カテゴリ:「アダムとイヴの楽園物語」( 3 )

「生命の樹」にみる上昇と下降の流れ

 エデンの園には、「禁断の樹」と「生命の樹」の二種類の樹が植えられているといったが、アダムとイヴの楽園追放にみる意識進化のドラマは、人間の誕生と人類の歴史的進化をもたらした。しかし、ここに見るルシファーの化身とされる「誘惑の蛇」は、イヴに語りかけ罠にはめたことで、神の逆鱗に触れ、楽園追放へと追い込まれる結果となった。

しかし、ここに登場した「誘惑の蛇」は、カバラ生命の樹に記されている「上昇の蛇」とどのように違うかということである。ようするに、イヴに対し、「禁断の木の実」への好奇心・欲望を注ぐように言葉巧みに語りかけ、遂に食するように罠にはめた。食したアダムとイヴは意識の分割が生じ、結果、認識をもたらす旅が始まったのである。それは同時に、意識の下降の始まりを意味し、未知なる外界へと追いやられ、更なる意識進化の旅へと繋がっていく。

意識進化とは、一口に言って意識の内部分割化を意味し、ちょうど脳内のしわが多くなればなるほど、意識の発達は明らかなように、認識の範囲が広がれば広がるほど、意識は細かく細分化(内部分割)されていく。このことは、つまり物質世界への下降を意味しており、カバラ生命の樹では、これを「神の閃光」(創造のための光の流出)、といって意識の下降は、そのまま、「世界の創造」を意味している。これは、人間に初めて自由意思がもたらされたことに由来し、これによって、人間に創造意思が芽生え、世界を創造する能力が備わったと見る。

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 私は、エデンの園の中央に植えられた「禁断の樹」は、おそらく「生命の樹」の下降側の樹を意味しているように思われる。一方、上昇側の「生命の樹」には、「上昇する蛇」が樹に巻き付いており、「誘惑の蛇」とは正反対の方向へと誘う働きを持つ。その違いは、歴然としている。この「誘惑の蛇」は、喩えて言えば、黒い猛毒を持った毒蛇であり、一方、「上昇する蛇」は、神の使いとされる聖なる白蛇である。

この神の聖なる白蛇は、神秘学では「性エネルギーの象徴」でとされ、クンダリーニの上昇として、元のエデンの園へと返り咲く力を持つ。ここで、更なる疑問が残る。何故、エデンの園には、始めから「二本の樹」が植えられていたかという謎である。この謎が、ようやくここに来て分かってきたような気がする。

それは、要するに意識進化とは、より細やかな立場をどれだけ把握できたかということであり、意識の内部分割化を意味するが、しかし、その時に費やされる意識エネルギーは膨大であり、エネルギーはたちまち消耗してしまうからである。要するに、物質にかまけることは、それだけ物質世界に興味の対象が向かうことになり、その分、有機体のエネルギーが奪われ消耗するからである。

この活動を推し進めれば、それだけ楽園にあった統一性から遠のき、知性は豊富になる一方、バラバラになり分裂化の方向に向かう。要するに、物質界に入り込むことは、生命の原点である光の神聖から遠のくが、逆に物質世界への下降が促進されたことを意味する。このような一方通行の流れで生きる現代人にとっては、下降の流れだけしか持っていないため、有機体がたちまち物質化し化石化へと向かう。このように、上昇の流れが途絶えた現代人にとっては、本来の生命の持つ瑞々しさが失われ、朽ち果てることは明白である。

(※本来の上昇する流れを持っていれば、宇宙のエネルギーに触れるので、有機体に瑞々しさが取り戻せる。更には、下降したことによって得た経験値を統一するにも、高度な叡智と十分なエネルギーを必要とし、これらの条件を満たしていなければ、「神の楽園」に回帰することは不可能なのである。)

この現象からも分かるように、「原罪」としてアダムが神から言い渡された、「寿命が尽き、土に返るだろう!」と、言ったことと繋がる。この人間の宿命となった、化石化の流れを食い止めるためには、もう一方の上昇する流れを作り出すことをしなければ「原罪」は、永延に人類から解けないのである。

グルジェフは、エネルギーと物質の密度の違いを次のように表現した。
◆物質密度が高くなれば、それだけ振動密度は低くなる、逆に
◆振動密度は高くなれば、それだけ物質密度が低くなる・・・といった。

