カテゴリ:神智学(神秘学)( 2 )

神智学の母

b0140046_18531980.jpg神智学協会創設者 
ブラヴァツキー 著

「神智学とは」 この質問はたびたび出てきた。 そして誤解がたいへん広くひろがっているので、世界の神智学の解説に専念している雑誌(神智学協会の機関紙『神智学徒誌・セオソフィスト』)が読者達との完全な理解に到らずに出版されたならば、編集者達は怠慢であろう。

しかし、この論文の題にはさらに二つの質問を含んでいる。 神智学協会とは と 神智学徒とはということである。順々に答えよう。

辞書編纂者によれば、セオソフィア(Theosophia)という言葉はセオス(Theos)即ち「神」とソフォス(Sophos)即ち「智慧」の二つのギリシャ語でできている。ヴォーンはずっとすぐれた哲学的な定義をしている。「神智学徒とは神又は神の仕事の理論を伝える者である。その理論の基礎には啓示ではなく、その人自身のインスピレーション(天啓)がある。」

この観点から言うと、大思想家も哲学者も特に新しい宗救、新しい哲学の宗派や学派の創立者はみな必然的に神智学徒である。だから未成熟な思いの最初のほのめきが、人間に自分自身の独特の考え表現する手段を本能的に求めさせて以来、ずっと、神智学と神智学徒は存在して来たのである。

キリスト教の著作家達は折衷(せっちゅう)神智学体系の発達を紀元一三世紀の初期としているが、キリスト教の時代以前に神智学徒はいた。ディオゲネス・ラエルティウス(註。三世紀初期のギリシャの伝記作家)は、プトレミー王朝(紀元前四世紀i一世紀)より以前に神智学があるとして、ポトアムルといい、エジプトの大祭司をその創立者と言っている。 ポト・アムンという名はコプト語で、アムンつまり智慧の神に捧げられた僧侶という意味でる。

しかし、歴史は新プラトン派の創立者、アンモニアス・サッカスによって折衷(せっちゅう)神智字が復興されたことを示している。彼(アンモニアス・サッカス)とその弟子達は「フィラレセイアン」即ち真理の愛好者と自称していた。だが、この派は類推又は照応という規則で、あらゆる神聖な伝説、象徴的神話、秘儀などを説明したので、他の人達は彼等を「類推学者」と呼んだ。

類推の方法に従って外界で起こった出来事は人間魂の働きと経験を表現するものと考えられた。アンモニアスはまず、あらゆる宗派、民族、国家を一つの共通の信仰のもとに調和させることであった。共通の信仰とは、永遠不変の法則で宇宙を支配している唯一、至高、永遠、叡智であり、名のつけられぬ力を信じることである。

彼(アンモニアス・サッカス)の目的はもともと、あらゆる国で本質的に同じであった神智学の原始体系を証明することであり、争いをやめ、一人の母の子供達として希望と思いを一つにするよう、すべての人々にすすめること、また、清浄な哲学的原則に古代の宗救を結びつけ、解説することにより、だんだんと悪化し、ぼんやりとして来た古代宗救から、人間がつけ加えたあらゆるかすを一掃することでもあった。

だから、仏教体系、ヴェーダ体系、マギ即らゾロアスター体系はギリシャのあらゆる哲学と共に折衷(せっちゅう)神智学派で教えられていた。両親と老人に対する適当な尊敬、全人類への同胞愛、ものの言えない哀れな動物に対してさえの慈悲の気持についての、アレキサンドリアの古代神智学の非常に仏教的、インド的な特徴もここから来ている。

アンモニウスの主な目的はそれぞれの国々の法律が要求する義務を果し、唯一絶対の真理の研究と深い瞑想により、精神(マインド)を高めることを強く主張した道徳訓練の体系をうち立てながら、ちょうどたくさんの弦のある楽器から一つの完全な調和したメロデイーをひき出すように、さまざまな宗救の教えから、真理を愛するすべての人のハートに感応するものを引き出すことであった。他の目的を成就するのに、これこそ必要だと彼は信じたのである。

