カテゴリ:ユングの「アーキ・タイプ」( 7 )

ペルソナとアニマ・アニムス 2

【生物学的な段階】
  初めに「生物学的な段階」があります。これは文字通り、女性であれば何でもいい段階です。
ともかく女性であること、子を産めること、が重要になります。また、その性の面が強調されるために、娼婦のイメージで現れることが多いようです。その「肉」の面、また子を産むという「土」の面が強調されます。

このような段階にとどまる「古い時代の男性」を見かけることもあります。女性の「性の面」「子を産む面」のみを大事にするのです。しかしながら、その思考が、まだ初めの段階であることを認識しなければならないでしょう。

また、人間としての人格を蔑ろにされ、この段階のままで扱われたなら、女性はたまったもんじゃないでしょう。(まったく、失礼な話です)

しかしです、それを指摘しながら、実はアニマの前段階である「母親の像」「母親代理の像」にとどまっていたなら、説得力はありません。この辺は、難しいようです。ただ、この段階も避けては通れぬ道なので、まったく否定することもないでしょう。むしろ必要な部分もあります。要は、先に進めばいい話です。そして、浅薄に、「性の面や子を産む面」、「肉の面や土の面」を否定してしまうことも、また、間違っています。

これは人間のもつ、素晴らしい機能でもあります。付き合い方次第で、宝にもなることです。否定すべきは、いつまでも未熟な状態に留まることです。おそらくは、女性を肉や土の面のみで扱う人に対しても、それに反発して、女性の肉や土の面をまったく否定して生きようとするような人にも、アニマは「あら、女性のことを何にも知らないのね…」と囁く(ささやく)のではないでしょうか?


【ロマンチックな段階】
 この段階には愛があります。女性の人格を認め、それに対する厳しい選択と決断が要求されます。女性に惹かれ、心揺れることもあろうかと思いますが、これがロマンチックなのか、単にセンチメンタルなのか、分けて考える必要があるでしょう。一般的には、ロマンチックに「甘美なさま」のイメージがあるのに対して、センチメンタルには「感傷的」なイメージがあります。

このロマンチックなアニマは、一般には古い日本にないものでした。なぜなら「家」を大事にする日本の伝統は、アニマをこの段階にすることを許さなかったのです。そのことは容易に想像できると思います。日本古来の、家というものや風習は、妻を生物的な段階に留める傾向があったようです。(あくまで傾向で、これがすべてでもありません)当時の日本では、妻に「人格」を与えず、その代わりに「妻の座」を与えました。

しかし、男性は妻にないロマンチックを外に求め、芸姑さんなどが誕生したともいえるでしょうか。(こういうことを鑑みると、今になって女性が反発し、自らの地位を獲得しようとするのも、うなずける部分があります。まあ、そのやり方や正当性は問題にしなければなりませんが…)

このような傾向に対し、現代においては、そうでない、といえるでしょうか?真に女性の人格を認め、愛している人がどれほどいるのでしょうか?これを実践するためには、男性としての「芯の強さ」が要求されるように思います。うわべの強さではなく、「芯の強さ」です。

「芯の弱い男性」が、女性の人格を認めている、と言って、はたして説得力があるでしょうか?
(都合のよさは、あるかもしれません)それを見極めた時、単なる全面降伏であるようなことはないでしょうか?果たして、女性というものと向き合っているのでしょうか?勿論、芯を強くするのは、並大抵のものではありませんが…


【霊的な段階】と【叡智の段階】
  「ロマンチックな段階」に続く第三の段階は「霊的な段階」です。
これは、主に「聖母マリア」によって表されます。この段階では、性的なものが「聖なる愛」に昇華されます。これは聖母マリアがもつ、「母なるもの」でありながら「処女」であること、「母の愛」を持ちながら同時に「乙女の清らかさ」を持ち合わせるという性質に示されるでしょう。

これも、アニマの前段階である「母親の像」との混同を避けなければなりませんが、「霊的な段階」の像には「肉」のイメージが一切ないように思います。また、血のイメージもないように考えます(痛みとしての血はあるかもしれません)。そしてここに、ある種の感動のようなものがあるのではないでしょうか?母といっても狭い範囲の個人的な母性ではなく、広く深い無償の愛に基づいた母性でしょう。

そこに人間的な、条件付の愛はありません。何人をも赦す愛が、そこにあるように思います。この段階の次に「叡智の段階」があります。これを表すものには、西洋では「軍神アテネ」の像、東洋では「弥勒菩薩」の像があります。女性でありながら、男性性も持ち合わせ、深い慈愛とともに、叡智をも感じることができます。(弥勒菩薩をはじめとする菩薩像の性別について私は語るほどの見識を持ちませんが、私のイメージとしては女性性をベースとした深みを感じます)

私は「愛は素晴らしいものだが、強すぎる愛は毒にもなる」と考えます。また、この事実から避けることはできないと思います。しかし、「人間の愛」と「聖母マリアに表される霊的な愛」「アテネや弥勒菩薩に表される叡智の愛」とは別物です。「霊的な愛」「叡智の愛」は深いのですが、毒にはならないでしょう。この区別を認識することは大いに必要なように思います。

上記のような「アニマの四段階」は思考や理論によってのみ考え出されたものではなく、むしろ経験によってもたらされたものです。つまり実際の夢分析の現場で経験されたものだということです。そして、この四段階を終えたとき、アニマは像として現れるのではなく、むしろ一つの『機能』として、我々の自我と自己を結びつけるものになるようです。


【アニマの統合】 
  アニマを自身に統合させることは、ある意味においては、男性に弱さを経験させるものといえます。どんなに強い人間でも、弱い部分は持っているはずです。思考型の人間なら、劣等機能である感情が弱い傾向があります。その弱さと結びついたアニマを認識することで、自身の弱さを認識し、体験するのです。「気づき」なくして、得るものはありません。逆に、気づけば、得ようと思えば、得ることができます。

自身の弱さに気づき、それからどうするのか? …それが大事です。受け入れる部分は受け入れ、克服すべき部分は克服します(あるいは、そうしようとします)。そこに、進歩や成長があります。現実問題でも、弱さを知らぬ者は健全な関係を持つことができないでしょう。強いだけでは、支配することはできても、真の友好関係は得られないと思います。(もちろん、弱いだけでも駄目です)

ここで注意があります。アニマとの統合は、あくまで対決→統合のプロセスで得られるものであって、同一化で得られるものではありません。対決し(弱さを経験し)、ひと山越えれば、それなりの強さと真の意味でのやさしさが得られるはずです。逆に、弱さから逃避したり、ひとたび向き合った弱さに留まるならば、得られるものは少ないでしょう。アニマとは、対決・対話するものであって、同一化するものではありません。


【対決のとき】
  後にアニマを発達させるにせよ、まずはペルソナを鍛えるのが先でしょう。男性ならば、強さ、判断力などが要求されると思います。まずその期待に副える(そえる)だけのペルソナを磨くことです。そしてその後に、アニマを発展させるのです。ユングはアニマの発展の時期を、35歳から40歳以後、と言っています。これは勿論、個人差があるでしょうが、ペルソナを十分鍛えもせず、アニマの発展が得られるものではないと思います。

また、外界に適応した態度なしに、内面の女性を発達させるのは、極めて危険な行為でしょう。
ろくにペルソナを鍛えもしない子供が(この子供は年齢によるものではありません)、アニマを求めていいとは思えません。往々にして破滅するのではないでしょうか。


【おもしろいアニマ】
 河合隼雄氏が以下のような面白い事例を挙げてくれています。「アニマは女性にだけ投影されるものではなく、物にも投影されます。その典型的な例がアメリカにおける車でしょう。男性は競って素晴らしい車を買い、それを世話し(彼らはまさに、車を世話し、愛撫するのです)、それについて友達と話し合うのです。考えてみると、男性化したアメリカの女性に比べると、自動車のほうがはるかに女性らしいといえるが、近代の合理主義の産物に、非合理な感情の投影をしなければならないのは気の毒な感じを抱かせる。またこれは日本人にもいえるだろう」

まさにその通りでしょう。これは車に限らず、釣り道具やゴルフ・クラブ、などの趣味の世界のものの多くに言えるのではないでしょうか。これは男性の問題なのか、女性の問題なのか、難しいところです。というか、両方の問題なのでしょうね。まあ、真のアニマを欲する人は妥協せぬことだと思います。(大変ですが…)

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3.アニムス
  ユングは、女性の中の男性的元型を『アニムス』と呼びました。
アニムスは無意識内の劣等な論理性や強さと結びついて現れます。このアニムスは、論理性や強さを持つものの、あくまで劣等ですから、未熟なかたちで発現されやすいようです。アニムスは「例外を許さぬ頑固な意見」として現れることが多いようです。ユングは「アニムスは意見を形成し、アニマはムードをかもし出す」と言っていますが、これが未熟な場合、危険へとつながります。