この表現を次のように置き換えると・・・
◆意識の進化は物質への下降を意味し、そのまま物質密度を高める働きをする。それは、同時に振動密度が低くなることを意味している。
◆エネルギーの上昇は、楽園(統一)への回帰を意味し、そのまま振動密度を高める働きをする。それは同時に、物質密度が低くなることを意味している。

ここで、二方向のつじつまの合わない流れが存在しているが、要するに人間の精神進化の流れは、意識が下降したならば、必ずその分、エネルギーを上昇させ、経験値を統一し意識を整理しなくてはならないという鉄則がある。これら双方向の流れをバランスよく働きかける以外に、正しい精神進化の道はありえないということである。人は、上弦と下弦とに均等に力を配分させ、発達させていくことが大切である。
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by sigma8jp | 2008-12-20 00:16 | 「アダムとイヴの楽園物語」 | Comments(0)

「アダムとイヴの失楽園」の謎と意識の進化

 旧約聖書「アダムとイヴ」の章にて神が言った言葉に、「人間は楽園内にあるすべての木の実をとって食べてもよい。しかし善悪を知る(禁断の)木の実だけは食べてはならない。食べたらきっと死ぬであろう。」という節がある。

結局蛇にそそのかされ木の実を食べたアダムとイブは、知恵を身につけてしまったために楽園を追放されてしまった、というとても有名な部分であるが、これはどういうことなのか。この一般解釈によるとまさに「相手」の発見、つまり「比較という技術」の発見だというのだ。

ここで面白いのは、自分が 「裸である」 ということを発見し、それに対して「羞恥」するというところ。何故、羞恥する必要があるのか。そもそも旧約聖書というものは、歴史的事実には則っているものの、生物的あるいは科学的な事物を無視し、とにかく人々を感化させることが第一であった。

そのことから、あまり細かいところは気にしなかったか、または多分に戯画化されたものかと思われるが、そこを無理して私なりに単純かつ純粋に解釈してみると、知恵を身につけたことによって自分を相手に投影させ、自分と姿形が違ったという発見から相手を意識し、その結果が「恥じる」という地点に「偶然逸れて」帰着したのではないだろうか。

比較するということは、相手、つまりアダムと自分を「意識」することであり、この一節は、人類史上で初めて「比較の出現」、そして「意識の発端」を秩序化したものといえるのかもしれない。しかし、ここで注意しなければならないことは、木の実を食べる以前であってもアダムとイブが、いわば無意識状態では無かったかということだ。

説明しにくいが、以前はいわゆる「無知なる意識状態」、言い換えれば幼児に見られるような「言語出現以前の混沌とした意識状態」ともいえる。いわば本能レベルでの伝達が行われていた可能性があるということである。

私が、ここで注目したいのは、「意識」である。意識というものは色々種類があり、先述した意識状態をはじめ、フロイトが提唱した意識、ユングの提唱した意識など多々存在するが、更に意識の多様性は近年においても様々なものが提起され続けている。

意識というものは人間が独自に持つものの、一つの知能の象徴として、常に、我々と自然の関係を語る上で表現されれてきた。また、人間が自身の超越性を自覚、あるいは錯覚する源泉ともなりえているということも事実であろう。しかしながら、その自然界がまったく意識がないというと、そうではないのかもしれない。

それは、定義付けの時点で変わっていくものであるが、例えば、植物は常にホメオスタシス(恒常性)を保とうとして、自身の状態変化に応じて、それぞれのホルモンを分泌し、元の状態に戻ろうとする。この事象を意識領域に包含させるとなると、ある刺激に対して反応することを「意識」として考えることもできる。

そもそも「意識」というものは、多少曖昧なものであるともいえよう。なぜならば、大自然の動植物たちは、もしかしたら我々が意識していることとは別の方法、あるいは認識によって「意識」を形成している可能性があるからだ。

つまり、本能は無意識行動だという人間の定義も、動植物にとってみれば本能の中にも多分に領域が細分化されており、その中で更に、本能と意識とを分けている可能性が無いとも限らない。だから一概に、彼らが本能のみで行動しているとは言い切れないのである。

意識領域を自由にスライドさせてしまえば、意識も無意識も境界線は曖昧なもので、逆に取れば我々人間は自分の「意識」を持ちながらも、幾らでも定義づけることも可能である。つまり何をもって「意識」と定義するのか、もう一度考えてみる必要もあるだろう。

