カテゴリ:終末のロマン派芸術( 3 )

アルフォンス・ミュシャ Alfonse Mucha

b0140046_015622.jpg  アール・ヌーヴォー様式を代表する巨匠。草花をモチーフとした幾何的な文様や、曲線を多用した平面的で装飾的な画面構成など典型的なアール・ヌーヴォー様式と、モデルの女性など描く対象の個性や特徴を的確に掴みながら、視覚的な美しさを観る者に嫌味なく感じさせる独自の対象表現を融合させ、数多くの商業用ポスターや挿絵を制作。

画家がパリ時代に手がけた諸作品は当時、大流行となり、画家(作家)として確固たる地位を確立。現在でもアール・ヌーヴォー様式の代表格として広く認知されている。また他のアール・ヌーヴォーの画家(作家)と同様、ミュシャの装飾性の高い平面的表現には日本の浮世絵からの影響が強く感じられる。

ミュシャの作品はパリ時代のカラーリトグラフによる商業用ポスターや装飾パネルなどが有名であるが、油彩画でも優れた作品を残しており、特に晩年期に故郷チェコで制作した連作『スラヴ叙事詩』は画家の生涯の中でも屈指の出来栄えを示している。

1860年、チェコスロバキア南方モラヴィアのイヴァンチッツェで裁判所の官史をしていた父オンドジェイ・ミュシャと家庭教師であった母アマリエ・マラーの間に生まれ、1871年からブルノーの中学に通うほか、同年、聖ペトロフ教会聖歌隊員となる。

1878年、プラハの美術アカデミーを受験するが失敗。翌年、ウィーンへと赴き、舞台美術などを手がける工房へ助手として入る。その後、失業してしまうものの、パトロンであったエゴン伯爵の援助を受け、1884年からミュンヘン美術学校に留学。古典的な写実的表現を会得する。
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1887年、ミュンヘン美術学校を卒業後、パリに向かう。
1891年、ポール・ゴーギャンと知り合う。
1894年、当時の著名な舞台女優サラ・ベルナールが主演する戯曲『ジスモンダ』のポスターを手がけ、大きな反響を呼ぶ。
翌1895年、サラ・ベルナールと六年間の契約を結び経済的困窮から脱するほか、『ジスモンダ』の成功によって一躍、時代の寵児となる。

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また同年、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックらと共にサロン・デ・サンのグループ展に作品を出品。その後、『ジョブ』や『メディア(メデア)』などのポスターや、『四つの時の流れ』、『四つの星』など連作的作品を数多く制作し、名声を博す。
1904年から数回、招かれる形でアメリカに滞在し同地で制作活動をおこなう。
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1908年、ボストン交響楽団によるスメタナの≪わが祖国≫を聴き、強く感銘を受け、スラブ諸国の文化の伝道に尽力することを決意。
1910年、故郷チェコに定住。翌年からスラヴ民族の歴史を綴った連作『スラヴ叙事詩』の制作に取り組み、チェコスロバキアの国家行事のポスターなどを手がけつつ、1928年まで同連作を制作し続けた。

1938年、肺炎により健康状態が悪化、翌1939年チェコで死去。なおミュシャは作品のデザイン性の豊かさから、デザイナーとしての評価も高い。

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                  《 スラヴィア 》



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                《 百合の中の聖母 》



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                  《 ミューズ 》



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                《 燃える蝋燭と女 》



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              《 眠れる大地の春の目覚め 》


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                《 クオ・ヴァディス 》


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                   《 雪の女王 》


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          《 スラヴ叙事詩-原故郷のスラヴ民族 》 
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by sigma8jp | 2008-11-24 00:08 | 終末のロマン派芸術 | Comments(0)

フリードリッヒ とドイツロマン主義

b0140046_105966.jpg  ザクセン地方ドレスデンで画家としての活動を始めた C. D. フリードリッヒ(1774〜1840)は、プロテスタンティズム、神秘主義、ロマン主義の強い影響の下、19世紀初頭に於ける北方ドイツの厳しい風景を愛国的に描き、その困難な時代を政治的に生きた。しかし王政復古によるビーダーマイヤー的諦念風潮が広がる1830年以降作品の評価は急落し、死後ほとんど忘れられた存在となった。

フリードリッヒの本格的な再評価は1970年代にはじまる。72年にテートギャラリー(ロンドン)でドイツに先駆けて大回顧展が行われたのは、イギリスには同時代にコンスタブル(1776〜1837)やターナー(1775〜1851)といった「国民的」風景画家がいたからだろうか。日本でも78年には『フリードリッヒとその周辺』展が東京国立近代美術館で開催され、2005年の「日本におけるドイツ年」では、フリードリッヒの主要作品6点が相次いで公開、展示された。もっとも現在に至るまで日本ではフリードリッヒ単独の画集は発刊されていない。