アニムスに取り付かれた女性は「~しなければならない」「~すべきである」と意見を述べます。
これは一般論としては正しくても、個々の現実問題に対しては適していない場合が多く、それゆえに、この未熟で頑固な意見に対し、男性からの感情的な反発を買うことも度々です。ここで男性も未成熟であった場合、「未熟な論理」対「未熟な感情」という、果てのない泥仕合が続くことになります。

まだ、泥仕合だったらいいのですが、弱い男性が、この未熟な論理に取り込まれた場合、未熟なアニムスが力を発揮し、散々たる物になります。現実を見ない未熟な理論ほど厄介なものはありません。と、アニムスの否定的な面ばかり見てきましたが、アニマ同様、アニムスにも肯定的な面もあります。アニムスにも発展の四段階があるのです。すなわち、「力の段階」「行為の段階」「言葉の段階」「意味の段階」です。この言葉は、ゲーテの『ファウスト』からきているそうです。


【力の段階】
  これは男性の力強さ、とりわけ「肉体的」力強さに根ざしたもので、アニマの「生物学的な段階」と同じく、比較的低級なものです。但し、これも蔑ろ(ないがしろ)にされていいものではなく、通過点として大事な段階です。ここに留まるか、次に進むか、それが大事です。安易に否定することはないでしょう。


【行為の段階】
 これは肉体のみならず、強い意志によって支えられた勇ましい行為の担い手としての男性像として現れます。アニマが退行して現れる場合、エロチックな空想として現れることが多いのですが、女性の場合は、頼もしい男性の出現による(空想的な)未来の人生設計というようなかたちで現れることが多いようです。

この素晴らしい考えによって、女性は「女性も職業を持つべきである」とか「自分の夫は一流の大学を出て、高尚な職業に就き、高収入を得なければならない」という頑なな意見が形成されたりするようです。(その昔、「三高」(高学歴・高収入・高身長)という言葉がありましたが…)

このような願望が強くなると、それとの比較によって、現実世界のものが無価値に感じてしまうこともあります。何に対しても未熟な批判をするうち、ついにはその批判が自分に向けられ、自分が無価値な人間のように感じてしまうこともあるでしょう。

そして必要以上に卑下して、過去を振り返り、「大学に進学しとけばよかった」「あの人と結婚しとけばよかった」「~しとけばよかった」と、非建設的な回想を繰り返します。この辺は、グリム童話の「つぐみ髭(ひげ)の王様」にもよく表れています。

まだ批判が自身に向けられているならいいですが、自分の内面を見たくないがために、未熟な一般論を持ち出し、現実を見ようとはせず、周囲に当り散らすのは、迷惑な話です。
もちろん、これは女性のみならず、男性にもいえることですが。

しかし、アニムスはこのような否定的な面を持つだけではありません。
女性の中にある願望に満ちた考えは、未知の可能性を引き出したり、新しい考えに対し偏見のない態度で接することにより、建設的な効果を発揮することもあります。

男性が思考のみに囚われて保守的に働くとき、新しい可能性に意義を認めて革新的な行動に参加する女性が現れ、影の推進者になることもあります。


【言葉の段階】と【意味の段階】
  アニムスが女性にとって意義を持つのは、このふたつの段階です。現代の時代背景にも支えられ、女性は「言葉」「意味」の段階のアニムスと対決する時に来ているのかもしれません。
この、「言葉」や「意味」という表現は、大変興味深いと私は思います。なぜなら、近年の傾向として、新しい言葉が、その表層ばかりが扱われ、言葉本来の意味が蔑ろにされている場合が多いからです。

例えば、病気の名前もそうです。本来、心理的に意味ある言葉であるはずの病名が、裁判の道具として誤った使い方をされたり、自分の意見や主張が失敗した時の逃げの道具に貶め(おとしめ)られている例も、少なくないように思います。また、そのような人たちが、アニムスの未熟な段階に留まっている姿も、よく見受けられます。また、アニマに全面降伏したような人がそれを支援したり、その未熟さに気づきながら、何もできず、見逃している姿もよく見受けられます。
(ああ、また脱線してしまいました――スミマセン)

アニマの特性が「協和」を示すのに対し、アニムスは「認識」「判断」という切る能力を示します。
差を明確にし、何にでも正誤の判断を下そうとするその姿は、「剣」の姿で現れることがあります。この剣は、一見、社会や男共を蹴散らすものでありながら、注意しないと自身の中の女性を切り殺している場合が多々あるので注意が必要です。(実際、男女同権をうたいながら、よく聞いてみると、女性を蔑視していたり、女性性を殺しているのを私はよく目にします)

そして、そのようなアニムスの剣は人からの借り物でしかないようです。実際、その意見が、新聞の社説や、ニュースの謳い(うたい)文句から来ている場合も少なくありません。しかも、その表層に囚われているがために、本質を見失い、間違った使い方をされている場合も多いようです。また、このような態度が、例外のない頑固さや、自分も他人も赦さない心として現実世界に現れるのも、興味深い事実です。

テレビを見ると、自分の女らしさを殺し(というか、自身の内面との対面を避け)、浅薄な新聞記事で武装している女性を見かけることもありますが、ほとんどの場合、男性から敬遠されるか、あきれ返られます。ただ、これを一人のせいにするのは酷で、むしろその周りに未熟な男どもを発見するのですから、気の毒なことでもあります。(また、そうしてでも自我を守らねばならなかったような、痛ましい体験をされている方もいるでしょう)

このようにアニムスの開発は困難なものなのですが、この困難な作業をすることなく、女性としての満足を見出す人もいます。すなわち、家事や子育てに幸せを見出す人です。このような人を攻め立てる同性もいるようですが、それで幸せならば、それはそれでいいように思います。悪戯に他人を責めるよりは、自分の態度を鑑みる方が大事な場合も多いようです。

現代社会の文化の向上や、豊かさは、「時間の余裕」を生みました。今まで考えなくてもよかった事も、考える時間ができたのです。また、家事や子育てに費やしていたエネルギーも、文明の力を借りて、今までよりは余る結果になりました。このエネルギーが低級なアニムスと結びついた場合、肉体を求めるという行為に走ることもあります。そして「肉体の結合」と「こころの分離」を経験し、傷ついていくようです。

一般の主婦の方は、このような肉体を求めるだけの冒険はせず、せいぜいドラマの中で発散させるだけのようです。しかし、余ったエネルギーは子供へと注がれ、過剰な期待へと変わっていくこともあります。(現実の夫にアニムス像を見出せないなら、なおさらのことでしょう)かくして、多大な願望に彩られた考えはすべて子供へと投影され、子供は母親のアニムスに沿って生きねばならなくなります。未熟な母親を救い出す「白馬の王子様」の役割をおおせつかるのです(ああ、不幸かな)。

そしてこの時、夫に妻のアニムス像を担うだけの存在価値が無い事も忘れてはなりません。
誰か一人のせい、という場合は少ないのではないでしょうか?人間の幸福を考えた場合、アニムスには気がつかない方がいいこともあります。しかし、一度気づいてしまったものは仕方ない。これはアニマ・アニムスに限ったものではないですが、一度気づいたら、魂はなんとしてでも振り向かせようとします。ある種の症状をもってしても、です。

そして裏を返せば、その人はその困難に立ち向かうだけの価値のある人だとも言えるのです。
カウンセラーとしては、逃避をすすめるのでも、対決をすすめるのでもなく、ただ、その人が自分で立とうとした時には、いつでも対応できるだけの準備をすべきなのでしょう。

このように、アニマ・アニムスを開発するのは非常に困難な作業です。うかつに同一化してしまえば、男性は女々しいだけのものとなり馬鹿にされ、女性は女性らしさを失ったものとして非難されます。しかし、一度この問題を知ってしまった以上は、そのような同一化の危険を冒してでも、自身の中のアニマ・アニムスを統合しなければならないでしょう。この苦難の道の先に、成熟した男性・成熟した女性があるのです。男性としてあるいは女性として、強さも弱さも含んだ、より完成されたものとなるのです。

そして、これこそが『自己実現の道』であり『個性化の過程』であると考えます。
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by sigma8jp | 2008-12-01 21:10 | ユングの「アーキ・タイプ」 | Comments(0)

ペルソナとアニマ・アニムス 1

  ユングは夢の中に現れる異性像に心理的に重要な意味を見出し、以下のように名づけました。
①男性の中の女性的元型を『アニマ』
②女性の中の男性的元型を『アニムス』

これらと比べ、以前に述べた『影』は夢の中で同性として現れる傾向にあるようです。また、『影』は無意識の比較的浅い層、個人的無意識に関連がある場合が多く、したがって理解しやすいのですが、『アニマ』『アニムス』は無意識の深い層に関連する場合が多く、よって、理解しづらい傾向にあるようです。この『アニマ』『アニムス』に対応するものに『ペルソナ』があります。まず、その『ペルソナ』から話をしましょう。