そう思うと、先ほどのアダムとイブの物語りについても、楽園を追放するまでのものでも無いだろう、と思ってしまうのである。それにしても何故神は、人間が「意識」を獲得することを禁じたのだろうか。それには様々な解釈があるが、神にとって人間はずっと「動物」のままであってほしかったというのが一番の理由であろう。

要するに、神は人間に対し、限りなく 「純粋無垢」 であることを求めていていたのではないだろうか。知性レベルの「意識獲得」とは神の同化に等しく、それを許さない神は、破った人間に憤慨し罰を下したのだろう。おそらく、自分が神の視点から見たら、当然といえば当然と思うかもしれない。

意識する行為は一見、単純なものに見えるが、そのたった一つの知性行為が当時の人間を含めた動物の領域と、神の領域とを明確に分け隔てていた、とても厳正なる境界線として「戒め」を設けていたのかもしれない。このことは同時に、当時の人間が知恵を身に付けることは、大変な危険性を孕んでいると考えてのことだったのだろう。

ここで、余談ながら大きな疑問が残る。それは、何故神が「知恵の木」を植え、彼らにその「存在」を知らせたのか?と、いうことである。何か必要性があって植えたのか、単なる実存として生まれたのかは分からないが、いずれにせよ時が経てば、彼らに食べられてしまうのは必然だったであろう。わざわざ知らせることに何の意味があるのだろうか。私の解釈はいくつかある。

■1:「神は、我々を試すため、その存在を知らせた」
■2:「実は、知恵をわざと持たせる意味で、外の世界に出して立派に生きてほしかった」
■3:「人間の何かに嫉妬し、婉曲的に木の実を食べさせることによって追放の機会を意図的に作り出した」

しかしながら、■1の解釈には矛盾が生じる。それは、■1の解釈を取ったら、先述した「純粋無垢であってほしい」という解釈が成り立たなくなってしまうからだ。おそらく私は ■2の解釈として、意図的に人間に対し、進化の機会を狙って、わざと神は蛇を遣わし、イヴを騙して楽園追放へと追い込んだのだろうと思うのである。

下記、《 進化する意識の5段階 》のうち、楽園追放の物語りは、数字法則の ■1から ■2の段階。追放された後の外界への旅立ちは、数字法則の ■2 から ■3の獲得。

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《 進化する意識の5段階 》
( 1 ) 楽園内の意識 → 数字法則の「1」、未分化の意識状態。
対象が、未だ分裂していない時期で、最も純粋な意識状態が保てて、純粋ゆえに一体感を体感し、完全な調和のとれた世界。しかし、意識は未だしっかりとした認識が付かず、幼児期に見られるような、まどろんだ意識状態にある。

( 2 ) 知恵の木の実を食べる → 数字法則の「2」、意識は内と外、見るものと見られるものという具合に、意識は二極分化され対象化される。
相手を意識することで、自分を意識するようになる。その結果、相手に対し怖れや恥らいを感じるようになる。男女の関係でいえば、相手が女性であれば、直ぐに自分が男性であることに気付き、男を意識するようになる。それは同時に、異性ということから、自分には何かが足りないことにいち早く気付くが、そのことで急に不足感を感じる始める。そこで、もう一方の片割れである異性を求めるようになる。更に、自他という関係においても、他者という未知なるものに対する好奇心・欲望・競争心・恐れといった様々な感情が芽生え始める。

( 3 ) 楽園追放 → 数字法則の「3」、意識は(正・反・合)の統一を得、秩序に至るための旅立ち。
外界は混沌としており、矛盾に富んだ世界であるため、常に葛藤によって苦しむが、知恵を鍛えることにより、自力で秩序に変えていく力(正しい認識力・理解力)が身に付く。外界は、正に体験を通したイバラの道である。そこで、物事の道理や体験的知恵が身に付き、人間関係においては、相互理解を築いていく。科学においては、安定した絶対法則を導き出すことになる。
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(※)キリストが人類の前に現れ、楽園を追放された後の暗雲漂う外界においても、神の正しい知恵が存在していることを証明した。そこでキリストは、その知恵を「三位一体」(天の父である神・地の母である聖霊・人の子であるキリスト)という言葉で現わし、アーメンという祈りを天に奉げ、自身もイバラの冠を被り、十字架上に磔になった。