だから神智学は古代の智慧の宗教であり、文明諸国と呼ばれる資格がある古代のすべての国でかつて知られていた秘教である。昔の著作はみな、この「智慧」を神聖な原則の放射であると示している。

それについての明確な理解はインドの仏陀、ハビロニアのネボ、メンフィス(エジプト)のトス(トート)、ギリシャのへルメスのような名で表現されている。また、メティス、ネイサ、アテナ、グノーシス派のソフィア等の女神の名でも象徴されており、「知ること」(ヴィド)という言葉からきた「ヴェダ」に表現される。

東西の古代の哲学者達や古代エジプトの祭司達、アリヤヴァルタ(訳註。アーリヤ人の国即ちインド)の大師匠達、ギリシャのセオディダクトイ(神に救えらた人々)等は、神智学の名称のもとに、神秘的で、本質的な神聖なことについての知識のすべてを広めた。

ヘブライ(ユダヤ)のラビ(僧侶)達のマーカヴァー (註。ギリシァ語で戦車のこと カバラ秘教徒(カバリスト、カバラ主義者)は言う 至高者が十のセフィロトを打ち立てたあと、それらを栄光の戦車または王して用いた。それに乗って人間魂に天降るのである。)は、俗世的、通俗の一連の書である。だから、高級な秘教知識が乗っている車、即ち穀にすぎないと言われた。

ゾロアスターのマギ僧は.バクトリア(訳註・中央アジアの古代国家)のほら穴や秘密のロッジ(支部)で教えを受けて、イニシエーション(秘伝)を授けられていた。エジプトとギリシャの祭司達は秘密の講話を聞き、その間にムス夕(新イニシエート・秘伝を受けた者)はエポプ夕(最後のイニシェーョン・秘伝に通ったイニシエート)即ち透視家となった。

折衷(せっちゅう)神智学の中心的概念は唯一至高の本質、未知、不可知なものであった。プリハダアラニヤ・ウパニシャッドが問いかけるように、「知り手をいかにして知り得のか?」だから未知・不可知なのである。

彼等(アンモニアス・サッカスの折衷神智学派)の体系には三つの特長がある。今、指摘した本質についての理論と本質からの放射なので、同じ特質をもつ人間魂についての救え、それから人間魂の神業(テウルギー、秘術)である。私達の物質科学の時代で、新プラトン派の人達がたいへん誤解されるようになったのはこの最後の科学即ち神業(テウルギー)だったのである。

神業(テウルギー、秘術)は本質的には自然の盲目的な力を従わせるために、人間の神聖な力を適用する技術でゆる。 その実践者は最初、魔術師(マジシャン)と呼ばれ嘲笑されていた。魔術師(マジシャン)とは賢者即ち博学な人という意昧のマグ(magh)という言葉の転化である。

しかし当時の人、が神業(テウルギー)の実践者を嘲笑したのは、十八世紀の懐疑論者達が蓄音機や電信についての考えを噸笑したような大変な見当違いであった。 一つの世代の馬鹿にされた者達やいわば「異教徒達」は、普通は次の世代の賢人や聖者となる。

神聖な本質と魂及び霊の性質に関して、近代神智学は今、古代神智学が信じていたように信じている。アーリヤ諸国民に共通の神ディウは、カルデア人の神秘の神イアオ(Iao)と同一のものであったし、ローマ人の中のあまり学んでおらず、哲学的でもない人達のジュピター(ユピテル)とさえも同一だった。 

また、それはサマリヤ人達のイホヴァ(Iahve)や、上代北欧人の神ティウ又はディウスコや、ブリテン(英国)人達の神デュウや、トラキア人達のゼウスとも、そっくり同じだった。絶対本質、唯一にしてすべてなるものに関して、私達がギリシャのピタゴラス派、カルデアのカバラ派、また、アーリヤ哲学のいずれを受け入れても、すべて同じ結果となるだろう。

