カテゴリ:シュタイナー「復活祭の季節」( 4 )

秋の「復活→死」 ルドルフ・シュタイナー

▼ 『魂のこよみ』 からの抜粋!
 
しかし今、こう考えてみようと思います。― 私たちが春、若い植物が芽生え、葉をひろげ、花を咲かせ、木々が緑に包まれ、自然全体が生きいきと、活動的になっていくのを私たちが感じるように、私たちが霊的にも同じように感じることが出来たとします。

私たちが真夏の盛りを通過し、再び秋になって、自然が死んでいき、外の物質界が葉を褐色に染め、花を枯らし、保存した果実を乾燥させるのを霊的に生きいきと感じ取ることが出来るように。そして、私たちがこの自然の野辺送りの中で、まさに霊性が花開くのを感じ取るだけでなく、その霊性と共に生きたとします。

更に、霊性が真冬に、クリスマスの季節に、地上ともっとも強い結びつきを持ったとします。そして私たち人間が春の復活祭のときと同じように、秋のおとずれを祝うことが出来たとします。復活祭のときの埋葬と死と復活と同じように、自然の埋葬に際しての魂の復活を祝うことが出来、それによって地上の埋葬、地上の死と対抗できたとします。

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        《 カテドラル 》 カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ

私たちが秋の自然とは逆の 「復活→死」 という経過を感じることが出来たとします。私たちが秋分の日と春分の日との関係と同じような仕方で、春の復活祭に対する秋の祭りを魂を込めて作ることが出来たとします。

そう出来たなら、そのとき私たちは、今日の精神からでも、一つの祭日を用意する力を獲得することが出来たでしょう。
私たちにとって大切なのは、祭りの内実を意識の中で消さないようにすることです。復活に日がなぜ、春分に日のあとの満月に続く日曜日でなければならないのか、私たちは分からなくなっています。

しかし、「私たちは前から、復活祭を祝ってきたが、これからは四月の第一日曜日を復活祭に当てよう」と、安易に言うことは許されません。「人間は宇宙と結びつかなければならない」と、再び感じるようにならなければならないのです。私たちが日の出と日の入りを体験するように、復活祭には「死→復活」を、秋には「復活→死」を、死んでいく自然の中での人間の復活を、体験する必要があるのです。

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       《 復活祭の朝 》 カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ
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by sigma8jp | 2008-11-07 03:42 | シュタイナー「復活祭の季節」 | Comments(0)

春の「死→復活」 ルドルフ・シュタイナー

▼ 『魂のこよみ』 からの抜粋!

  復活祭のことを考えてみてください。復活祭を通してイエス・キリストは、人間の進化のために恩寵を与えました。死の謎が特別強く、人々の心をとらえた時代に、不死なる存在として自らを現し、不死なる人間、死を通して復活を見出した人間という手本を人々に示したのです。そして、このことは古代の伝統からも理解できます。

古代人は生まれる前の生活を理解していました。死を地上において見、復活をイエス・キリストに見ようとしました。しかし、イエス・キリストは復活のあとに、聖霊降臨の秘密をも示しました。イエス・キリストは人々に聖霊を送り、それによって人々は自らの力でキリストを体験できることを示したのです。

そして人々は、この体験を地上の経過とは逆の道を辿るときにのみ持つのです。すなわち、はじめに復活を体験し、その体験された復活のあとで、正しい仕方で肉体の死を遂げることが出来たときにです。つまり、あらかじめ内的に魂を復活させることによってです。

誕生から死までの間に、私たちはゴルゴダの秘蹟と深く結びつきます。
それによって魂は、高次の生き方が出来るようになります。そして、それによって魂は霊的な意味での復活を遂げ、そしてこう実感します。― 「私は復活した者として、地上の死の門を通っていく」と。
人間が自分の不死性を忘れないように、神々が人間のために配慮してくれたのです。そのことが、復活祭での 「死―復活」という順序で人々の前に示されているのです。
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by sigma8jp | 2008-11-07 02:46 | シュタイナー「復活祭の季節」 | Comments(0)

「地上の時間と天上の時間」 ルドルフ・シュタイナー

▼ 『魂のこよみ』 からの抜粋!

