カテゴリ:ユングの「共時性」( 2 )

ユングの元型と共時性

「魔術」という言葉は、ユングの「シンクロニシティ(共時性)」という言葉の同義語であると私は確信する。シンクロニシティと魔術の関連性についてはユングも認めるところで、著書にも記されている。したがって、私はこの主張については自信がある。

ユングは『易経』(英題 "I-Ching(イーチン)" - ヴィルヘルム/バインズ訳)の序文を書いているが、そのなかで「この中国の神託(一部では魔術とみなされている「易経」)を首尾よく受け取れば、「シンクロニシティ(共時性)」原理を体験できる」

*ユング Carl Gustav Jung 1875‐1961スイスの精神医学者。 分析心理学の創始者。

ユングは、シンクロニシティ(共時性)を、外的事象と、夢や空想あるいは思考などの内的事象の「意味のある偶然の一致」であると定義している。これらの事象が同時に起こると、偶然にしてはあまりにも意味が深いと我々は感じる。つまり、意味のある偶然の一致は、神聖な力と私たち人間との交信の現れのように写る。

そして、精神と物理的実体とのつながり、あるいは相互作用は、この「意味のある偶然の一致」によって裏付けられると説いたのである。ユングは、著書『思い出・夢・思想』 (原題:"Memories, Dreams, Reflections") のなかで、彼が実際に体験したシンクロニシティについて書いている。

のちに現実となった不思議な夢が冒頭に描かれている。その夢のなかで、ユングは初めて、自分の心の指導者の「元型」を見た。彼は、フィレモンという名のギリシャ・グノーシス派の老賢者で、くるぶしまでのローブと長い白髭を生やし、色鮮やかなカワセミの翼を持っていたという。
以下は、その夢を見て数日後に起きた出来事である。なお、その間ユング自身は、夢に現れたフィレモン像を描いていた。

"私は夢中でフィレモン像を描いていた。すると、驚いたことに、湖岸に面した自宅の庭で、なんと、死んだカワセミを見つけたのである。私は雷に打たれるほどの衝撃を感じた。チューリッヒでは、生きたカワセミでさえめったにお目にかかれない。
そしてや死んだカワセミなんて今までに一度も見たことがなかったからだ。
死んでからまだそれほど時間が経っていないようであった。
せいぜい死後2、3日くらいだろうか。外傷も全く見当たらなかった。"

ユングにとって、これはまさに魔術としか思えないほど衝撃的な出来事だったと感じ取れる。
ユングにしてみれば、自分の目の前に現れたカワセミは、フィレモンが自分の実在を示すために行ったことのように思えただろう。しかし、ユングは、これらの出来事を、単なる因果律の一つとはとらえず、純粋な創造による非因果的な事象であると主張したのである。

さらに、ユングは、シンクロニシティ(共時性)が生じると、心の指導者などの「元型」が活性化する。しかし、「シンクロニシティを引き起こす原因」=「元型」と考えてはならない。シンクロニシティとは、ただ単に、元型が我々の表面意識に現れたときに生じる「事象」の一つなのだ。先に述べた「魔術」の定義はこの理論によって打ち破られる。

誰しも、魔術は、魔術師が研究した因果律であると定義付けようとする。西洋文化はその典型で、全ての事象を因果律によるものとし、偏見の目で見る傾向にある。しかし、現代人は、もっと深いレベルから物事や実体を見つめるべき段階に来ている。そこは魔術が実在するところであり、魔術が「高次の意識」の探求に関わると私が考える理由はここから来ているのだ。

ここで説明したことの意味を充分理解するには、 ユングの心理学用語、 "archetype" (『アーキタイプ』 - 『元型』)の定義についても明確にしておく必要がある。「アーキタイプ」と言う用語は、もともとギリシャの哲学者プラトンが使った言葉をユングが拝借したものである。

プラトンは、永遠不変な真の存在を追及し、この二つは互換性を持つと考え、五感に頼った現実(実体)の見方を信頼せず、現代の経験科学とは正反対の見解を打ち立てた。そして、感覚の世界は一時的で可変性のものであり、これらの対象物の本質である型(パターン)やイメージこそ永遠不変な真の存在であると説いた。この普遍的な型を持つイメージの形式が『元型』である。