( 4 ) 環境に縛られる → 数字法則の「4」、意識は、環境の束縛を体験する。これは「4」の象徴である十字架同様、現代人がそれを体験している。
環境に縛られる意識とは、社会的な役割と責任を持たされ、いわば意識が環境に磔けになる状態に似ている。かつてのキリスト同様、十字架を背負った、意識は大変な負担を感じるが、集団を治め、環境を運営する知恵はかなり進化するようになる。
また、自分が将来ああなりたい、こうなりたいという願望達成のための自己実現も、この環境意識の「4」を十分に習得していないと出来ない技である。

( 5 ) 意識が覚醒することで、自然界の摂理と調和させ、環境を治める高度な知恵をもつ意識 → 数字法則の「5」、宇宙の摂理に合一した意識水準であり、意識が覚醒した状態。残念ながら、人類は未だこの「5」の意識水準には到達していない。十字架上のキリストとは、この意識水準にあり、十字架の交差点である胸の位置に魂の覚醒として高貴な意識が開花している。このポイントを第五のポイントともいう。

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 話しは変って、この失楽園で考えさせられることは、上記でも述べたように、始め楽園内では、動物と人間の意識は、さほど違いはなかったといったが、後に人間と動物は大きく進化の開きをつくりだしたと考えられる。

例えば、神はアダムとイヴを楽園内で一定期間、育てられた後、十分に知恵がつく段階になったと判断されたとき、「失楽園の物語り」が展開された。これとよく似たものに、自然保護のため親から離れた動物の子供を一時的に救って、ある時期まで人間の手によって育てられるが、次第に成長し大きくなるに従って、野生の本能を失わない内に、再び元の自然に返す措置をとる。

このように、人間が動物を一定期間、保護し成長するまで育てる立場と、神が楽園内でアダムとイヴを一定期間、楽園という保育器で育てる立場は、非常によく似ている。そして遂に保護の場から外界へと放り出すわけであるが、ここまでは、ほぼ同じ立場をとる。しかし、動物と人間とではその後の展開が、まるで違う道を歩むことが判断される。

このようなケースで判ることは、外界に放り出された後、動物は本能を取り戻すことから、人間が辿る意識の進化とは正反対の道を辿る。このように、人間は動物にはない知恵が始めから与えられていることから、外界に放り出されることで、知恵がどんどんと身に付き意識は発達する。

ここが、人間と動物との決定的な違いであり、人間は厳しい環境に置かれることで、知恵が発達し自己や環境をも組織化するようになっていく。この知恵が集合化することで、しまいに文明まで創りあげてしまうから驚きである。

今では、当たり前と思うかもしれないが、当時の楽園にいた頃の人間からすれば、驚くべき進化の過程である。
上記の 《 進化する意識の5段階 》 からも分かるように、やはり失楽園は予め、神のプログラムとして用意されていた物語りだったように思われるのである。

以上、失楽園の物語りについて、様々論じてきたが、結局のところ、旧約聖書の神というのは現実との矛盾を作り出す存在であるので、その辺りは個々の判断に任せることとする。
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by sigma8jp | 2008-12-10 05:38 | 「アダムとイヴの楽園物語」 | Comments(0)

「アダムとイヴの失楽園」物語り

  エデンの園は、アダムとイヴにとって夢見る楽園でした。そこでは、二人は裸で過していましたが、少しも恥ずかしいとは思っていませんでした。アダムとイヴが、エデンの園でどれほどの時間を費やしたかは定かではありません。しかし、ある日、蛇に代表されるサタン(悪魔)がイヴを誘惑するという大事件が発生しました。

ここから、ドラマは最大の山場に差しかかります。蛇の誘惑、神の審判、そしてパラダイス・ロスト(失楽園)へと、一連のエピソードが続くことになります。夢見る楽園は、たちまち視界から消え、アダムとイヴは、神の怒りに触れ、エデンの東に追われるように転落していきます。そこは、どれほど耕してもアザミとイバラしか生えない不毛の荒野でした。

人類の始祖されるアダムとイヴの転落の物語りは、「神が創られた野の生き物の中で、蛇が最も狡猾だった」という前口上と共に、静かに幕が開きます。アダムとイヴの運命は、蛇の出現によって突然、狂い始める訳ですが、夢見る二人は、まだこのことに気がついてはいません。

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エデンの園には、赤や黄色や紫といった色とりどりの花が咲き乱れ、泉のほとりは、小鳥のさえずりで賑わっています。この楽園の風景をかき乱すものは、何一つありませんでした。アダムとイヴが、楽しそうに語らいながら、泉のかたわらを通り過ぎて行きます。