暗黒にとじこもり、人間知にとって、それ自体暗黒であるピタゴラス体系の最初モナドが、万物の基礎とされた。そして私達はライプニッツとスピノザの哲学体系の中にそっくりそのままに、その概念を見出すことができる。

アインソフ (註 終りなきもの、無制限、無際限なるもの、非人格的、不可知の絶対的な神格化された本質。文字通りにはnothing即ち他のものと分類出来ぬもの。ヴェーダ哲学のパラブラフマンの同義語) について語るカバラは次のように問う。「では、それは無形で非存在なのだから、それを理解できる者は何か?」

リグ・ヴェーダ(十巻一二九頁)の壮大な讃歌は次のように尋ねる。
「この天地万物は何処より生れ出でしか誰ぞ知るや?
神の意志が創造せしか、又は無言なりしか。
神はそれを知るーーまた、たまたま彼すらも知らずや。」


ウパニシャドはブラフマを「絶対意識」であるため、「生命なく、心のない純粋な」無意識と示し、ヴェダーンタ派はその概念を受け入れる。ネパールの「スヴァーブハーヴィカ」派(訳註。現存する最古の仏救宗派)によると、創造者なく自存するスヴァブハヴァト(実質即ち自然)以外、何も存在しない。

神智学徒は前記の概念のどれを受け入れても、純粋で絶対的な神智学に到るに違いない。同じ神智学はへーゲルやフィヒテやスピノザのような人々に、古代ギリシャ哲学者の労働を引きつがせ、また、唯一の実質を思索させるよう鼓舞した。その唯一の実質は神即ち神聖な智慧から出た神聖なすべてである。

それはどんな古今の宗救哲学にも理解できず、知られず、キリスト教とイスラム教以外は、名もつけられないものである。「啓示ではなく、自分自身のインスピレーション(天啓)を基にする」神についての理論をもつ神智学徒はみな、前記の定義のどれかを受け入れ、または、こうした宗教のどれかに属しても、神智学の厳密な境界線の中にいることかできる。

神智学は、全または万物の源、または理解することも知られることもあり得ない無限者、宇宙だけにあらわされるそれとして神を信じることである。ある人達はそれを彼と呼び、性を与え、神に人間の形を与えて冒涜(ぼうとく)することを好む。

本当に神智学は人格化のような粗野な物質化からは尻ごみをする。永遠の昔から内にとじこもり、意志することも創造することもない神の霊を信ずることを神智学は好む。大中心からいたる所へ出て行く無限の輝きから、目に見えるもの、見えぬもの一切を生み出すものは、その中に生殖と受胎の力を持つ一光線にしかすぎぬことを信じる。 

その光線はギリシア人がマクロコスモス(大宇宙)と言い、カバラ秘教徒(カバリスト、カバラ主義者)がティックン又はアダムカドモン即ち原型の人間といい、アーリア人がプルシャまたは顕現したブラフマ即ち神聖なる男性と言っているものを生む。神智学はまた、アナスタシス即ら連続した存在、そして魂の転生(進化)即ち魂の一連の変化を信じている。

神智学はヴェーダ哲学のパラマートマ(超越的、至高霊)とジヴァアートマ(動物魂又は意識的魂)の区別をするとにより、はじめて厳密な哲学的原則で守られ、説明することができる。神智学を完全に定義するには、そのあらゆる面を考察せねばならぬ。 内面の世界は、浸透できない暗黒ですべて隠されているわけではない。

精神(マインド)を形体の世界から無形の霊の世界に導く神智によって獲得された高級な直観により、人間はあらゆる時代、あらゆる国で、内的即目に見ぬ世界のものを認めることが可能であった。