つまり、こういうことだ。飼い猫の寿命というのは、永遠不変のものと比べると非常に短く、あっけないものである。だが、この飼い猫の「型」は、他の動物とは異なる。よって、私たちの視覚でとらえた飼い猫の「型」(外観)というのは、全ての猫に共通する「型」にすぎない。猫は猫を生み、その型や性質は子孫へと受け継がれる。この「型」は永遠不変である。

猫という動物がこの世に存在する限り、猫の「型」、つまり、我々が抱く猫の普遍的概念(イメージ)も存在し続けるのである。これが、プラトンの指す「真の猫」、すなわち、猫の 「元型」である。「真の猫」とは、猫という生物種全体に共通する「傾向」「本質」であり、この「本質」に基づく猫の意思行動を、私たちは猫の「本能(直覚)」と呼ぶ。

人間は、他の動物にもそうだが、人間同士でも、そして自分自身に対してさえ勝手な思い込みをしている。この個々の物理的実体(肉体)と同一化する意識のことを、ユングは "エゴ" (『自我』)と呼んでいる。つまり、意識の表層次元のことだ。人はこの部分を本当の自分だと思い込む。なぜなら、「自我」は、自己欲望を達成するために外の世界を操ることができるからだ。

したがって、全ての意識を管理しているのはこの自我(エゴ)だと思い込む。しかし、実際には、自我(エゴ)は願望を生み出すことはできない。願望は『真の自己』、つまり、純粋で高次な意識によってつくられるもので、「自我」はこれを実現しているだけに過ぎないのだ。

プラトンは、元型の本質と型の基本構造は「数」にあると唱えた。この元型の「型」(形式)が、個々の細胞核中のDNA、つまり、各生物の分子の数値形式を通して各々の生命体に関与しているというこの理論は、現代科学でも立証されている。この発見によって、今後は経験科学の面からも元型的自我は立証されるだろう。

次に、現代の量子物理学的な見地から眺めてみよう。どんな物質になるのかは、原子中の電子と陽子(イオン)の数によって決まるという法則がある。(これも、実体は数によって決まるという一例である。)しかし、これらの素粒子の性質を確定する段階においては、これらの素粒子は、物質的特性あるいやエネルギー特性を有することが可能な無形物の集合体である。

また、この無形物は、存在物の内外を行ったり来たりして物質に変化を生じさせる非因果的な習性も有する。そして、この要素が波動なのか、それとも粒子なのかを我々が特定する段階においては、その実験の性質による予測に依存する結果が出ることもあり得る。これらの事実は唯物論的世界観を揺るがし、「精神(魂)」と「実体」との関連性の実在を立証する。

結局のところ、全ての物質的実体は、宇宙の数値的思想の非実体的な表現体であるという事実が残される。錬金術師はこれを "Anima Mundi" (アニマムンディ -『世界霊魂』)と呼ぶ。加えて、私たちの思考や思想というものは、「地球の意思」の現れなのである。ユングは、無意識の研究の中で、「時を越えて万人に共通し、宗教や神話にも共通する精神原型(性格)は深層意識(無意識)から生まれるものである」と唱え、これを『元型』と呼んだ。

意識の最も深いレベルで、物質の研究に携わる量子物理学者などは、『普遍的無意識』という広大な海に埋もれている『元型』を見落としていたことに気付いたのである。そして、ユングはこれを、もともと錬金術用語である『単一世界』("Unus Mundus" - ウヌス・ムンドゥス)と呼んだ。

易経やタロットなどの神託を行うとき、私たちは記号(シンボル)を使い、これらの無意識の元型を表層意識上に呼び起こす。神的存在とも呼ばれるこの「元型」は、のちに実体化される精神原型が生み出される深層意識が短時間で発現したものである。このため、私たちは理想とする将来を現実のものとすることが可能なのだ。そこで、先に論じた「魔術」の定義について振り返ってみよう。

私たちが魔術を行うとき、精神(魂)の内的世界を操る記号(シンボル)を使うが、これによって、外界、すなわち、物理的世界に変化が生じる。これを首尾よく達成すると、その変化はあたかも奇跡が起こったかのように映る。