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1.ペルソナ、適切なる仮面
  ユングは我々の言ういわゆる『心』について、明確に定義付ける必要を感じ、①Psyche ②Soul という二つの言葉を概念的に区別して用いました。因みに、辞書による一般的な訳は以下の通りです。
Psyche:霊魂、精神、(ギリシャ神話のプシケー:人間の霊魂の化身)
Soul:魂、精神、霊魂、権化

河合隼雄氏はこの二つの言葉を以下のように区別して用いています。Psyche:意識的なものも無意識的なものも含めて、すべての心的過程の全体をさしているものであり、これを一応、『心』という言葉で用いる。Soul:ここでは一応『こころ』という言葉を用いる。ここで『たましい』という言葉を用いなかったのは、これを宗教上の概念としての霊や魂と混同されるのを恐れるためである。『こころ』とは元型として無意識に存在する、自分自身の内的な心的過程に対処する様式、内的基本的態度である。

少し分かりやすく言うと、
『こころ』とは、無意識に内在する「(心の)核」や「本心」のようなもの。社会の要求する適切な態度と相反する(あるいは、それを補償する)内的に適切な態度。『心』とは、そういう無意識的な「こころ」と、意識的なものを、両方包含するもの。…ということができるでしょうか。

また、別のイメージで表現すると、頭で考えるのが「自我」、胸の奥から感じるのが「こころ」、両方を含むすべての心的なものが「心」と言えるでしょうか。

さて、『ペルソナ』ですが、一般には仮面のことをさします。キリスト教の三位一体論によれば、父と子と聖霊という三つの位格をさし、本質(ウーシア)が唯一神の自己同一性をあらわすのに対して、個別性を強調するようです…うん、よう分からん(笑 )

我々が社会の中で生活しようと思えば、「社会に適応した態度」が求められます。職業に対しての態度、父としての態度、母としての態度、子としての態度、様々な態度を要求されます。(近年においては、この「態度」の定義が混沌としており、それゆえに適切な態度がとれず、苦しむ場合も多いようです)

このような外部から期待された態度から大きく外れると、いわゆる「不適応」のレッテルを貼られます。現代においては「不適応のレッテルを貼る行為」が害悪のように思われがちですが、必ずしもそうとは言えず、社会における適正を考えるなら、「不適応のレッテルを貼る(あるいは、貼られる)」行為にも意味があります。

(自分の不適当な態度を棚に上げて、それに異を唱える相手を責めていいものでもありません。逃げの口実であってはならないようです)ただ、何が真の「不適応」なのかは、真剣に考える必要はあるでしょう。表層のみでは語れません。また、心理学的な見方をするなら、その「不適応」に見えるものの背後に注目しなければならないようです。

上記のような例は「外界に対する適応」で、周りにも、自身にも、比較的理解しやすいものです。
しかし人間を考える場合、自分自身の「内界における適応」も無視できません。

例えば、世間的に適応した態度をとっている人でも、自身の内界においては、無理をしており、内的に適応しているとは言いがたい場合もあるのです。周りから見て何ら問題のない子が、実は非常に苦しんでおり(あるいは本人にも自覚なく)、ある種の症状を発症する場合も身近にあるのではないでしょうか?(いわゆる「いい子」の苦しみ、内面的な葛藤)

周囲に適応しようとしてあまりに硬い仮面(ペルソナ)を被ってしまい、苦しむ場合もあるし、仮面を被らないことにより、自身も周囲も苦しめる場合もあります。つまり、人間は外的適応を誤って苦しむ場合もあるし、内的適応をおろそかにして苦しむ場合もあるのです。

例えば、a)親の要望に応えようとして、自分の、子供としては当たり前な範囲の「わがまま」や「甘え」、「内的要求」を否定し、押し殺してしまう場合もあります。ここでは、親の要望に応えようとする態度が、外的に適応しようとする態度、そんな中で親にうったえたい、わがままや甘え等が、内的に適用しようとする態度です。

これは必ずしも二者択一ではなく、両方大事にすればいい話です。あまりに親の要望に応えようとする態度が強いと、息苦しく、しんどいし、つまりにわがままな要求ばかりするのも、問題でしょう。

要はバランスです。基本的に、親の要望には応えようと思うが、時にはわがままを言ったりして自分の要求も通す…そんな例外を作ればいいように思います。このように、「基本的な態度」と「例外」、両方を大事にすればいいと思います。(とはいえ、実際には、そう簡単に収まるものでもないですし、これらの問題と同時に、「影」や「コンプレックス」をも問題とせねばならない場合もあるでしょう)

b)周囲の雰囲気を気にするあまり、自分の気持ちや感情を、知らず知らずのうちに、押し殺しているような場合もあるかもしれません。このような場合も、あまりに周囲の雰囲気ばかり大事にしようとすると、息苦しく、しんどいし、自分の気持ちや感情ばかり主張していても、周りの雰囲気を壊してしまい、うまくいきません。

ここでもバランスを考え、例えば、基本的に周囲の雰囲気は大事にするが、自分の気持ちや感情も大事にするし、時には、周囲の雰囲気を壊してでも、大事な意見や主張はする…そういう例外を作ってもいいように思います。

何も世の中を、二者択一的に考える必要はありません。(とはいえ、こういう事は、そうそう一般論的に語れるものではなく、落としどころというものは、結局、自分で見つけるしかないようです。自分の落としどころというものは、他人のものの代替がきかず、自分で創造していくしかない部分があります。――まあ、はじめのうち、他人のものを参考にするのはアリだと思いますが)

c)「社会に生きる」ということを考えるなら、「義務」というものは避けられないものです。ただ、あまり義務に縛られると苦しいし、逆に義務を蔑ろにすると、うまくいきません。(義務の奴隷になる人もいるし、義務を放棄して、ただの『身勝手な人』になる場合もあります)

基本的に義務は果たす、(基本的態度)しかし、赦されるところでは、羽目も外すし、息も抜く、(例外)…それでいいと思います。また、こういう風に考えていくと、自分も、周囲も、赦せる(ゆるせる)ようになるのではないでしょうか。

ユングはこれらを踏まえ、
①外界に対する適切な根本態度を『ペルソナ』
②内界に対する適切な根本態度を『アニマ』『アニムス』
と定義しました。

ここで、男と女について考えます。初めに言っておきますが、ここで述べるのは一般的な男性像、女性像で、それで縛る気はありません。しかしながら、自身の内面との対決を避け、男と女を一緒くたにする一部の人たちを私は大変嫌います。

一般的な男性像、女性像で支配したり、押し付ける気はさらさらありませんが、自身との対決を避けるために、「男女差別」を持ち出すような卑怯な手口は、どうなんでしょうか。個人的に言うのならまだしも、それをあたかも一般論のように持ち出し、教育の場で使うというインチキなやり口には、正直、大きな違和感を感じます。

個人的な(これは気の毒な話ですが…)経験を処理しきれず、それを偏見としてしまい、自分の人生との対決を避けるために、そんな本心や事実から逃れるために、自分の問題を社会に投影し、自分の「偏見」を「一般論」とすり替え、社会を攻撃することで、自分の仮初めの安定を得ようというのは、正直どうかと思うわけです。(もちろん、気の毒な面もあるわけですが)

また、そのような力が大きくなるなら、これはやはり問題でしょう。人間として大事なものが蔑ろ(ないがしろ)にされ、失くされてしまう可能性だってあります。これが個人の選択ならまだいいですが、教育の現場で強制的にされたなら、大いに問題でしょう。

男性も女性も、当たり前に両方素晴らしく尊いものであって、優劣をつける必要もなく、互いに尊重すればいいのだと思います。また、女性の権利、男性の権利を語る前に、「人間の権利」こそ、語られるべきだと思うわけです。

男性の場合、そのペルソナはいわゆる「男らしい態度」であらわされます。一般的には、力強く、論理的な態度を期待されます。しかし内的な態度は、これとは相補的で、弱々しく、非論理的だったりします。実際、外見は男らしいのに、中身は女々しい男性を見かけることもあるはずです。(「女々しい」という表現は、お叱りを受けるかもしれませんが)このように、一般的に望ましいとされる外的態度(ペルソナ)が強いとき、そこから締め出された面が内界で心像として現れます。これが男性の場合の『アニマ』です。

一方、女性の場合、一般的には、やさしく、柔和な態度が望まれます。しかし、この外的態度(ペルソナ)によって締め出された内面が、頑固で、薄っぺらな論理に頼った男性像として現れる場合があります。これが『アニムス』です。