従ってヒンズー教の修行者の三昧や、新プラトン派の「ダイモニオン・フォティ」即ち霊的悟りや、バラ十字即ち火の哲学者の「星との魂の話し合い」また 神秘家や近代メスメリズム(生体磁気催眠術)師や心霊主義者の恍惚状態等、あらわれ方はさまざまであるが、性質は同じものである。

たいへん間違って人格神との個人的な交わりであると説明されることはたびたびあるが、人間のより神聖な「我(自己)」の探求は、あらゆる神秘家の目的であり、その探求が可能であるという信念は、人類と共に生れたようで民族はそれぞれ、その探求に別の名称を与えている。

だから、ヨギやシロトリヤ(註 自分で研究してヴェーダの祭祀を実践するバラモン)が、ヴィディヤ(知識)と言っているものを、プラトンやプロティノスは「知性(ヌース)の仕事」と「反省、自己知識、知的訓練により、魂は真善美のヴィジョン(視像)つまり神のヴィジョン(視像)の段階まで高まるとができる。これはエポプティアである」とギリシア人は言った。

「宇宙魂に人間の魂を結びつけるためには、完全に清い精神(マインド)が必要である。自己静観、完全な純潔と体の清浄さを通して、我々はそれ(宇宙魂)により近く近づくことができ、その状態で本当の知識とすばらしい洞察力を受けることができる」とポルフィリーは言う。

そしてポルフィリーや他のギリシャ人の著者の本を読んだことはない人なのだが、ヴェーダの学徒であるスワミ・ダヤーナンド・サラスワティはその著書「ヴェーダ・プバシャ」に次のように言う。「ディクシャ(註 最高のイニシエーション・秘伝)とヨグ(註 神と一体になる状態)を獲得するには、規則に従って訓練せねばならぬ。  ・ ・ ・ 人体の中の魂は普遍霊、即ち神を知り、万物の秘められた属性と特質に精通することにより、最も不思議なことを行うことができる。 こうして人間(ディクシタ即ちイニシエート・秘伝既受者)は遠い所を見たり、聞いたりすることができるようになる」 

最後に、アルフレッド・ウォーレスは心霊主義者であり、一般に承認された偉大な自然学者でもあるが、大胆な正直さで次のように言う。 「感じ、認識し、考えること、また、知識を得て、推論し、熱望するのは、『霊』だけであって、・ ・ ・特別な精神的組織をもち、 自分の霊が肉体の感覚器官とは別に認識できたり、全体的にまた部分的にしばらく肉体から去ることができるような人はたびたび、肉体から出る。 ・ ・ ・

霊は物質よりも、霊と接触する方がやさしい」 ジムノソフィスト(註)の時代と我々自身の高く文明化した時代の間には何千年もが介在している。
(註 ジムノソフィスト  ヨガの諸カの現実性はギリシャやローマの多くの著作家達によって肯定された。そうした人達はヨギをインドのジモノソフィストと言っている。ストラポやルカンやプルタークやキケロやプリニ等の著作家達。)

しかし、心理的領域にも、自然の物質的領域にも、輝かしい光を注ぐ文明の啓蒙にもかかわらず、あるいはむろそのために、今日のニ千万人以上の人々が約三千年以前のヨギやピタゴラス派の人達が信じていたのと同じこうした霊的な力を、違った形で信じている。だから、アーリヤ人の神秘家は一たびアートマン即ち「我」、「霊」を通して自分の体とは別に働く能力を得ると、生と死のあらゆる問題を解く力が身についたと主張する。

またギリシァ人達が隠れしもののアトム即ち人間の神聖な魂をセスモフォリアン(訳註。ギリシァのデメテル女神の名)の秘儀の象徴的なな鏡をもって探しに行ったのでる。そのように、今日の心霊主義者達はこの世で愛した人々と目で見て、手に触れることのできるように接触するという霊即ち死んでしまった肉体を持たぬ人々の魂の能力を信じている。