つまり、物理的世界における普通の因果律を超える事象であるとか、何らかの神秘的な方法でもって外界に働きかけたかのように映るのだが、私たちは、精神を操る記号(シンボル)を使うことで、元型を活性化させているのであって、実際、多くの呪術儀式において、私たちは神や天使、あるいは悪魔と意図的に接触している。

よって、魔術によって引き起こされる事象は、一つの元型の発現、裏を返せば、シンクロニシティ(共時性)なのである。 先にも述べたが、ユングは、シンクロニシティ(共時性)または魔術は、真の創造の非因果律的事象であると考えている。我々西洋人がこの概念を理解することはほとんど不可能である。

先に私が引用した定義は、要するに、「魔術」とは、科学ではまだ認識されていない力を利用した因果律的事象だということである。したがって、これを「非因果律的」と呼ぶのは、「単なる偶然」だと呼ぶのと大して変わりないが、私たちの立場から言うと、これは記号を用いた象徴的な儀式によって生じるものである。なぜなら、この二つは常に同時発生するからだ。

魔術とは本当に、私たちの自我(エゴ)が生み出した幻想に過ぎないのだろうか?魔術を使って願望の達成を試みるとき、自我(エゴ)によって変化が生じるように思えることもあるだろう。しかし、自我(エゴ)が実現しようとする願望そのものは、「元型」によって生み出されるものである。
おそらく、私たちが行う魔法作用というのも、一つの「元型」の現れであると私は考える。

これは、「ほとんど誰でも日常的に儀式を行っているが、これがシンボリズム(象徴主義)であることを彼らは意識していない。」とユングが述べていることからも十分立証できる。非因果律を分かりやすく説明するために、瞑想を例に挙げてみる。私たちが瞑想をするとき、私たちの思考というものは、どこからともなく現れる。

思考は、「無」から生じるのだ。その思考を次々に展開させて別の思考を生み出すことができるが、心を落ち着けると、その別の思考というのもまた「無」から生じるもので、そこには「原因」は存在しないということが分かる。これは「素粒子は無から発現する」という物理学者の見解と同じである。元型も同様に、深層意識レベルの「無」から生じる。

『単一世界』("Unus Mundus" - ウヌス・ムンドゥス)と呼ばれるこの「次元」こそが、真の創造力であり、精神的実体と物質的実体はここから生じる。変化を生じさせたいのなら、私たちはこの次元に到達しなくてはならない。しかし、単一世界に入ると、自我(エゴ)は分散し、我々の意識は願望を超越してしまう。では、願望がなければ、我々はどうやって願望を表すことが出来ようか?

これが魔術のパラドックス(矛盾)である。魔術は、無意識から元型が生まれると同時に、我々の欲望がまだ消滅していない中間ゾーンで行わないと意味がない。ユングの説には相反するが、私は自分の経験から、 本来持つ「元型」を「自分の理想とする元型」に変化させることが可能であることに気付いた。仮に私が本来の「元型」を、変化を生じさせる力を持った一人の人格として接するとしよう。

私が元型に助けを求めると、この因果関係を通して変化が生じる。ただし、その元型の現れ方は驚くほど非因果的律でもあるのだ。仮に私が「元型」は「単一世界」の現れだと考えると、非因果律的なシンクロニシティ(共時性)が生じる。

ここで再び私の頭をよぎるのが、量子的物理学者の発見である。彼らが、素粒子の定量が固形微粒子であることを証明する実験を行えば、推測通りの結果が得られ、固形微粒子が非物質的(無形)の波動であることを証明する実験を行うと、推測通りの結果が得られる。
いずれの場合も、実体は見る人の期待に応える。見る人の予測は、結果と密接に関わっているのだ。これが魔術である。

脚注* アレイスター・クロウリー著 "Magick in Theory and Practice" (『魔術 - 理論と実践』) p.4.
キャッスル・ブックス出版(ニューヨーク)
脚注** カール・ユング=グスタフ著 "Memories, Dreams, Reflections"
(『思い出・夢・思想』1989年) p.183. ヴィンテージ・ブックス出版(ニューヨーク)
[PR]
by sigma8jp | 2008-12-22 18:17 | ユングの「共時性」 | Comments(0)