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                 海辺の月の出

 フリードリヒ・アウグスト1世の治世下、ドレスデン絵画館ではヤーコプ・ファン・ロイスダール(1628頃〜1682)の作品を見ることができた。ロイスダールもモチーフとして「北方の風景」を好んで描き、確かに後のフリードリッヒに影響を与えたには違いないが、フリードリッヒの風景画に特徴的なのは、むしろ「崇高」という言葉につきる、ロイスダール、延いては17世紀オランダ絵画にはない「感覚」だろう。

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                   カテドラル

 それはロイスダールの影響を受けながらも19世紀ドイツに特有な地理的、政治的、風土的な「条件」から発生したもので、幾ばくか死の匂いを漂わす。少し丁寧に言えば、カント、そしてエドマンド・バークが定義づける「崇高」という観念を「直感的」に感受し、その時代における感覚的な像(イメージ)としての「崇高」を画面に昇華させたもので、初期ドイツロマン主義文学が扱ったイメージと同様に、例えば「異国的」「未知なるのもの」「古代文化の礼賛」「神秘的」あるいは「苦悩」「不安」などという言葉に代表される、ヘーゲルが言えば「ロマン的」な観念となる。

断っておくと、美術に於いて「ドイツロマン派絵画」というカテゴリーや運動は存在しない。そもそもドイツロマン主義はその「ロマン的」という曖昧な感覚が、グーテンベルク以来の印刷術を介した文字メディアを通じて小さな文学サークルに結実したという程度のものだ。

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                 人生の諸段階

 しかしながらその「ロマン的」な感覚について、例えば、ザクセンの地方都市で同じようにロマン主義的革命思想を持ち、作曲家であり文字メディアも使って音楽批評をしたロベルト・シューマン(1810〜1848)と対比して考えたとき、ドイツロマン主義とは、おそらく互いの存在を意識することが無くとも、個々の場所で別々の表現形式をとっていても共有できる抽象的な観念なのだと言えよう。フリードリッヒは、ただ「ロマン的」な通奏低音を頼りに絵を描いていた(革命に向かう意志はすでにこのロマン的という言葉に内包されている)。

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            山上の十字架(テッチェン祭壇画)

  だからドイツロマン主義文学から端を発し、19世紀の後半にヨーロッパ各地に独自に形成されたロマン主義運動、例えばドラクロワ等フランスのロマン主義 やモローの象徴主義、もしくはイギリスのラファエル前派、ウィーン世紀末運動などから振り返っても、フリードリッヒの絵画に遡ることはできないのは明らかだが、逆に、このロマン的な「何か」が19世紀以降、広範な地域に伝播した事実には注視する必要がある。

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                    氷の海

 1935年ドレスデンで始まる『退廃芸術展』のような暗澹たる芸術政策が敷かれる20世紀の一時期に於いて、フリードリッヒの作品がナチスドイツの国家的なシンボルとしては機能したと思えないが、例えば39年『美の國』という美術誌に、ドイツへの留学経験がある東山魁夷の『独逸浪漫派の二巨匠』というフリードリッヒとオットー・ルンゲについての寄稿(内容的には簡単な紹介程度のもの)もあり、ナチスによるフリードリッヒの評価はこんな極東の地にまで波及する。

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                 雲海の上の旅人

 フリードリッヒの絵画に於けるロマン主義的イメージが、その本人の意図とは全く違う形で、例えばナチスドイツに引用されるようなことが何故起こるのか。例えば ニーチェの「力への意志」のようなこの時代を背景として生み出された概念が、国家社会主義へ奉仕する妹のエリーザベトを通じて、その著作の意味するところとは全く違った次元でナチスに取り入れられたこと。またはユダヤ人でドイツロマン主義についての論考もあるヴァルター・ベンヤミン(1892〜1940)が、ロマン主義が孕む崇高概念から派生した政治思想に押しつぶされる形で自殺すること。ロマン主義的イメージとナショナリズムの虚像性との関係とは。

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                人生の諸段階 冬

  新古典主義の観念では、美は「美しいと認識される客体の性質」と見なされており、美はそこに存在するものであった。それに対し18世紀には新たな美の観念として、例えば「趣味」や「感情」など客体の特徴と無関係な、主体(画家も鑑賞者も)の性質や能力と関係する観念が生まれる。「崇高」は後者に属するが、特に自然の鑑賞者側の体験としての漠然とした「恐怖」もしくは「不安」と結びつく。

つまりフリードリッヒの絵画が持つ「崇高」は、主体(鑑賞者)の側が内面に作り出すイメージで、「作品」は鑑賞者の内面に対して開かれた「入口」となる。本来は、作者フリードリッヒの体験と、鑑賞者が「作品」を通して受けた体験が共有できる場合にのみ「作品」が機能するはずなのだが、逆に考えると、たとえ故意にではなくとも同時代性に切れ目が生じた場合、「作品そのもの」とその「入口」が容易に切り離されてしまう。