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事件は、その後に起きました。狡猾な蛇がイヴを誘惑したのです。神があれほど強く念をおされた戒めを破るよう、蛇が誘惑してきました。神は、アダムとイヴに、楽園にあるどの木の実も食べて良しとしていました。しかし、知恵の木の実だけは、絶対に食べてはいけないと堅く禁じていました。

しかし、地上で一番、狡猾な蛇が、イヴに神の命令にそむいて、禁じていた知恵の実を食べるよう勧めたのです。イヴはそれをついに手を伸ばし食べてしまいました。そして、アダムにも食べるよう勧めました。これが、人間が最初に犯した罪なので、「原罪」といわれます。

蛇は狡猾にも、神からの直接の命令を受けていない「助け手」である女(イヴ)を騙したのです。女の方が男よりも騙され易かったのでしょうか。では、女を騙す手口を見ていきましょう。

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イヴの耳元で、蛇がそっと囁きました。
「神は、本当に取って食べるなと言われたのですか?」

イヴが応えました。
「いいえ、私たちは、園にある木ならどれでも食べていいのです。けれども、神は"園の中央にある「木の実」だけは絶対に食べてはいけないし、それに触れてもいけないと言われました。もし、それを食べてたなら、すぐに死ぬと言われたのです。」

さらに蛇は言いました。
「いいえ、それを食べても、あなた方は決して死ぬようなことはありません。なぜなら、それを食べると、あなたの目が開け、あなた方は神のように、善悪を知るものとなります。」 「神は、そのことを怖れておられるのです。」 「なぜならば、神は、自分が神である立場を維持していたいがために、他の者たちが自分と同じ知恵を持ってもらいたくないのです。」「それで、神は園にあるのものたち全員に戒めを与えたのです。」 と、言葉巧みにイヴに伝えたのです。

こう蛇に言われたイヴは、心底納得してしまい、恐る恐るその木に近寄って、禁断の木の実を見ました。
イヴには、それまでは神の戒めを破る気など、微塵もありませんでした。が、しかし、それは見るからに美しくて美味しそうに見えたのです。

それから先は、蛇の思惑どおりでした。
なるほど、これを食べれば、私は以前よりも更に賢くなれる。そう思ったイヴは、ついに木の実に手を伸ばして一口食べてみました。結構、美味しい。そして、すぐにアダムにもその実を手渡しました。
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アダムが、その木の実を口にした瞬間、火よりも熱い羞恥の矢が、裸の二人を射ち抜いたのです。アダムとイヴが神の言葉に従わず、罪を犯した瞬間でした。真昼の太陽が、アダムとイヴを燦燦と照らしていました。二人は自分たちが裸であることに気づきました。

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そして、二人はイチジクの葉で自分たちの恥部を隠すため腰に巻きつけたのです。その後二人は、神の顔を避けるように、茂みの中に身を隠します。蛇は神の言葉を改ざんし、神が人を束縛するかのような印象をイヴに与えたのです。

蛇はイヴに、「それを食べるとあなたの目が開け、あなた方は神のようになり、善悪を知るようになるのを神は知っているのだよ!」と言って、更に食べるようにそそのかしました。イヴは、蛇のこの罠にうまくはめられたのです。

夕暮れが近づき、一日の終わりを告げる涼しい風が、エデンの園を吹き抜けていきました。アダムとイヴは、神がエデンの園を歩き回っているのを見かけたので、二人は茂みにひそんで、吹く風の中に、近づく神の足音を息を殺して聞いていました。

アダムは、神の呼ぶ声を耳にしました。「アダムよ、どこにいるのか!」 
傾いた夕陽が、二人の姿を、影絵のように映し出していました。二人は、言葉もなく、神の前に出ていきひざまずきます。そのとき、神の顔をふりあおぐ勇気をアダムは持っていませんでした。

神は、アダムとイヴになぜ隠れたのかと尋ねました。
彼らは、本当は、食べてはいけない「知恵の木の実」を食べてしまったので隠れましたと、正直に言わなければならなかったのですが、そうは言わず、自分たちが裸なので恐れて隠れました。と、すり替えて答えたのです。

神は、アダムに詰問しました。
「アダムよ、お前が裸であることを誰がお前に教えたのか、どうして、食べるなと命じておいた木からとって食べたのか。」

青ざめたアダムの顔があいまいさに歪みます。
「あなたが、わたしと一緒にしてくださったあの女が、木からとってくれたのです。」と、責任をイヴに転嫁し、彼女を強く非難しました。