共時性(シンクロニシティー)

 ユングによれば、共時性とは、因果関係によらずに物事を結びつける原理であって、それは、意味のある一致(同調 meaningful coicidence)において示される。

例えば、人が考えたり、夢見たり、ある内的な心理状態にあるとき、それが外で起こる出来事と一致するというような状況については、普通どんな合理的な説明もつかない。

例えば、ある女性が彼女の妹の家が燃えているハツキリとした夢を見て、妹が安全かどうか電話でたたき起こしたところ、まさにそのとおり火事になっていて、妹は、電話で目を覚ましたため命拾いしたというような例である。

ある研究者が、高度に技術的にわかりにくい問題にぶつかって情報が得られず、困っている時、あるパーティーに出席した所、たまたま隣の席に座った人が丁度必要な情報を提供してくれたというような場合もある。

またある人のことを考えている時、電話が鳴る。出てみると、丁度その時考えていた相手だった。と言う具合である。こういった例はすべて、共時性を示している。どの揚合でも人はその一致にびっくりするが、どうしてそうなったかはわからない。

そういった出来事は、直観的に何か意味のあることだと感じられ、そこにはそういうことが起こるような見えない未知のつながりがある、と言う可能性が示される。ユングはこの現象を<共時性>と名づけたのである。

『広辞苑』より抜粋!


■共時性を研究者たち
  さて、われわれが追求しようとしているのは、こうした奇妙な偶然の一致が、いったいなぜ、どのようなメカニズムで生じるのか? である。その点について、過去の研究家たちはどのように考えていたのか、まずは振り返っておくことにしよう。

偶然の一致を、まじめな学問的対象として本格的に研究したのは、おそらくパウル・カメラー(1880-1926)が最初であろう。カメラーは、もともと生物学者だったが、形態進化に関する独特の見解を発表したが認められず、不遇のうちにピストル自殺を遂げてしまった。

彼によれば、偶然による突然変異のため淘汰されて生き残るとする正統派の説は間違いであり、環境に適応しようとする個体の努力によって必然的に獲得するのだとした。たとえばキリンの首が長いのは、高い枝の葉を食べようと首を伸ばす努力を続けた結果だという。

そんな彼が、一見すると畑違いに思える「偶然の一致」に関心をもち、それを「暗号」と呼んで研究に挑んだのも、それなりの理由があったのだろう。

カメラーによれば、偶然の一致とは、通常の因果律とは別の因果律が引き起こす法則的な現象で、それを「系列の法則」と呼んでいる。すなわち、ある法則に従い、類似した出来事が連続して再現されること、すなわち系列(シリーズ)となって生じた現象が偶然の一致だというのだ。

その法則には2つあり、ひとつは宇宙の物事を統合させ、関係させる空間的法則であり、もうひとつは、それを同時多発的に発生させる時間的法則である。したがって、文字通りの意味において、この世に「偶然」などはなく、すべてが法則に基づいて現象化された「必然」であるといっている。

  一方、カメラーにやや遅れて偶然の一致の研究に着手し、シンクロニシティと名付けて大きな貢献を果たしたユングも、基本的には同じ考え方をしていた。すなわちこの世には、通常の因果律を越えた「超因果律」ともいうべき法則が存在している。

たとえばそれは、64のパターンからなる中国の「易」のシステムに見ることができる。ユング自身、何の因果律もないはずの、この偶発的な占断法を自ら実践したところ、そこから導き出される高い的中率と深い意味に感銘したと告白している。彼は、われわれの知り得ない未知の因果律が作用した結果、いわば必然的に解答がもたらされるものと考えていたようである。

ただしユングの場合、カメラーと違って、シンクロニシティを客観的な物理現象に限定しなかった。心理学者らしく、主観的な心理作用が大きく関与しているとし、偶然の一致を体験する個人にとって、そこには独自の「意味」が付随していると考えた。

