせる親和力である。メルクリウスとは金属の火であり、金属種の業初の母である。ふたつがこのように統合したメルクリウスは、哲学者らの称するところの飛龍である。

この龍、怒りに燃ゆればわずかに飛翔しつつ大気を火でみたし、そして有毒なる蒸気をも充満させる。メルクリウスはこのように振る舞い、容器中に据えられて外的な炎に焼べられれば、その内部に秘める火を燃えたたせる。かくしてここに、外部にさかる炎が、メルクリウスの芯奥に火の性を焚くことが判るであろう。

そのとき、いみじき臭気と致命的な毒素とともに有毒の蒸気が気中に噴出するのをもみるであろう。それはバビロンより迸る龍の首にほかならぬ。一部の哲学者らは、このメルクリウスをば翼ある獅子になぞらえているが、これは獅子たるもの他をむさぼる獣だからである。

その暴怨に抗し得ずばすべては喰らわれ、悦に入るはただ彼のみ。メルクリウスは内にそのような活力と作用そして効力をもち、あらゆる金属の固有の形状をば腐蝕し、荒廃させることのまさに獅子むさぼるごとくである。その強すぎるメルクリウスの影響力は、あらゆる金属を喰らい、腹のなかに隠してしまうほどである。


【メルクリウスと金・銀】
 しかしながら金と銀はこの暴挙に抗する力を充分にもっている。加減を逸せる熱に晒されたメルクリウスは、これらふたつの金属ですら屠り、飲み込んでしまうことは良く知られている。けれども、ふたつはどちらもメルクリウスの性質には変えられてしまうことなく、その子宮のなかに包まれる。金と銀はきわめて永遠不変かつ完全なのであって、それに比すればメルクリウスなどは粗雑であって、不完全な金属なのである。


【ソルとルナ、その霊気の誕生】
  にもかかわらず、メルクリウスには完全化の原質が含まれている。一般的な金、それは完全なる金属であるが、銀も、そしてその他あらゆる不完全な金属種もみな、メルクリウスから発祥したのだ。だからこそいにしえの賢者らはメルクリウスを、金属の母と呼んだのである。

このようにメルクリウスには恒久性があり、断固としてみずからを消耗させることがない。ゆえに、ここには性質上、完全不変が秘められているとみるべきである。そして、みずからもまた金属種であるのだから、それは二重の金属原質を含んでおり、すなわち、内的原質たる「月」と「太陽」(互いに異なった様相をもつ)。

これらふたつの原質はメルクリウスの胎内に霊気素のかたちで構成され慈しまれる。さて「自然」がふたつの霊魂をばメルクリウスに形成するやいなや、彼女はそれらを受肉させるべくつとめる。これらふたつの霊魂は生長し、ふたつの種子が目覚めると、みずからに似つかわしい体を装はむと望むのである。そのときに母なる水銀は死なねばならず(ふつう死んだものがそうであるように)かつてのような活発さはなくなってしまう。


【メルクリウスの蘇生】
 虚栄心つよくも尊大なる錬金術師らは、あいまいな言辞のもとに次のような示唆を与えている。完全なものも不完全なものも、ひとしく物体は、水銀の流体へと変成さるべきであると。この狡猾なる蛇に噛まれぬよう、危険には充分注意せねばならぬ。この主張はただ、不用意な輩への罠にすぎない。

たしかに、メルクリウス(水銀)が鉛や錫のような不完全な物体を飲み込んで変成することは、真実である。このようにして量的な増加をうることは造作もなく可能なことだ。けれどもメルクリウス(水銀)がもともと帯びていた完全性は減少するか失われるかしてしまい、もはやメルクリウス(水銀)とは呼ばれぬものになってしまうのも道理である。

このようにしてメルクリウス(水銀)は活気を失い絶望的状況に陥るが、化学の過程によって真実これが克服されれば、異なるものへの変化もありうる。すなわち辰砂あるいは 昇華物(昇汞)である。しかしそれが迅速な方式であれ緩慢な方式であれ、化学の過程によって凝固をおこなってしまえば、くだんの二体に恒久の形態を帯びさすことはかなわない。この凝固のまさに守備よく成就するは、自然の手順に則ってこそである。