神はイブに言いました。
「女よ、なんということをしたのか。」

イヴはこたえました。
「蛇が私をだましたのです。」と、今度は蛇を非難しました。

アダムもイヴもずいぶん利己的で、ずるいのですが、最終的に一番悪いのは蛇であることが判りました。

神は蛇を叱りつけました。
「お前は、このことのために、野の全ての獣(けもの)の内、最も呪われるものとなるだろう。お前は腹で這い歩き、一生、塵(ちり)を食べるだろう。」

次に、神はイヴに言いました。
「私は、お前のために、女の産みの苦しみを与え、その苦しみが大いに増すだろう。それでもなお夫を慕い、夫は女を支配するだろう。」

それからアダムにも言いました。
「お前は、女の言葉に従って、私が禁じた木から取って食べた。大地はそのため呪われ、お前は一生、苦しんで地から食物をとるだろう。大地は、お前のために、イバラとアザミとを生じ、お前は野の草を食べるだろう。お前は顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰ることだろう。そう、人は塵から生まれたのだから、最後は寿命が尽きて塵に帰る運命をたどるだろう。」

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アダムは、神が語る一部始終をただうなだれて聴いていました。イヴも同じです。その抜け殻のような二人の目に、夕暮れが運命の幕をひくように、濃い夜の暗闇に変わるのが映りました。二人は無一物のまま、エデンの園を去ったのです。

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さて、ここでこの物語りに登場する「誘惑の蛇」について、もう少し考えていきましょう。

  前述の通り、蛇はイヴに「決して死ぬことはないでしょう」と言い切ってイヴに迫りました。神の意図を知っていてか、イヴを言葉巧みに誘惑するこの蛇は、ただの野に這う蛇ではありません。蛇で象徴された存在は、野を這う動物ではなく、また動物に近い素朴な生き物でもありません。

普通ならば、イヴがそのような蛇のごときものに簡単に誘惑されるはずがありません。神の霊を受けた者を誘惑できるのは、霊的な存在でしかありません。天にあって霊的な存在が、地に投げ落とされたものとは、天使以外に考えられません。女を誘惑する蛇とは、「黙示録」(12:9)に記された「悪魔とか、サタンと呼ばれ、全世界を惑わす老練な蛇」に違いないのです。

知・情・意を司る、三大天使長がいなければなりません。「黙示録」に、ガブリエル(情)とミカエル(意)の名はあるのですが、知の天使長の名がありません。しかし、それを示唆する聖句が、「イザヤ書」(13:12)にあります。
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そう明けの子よ、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。明けの明星とは、知の天使長ルシフェル(ルシファー)のことです。光の天使が、天から落ちて闇の天使になったのです。
ルシファーは現在、地獄の帝王です。知は明暗で表します。知は真理を探究する精神性を表します。しかし、知は同時に、善悪どちらにも傾く性質を持っています。
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悪に走れば悪知恵となり、例えば科学の探求心が恐ろしい殺人兵器を生みだし、遂には人間を大量殺戮するほどの悲惨な結果をもたらすように。知の天使長ルシフェルが、何らかの動機から神に反逆して、イヴを誘惑する者となったのです。

では、どうして知の天使長を、蛇で象徴したのでしょうか。イエスは、弟子たちを伝道に送るとき、「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」(マタイ10:16)と送り出しています。ユダヤでは蛇は知恵の象徴であり、また淫乱と多産の象徴でもあったのです。

賢いとされる蛇には、舌が二枚あることから、二枚舌を象徴していています。二枚舌とは、思っていることと、言うことが違う、裏腹で大変ずる賢く計算高い人間のことです。そのような人間は、最初から自己中心的特徴を持ちます。

更に、蛇の生態的な特徴の中に、獲物を体に巻きつけて食べます。これは、知の天使長であるルシフェルは、神に反逆して公けの立場を捨て、自分中心(自分が有利な立場になるよう)に全て考え、自分に引き寄せます。確かにルシフェルは、誘惑者となって蛇のように女に忍び寄り、しっかりと女に巻きついたのです。

この時期、イヴは未完成の少女のようでした。それは蛇の誘惑に誘われるまま、木の実は見るからに美味しく映ったのでしょう。イヴは、ただ神の戒めを守ることが、人として完成する条件でしたが、しかし、守るか守らないかは、彼女の自由意思に任されていたのです。
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by sigma8jp | 2008-12-10 02:52 | 「アダムとイヴの楽園物語」 | Comments(0)