要するに、何らかの目的や有用性があって偶然の一致が生じるというのだ。そのアイデアを支えたのは、ユングが提唱した「集合的無意識」と「元型」であることはいうまでもない。
古今東西の神話を調べ上げ、そこに登場するさまざまな象徴的事物の雛形を発見したユングは、それを「元型」と名付けた。元型は、人類共通の無意識的観念、すなわち「集合的無意識」の中核である。

元型はまず、本能的行動のパターンとして現れる。たとえば誕生、死、結婚、母と子のつながり、英雄的な戦いなどで、これらは神話などで扱われる題材であると同時に、魂の題材でもある。そのためわれわれの人生は、こうした元型をモチーフにした象徴的行動に駆り立てられる傾向があるという。

元型はまた「原初的な心像」でもあり、主に特定の人物として表現される。たとえば権力の象徴としては父親、知恵者として賢者、神聖さとして子供などがあげられる。
ユングはその後、理論物理学において重大な発見をしたウォルフガング・パウリとシンクロニシティの共同研究を進め、その結果、元型は心理的なものであると同時に物理的なものでもあるとして、「プシコイド(心物同一体)」という概念を生み出した。

そして、心が何らかの強い情動(愛や死、闘争など)によって意味づけられるようなとき、無意識の元型が賦活され、それがプシコイドを通して外界の物理世界に現象化するのが、シンクロニシティのメカニズムであると推測したようである。

ユングの説を明確に理解していただくために、具体的なケースを紹介した方がいいだろう。シンクロニシティに関する本には必ずといっていいほど紹介されている、有名なエピソードである。
ユングの患者に、狭い観念にしばられた女性患者がいた。頑固で物質的、現実的な物事以外は認めようとせず、自分の殻に閉じこもり、心の交流ができないため、治療が難航していたという。

そんなある日のこと、彼女は以前に見た夢について語り出した。それは、見知らぬ男性から神聖甲虫(スカラベ)をかたどった高価な宝石を贈られるという内容だった。
この話の最中、窓をコツコツ叩く音が聞こえた。見ると、大きな虫が室内に入ろうとしている。それは何と、この土地では珍しい、スカラベと同じ仲間の甲虫だったのである。

この甲虫は、患者が夢で見たのと同じ黄金色をしており、形もほぼ同じだった。しかも、この種の虫は光に吸い寄せられるのが普通なのに、このとき室内は暗かったのだ。ユングはこういって虫を見せた。

「ここにあなたのスカラベがありますよ」
宝石でこそなかったが、彼女は夢で見たように、男性からスカラベを贈られたわけだ。
この出来事をきっかけとして、偏狭な合理主義に固まっていた患者の心が和らぎはじめ、新たな世界へと心を開くようになり、治療がスムーズにいくようになったという。

 スカラベの話をしているときに、スカラベの同種が登場すること自体がシンクロニシティであるが、実はスカラベは、古代エジプトでは「再生」の象徴であった。女性患者は、心の殻を破って立ち直り、いわば「再生」されたわけだから、まさに窓際にやってきた甲虫は、象徴的なメッセンジャーとして彼女の前に現れた(現象化した)と解釈できるわけだ。ここに、シンクロニシティが意味をもって生じるというユングの見解が読み取れる。

女性患者は、治療が成功したいと強く念じていた。換言すれば、「再生」への強い願望を抱いていた。その思いが元型を賦活させた。彼女の場合、その元型は「スカラベ」であった。そして事実、それは夢に現れた。同時に、元型はプシコイドでもある。そのため、今度はその元型イメージ、つまりスカラベが、外界の現象となって現れたというわけである。

さて、こうしたユングの解釈を土台に、彼の弟子のひとりマリー=ルイゼ・フォン・フランツや、ユング派の心理学者ジーン・シノダ・ボーレンなどが、シンクロニシティについての考察を展開している。特にボーレンの場合、シンクロニシティとは、夢がそうであるように、心の深層に潜む願望やさまざまな気持ちが象徴的に外界に現れたものだという見解を全面に押し出している。

そのため、夢分析と同様の手法でシンクロニシティ現象を解釈すれば、その人の心の状態を分析できるとしている。要するに、シンクロニシティは無意識から発せられたメッセージであり、自分の心の反映だというのだ。