上記には否定的な心像を述べましたが、実際には『アニマ』『アニムス』、ともに成長段階があり、肯定的な面が現れます。ですから、自身の中の異性像をいたずらに否定することもありません。

また、昔話に現れる像を基に考えると、運命に対して立ち向かい、冒険し、宝(あるいは、お姫様)を得るのが男性的傾向、運命を受け入れ、待ち、宝(あるいは理想の王子様)を得るのが女性的傾向、と言えるのかもしれません。但しこれは性別的男性・女性と言うよりは、性別を越えて持っている各人の傾向的な父性・母性でしょうか。(母性的な傾向の強い男性もいるでしょうし、父性的傾向が強い女性もいるでしょう)(また、男性にしろ女性にしろ、時に父性的要素が、時に母性的要素が望まれるでしょう)

外界から要求された態度に支配されて良いとは思いませんが、その責任から逃げるために、異性と同化するのは如何なものでしょう? 内面から逃げれば逃げるほど、魂は対決を要求してきます。逃れられません。(勿論、対決するだけの器がある場合のみです)

男性としての義務を果たしたくないから女性化するとか、女性としての義務を果たしたくないから男性化するとか…そういうのは、どうかと思います。但し、悪戯に、男性としての義務や女性としての義務を押し付ける気もありません。それにもちろん、働くだけが男性の義務でもないし、家事をするだけが女性の義務ではないです。大事なのは、「本質から逃げるために、~をする」ではなく、「真に~したいから、~する」…それが大事だと思います。

ですから、家庭を守りたいから家庭に入る男性は大いに結構だし、働いて自分を表現したい女性が働くのは大いに結構だと思います。(とは言え、逃げることを必ずしも否定するわけでもありません。時には逃げることも大事でしょう。逃げることで守れることもあります。ただ、「逃げるばかりでは駄目」ということです。基本的には自分と向き合い、時には休むし、逃げたりもする…そういう話です)(逃げないと死ぬ――そういう事は、昔話でも、現実問題でもありますから、逃げることもまた大事ですけどね)

この『アニマ』『アニムス』は我々の内的な心像なのですが、外的な行動にも大いに影響を与えます。なぜなら、これらは「人間の意識的な態度に欠けている機能を全部含んでいる」ので、このパワーが強いとき、自我の思いがけない態度として現れることとなり、否定的にも、肯定的にも働くのです。

例を挙げてみましょう…
非常に論理的で公私共に妥協を許さないビジネスマンに、「あら、たまには羽目を外してもいいじゃない」と甘い吐息をかけながら、アニマは囁くかもしれません。あるいは、非常に子煩悩で、家庭を大事にして生きる女性に、「お前の真の仕事は社会にでて力を示すものだ」と耳元で力強く、アニムスは囁くかもしれません。

これらの囁きは、ペルソナにとってはとんでもない事なのですが、その一方で内的に抗しがたい魅力も有しており、この囁きに従うことによって、人生を破滅に追い込むかもしれないし、逆に、想像できないようなヒーロー・ヒロインになる可能性だってあります。あるいは、自分ではヒーロー、ヒロインのつもりでも、実は道化だったり、破壊者だったりする場合もあるでしょう。

このような二面性を持つ以上、どちらが正しいとも言えないのですが、安易な行動が破滅をもたらすことは否定できません。しかし、一方で、自我の力ではどうしようもない魅力やパワーを発揮するのもまた事実で、それが目の前の困難を破壊する力を与えてくれるかもしれません。この創造的な面、破壊的な面、危険な面、両方を認識しておく必要があるでしょう。そして、浅薄にこの力に支配された時、道を誤ることも知っておかねばなりません。

ペルソナが夢の中に現れるとき、「衣服」という形で現れる場合が多いようです。ある人は、社会的に死んでいるとき、「裸の夢」を見たそうです。これが何を意味するかは、容易に想像できるはずです。「裸」とは逆に「鎧」として現れることもあります。あまりに硬い外的な態度が鎧として夢の中で表現されるわけです。また、硬い思考で周囲を傷つける態度が、棘(とげ)や剣として現れるときもあるでしょう。

「裸」→「腰タオル」→「浴衣」…などと、進んでいく場合もあるかもしれません。衣服がペルソナを表すのは、現実世界においても同じです。ある種の職業、例えば、軍人、警官、医者、看護婦などなど…このような職種の人は制服を身にまといます。これは機能上の意味と共にペルソナ的な意味も有すると思います。

その制服をまとうことにより、その責任を負い、要求される外的態度をまとうのです。
しかしながら、制服と中身の個人を同一視するのは危険です。強固な制服で覆ってしまうと、中身の人間性が失われてしまうのです。ここに「硬化したペルソナの悲劇」が訪れてしまいます。

職場から家に帰るとき制服を脱ぐように、職場でのペルソナは、職場に置いておく方がいいかもしれません。職場には職場の、家には家のペルソナがあります。(そして、自分の奥底には、それを越えた本心やこころ、魂があるでしょう)

(その昔、アニメ「ムーミン」で「笑い仮面」というエピソードがありました。物語の詳細は覚えていないのですが、確かスニフが仮面をつけたはいいが外れなくなり、どこかの異世界に旅立たねばならなくなる…そんな話だったと思います。これが子供心に怖かったのを覚えています…またまた蛇足でした…)

ペルソナをうまく使っている人もいます。場面、場面で、外部から要求される態度も変わるのですが、その度ごとにうまく適応します。いろんなペルソナをうまく使いこなし、一見とても幸せそうに見えます。しかし、あまりにペルソナの使い方がうますぎるが故に、アニマ・アニムスとの付き合いが疎かになり、破滅することもあるかもしれません。

逆にペルソナの発達を怠り、外部との摩擦を生む人もいます。このような人がいくら「自分流」を唱えても、外部に対して責任が果たせていないなら、それは自由ではなく、ただの身勝手です。自我が頑なに「お粗末な自由」を唱えようと、現実世界も、自身の内面も、それをゆるさないでしょう。(とはいえ、それが内部から――というのはアニマ・アニムスから――の強い要求である場合もあるわけで、この辺は難しいですね)

ある男性が「男らしい」という強いペルソナに支配されるとき、それは内なる「女らしさ」というアニマにより、平衡が保たれます。女性の場合は「女らしい」という強いペルソナに支配されるとき、内なる「男らしさ」というアニムスにより、平衡が保たれます。しかし、これらが『同一視』として働く場合、破滅が訪れる場合が多いようです。

常に強くあろうとする男性が、浅薄な同情心に流されて失敗することもあるでしょう。愛想のいい奥さんが、テレビ番組や新聞の記事に魅せられて、ご近所さんに大演説をすることもあるはずです。このような場合、あまりの態度の逆転に、周囲はひいてしまいます。また、良い結果は得られないことが多いようです。後で非常に恥ずかしい思いをしたりもします。

このような破滅から避けるためには、自身のペルソナ、アニマ・アニムスをしっかり認識し、それを同一視することなく、自身に取り入れていくことが肝要だと考えます。

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2.アニマ
  上でも述べたように、男性の中の女性的元型を『アニマ』と呼びます。アニマは男性の中の、「無意識下に抑圧したもの」や「劣等なもの」と結びつく場合が多く、多くの場合、劣等機能と結びつくことが多いようです。

例えば、思考型の男性の場合、劣等機能である「感情」と結びついてアニマが現れます。アニマは女性的元型で、女性の姿で現れる場合が多いようですが、必ずしもそうだとはいえず、「ムードある音楽」であるとか、「白鳥の乙女」などの動物の姿で現れる場合もあります。

この「アニマ」は現実世界において投影されることもあります。孤高に社会に対して戦う男性を心から信じることで、百万力以上のものを与えるアニマもあれば、社会の成功者を甘く誘い、破滅への道に至らせるアニマもあります。(この辺は、現実世界でも、物語の中でも、女性像のモチーフとしてよく登場するように思います)

また、いわゆるお堅い人が、娼婦のような女性に溺れることもあるし、好色家の人が、清楚な乙女に心奪われることもあります。このような例を考える場合、容易に「補償作用」を感じ取れるはずです。自分に足りないものを「アニマ」に見出し、それに惹かれるようです。

しかしながら、この「アニマ」に単に溺れるのではなく、自身の欠損を認識し、それを開発しようとする時、人はより統合性の高い人格に成長する可能性を得るのではないでしょうか。逆に、自身の内面との対決を避け、「アニマ」に溺れるのみでは、いい結果は得られないような気がします。