  実際、イエスキリストの死が春に生じたことによって、神的本性と人々との出会いが可能となっているのです。祭りの日を地上の基準で決めることはできません。

そのことは、復活祭がよく示しています。クリスマスの祝日は、地上の基準に従っています。なぜなら、その時は地上の魂が、まったく地球に留まっているのですから。

クリスマスの祝日は、特定の日と決められていますが、復活祭の根底には、別の事情がひそんでいます。

復活祭は地上の基準ではなく、天上の基準に従って決められなければなりません。毎年特定の日と決めるのではなく、毎年星の位置に従ってその都度決めなければなりません。

事実、地上で何事かが特定されるとき、たとえ私たちが、どれほどの精密な機械で測定し、特定したとしても、天上から見れば、常に数日の誤差が生じるのです。私たちは地上の時間をできるだけ均等に経過させようとします。

しかし、天上の時間は、それ自身生きていますから、経過が速かったり、遅かったりします。地上の時間は私たち自身が死んだものにし均等に経過させているのですが、天上の時間は生きており、均等には経過しません。

しかし、復活の日を決めるときには、天上の時間に従い、星位に従って決めたいという願いが今でも存在しています。もちろん地上の事情に従えば、キリストの死は決まった日に生じたに違いありません。

その立場に立てば、毎年決まった日に祝おうとするでしょう。しかし、私たちはそうしません。春には地上の時間ではなく、天上の時間に従おうと思います。復活祭の日をそのように決めるのは、深い叡智によるものです。

しかし、近代は違った考え方をします。皆さん、私は二十四年ほど前に、毎年非常によく知られていた天文学者と一緒に過ごしました。私たちは、同じ小さなサークルに属していました。

この天文学者は、復活祭が毎年違った日になるとしたら、地上の全ての会計帳簿が不確かなものになる、と考えました。彼によれば、復活祭は少なくとも、四月の第一日曜日に決めなければならないのです。

いずれにせよ、抽象的な決め方をしようというのです。ご存知の通り、今でも復活祭を抽象的に決めようという運動が存在します。現在の人々が生活上もっとも、頼りにしている会計帳簿の日付を確かなものにしようとしたいのです。

ところが毎年、復活祭は何日かずれます。抽象的に決まった日を選べば、秩序が回復します。これは、霊的なものに従って決めるのを完全にやめようとする意思のあらわれです。

こういう事柄の中に、私たちがどれくらい唯物主義者になっているか、どれくらい霊的なものを追求しようとしているかが、何よりもはっきり示されています。

けれども、古代人が春に向かって地球の魂につき従い、ヨハネの季節に向かって宇宙の彼方へ行こうとするとき、毎年、このことを通して高次のヒエラルキアの霊的本性たちにつき従い、そして更には、すでにこの世を去った死者たちの魂につき従うことを学んだのです。

四季を体験するとは、そういうことだったのです。古代の人々は、四季を体験することによって、死者たちの魂につき従い、死者たちがどうなっていくのかを見守ることを学びました。

そしてこう感じました。”春は人々に最初の花をもたらすだけではなく、使者たちがどうなっていくのかを見守る可能性をも与えるのだ、” と。
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by sigma8jp | 2008-11-07 02:11 | シュタイナー「復活祭の季節」 | Comments(0)

復活祭の決め方

▼ 『魂のこよみ』 からの抜粋!

  クリスマスの季節から、ヨハネの季節までの間に、地球の魂は星々の世界に去っていったのですが、星々へ向かう地球の魂の働きの余韻、とはいえ伝統化した余韻が、復活祭の気分として今も存在しています。

復活祭は、春分の日のあとの満月に続く日曜日と決められています。
つまり、この基準は星に従って決められているのです。なぜなら、古代人にとっての人間の魂は、星々へ向かう地球の魂従い、そして星の叡智によって自分を律しようとしていたのですから。

この春の祭り、復活祭は、何らかの地上の基準に従ってではなく、天上の基準、星の基準に従って定められたのです。
このようにして、毎年春が来ると、古代人のような宇宙認識が持てなくとも、この認識への憧れからでも、人々は悲しみの感情に襲われました。

この感情は、紀元前八世紀から紀元前四世紀までの1万2千年間、文明化された地域の民衆の心情の中に強く生きていました。
人々は春になると、人類の運命、人類の宇宙的な運命に思いを寄せて、悲しみに沈んだのです。なぜなら地球の魂が春に星々の世界へ行くとき、その魂についていこうという憧れがまだ存在していたからです。

肉体に深く結びついた現在の人間の魂は、もはやそのような憧れの感情を持っていません。
古代人のあの星への憧れが、現代人の心におのずと生じることは、もはやなくなりました。しかし、その一方で、キリストの死と復活を祝う復活際がまさに、春の祭りとし祝われているのです。
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by sigma8jp | 2008-11-07 00:56 | シュタイナー「復活祭の季節」 | Comments(0)