そして、そうした現象を通してわれわれを導く宇宙的な調和原理があると考え、それを「タオ」と呼んでいる。いうまでもなくタオとは、易の根本理念となっている老子の「道」の思想である。
一方、ユングとは違った路線でシンクロニシティに挑んだ人物として、科学ジャーナリストのアーサー・ケストラーがいる。

彼は、J・B・ラインの超能力研究、生物における自己組織化理論、さらには量子力学などを紹介しながら、いわば試行錯誤的に持論を展開している。結論的には、ユングの説く元型が偶然の一致を引き起こすというよりも、人間の心理的意図を越えた、あたかも川の支流が合流するような、非因果的な事象を統合する大きな流れ(これを合流的事象と呼んでいる)が、シンクロニシティのメカニズムではないかと考えていたようだ。この点では、カメラーの見解に近いといえるかもしれない。

あるいはまた、シンクロニシティを直接に論じているのではないが、イギリスの生化学者ルパート・シェルドレイクの「形態形成場」は、視点を変えればシンクロニシティ現象のメカニズムを説明する仮説といえなくもない。

この理論を簡単に説明すると、過去に起きた実績が「形の場」を形成し、それが「形の共鳴」を起こすために、引き続いて類似した現象が引き起こされるのだという。その例としてよく取り上げられるのが、海水でイモを洗って食べるサルが一定数を越えると、遠く離れた島のサルたちも同じ行動に出るという現象である。

要するに、「二度あることは三度ある」といわれるもので、他にも信じられない事故が頻繁に起こる交差点だとか、不運なことが連続して起こるといった出来事も、形態形成場で説明ができるのかもしれない。この考え方は、類似した事象が連続的に発生するという、カメラーの「系列の法則」と同じ考え方に立っているといえよう。

ちなみに、1945年4月に書かれたユングの記録の一部が、この現象の典型例としてあげられるかもしれない。「4月1日、今日は金曜日である(金曜日は魚に関係があるといわれている)。私たちは昼食に魚を食べた。そのときだれかが、“四月の魚”(エイプリルフールでだまされる人の意味)に関する習慣について語った。

午後、私の以前の患者の一人が、それまで何ヵ月も会っていなかったのに、彼女が描いた非常に印象的な魚の絵を数枚見せてくれた。晩には、魚のような怪物が編まれている1枚の刺繍を見せてくれた。私は夜、次のような文句を書き記している自分に気づいた。『人間は全体として、塵から生まれた中途半端な魚である』。

4月2日の朝には、やはり何年も会っていなかった別の患者が、自分の見た夢を報告した。それは、湖の岸に立っていると一匹の大きな魚が出てきて、自分の方にまっすぐ泳いできて、足元に上陸するという内容だった・・・」

ユングは、24時間の間に、魚に関するテーマが6回も出てきたことに注目した。というのも、彼はこの時期、歴史における魚の象徴の研究に取り組んでおり、このことを知っていたのは、彼の他にたった一人だけだったからである。

最後に、最近のシンクロニシティ研究についていえば、多年にわたってこの問題を追いかけてきたシカゴ大学東洋研究所フランク・ジョセフなどがこう説明している。「集中力や情熱のボルテージが上がると、ある種のエネルギー場が生じる。こうしてできあがったエネルギー場に、同じ周波数のエネルギーが集まり、やがて巨大なパワーとなる。

そして、嵐が雷を落とすようにして起こる現象がシンクロニシティなのだ」。また「この世の物質やエネルギー、そしてありとあらゆる種類の活動を関連づける目に見えない意識が、個人レベルで働きかけることがシンクロニシティだ」ともいって、その見えない意識を「偉大なる知性」、「メンタルスフィア」、「スーパー・コンシャスネス(超意識)」であると結論づけている。

結局のところ、ジョセフの見解は、ユングその他、過去の研究者の説をうまくまとめたものといえそうだ。要するに、それを「偉大なる知性」と呼ぼうと、あるいは「メンタルスフィア」と呼ぼうと、あるいは「超意識」、あるいは「タオ」、あるいは「神」と呼ぼうと、何らかの、この世界を司っている法則のようなものがあり、それがシンクロニシティ現象を引き起こす原動力になっているというのだ。それゆえに、その現象は必然的であり、意味があるというのである。