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          エルベ河の夕暮れ(ドレスデンの大猟場)

 そして、それがドイツロマン主義における芸術作品の構造なのではなかろうか。結局「ロマン主義的イメージ」は「入口」と外壁のみで構成された空虚な空間で、鑑賞者はその隙間の中に別の理念を繰り広げることすら可能なのだ。さらに「ロマン主義」という外壁がある分、それが客観性や普遍性を持つような錯覚を与えるともいえる。カール・シュミットなら「空虚な容器」と呼ぶものだろうか。

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                バルト海の十字架

 このことをジャン=リュック・ナンシーならば、「不安」という入口と「共同体」という外壁を「我々」という理念が満たすとき、ナショナリズム、全体主義へと移行すると言うかもしれない。しかしながら、人々(つまり複数の「我々」)にナショナリスティックな感情を起こさせる、「個」のメカニズムについては意外に単純な仕掛けだというような気がしている。「ロマン主義的観念」が個々に働きかけ、「社会的なイメージ」を形成する過程、21世紀の私たちのかかえる「不安」とヘーゲル以来の「ロマン主義的イメージ」による近代の呪縛、そして「絵画作品」というメディアのもつメカニズムについてなどが私には気にかかる。

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              雪の中の巨人塚(ドルメン)

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             アグリジェントのユーノー神殿
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by sigma8jp | 2008-11-19 00:08 | 終末のロマン派芸術 | Comments(0)

終末のロマン派絵画 フリードリヒ


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 《 月を眺める二人の男 》1819年 カスパー・ダーヴィッド・フリードリヒ

  カスパー・ダーヴィッド・フリードリヒは、19世紀初頭に、ドイツで活躍したロマン主義の代表的画家です。ロマン主義とは、英語では Romantism、ドイツ語では、Romantik です。

ロマン主義は、18世紀末から19世紀にかけての運動で、自由、内面性の重視、感情の尊重、想像性の開放などが、特徴とされていますが、異国的なもの、隠れたもの、はるかなるものなどを大切にしました。

その運動は、文学・哲学・絵画・音楽・政治など、広範囲な広がりを見せています。
ドイツで始まったものですが、地域的にもヨーロッパ各地に広まり、フランス絵画ではドラクロワ など、そして、イギリスではターナーも、ロマン派に属します。ロマン派の絵画は、多くが印象的な瞬間を描き、それは観るものに劇的な絵画という印象を与えます。

フリードリヒの当時、ドイツでは、ローマへ旅行することが美術家にとっては不可欠であると考えられていました。南の、地中海の明るい風景を実感し、そしてルネサンス以来の古典を学ぶことが必要であるとされていたのでしょう。しかしフリードリヒは行きませんでした。

フリードリヒは、北ドイツの峻厳な風景、そしてザクセン・ハルツ地方の険阻な山の風景を多く描いていますが、そこに南国的な明るい光は必要なかったでしょうし、また地中海の快活な風俗を経験することは、彼の禁欲的な精神にとっては、かえってそれを阻害すると考えたからでしょう。

フリードリヒは北ドイツの風景を描いていますが、多くの場合、それは実際にある風景ではありません。彼の心象風景とでも言ったら良いのでしょうか、たとえば一本の樹を描いたとしても、その樹は実際にあって、どこかでスケッチした樹なのですが、背景が、全然別の場所であったりということが多いのです。

この 《 月を眺める二人の男 》 も、おそらくそうなのでしょう。明らかに親しい関係にある二人の男が、石だらけの径を登りきったところで、はるかかなたの月と星を眺めている。伝承によると、フリードリヒはこの絵に、自分自身と愛弟子のアウグスト・ハインリッヒを描いたとされています。
石だらけの径は、人生の道。

二人の人物の右側にあるのは、枯れた樫。これは、《 雪中の石塚 》 の先例 に倣うとすれば、キリスト教以前のゲルマン民族の象徴となりますね。そして人物の左側の常緑の檜・・・これは同じく、成長を遂げたキリスト教文化の象徴となり、この二つで、ドイツのアイデンティティーを表そうとしているのでしょうか。

フリードリヒは、この絵を描いた5年後の1824年、全く同じ構図、同じ構成で、人物だけが男と女になっている絵を描いています。 右側の人物は同じなのですが、その人物の肩に手を置いている人物が女性になっているのです。

《 ・・・・二人の男 》 では、右側の人物は少し背を丸め、《 ・・・・男と女 》 に描かれている人物よりも、少し老けたのかなと思うのは、錯覚でしょうか。
いずれにせよ2枚の絵は、フリードリヒが人生をともに歩んだ人物との記念碑として、描かれたものなのだと、感慨深く観させていただきました。
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by sigma8jp | 2008-11-18 23:59 | 終末のロマン派芸術 | Comments(0)