アニマには「発達の過程」があります。しかし、その過程に至る前の段階もあるので、まずそれから見ていきましょう。


【母親の像】
  アニマの前段階として「母親の像」が現れます。これはアニマの母胎となるもので、母親の「あたたかさ」「やさしさ」「柔和さ」「甘さ」「いつまでも子を独占しようという烈しい力」などがあります。

太母(グレートマザー)という元型がありますが、この母なるものが持つ「甘さ」「すべてを呑み込む性質」ゆえに、アニマの段階まで進めない方も多いようです。(その呑み込む力は凄まじいですからね。情の深さと同じくらい、凄まじいです)

太母元型の中には、子を思う「やさしさや愛」の裏に、子を「独占したい」という思いもあり、それに対する子の思いの中にも、やさしさや愛に対する感謝の気持ち、自分を縛り独占しようというものに対する非難や反抗の気持ちがあるため、太母元型と向き合う人は、これらのジレンマに苦しむようです。

この深い愛と、その裏にある否定的な面、両方を有する太母と対決するには、慈しみが深いほど、より断固とした決意が必要なように思います。(それ故に、深い感情を伴なうようです)このようなアニマの前段階に囚われると、同性愛に走ったり、安い色事師になる場合もあるようです。

「色事師」はアニマでは? という人がおられるかもしれませんが、とっかえひっかえ女性を変えながらも、実は内面で母なるものの温もりを求めている人もいるかもしれません。(あるいは多くの女性と関係を持つことで女性を支配していると思いながら、実は太母元型に支配されており、「反動」という名の「逃避」に走っている場合もあるかもしれません)

特に、女性と関係を結ぶことで、女性を「征服した」と勘違いしているような人は、この類なのかもしれません。


【母親代理の像】
 「母親の像」とアニマとの間には、「母親代理の像」が現れます。
これは「いつもやさしい近所のおばさん」や「やさしい親戚のお姉さん」といった像です。この像は、母親の延長上にありながらも、外界にいる女性の魅力へとつながるのを、感じていただけると思います。また実際に、幼少の頃、母親のやさしさから、これら「母親代理」のやさしさに触れ、行動範囲や興味の範囲を外に広げた経験は、誰しもあるのではないでしょうか?

ここでもお分かりいただけるように、あまりに母親の愛が深いと、この段階を通るのを困難なものにしてしまうようです。勿論、「愛がない」なんてのは論外ですが…(ただ、愛を言い逃れの道具にして、人を支配していいものではないでしょう)また、その一方で、子の方が強くなることも望まれます。そして、その強くなることには、時に非情になることも含まれます。(この辺が、更なる感情を生みます。しかし、必要なことでもあります。親子愛が深ければ、尚更かもしれません)

ここで注意が必要なのが、母親自身に、その自覚がないことが多いことです。それもそのはず、「子を独占しよう」と意識的に行動しているような人は少ないでしょう。ただ、実際、親子関係を冷静に見つめたとき、そのような傾向が見てとれることは少なくありません。「早く結婚したらいいのに…」、「早く独立しないかしら…」…そう言いながら、無意識的には、結婚を阻止し、自立の失敗を望んでいるような場合も多々あります。

但し、繰り返し言いますが、これは意識的に望んでいるわけではなく、母なるものとして生まれた者の「宿命」といっていいほどのものなのかもしれません。したがって、単純な犯人探しに終わり、親を責めるばかりでもいけないし、親に遠慮して、何も言えないのもよろしくないでしょう。
感謝すべきところは感謝し、意見を言うべきところでは、たとえ冷たくなろうとも意見し、行動しなければならない時が来るもんです。

このような事は、古い時代では、儀式(イニシエーション)が一役買っていた部分がありますが、儀式が失われた今、それを補うような、内面的・外面的、両方を包含した、象徴体験、元型との対決…そういうものが必要なのかもしれません。

家や母なるものからの自立を簡単に考える人もいるかもしれませんが、なかなかどうして簡単なものではありません。中には、自分では独立しているつもりでも、未だに、家や母なるものの手のひらの上で転がされているような場合もあるでしょう。

カウンセリングや人間の成長を考えるなら、『如何に気づき』、『そこから、どうするか?』…それが大事なように思います。さあ、この段階を通って、アニマの「四つの段階」に入ります。
すなわち、「生物学的な段階」「ロマンチックな段階」「霊的な段階」「叡智の段階」です。
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by sigma8jp | 2008-12-01 20:54 | ユングの「アーキ・タイプ」 | Comments(0)

「影」(シャドー)との戦い

  元型の中で特に有名なものに「影」があります。元型の知識がなくても影の表現を使う人は多いのではないでしょうか?

小説や映画のモチーフとしても、多数存在するでしょう。影とはいわゆる、自分で認めたくないマイナス面、足りない部分、間違った態度、暗黒面、抑圧された願望などを示します。頭で、「~しては駄目」、「~するのは、いけないこと」と思っていること、思い込んでいることも、無意識に追いやられ、「影」になります。

これは社会的に否定されているような事もそうですが、ある地域、あるいは文化、家族の中だけでも、否定されているような事が、「影」として無意識下に抑圧されることもあるようです。ここで注目すべきは、その否定されている事が、必ずしも一般的に否定されている事とは限らず、むしろ、自分が思い込んでしまっている事であったり、誰かに思い込まされてしまっている場合も多いことです。(あるいは、その集団だけが思い込んでいること、だったりします)

例えば、「攻撃的なことはすべて駄目」と厳しく教え込まされた子供は、過剰な攻撃性は勿論のこと、むしろ子供として当然である範囲の攻撃性まで否定し、無意識の領域に抑圧するかもしれませんし、その生き生きとした活発性まで押し殺し、無意識に「影」として抑圧するかもしれません。

(とは言え、まったく容認するのが危険なのは言うまでもありません。礼儀や規範、倫理観を教育するのは大事です。要は、バランスですかね。そして、正しい基本姿勢を持つことと、時には例外をゆるすこと、両方大事です。この辺は、親も子も、両方学ぶことでしょうか)

人は個人なりの価値観を持っています。あるいは持たされています。そして、それにそぐわない存在を無意識の領域に押しやる傾向があるようです。これが自身の価値観によるものならまだいいのですが、周りから持たされた価値観であったなら、少し悲しい気もします。

人であるならば誰だって持つ本能的なものを、考えもなしに否定され、それを持つことがあたかも害悪であるように教育されたら、どうでしょう?

例えば、人が本能的に持つ暴力性を全く否定され、それを少しでも見せようものなら、ヒステリックにその人間性までもが否定されたような言い方をされたら、どうなるのでしょう?

その暴力性を発散させる、マンガや小説、映画、ゲーム、遊びを取り上げられたら、どこで発散させればよいのでしょうか?

そんなものはどこかに捨てよ、とでも言うのでしょうか?無意識の領域に追いやれというのでしょうか?それがどんなに危険な行為であるかの認識がないのでしょうか?

影と向き合うことなく、ただそれを抑圧し続ければ、影は際限なく肥大化します。自我で手に負えなくなった影はとんでもない事態を引き起こします。その責任を個人に負わせる気なのでしょうか?(あるいは、抑圧させた自分の責任は不問にして、単にゲームや映画を槍玉に挙げるでしょうか?)

人であるなら、一般的に「悪」だとされるものを誰もが持っています。またそれを消すことはかないません。全く悪意のない人間は、その時点で、もはや人間ではないような気もします。その人は神様であるか、自分を認識できない人であるか、どちらかかもしれません。

だからといって、悪なる存在を全く容認するものでもないし、ましてやそれに支配されて良いものではありません。安易に犯罪を容認したり、反省もない者を赦すのもおかしいでしょう。(それを助長するような媒体を野放しにすることもありません)

では、どうすればよいか?自身の影と向き合い、対決するしかないと思います。ともかく、自身の影を認識する事が大事です。自分の認めたくないマイナスの傾向、これを知ることです。

最近は、「やさしい人」がいて、この影の認識を阻害するような人もいます。これは一見やさしい事ですが、「人間成長の妨害」につながる事でもあります。例えば(非常にざっくりした言い方を敢えてすれば)、誰かをかばったり、擁護するのは、「反省している相手」「マイナスを認識した相手」に対してです。(あるいは、不当な低評価を受けている人、ありもしない罪を着せられたり、言ってもないことを、あたかも言ったかのように吹聴されたりして、孤立している人…そのような人に対してです)

「反省の無い者」「マイナスを認識してない者」をかばったり、擁護したりするのは時に害悪になります。反省や方向転換のチャンスを奪うことにもつながるでしょう。(特に大きな罪を犯したものについては、尚更です)周囲にも、本人の成長にも、悪影響を及ぼします。

考えてみてください、散々好き勝手をして、何の反省もないまま成長し、いい歳の大人になったら、どうするのでしょうか?そんな人がいつまでも周囲に受け入れられるはずがありません。
周囲に非難されても、それを隠され、認識できず、やがて、過剰に保護してきたものは死に(あるいは去り)、残された、歳だけ大人で中身は子供の人は、どうやって生きるのでしょうか?