【金属のみのり 樹木と果実のアレゴリー】
  というのも、鉛の鉱脈にはかならず金と銀の永久なる実種が含まれているからである。メルクリウスの最初の凝固は鉛であって、それは固定させ完全化へと導くに最も適している。金と銀の実種が鉛に伴われぬことは決してないのである。それらは、あらかじめに自然が賦与したる繁殖と発展の意向なのである。

これは私自身が経験しかつ証言しうることである。これがメルクリウスの内に存したまま、この鉱物から引き離されぬかぎり、自身のメルクリウスの原質から自身の原質を、増加させつづけることができる。けれども、もしこの固定した実種が取り去られ、メルクリウス(あるいは内にそれを秘めた鉱物)から切り離されてしまえば、もはや生長することができない。

生長の如何が実種とともにあること、それは花の散った後、樹木に植物果実が形成されるのと同様である。熟さぬまえからもぎ取られてしまえば、それは何らのもたらすところなし。樹木に残されれば育まれて、親茎の樹液と果汁に育まれ生長する。かくして段階的に、適正な大きさと成熟に到達する。

果実は親樹とのつながりが断たれぬかぎり、成熟をなしとげるまで樹木の樹液と果汁にみずからをひきつけ続けるものである。金についても殆ど同様である。そういう実種がみずからを鉛のメルクリウスにひきつけては、間断なく自身のメルクリウスへと「固着」させ、そうすることで生長し段階的に大きさを増してゆくのである。

完全な金属にとっても不完全な金属にとっても、メルクリウスは親樹であって、実種(金の)はほかならぬこのメルクリウスによって育まれ得る。けれども親なるメルクリウスとの繋がりを断つやいなや、実種の生長はただちに終焉せねばならない。

それはあたかも未熟な果実が樹木からもぎとられてしまったかのようだ。生命のつながりを復元しようと望んでも無駄である。自然の枝から、梨や林檎がいちど摘まれてしまえば、ふたたび樹に継ぎて熟させようとするなどは、まこと愚かなことである。生長する代わりにそれは次第に萎んで小さくなってゆくことであろう。


【術の限界と定義 : 樹木の移植】
 同様のことが金属種の場合にも見受けられよう。だからもし誰か、卑属の金・銀の金属をばメルクリウスに融解しようと試みるなら、その者は非常に愚かなことをしていることになろう。そんなことはいかなる巧妙かつ狡猾な化学の過程によっても、もたらされるはずのない結果である。未熟な段階にいちど摘まれた果実は、決して再び生命的に親樹につなげられない。

いみじくも賢者らに語られたことだが、金と銀が適正にメルクリウスをつうじて結合されれば、彼らは他のあらゆる(不完全な)金属を完全化する力を身につける。けれどもこれら賢者たちは卑属の金と銀について語っているのではない。

それら卑属のものはいつも自身の性質のままであって、けっして他のものになりはしない。他の金属の発展に貢献することがないのは、確かである。それは時節のまえにもがれた果実であり、それゆえ死んでおり萎んでいる。違うのだ。「活きた」果実(まことに生ける金と銀)をこそ我々は「樹木に」もとむべきなのだ。

そこでのみ果実はその性質の可能性にしたがって生長し大きくなる。我々はこの樹木を、その果実を摘み集めることなく、よりよく富んだ土壌、陽光の当たる場所へと移植すべきなのである。さすれば、そこにみのる果実は、以前の痩せた土地が百年かけて与える以上の滋養素をも、たった一日で受けとることであろう。


【賢者の園】
  メルクリウスについて理解せよ。それは最も素晴らしき樹木であって、分解できぬかたちで銀と金を含んでいる。それをば「太陽」(いわば、この場合、黄金)に近い土壌へと移植するべきである。そこで極めて繁栄するだろうし、豊かに灌漑されるであろう。

かつて植えられていた所は、あまりに風や寒さに揺さぶられ弱められてしまうので、そこからは少しの果実しか期待できない。だからあまりに長い間そこに留まれば、果実をまったく稔らせることがない。しかし賢者の園にて「太陽」は、朝夕・昼夜に間断なくその温暖な影響力を放つ。

我らの「樹木」は精妙なる霧で灌漑され、樹々にたわむ果実は日に日に膨らみ稔っては大きくなる。それはけっして萎むことなく、その一年の発展は、以前の不毛な環境における千年の収穫を超える。