さて、さまざまな研究家の説を振り返ってみたわけだが、当然のことながら、どれも仮説にすぎないわけで、シンクロニシティの正体は依然として不明なのである。あるいは既存の科学の枠内で全容を解明するには、残念ながら限界があるのかもしれない。

しかしだからといって、その究極的な原因を「宇宙法則」だとか「タオ」、「偉大なる知性」といったものですませることには賛成できない。この種の言葉は万能で、説明不能で未知なるものがあっても、妙に納得させられた気になってしまう。だが、どう表現しようと、要するに「神」を持ち出して問題を片付けようとしているわけである。これは科学のレベルを「神学」のレベルにすり替えたにすぎず、実は何もわかったことにはならないのだ。

もちろん、シンクロニシティの究極にあるのは、やはり本当に「神」なのかもしれない。しかしわれわれが求めているのは、あくまでも科学的な解答である。いかに限界があっても、安易に「信仰」を受け入れて満足するよりは、不満足のまま科学的な探求を続けていくべきだと思うのだ。

そこで、あくまでも合理的な道を進んでいくとなると、ひとつの可能性として浮上するのは、シンクロニシティはESPや念力といった超能力(意識的にせよ無意識的にせよ)が引き起こしているのではないか、という解釈である。たとえば、強く心に描いたり、念じたことが現実になるケース、あるいは夢で危険を予知した、先のリンカーンのケースなどは、超能力が作動した結果ではないだろうか。

次にあげるケースから考察を始めてみよう。
 これは、小説家で歴史家のレベッカ・ウエストによる体験である。彼女は、ニュールンベルク裁判の、ある判例を調べるために王立国際関係研究所の図書館にやってきた。ところが、求めている資料がどうしても見つからない。何時間も調べた末、疲れ果てたウエストは、係の人のもとへいって声をあげた。「見つからないんです。手掛かりがありません。それは、こんな感じの本のどれかのはずなんですが・・・」

そういって、そばにあった本棚に手を伸ばし、でたらめに1冊の本を取り上げて広げてみせた。すると、まさにそれが探し求めていた本であり、しかも開いたそのページに必要な資料が書かれてあったのだ。

これと似たケースを、先のA・ケストラーも紹介している。
ある学者が、自分の講義の出版準備を進めていたが、完成を待たずに急死してしまった。父親の意志を継いだ息子は、出版実現のため、6カ月もの間、タイプ原稿を作ったり脚注をつけるなどの努力を続けたが、最後になって大きな難問にぶつかった。

それは、36巻にものぼる膨大な『東洋の聖典』からの引用だった。しかし、どの巻からの引用なのか、まったくわからない。そこで、生前、父が借りていたと思われる3巻だけを図書館から借りてきて、亡き父に向かって「どうか助けて欲しい」と祈った。そして何げなくそのうちの1巻を取り上げて開いてみると、まさにそのページに、捜し求めていた引用箇所が掲載されていたのである。

作家のコリン・ウィルソンなども、似たような経験を通して資料を見つけだすことがあるといい、それを「図書館の天使の導き」と呼んでいる。たとえば、ジャンヌ・ダルクについて執筆しようとしていたとき、なにげなく開いた歴史の本のページに、ジャンヌ・ダルクのことが書かれてあったという。しかもウィルソンは、彼女の処刑について疑問を抱いていたのだが、まさにそのページに、ジャンヌ・ダルクは処刑されなかったという仮説が紹介されていたのだ。

他にも同種のシンクロニシティ現象をあげるならば、連絡を取ろうと思っていた人から電話や手紙がきたり、協力者を求めていたら、そういう人物とばったり出会うといったケースなどがあげられよう。人であれ物であれ、あるいは情報や運命のようなものであれ、求めているものが、偶然とも思える機会を通して入手されるのである。

こうした現象は、ある種の念力が作動した結果だと解釈できるはずである。もちろん、念力そのものが、どのようなメカニズムで発生するのか不明ではあるのだが、少なくても研究者たちは、人間の想念の力が因果的に関与することで引き起こされた「必然の結果」だと考えている。