身勝手なせいで周囲からも受け入れられず、その理由も分からず、悩み、孤立し、悩み、孤立し、そういう人はどうすればいいのでしょうか?この状況を生み出した人に罪はないのでしょうか?

それが教師であったなら、どうでしょう?
親であったなら、どうでしょう?
影響力のある人だったら、どうでしょう?
マスコミや弁護士だったら、どうでしょう?

…この辺は、十分考えるべきことだと思います。
話を戻します…

影も万物と同様に、一面的ではありません。つまりマイナス面ばかりではありません。本能的であるがゆえに、人間的であるとも言えます。上っ面だけで影を殺している「聖人君子」にうそ臭さを感じることもあると思います。(ただ、真に自己と対決し、影と戦っている聖人も勿論いると思います)逆に、影とうまく付き合っている人からは、人間的な魅力を感じるのではないでしょうか?
人生の達人というやつです。

また、「決め付け」や「思い込み」を考慮するなら、あるいは、それを刷り込まれたことも考えるなら、「影」として抑圧しているようなものも、実は、「意外といいもの」であったり、「そうそう悪い事でもないもの」であったり…そういう場合も多いです。

例えば、子供として当然とも思える「甘えること」や「駄々をこねること」…それを「わがままは、いけないから…」と否定し、無意識に抑圧し、それが成長してから爆発することもあります。そして、よくよく聞いてみると、ある事情から、幼いながらに甘えることを我慢し、自分より幼いのものの世話を焼き、我慢して、我慢して、頑張って、頑張って…そうして、成長してから、ついに我慢できなくなり、「甘えたい気持ち」が爆発することもあります。

また、爆発するまで気づかなかったり、爆発しているのに気づかない場合も多いようです。その「影」を認識することを避けたが為に、身体を壊すことも、病になってしまうこともあります。確かに、事情があるのだから、基本的に、甘えを我慢することも大事でしょう。でも、子供なんだから、時には甘えていいはずです。

そういう気持ち、自分の本心、隠された気持ちを、無意識から受け取り、可能であれば、今からでも甘えたり、その気持ちを伝えることも大事です。

それが無理だとしても、
「ああ、甘えてよかったんだ」、
「それでよかったんだ」、
「そういう気持ちも大事なんだ」…そう気づくこと、答えを出すことも大事でしょう。つまり、心の方向転換が、重要になります。

このような例は、いくつもあります。
「意地悪すること」
「嘘をつくこと」
「恥をさらすこと」
「お金に執着すること」
「権威を追い求めること」 … などなど。

上記は一見、それをしないに越したことはない、と思うようなことですが、見方を変えると、
「意地悪はしない方がいいが、ちょっと位そういう気持ちがあった方が、人間らしい部分がある」「また、それが許される間柄、相手もある」
「嘘はできればつかない方がいい。でも、ちょっとくらい嘘をつくくらいの方が、人間らしい部分もある」、

「また、許せるような嘘も、かわいい嘘もある」、
「それでうまく収まる場合もある」、
「恥はできれば見せたくないものだが、恥くらい誰だってかくものだ」、
「また、恥を見せてもいい間柄の人も多い」、
「恥をかくことで関係が深まる場合もある」、

「お金に執着し過ぎるのは醜いが、執着がないと暮らしていけないし、それも問題だ」、
「適度な執着は、全然問題ない」「それが豊かさにつながることもある」、
「権威だけを追い求めるのは虚しいが、権威から逃げたら得るものは少ないのでは?」、
「適度に追い求めた方が、得るものは大きい」、
「権威『だけ』では虚しいが、権威に付随するいいものがあるかもしれない」

…そういう風に、例外をゆるせたり、意識や価値観の方向転換ができればしめたものです。
抑圧してきた感情は、消化され、新しい見識となるかもしれません。但し、忘れてはならないのが、基本姿勢を捨て去らぬことででしょう。

当たり前ですが、意地悪が推奨されたり、嘘が讃えられたり、恥が当たり前になっていいはずがありません。ただ、現代日本を考えると、過剰な擁護、恥の消失、礼儀の喪失…そういうものが進んでいるようにも感じます。また、それを推奨する、教師や団体があるのは悲しいことです。

また、このような事についてもう少し語るなら、一般に悪とされる感情や思いも、確かにそれを実行するといけないし、罪にもなるが、それを思う分には問題ないし、そういった感情すべてを殺す必要はないという部分もあります。要は、実行しなければいいと思います。実行するにしても、許される範囲で、許されるような場所ですればいいのです。

もう少し具体的に言うなら、暴力的なことも、それを想像する分には罪はないし、それをスポーツなどで、活動性として消化すれば問題ないでしょう。ゲームの中で発散するのも、いいと思います。(ゲームの中のことを、現実にやっちゃダメですけどね)性的なことも、それを想像することは、ある意味健全だし、許される範囲で処理することに罪はないでしょう。(逆に、それを頭ごなしに否定したり、そんなことは考えないような年頃の者に、教育と称して刷り込むのは、大きな間違いだと思います。はっきり言って、ずれています。お馬鹿な話です)

この影は夢の中によく登場するようです。自分が認めたくない存在が夢に現れることは誰しも経験するところではないでしょうか?そして影は夢の中では自分と同性のものとして現れることが多いようです。(兄弟として現れることもあるようです)

一般的な悪ではないにしろ、その個人が否定的に考えているという見方をすれば、以前に述べたタイプ論の対立する態度や機能が影として現れやすい、とも言えます。内向的態度と外向的態度、思考と感情、直観と感覚、その片方のみに重きが置かれるとき、相反する存在が影としてむくむくと活動したりします。

また、このような場合、個人的にはどうにも許されない(認めなくない)存在であっても、世間一般からすれば当たり前であることも非常に興味深いことです。個人の内的世界と、現実という外的世界では真実が違うのです。これを認識することは重要です。内的世界の真実と、外的世界の事実、両方が大事にされるべきであると考えます。

この影なる存在ですが、夢の中だけではなく、現実世界でも姿を現したりします。なんだか知らないがどうにも許せない人、別に嫌いではないけれど、あの行動だけはどうにも許せない、そんな時は自身の影を相手に投影している場合が多々あると思います。勿論すべてが投影であるとは言いませんが…。

しかし、投影している相手でも、意外に好感が持てる面を見出すこともあります。そしてそんな時、心の内になんともいえない変化が生じるのではないでしょうか?「おや?」「へ~」「そうかぁ…」などなど…

この嬉しい驚きが重要です。これが価値観の修正、生き方の受容に深く関わります。

影との対決にも同じことがいえるようです。影なる存在を全く抹殺するというよりは、その中に意外なよい面を見出し、折り合いをつけ、うまく付き合っていけばいいのです。それが統合の始まりでしょう。特に自身の劣等機能においては、とても悪なる存在とはいえないのですから、補助機能の力を借りて、徐々によいお付き合いをすればいいと思います。

ともかく、影から逃げたり、抑圧したりしない事、但し、支配もされぬ事、まずは認識してみる事、
将来的には、うまく付き合っていく事(統合する事)、それが大事でしょうか…

ただ、人間として生きてきた過程で形成した価値観を変更するのは容易な作業ではありません。傍(はた)から見たら何でもないような事も、当人にとっては、生きる信条である場合もあるのです。捨てられない想い、もっと言うと、捨てられない誇りでもあります。

だからこそ、悩むこと、悩みきること、疲弊し、心砕けるような思いをすること、失敗すること、心に染むような想いをすること、痛感すること、…それらにも意味が出てくるように思います。

それがあってこそ、「変わりたいです」と心から言い、「ああ、こうしよう」と強く決心できる部分があります。心から叫び、本心を絞り出せるとも、言えるでしょうか。それ位にならないと、変えられない価値観、信条、生き方もあります。他人から見ればくだらない事でも、そうなのです。何しろ、共に生きた、戦友や兄弟、家族のようなものなのですから…。

この「影」は、人間が成長しようと思うなら、比較的はじめの段階で対決すべき存在です。したがって、理解もそうそう難しくないように思います。また、「自己実現を…」というような人でも、この「影」と対決してないような人、まだ対決途中のような人を見受ける事があります。ただ、そのような人に対して、「そんなことは無理に決まっている」と言うのも、子供じみているでしょう。

出来ないのではなくて、順序が間違っているのであり、初めにすべき仕事を忘れていたり、見ていないだけです。自己実現が不可能なわけでもないし、むしろ、その高尚な志は尊重すべきです。ただ、大事な仕事を忘れていることも、見逃してはなりません。浅薄な指摘も、浅薄な見逃しも、共に避けたいものです。