あるいは直截にいえば、メルクリウスをば蒸留器にて昼夜あたためるは、穏やかな炎であるが、しかし炭や薪の炎であってはならず、明るく清澄な熱気でなければならないのは、まさに穏やかだが温かい太陽のそれのごとくである。生長しつつある果実は、あまりにつよい熱気にさらされてはならず、さもなくばそれはしぼんみ縮んで、完全化をもたらすことはけっしてない。

それは温暖な熱気を受け、樹木のほどよい湿気でささえられねばならず、それでこそ繁り増える。まこと熱気と湿気は、動物・植物・鉱物あらゆる大地のものの食餌である。一般的な炭あるいは薪の炎は、我らの目的には、あまりに強烈である。

自然な影響力をつうじてすべてを保全する太陽熱のような滋養はあたえられない。このような道理から、賢者らはこの自然の炎いがい何ものも使わない。それは賢者につくられるものではなく、自然によってつくられるものである。動物であろうと植物であろうと鉱物であろうと、すべてを造り出す「自然」は彼ら各々をば適した程度にあたためる。


【錬金術:自然の働きを補佐する】
 それゆえ、ひとの為せるところなど、なんらの自然物をも造りえぬと言うべきである。けれども、人間の技術は、自然の造ったものに偉大な完全化を与えることができる、と私はいいたい。いにしえの賢者らが企図したこの目的は(ひとことでいってしまえば)月と実母メルクリウスのふたつから哲学者のメルクリウスを産出することである。

術におけるそれは自然のメルクリウスよりもずっと力強い。自然のメルクリウスはただ、完全・不完全・冷・熱の、単純な金属たちに働きかける限られた作用しかない。しかし我々のメルクリウス、哲学者の石は、完全・不完全な金属に有効であって、いかなる減少も付加も変革もなく、ただちに再生し、完全化をもたらし、もとより完全なるものの状況を保全する。

けれども私は、賢者らがこの目的のために卑属の金や銀をメルクリウスと結合すると言っているのではない。こんなものは無知のいかさま師の方法にすぎない。彼らはそれによって賢者らのメルクリウスを調合せんとする。しかし彼らはまことの「石」の第一物質の産出には、決して成功するまい。

それを手にしようとするなら、七の山に赴いてはこれを征服せねばならず、険しき頂にて、その高みから遥か向こうに見える六を俯瞰しなければならない。さる賢者たちが鉱物とも植物とも土星(サトゥルヌス)的とも称した王者の薬草が山の頂にて見い出されるであろう。その糠糟はすておき、ただその純粋なる絞汁を抽出せよ。

それは作業のよりよき部分を可能にする、是非とも手に入れねばならぬ真実かつ妙なる哲学者のメルクリウスである。さてまずこれは白き霊薬を、つぎに赤の霊薬を調合する。これは太陽と月がそれぞれに赤と白の霊薬を調合しもたらすことと同様である。その調合は、糸を紡ぐ女の仕事の滞ることなきいとなみほど、単純なものである。

寒き冬日にも卵は洗わずともよし、そのまま雌鶏に暖めさせてもよし。ただ毎日、卵を転じるだけで、なんらの障害もなく、鶏は殻をやぶり産まれる。方法はなにも変わらない。そなたはそなたのメルクリウスを洗う必要はなく、ただその同類(それは火である)とともに灰(藁に相当す)へと据えて、ひとつのガラス容器(これは巣)、ふさわしい蒸留器(家である)に入れよ。

このようにすれば、そこに鶏は生まれる。それは血によってあらゆる病からそなたを救い、肉によってそなたを満たし、羽によってそなたを着せて寒さから守るであろう。


  すべてのただしき錬金術師たちへと恵みを許したもうよう、万物の創造者に祈り懇願す。神の暗黙の善と慈悲をつうじ、私の賜はりし鶏を、いまや彼らが見い出すように。そなたを勇気づけ正しき路を示さんと、そなたのために私はこのしるべを記した。我が言辞により、賢者らの術をより完全に理解しうるよう望み、そう信じてやまない。
[PR]
by sigma8jp | 2008-11-22 18:50 | 宇宙の神秘哲学論 | Comments(1)