夢が現実になる(いわゆる正夢の)シンクロニシティも同じであろう。これもまた、予知能力というESPが関与した結果だと説明できる。だとすれば、やはり因果的な必然性があるわけで、文字通りの「偶然」の一致ではないことになる。

ところで、予知は、夢を通してばかりでなく、不吉な予感(いわゆる虫の知らせ)によるものもあれば、中には「創作活動」が予知となったケースもある。その代表的なケースが、有名なタイタニック号の沈没を予見した小説であろう。

映画にもなって記録的ヒットを飛ばしたタイタニック号の沈没事件は、1912年4月14日に起こった。不沈を誇る大型客船タイタニック号が、イギリスのサザンプトン港からニューヨークに向けて北大西洋を処女航海中、氷山に激突して沈没してしまったのである。4万6328トンの巨体に、乗員乗客2208人が乗っていたが、救命ボートが20隻しかなかったため、結局、助かったのは695人、残り1513人の命が奪われてしまった。

だが、この惨事とそっくりな内容の小説を、14年前の1898年に、イギリスの作家モーガン・ロバートソンが『タイタン号の遭難』という題名で発表していたのだ。遭難するのはやはり4月、同じサザンプトン港からアメリカに向かって航海中の「タイタン号」が、氷山にぶつかって沈没、救命ボートの不足によって多数の犠牲者が出るという、実際の事故とそっくりの内容だった。

小説のタイタン号の大きさや救命ボートの数、衝突時の速度なども、実際のタイタニック号と非常に近い設定だったのである。この小説は、今世紀最大の予言小説といわれたが、作者のロバートソンは、その後スランプに陥り、極貧の中でピストル自殺を遂げてしまった。

実は、他にもタイタニック号沈没事件を予知したと思われる小説がある。1892年、W・T・ステッドという記者が、ロンドンの『レヴュー・オブ・レヴューズ』紙に掲載された短編小説である。これも、巨大な定期船が北大西洋で氷山に衝突し、救命ボートの不足によって多数が犠牲になるという内容だった。しかも彼自身、この短編を発表した20年後に、実際のタイタニック号に乗船、帰らぬ人となってしまった。

一方、これは余談であるが、「タイタニアン号事件」という、非常に奇妙な話も伝えられている。
タイタニック号沈没事件からちょうど23年後の1935年4月14日のこと、貨物船「タイタニアン号」に乗船していたウィリアム・リーブスという若い船員が、『不毛』という本を読んでいた。これは、先の『タイタン号の遭難』が収録されている本である。

そのとき、ふと理由もなく危険が迫っている感じがしたので、大声で叫んで船をとめさせた。すると、停止した船のすぐ前に氷山が浮いていたという。そのまま前進を続けたら、沈没していた可能性が濃厚だったのだ。ちなみに、その日、つまりタイタニック号が沈没した4月14日は、リーブスの誕生日でもあった。

さらに、話が前後してしまうが、タイタニック号沈没事件にまつわる、夢予知の体験も報告されている。たとえばJ・ミドルトンという人は、タイタニック号に乗る予定だったが、船首を上に向けて漂う定期船の夢を二度続けてみたので、乗船をキャンセルして助かった。

また、チャールズ・モーガンというカナダの牧師は、夕べに行う説教の話の内容を考えているときに眠ってしまい、沈没するタイタニック号の様子を夢に見た。霧に包まれた船体、甲板で繰り広げられるパニック、絶望の中で最後まで演奏を続ける楽隊、あまりにもリアルな夢だったので、その日の説教で、夢の内容を話したという。

そしてその日の夜遅くに、タイタニック号が沈没したのだ。説教を聞いた信徒たちは、牧師の夢の内容が、実際の沈没の様子とほとんど同じであったことを確認したのである。
ちなみに、『タイタン号の遭難』を書いたのもモーガン・ロバートソンという名前だったわけで、同じモーガンという名の男性が事件を予知していたことになる。他にも、タイタニック号沈没の予知報告は数多く寄せられており、その数は百件にも昇るという。
[PR]
by sigma8jp | 2008-11-10 22:25 | ユングの「共時性」 | Comments(0)