「影」には、「生きられなかった半面」という面もあります。嫌いなあの人が生きた生き方、本当はしたかったのに、出来なかった生き方、(あるいはそれは、自我が思いもしなかった事かもしれません)憧れたのに、抑圧した生き方…そういう意味合いもあります。今まで述べたことと、意味合いは同じです。

しかし、ここに注意が必要です。抑圧してきた生き方を受け入れるのは大事ですが、それを職業と混同するのも、また危険です。それは職業として活かせるものかもしれない。でも、それは職業とは別に、すべきことかもしれない。この見極めは、大いに重要です。失敗すれば、職も、家族も、信用も、財産も失います。

が、しかし、その一方で、そそれでもしたい」、「何が何でもしたい」…そういうものもあります。あるいは、自分が、「駄目だ」、「できっこない」、「今更、目指しようがない」…そう思っているようなことでも、何らかの方法があるかもしれません。したがって、このような問題は、簡単に薦められないし、簡単に無理だとも言えないです。

大事なことは、信用できる人に相談し、できるだけ多くの意見を聞き、最後に自分が判断し選択することでしょうか。結局、自分の人生は自分で決めるしかないのです。

「どうせ無理」でもいけないし、「全部誰かのせい」でも、ありません。
自分の人生を引き受けることは、カウンセリングでは大事な仕事の一つです。
(誰かが代わってくれることでもありません)

先ほど、影との対決は、比較的人間成長の初期段階ですべき、という風なことを言いましたが、
これは年齢をさすものではありません。自分と向き合ってから、とか、人間的に成長しようと思ってから、とか、人生に決着をつけようと思ってから、とか、カウンセリングを受けるようになってから、…そういう意味です。

また、このような理由で、影に苦しむ人は意外に多く、その種類も、多種多様です。しかし、その体系に傾向や特徴があるのは、今回の講座を読んで感じ取っていただけたのでは? と思っています。ここで感じ取れたような切り口で、見えてくるようなこともあります。まあ、一人でやるのは危険ですから、専門家や、それなりに経験を積んだ人と共にやることをお薦めします。
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by sigma8jp | 2008-12-01 19:44 | ユングの「アーキ・タイプ」 | Comments(0)

元型とカウンセリング

■集合的無意識
  個人的無意識より深い階層にあり、個人の体験とは全く無関係に、人類や世界に共通して遺伝的に誰もが持っているものや、先祖など他者の体験的記憶や遺伝的要素として現れます。
神話の共通性や、象徴的に誰にでも共通した意味を持っている事柄など、これらは普遍的無意識の証明だとされています。

■個人の中に潜むトラウマ的記憶
  個人の無意識の中には【自分が耐え難くて忘れたいもの】や【抑圧されて追いやられたもの】が多くあり、それらが無意識的に現実の人格面や行動面に本来の自己ではない「影」(シャドー)の側面が現れてきます。
それら、自分と原型(内なる自己)との対面・対話を促すためのカウンセリングなどを行うことで、現実の問題となっている要因を把握し、解決に向かうための働きかけを行う必要があります。
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by sigma8jp | 2008-11-10 21:48 | ユングの「アーキ・タイプ」 | Comments(0)

ユングの元型(六種のアーキ・タイプ)

■アニマ(女性的側面)
  男性の無意識の中に潜む永遠の女性・・・・男性の無意識の中の未発達な女性原理で、情緒的な恋愛感情をつかさどるもの。あるいは、無意識の中に潜む憧れやロマン的感情、更にはエロス的な存在として現れます。ある時は、運命の女性として現れ、詩人に霊感をもたらす想像力の根源とされます。

またある時には、破滅のふちに引きずり込む恐るべき妖怪的な女性として現れます。男性にとって、アニマの最初のイメージは母親のような女性ですが、思春期に達し、性的衝動が出てくるころから、娼婦タイプの女性として現れます。次に聖女や賢い女性へと段階的に成長していき、これらのイメージが、さらに現実の女性の上に投げかけられるようになっていきます。


■アニムス(男性的側面)
 女性の無意識の中の未発達な男性原理・・・・男性が持っているような知識や意見を告げるような存在。女性にロゴス的要素(力、言葉、意味、決断力など)をもたらすもの。最初は父親的な存在ですが、やがてはスポーツ選手やパイロットなど男らしい身体的な力を持った男性(時には悪漢や泥棒)として現われます。

やがて神父、牧師、お坊さんのような指導的な立場の人に変わり、ジャーナリストのような知的な男性のイメージとなって現れ、最後に知的で完成された老賢人のイメージへと成長していく。その過程では、現実の男性にアニムスのイメージが投げかけられて発展していきます。女性の夢の中に出てくる男性はすべてアニムスで、一般的に暗いイメージで現れてきます。


■老賢人(オールド・ワイズ・マン)
  男性の理想像で、現実の社会的権威をはるかに超えた仙人のようなイメージです。男性の成長の最終到達点であり、賢者でもあります。
若さ、永遠の生命、力、知性などを持ち合わせた、人間のあらゆる可能性を実現した完成した人間、英知に輝く父なるものの象徴でもあり、また死や破壊のイメージでもあります。夢の中では、老人、仙人、童子、男神、稲妻、雷鳴などとして現れます。


■太母(グレート・マザー)
  母なるもの。あらゆるものを育てる母のイメージ。その本能的な母性愛の強さゆえに、つい欲望の衝動で呑み込んでしまう傾向にあります。
夢の中では、年長の女性、母のような女性、年取った女性、老婆、魔女、口や乳房の大きい女、化け猫、怪獣、ドラゴン、渦巻模様や迷路、大きな花瓶、落とし穴、洞穴、地下の世界などの象徴として現れます。

男性が一人前の大人になるためには、現実の母親から独立するだけでなく、自分自身の中にあるグレート・マザーのイメージからも独立しなければなりません。


■影(シャドウ)
  無意識に抑圧された人類の本能的な部分も当てはまりますが、人はあらゆる可能性を持って生まれてくる訳ですが、性質、遺伝的要因、環境などによって、自分の得意な意識だけを発達させて成長していきます。

しかし、それとは別に未発達で取り残された意識が無意識の中に沈んでいます。つまり、経験豊富な意識に対して、未経験で消化できていない未浸透な意識があり、その未熟で幼稚な人格がシャドウです。
それら、未熟で幼稚なもう一つの人格が時として、人生の局面(ある状況・条件が与えられると)で現れれるとがあります。そうなると、今までの安定していた意識に対して、突如として意識が乱れることから、常に自己を振り回すことになります。

シャドウは夢の中では、見知らぬ人、暗い顔を持った人、性格の合わない友人、感じの悪い人、あるいは、恐ろしい怪獣のような形をとって現れることがあります。人間であれば、同性の人物として出てきます。
※同性の人物や怪獣、猛獣などが夢の中に現れたら、シャドウと考えて、それが意味している自分の未発達面について考えてみることよいでしょう。


■意識の仮面(ペルソナ)
  人が社会で生きていくために、自分の役柄、その場、その時に合わせて様々な仮面を纏う事になります。その仮面を被る事で、父親役、母親役、彼氏・彼女役、社会人役などなど、沢山の仮面を使い分けながら、その場その時の自分の役柄に合わせ、状況に適応した振る舞を演じます。

社会で生きてゆくためには必要不可欠なものですが、これは本音と建前を上手に使い分けるなどという以外に、内的人格を保護する役目もあります。
人が現実の社会に対して見せている顔(タテマエ)。

ペルソナ(仮面)を付けるということは、相手との間にどういう距離を置くかという問題でもあり、ペルソナ(仮面)を被らないでいられるのは、自分一人でいる時だけです。もし社会的にうまくいかない、対人関係がうまくいかない、というのなら、自分がいま付けているペルソナ(仮面)が自分に合っていないということもいえます。
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by sigma8jp | 2008-11-10 21:25 | ユングの「アーキ・タイプ」 | Comments(0)

4つのアニマの形態(発達段階)

1.生物学的なアニマ
  生物学的な外見の魅力や性的な誘惑の力を強く持つ『セックスの対象としてのアニマ』であり、娼婦など誘惑的なイメージとして立ち現れてくる。男性に根源的な生命力や生物的な快楽を与えてくれるアニマであり、『生物としての生殖可能性』や『肉体を媒介する性的快楽』を象徴するものである。

2.ロマンティックなアニマ
  異性を惹き付ける性的要素と美しい容姿を特徴として持つが、単純な性的対象としての異性ではなく、一人の人格として愛着や魅力を感じる恋愛対象としての異性のイメージである。男性に異性に対する献身の喜びと恋愛の陶酔を与えてくれるロマンティックな雰囲気をまとったアニマであり、『人格の相互的尊重』や『ロマンティックな異性との情愛関係』を象徴するものである。