こうしたアーリヤのヨギ達やギリシァの哲学者達や近代心霊主義者達はみな、魂は高級世界と連絡できると断言して、次の思想をその断言の基礎とする。即ち、宇宙の無際限の拡がりの中には何の制限もないから、肉体をもった霊と、決して肉体をとらぬ霊つまり真我とは、普遍霊ともほかの霊達とも空間的には離れることはなく、単にその特性の相違によって区別されるだけであるということ、また、ギリシァ人やアーリヤ人によれば、この違いが抽象的静観によってひとたびとりのぞかれると、閉じこめられた魂が一時的に自由になる。

心霊主義者によれば、その違いが霊媒性質を通して除かれると、肉体を持っている霊と持っていない霊との合一が可能となる。だから、パタンジャリーのヨギ(ヨガ行者)達やその足跡をたどったプロティノス、ポルフィリー、その他の新プラトン派の人々は、その生涯の間に数回、エクスタシー(霊的絶頂)を味わったた時に、神と結びついた、いや、むしろ神と一体になったと主張するのである。

普遍霊と一体になったと主張するのは間違いと思えるのかもしれないが、そのように主張した偉大な哲学者は非常に多いので、その主張は全く空想的だと片づけることはできない。セオディダクトイ(神に救えられた人)の場合には、議論の余地のある唯一の点、つまり極端な神秘主義のこの哲学の唯一の汚点は、全く恍惚を通しての悟りを感覚的体験という範噂の中に含めることである。

同じように、面と向ってイシュワラ(神)を見る能力を得たとヨギ(ヨガ行者)達は主張したが、この主張はカピラ(註 サンキャ哲学の著者、大昔の聖者)の厳しい論理でうまくくつがえされた。ヨギ達の志をついだギリシャ人達や、恍惚となったキリスト救の多くの聖者達の長い列、そして私達の時代に近づいて、自分は「神を見た」と宣言した最後のニ人、即ちヤコブ・ベーメとスェーデンボルグ等をみな感覚で神を知ったのだと、人々は臆測して来た。

しかし、心霊主義者である二、三の偉大な科学者は単なる心霊主義の現象よりも、その哲学にもっと興昧をもっていたならば、この不当な憶測を哲学的、論理的の立場から論駁したばすである。アレキサンドリアの神智学徒達は初心者、イニシエート(秘伝参入者)とマスター即ち大祭司に分られていた。彼等(アレキサンドリアの神智学徒達)の規則はへロドトスによれぱ、インドからその規則を持ち帰ったオルフェウスの古代の秘儀から写されたものであった。

アンモニウスは自分の弟子達に彼の高級な教えをもらさぬよう誓わせた。 ただ、それに価することが完全に証明されて、イニシエーション(秘伝)を受けた者達、即ち秘教的なフポノイアつまり隠れた意昧に従って、他の民族の神々、天使達、悪魔達を理解した者達だけがもらすことが許された。

「神々は存在するが、彼等は大衆つまり無救育の大衆が考えているようなものではない。大衆が礼拝する神々の存在を否定する人は無神論ではない。むしろ神々に大衆の見解を押しつける人は無神論者である。」とエピキュルスは言う。

次にアリストテレスは「神々と名つけられているものは、単に全自然界に遍満する神聖な本質の基本的原理である」と断言している。「神によって教えられた人」アンモニアスの弟子、プロティノスは次のように言う。秘密の霊智(グノーシス)即ち神学の知識には三つの段階がある。即ち、見解、科学、啓明である。

「第一段階の手段は感覚であり、第二は理性、第三は直観である。 理性は第三の直観より地位か低い。直観は知られる対象と知るマインド(精神、知性)とを同視することに基づく絶対知である。神智学はいわば正確な心理学の科学である。