3.精神的(霊的)なアニマ
  娼婦や恋人のような性的要素を帯びておらず、処女性や清浄性といった肉体の交わりを拒絶する神秘的なオーラをまとった精神的な敬意や愛着を感じる異性のイメージである。『彼女に触れて汚してはならない』というような禁欲的な感情を男性に生起させるアニマで、男性に女性に敬意を捧げる優しさや性的要素のないコミュニケーションの楽しみを教えてくれるアニマでもある。
処女性や神聖性を身に纏った清らかな女性のイメージは、男性に処女崇拝的な禁欲的態度を形成させ、『この世界にある清浄や美しさへの確信』を起こさせるものである。

4.叡智のアニマ
  性的欲求を感じるような要素を全て排除した『叡智に満ちた神聖な女性性』を象徴する超越的なアニマであり、この世界の真理や人間の善性を啓蒙する機能を持っている。人間が持てる女性性ではなく、ギリシア神話の処女神アテネやアルテミスなどが持っているような叡智に覆われた神聖な女性性をイメージとして体現したものである。
叡智のアニマは、男性に『真理探究の知性』や『禁欲的倫理の体得』を教え、理想的な男性性と女性性の結合やバランスを示唆してくれるものである。

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  アニマ・アニムスは、無意識に抑圧された元型のイメージや情動が人格化されたものであると考えられますが、意識領域にアニマ(アニムス)が上手く統合されて無意識の補償作用が機能するようになると、アニマは独立した人格性を喪失してしまいます。

日本の心理療法家には、日本の神話や昔話(伝承)に多い異種婚姻譚に典型的に見られるように、『アニマとの別離・アニマからの自立・母性原理の束縛からの解放』が重要なのだとする解釈を取る人もいます。

しかし、いずれにしても、個人の人格の変容や無意識と意識の統合が起きるためには、『偶発的なアニマの心理体験』や『内面的なアニマとのコミュニケーション』が非常に重要なものであることに変わりはありません。

ユングによると、アニマ・アニムスのイメージとの対話や交流は、無意識領域への接近の手段であるだけでなく、無意識と意識の中心にある自己(セルフ)を老賢者(オールド・ワイズマン)や仏教思想のマントラとして直感的に体験する為に必要であるとされています。

即ち、アニマ(アニムス)とは、『元型的な無意識内容による補償作用』を意識領域へともたらすものであり、『創造性と破壊性を併せ持つ両価的(アンビバレント)な生命力』として機能するものなのです。

『元型と象徴の事典』 からの抜粋!
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by sigma8jp | 2008-11-10 21:00 | ユングの「アーキ・タイプ」 | Comments(0)

アニマの片鱗

  ユングは、男性の内的な理想的女性像を『アニマ』と呼び、女性の内的な理想的男性像を『アニムス』と呼びました。アニマとアニムスはラテン語で生命の息吹(風)とか魂(soul)とかいう意味ですが、この無意識から立ち上がってくるアニマとアニムスの元型イメージを夢などを介して体験するときに、エナンティオドロミアが起きやすくなるといいます。

社会環境に適応したり対人関係を維持する為に作り上げる『見せ掛けの自己像』や『表層的な人格』のことを『ペルソナ(仮面)』といいますが、余りに長期的かつ日常的にペルソナ(仮面)を用いて生活していると心理社会的ストレスが蓄積したり、本来の自然な人格を見失ったりしてしまいます。

その結果、アレキシシミア(失感情症)を常態化させたペルソナを被り続けて生活を送っていると、分析心理学の心理療法が目指す『個性化の過程・自己実現』と対極の方向に精神状態が布置(コンステレーション)され、心身症の身体疾患や神経症の精神症状が発現しやすくなります。

現代では、同性愛者やバイセクシャルなどのジェンダー・マイノリティ(セクシャル・マイノリティ)も多くいるので、アニマとアニムスを自分とは反対の性とすることにこだわる必要はないという考え方も出来ます。

ユングは恋愛感情や性的欲動も、アニマ・アニムスの元型イメージの投影(projection)によって説明できると考えます。アニマやアニムスは、『意識的な人生の生き方・対社会的(対他者的)な適応的な態度』を補償して、その人に精神的な安定感や幸福感を与えてくれるだけでなく、進むべき人生の進路や選ぶべき選択肢を暗示的に教えてくれる存在でもあるのです。

夢やイメージとして体験されるアニマやアニムスは、自己の性格特徴や行動パターンとは『正反対の特性』を示すことが多いとされています。それは、エナンティオドロミアの補償を行って、『心全体の相補性・全体性』を取り戻させようとする自己から独立した機能と無意識の目的性を持っているからです。

『影(シャドウ)』の元型は、『意識的態度に対する同性像のアンチテーゼ』として心にバランスのとれた全体性を回復させようとしますが、『アニマ・アニムス』の元型は、『意識的態度に対する異性像のアンチテーゼ』として自己に欠如した要素や特徴を補って心の相補性を実現しようとするのです。

影(シャドウ)をイメージで体験しているときには、不快感や抵抗感、否定感情を感じますが、アニマ・アニムスをイメージで体験しているときには、幸福感や恍惚感、肯定感情を感じやすくなるという特徴があります。

影(シャドウ)にせよ、アニマ・アニムスにせよ、物理的現実ではなく心理的現実に属するものですが、多くの場合、それらの元型のイメージが持つ感情や影響力は現実世界を生きる他者に投影されます。嫌悪感を抱いているそりの合わない人物には『影(シャドウ)』が投影されやすく、異性として理想的な魅力や誘惑的な特徴を持っている人物に『アニマ・アニムス』が投影されやすくなります。

内面の変容や経験としては、社会常識や性別役割分担などによって社会的に要請された『男らしい生き方(行動パターン)・女らしい生き方(行動パターン)』への反発や抵抗として、無意識領域に抑圧され排除された『反対の性の表象(アニマ・アニムス)』が立ち上がってくることになります。

アニマやアニムスは、人間の精神生活や人生過程を無意識的に規定する元型であり、ユングが錬金術の心理学研究から洞察したモチーフである『変容と統合』にも深く関わっています。アニマ・アニムスは、人格構造を『個性化の過程』のベクトルの方向へ変容させようとし、無意識領域の内容と意識領域の内容を自己実現の目的に貢献する形でバランスよく統合させる働きを持っています。

但し、いつも、個性化の過程や自己実現の目的に適った理想的な精神作用(人生の動機付け)をアニマ(アニムス)が及ぼしてくれるわけではなく、ある程度の偶然性と主体性によってアニマの実際の働きや影響力は左右されてきます。

また、ユング心理学(分析心理学)の性格理論であるタイプ論(内向性・外向性と思考・感情・感覚・直感の精神機能を組み合わせて類型化する性格論)にも、無意識の補償作用を当てはめて考えることが出来ます。

精神的なエネルギー(欲求・興味)を外部世界に向ける「外向性の性格類型の人」には「内向性のアニマ・アニムスのイメージ」が表出しやすくなり、精神的なエネルギーな精神内界に向ける「内向性の性格類型の人」には「外向性のアニマ・アニムスのイメージ」が表出しやすくなります。

その人にとって強力で優勢な精神機能についても、それとは正反対の作用をする精神機能を象徴化したアニマが現れてきます。例えば、理路整然と論理的に物事を考え、客観的なデータをもとに判断するような『思考タイプの人』には、その場の好き嫌いの選好や、感情的な意見や判断によって物事を決定する『感情タイプのアニマ』がイメージや夢として生起したりします。

実際に自分の目や耳といった感覚器官で事象を知覚してから行動を起こす『感覚タイプの人』には、突然、心の中に浮かび上がってきたイメージやアイデアに従って行動を起こす『直感タイプのアニマ』が体験されやすくなります。

男性性と女性性が一対となっているシジミーの元型は、人間世界における『結婚の象徴』であり、精神内界での結婚とは、意識領域にアニマ(アニムス)がイメージとして侵入してきて結合し統合することを意味します。

夢や幻想、想像のイメージとして心の内部に湧き上がってくるアニマ(男性の内面の理想的女性像)には、4つの発達段階があるとユングは定義しました。一般に、性的要素が存在せず敬愛や崇拝の対象とさえ見なされる『叡智のアニマ』が最も高次のアニマであり、性的欲求の対象としてセクシャルな形態的な美が強調される『生物学的なアニマ』が最も低次のアニマであるとされますが、以下の4つのアニマには発達上の前後関係や優劣関係はないとする考え方もあります。
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by sigma8jp | 2008-11-10 20:56 | ユングの「アーキ・タイプ」 | Comments(0)