フィンダル(訳註。一八ニ○― 一八九三、イギリスの物理学者)の知識は物理学を勉強する高校生の知識に遥かに優っているように、神智学は育成されない生まれつきの霊媒性質に優る。
神智学は直接的に見る能力を人間に発達させる。シェリングが「個人の心の中の主観と客観の同一性の理解」と呼ぶものである。 だからかくれた意昧フポノイアの影響と知識のもとで、人間は神聖な精神を考え、ありのままにすべてのものを見る。

そして最後にエマーソンの最も優れた表現の一つを使うと「世界魂の受け手」となる。「不完全な我(自己)は自分自身の内なる完全なものを礼賛する」と「オーバー・ソウル(超魂)」について、エマーソンはエッセイで言っている。この心理状即ち魂状態の他に神智学は科学と芸術のあらゆる分野を育成した。 神智学は今、普通メスメリズム(生体磁気催眠術)というものを完全に熟知した。

実践的神業(テウルギー)、即ち「祭祀的魔術」はローマ旧教の聖職者によって、エクソシズムに度々利用されるが、神智学徒はそれを捨ててしまった。他の折衷(せっちゅう)派の人達にまさったイアンブリコスは、はじめて神業(テウルギー、秘術)の教えを神智学につけ加えた。

自然の秘救的で神聖なシンボル(象徴)の本当の意昧を知らないと、人間は自分の魂の力の見込み違いをしやすい。 そして霊的、知的に高級な天の存在、よい霊達(プラトン派のセウルギー師の神々)のかわりに、彼(魔術をおこなう人)は無意識に人類のまわりにひそんでい悪い暗黒の勢力即ち人間の罪と、滅びることのない悪徳の冷酷な創造物を呼び起し、白魔術(セウルギー)か黒魔術(ゴエティア)へと落ちて行く。

だか白魔術も黒鷹術も一般の迷信が魔術という言葉で理解しているものではない。ソロモンの鍵で霊達を呼び出せるという考えは、迷信と無知の骨頂である。行為と精神の清さだけが「神々との交通ができる水準まで、私達を高め、私達の望むゴールを達成させる。 アルケミー(錬金術)は物質科学であると共に、霊的哲学でもあると多くの人々は信じるが、それも神智学派の教えに属していた。

ゾロアスターも仏陀も、オルフェオスもピタゴラスも、孔子もソクラテスもアンモニウス・サッカスも自分の言葉を書きとめたことがないのは注目に価する事実である。その理由は明らかである。神智学はもろ刃の武器であり、無知な者やわがままな者には適さない。 すべの古代の哲学のように、神智学は近代人の間に信奉者がいる。

しかし、ごく最近まで、神智学の弟子の数は少なく、様々な宗派に属していたり、色々の意見を主張した。マッケンジーは自身神智学徒であり、神秘家であって、その自らの貴重な百科辞典の七三一頁の「ニューヨークの神智学協会と神智学」という題目では「全く純理的で宗派をつくらずに、神智学徒達は哲学で静かな影響をおよぼして来た。 そして確かに時が来ると、こうして静かに提起された多くの考えは人間の精神に新しい方向を与えることができる」と述べている。

ある進歩した神秘家や心霊主義者達が、心霊主義者達によってはじめて述べられた心霊主義の学説と説明では、満足せず、そうした学説は真理現象の広い範囲の全域を取あつかうことはとてもできないと知って、今は神智学協会として広く知られている協会をアメリカのニューヨークにつくったのは、19世紀おそく、つまり一八七五年のことであった。そして今、神智学とは何かを説明したので、別の論文で「人類の普遍的同胞団」とも呼ばれている、私達の神智学協会の性格を説明しょう。
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by sigma8jp | 2008-12-22 18:54 | 神智学(神秘学) | Comments(0)

『 神智学の鍵 』 ブラヴァツキー著

生活に対する神智学のかかわりあいを扱った、神智学の思想と哲学の価値のある紹介をしている著作です。『神智学の鍵』は、私達はどういう存在であるかという点と、どのように私達が周囲の世界に関わりあっているかという点に焦点を当てて、質問とそれに対する答えという形式で書かれていす。

ブラヴァツキー夫人は、学識と多数の著作を生み出したことで知られているだけでなく、また霊的洞察と弟子道の短い著作でも知られています。『沈黙の声』は、東洋の古い古典の翻訳で、霊的啓明の道を求める人達へ提示された数々の箴言(金言)への説明と注釈を含んでいます。

『沈黙の声』の霊的智慧と慈悲心は、ブラヴァツキー夫人がこの古代の詩を英語の詩に翻訳する際に本来の詩的表現を保った著述力によって、明確に描かれています。『沈黙の声』は、初版が19世紀の後半に出版されて以来、様々な版と各国の言語で出版されています。『沈黙の声』は、この著作が持つ詩的表現と霊的力のために世界中で愛読されています。『沈黙の声』の文章をここに数行を掲載します。

「汝自身が道となる前には、汝は道に旅立つことはできない。」

「蓮華が朝日を吸収するために自らの花の中心を傾けるように、汝の魂を、人々のすべての苦痛に耳を傾けるようにせよ。」

「苦しんでいる人が、自分の目から苦痛の涙を拭い去るより前に、強い太陽の光がその人の苦痛の涙を乾かしてしまうことがないようにせよ。」

「しかし、その人から苦しみの原因が取り除かれるまでは、その人の涙は流れるままにしておき、決して拭い去ってあげることはするな。」

「自然を助けて自然と共に働け、そうすれば、自然は汝を創造主の一人とみなして敬礼するであろう。」

「精神(マインド)は、反射している間に塵を集めてしまう鏡のようなものである。我々の幻影の塵を吹き飛ばすには、魂の智慧の穏かな微風が必要である。」

「善の法則の輪は、迅速に動き、日夜、収穫の籾を挽く。価値のない籾殻は、黄金の穀粒から分けられて、製粉から除かれる。カルマ(因果応報の法則)の手は、善の法則の輪を導き、その回転はカルマ(因果応報の法則)の心臓を打ち鳴らす。」

「親切の種を蒔き、その実を収穫せよ。慈悲の行為を怠ることは、恐ろしい罪の行為となる。」

「汝は、愛の行為を怠るのか? 愛の行為を怠ると、汝の魂は、解脱を得ることはできないであろう。涅槃に達するためには、人は自覚に達しなければならない。自覚は、愛の行いの結果である。」

「日の当たる場所から出て影の場所へと行き、他の人のために日の当たる場所を作れ。」

「人類に良いことをもたらそうとして生きることが第一段階である。6つの栄光ある美徳*を実践することが第二段階である。」
*六波羅蜜

「教師の数は多いが、大師の魂、即ち宇宙魂は一つである。大師の中に生きよ。大師の光線は汝の中にあり。人々はすべて大師の光線の中に生きている。故に汝は人々の中に生きよ。」

「見よ、くれないの光が東の空を満たす。天界と地上をつなぐ賞賛のしるしである。四重の顕現した諸力から、愛の賛歌が響き出る。燃え上がる火、流れる水、良い香りのする地、突進する風から起こる賞賛の声。自然のすべての声無き声が、千万の諧調となって響き渡る。一人の巡礼者は、対岸から帰還せり。すべての存在に平安あれ。」

ブラヴァツキー夫人は、古代の智慧によって夫人と同時代に生きた人々に霊的覚醒にもたらし、自らの人生を人類への奉仕に捧げました。神智学と呼ばれる神聖なる智慧は、苦しんでいる我々人類の同胞に慈悲心を吹き込み、そして悲惨な状況を軽減するだけでなく、他のすべての存在との基本的統一を知らないという悲惨さの原因を取り除こうとする利他主義を実践する思想を提供しています。
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by sigma8jp | 2008-11-06 01:37 | 神智学(神秘学) | Comments(0)