カテゴリ:古代叡智(グノーシス主義)( 10 )

「宇宙の孤児性」(2)

【Ⅳ】
 このようにして、ヘレニク時代末期にあって、「宇宙的孤児性(Kosmische Waisenheit)」を痛感し、それを自己の現存在の姿勢としたグノーシス主義者は、普遍ロゴスの晦暝性の彼方に燦然と輝く「光核(ポースピュレーン)」の幻像を、それが幻像(エイコーン Eikoon)であり、「彼らの不完全な理性やロゴス」で把握しようもないものであることを痛切に実感しているが故に、プロティーノスのような「理性的形而上学的体系」を築かなかったのであろうし、またキリスト教のような合理性的秩序超越神神学を、或る意味で偽りとも云える、晦暝のロゴス(理性)の言葉で築こうとしなかったのだろう。

  「オリジナル Arkhikon」のないこの世界にあって、彼らにとっては、光核が、伝統的思想や宗教や、新興救済宗教や秘儀宗教が語るような意味では、存在するはずもないことは自明で、「超越性の超越性」即ち、この当時のあらゆる知のシステムや、救済宗教のヴィジョンの語る処を超越した超越的トポスに、「偽りの光核幻像」の「超越的至高原像」を、詩や文学の形式において、それも、「偽りの世界の支配者 pseudo-arkhontes」の目を欺くため、既存の宗教や思想の形象や概念や言葉を援用して、いわゆる処の「合理性に欠ける」、意味不明な「グノーシス創作創造神話 Gnostische Kunstmythus」を構成したのであろう。

 プロティーノスは、グノーシス主義者たちを、その具象的神話構成や、非合理性の故に批判したとされるが、しかし、グノーシス主義の側から見れば、「偽りの不完全な理性に信を置く」プロティーノスこそが、偽りの世界秩序、偽りの宇宙創造者=デーミウルゴスに幻惑されて、「真智=グノーシス」が見えなくなっている哀れな智者に見えたのだとも云える。

  こうして「宇宙的孤児性」と云う概念をめぐる、試論としての概念措定素描を一応描いたのであるが、書いている私たち自身が、自分たちの空性に呆れるような文章であり、我々の実存をめぐる痛切な意識性において、かつ真の「叡智」への希求において、私たちは真摯であり、切実ではあるのだが、学問的厳格さと云う視点より見れば、私たちの言葉は、意味不明の非合理的妄言とも響くことであろう。

 私たちは、上で、グノーシス主義者たちが、高度な知性の持ち主で、しかし、そのような高度な、彼ら自身の「知性・思考力・ロゴス・論理」などを、不完全な偽りのものと見做していたと記した。これはグノーシス主義文献に、このような記述があるかどうか、疑問であるが、私たちの思索の「論理的展開」よりすれば、このような展望となって来るのである。

  彼らグノーシス主義者たちが築いた「グノーシス神話」のなかにおいては、愚かにして不完全な造物主=デーミウルゴスが登場し、彼は、上天の高次アイオーンやプレーローマ世界の完全性を錯覚して、傲虚の自己満足宇宙を創造する。デーミウルゴスの下には数々のアルコーン(支配者 arkhontes)がいて、人間の霊を、地上の肉に閉じ込めて置くため、日夜活動しているのだが、このアルコーンに、当時のローマ帝国の支配者・高位官僚たちの姿が投影されている可能性を指摘するグノーシス主義研究者がいる。

 確かにそのようにも云えるのだろうと私たちも思惟するのだが、しかし、他方、私たちは、愚かで不完全な思考力・ロゴスしか備えていないにも拘わらず、なおみずからの宇宙を創造して、自分は至高者であると自負するデーミウルゴス=ヤルダバオートの姿のなかに、高度な知性を有していたと想像される、グノーシス主義の指導者たち、教師たち自身の「自己像 Eikoon autee」の投影をまた感じるのである。

  ヤルダバオートとグノーシスの教師たちが本質的に、或いは現象的に異なる点は、根本的には、ヤルダバオートが、「知識=グノーシス」に耳を傾けなかった、乃至、それを理解するために必要とされる知性の姿勢、就中、謙虚さに欠けていたと云うことであり、他方、彼らグノーシスの教師たちは、或る意味で虚空の声なる「静寂 Σιγη」の「グノーシス」に耳傾け、みずからも静寂のグノーシスを人々に教説していたと云うことである。

  しかし、決してそのことで「自己を奢ってはならない」、グノーシスの探求者には、謙虚さが要請されるのだと云うことが、また、グノーシスの教師たちの自己自身への戒めでもあったと思える。グノーシス主義の至高超越者、即ち、この文章で使った言葉では、存在の超越的根拠を支持する超越的ロゴスの「光核」の象徴者である「プロパトール=知られざる先在の父」について、かくも、否定神学的規定が行われたと云うことは、グノーシスの教師たちみずからも、自分たちの宣明する「真実 VeritAs」について、暗在的な疑念を抱いていたと云う証左になるのではないかとも我々は思惟するのである。


 「宇宙的孤児性」と云う概念乃至現存在の姿勢は、我々の説明が冗長で、捉えようがないが故に、以上のように、何を述べているのか不明な内容となるのかも知れないが、しかし、単なる「疎外」とは異なる、それとは別のより高度な要素が輻輳した「疎外」の特殊形態であると云うのが、以上の大まかな結論である。そして、その「特殊性」とは、「存在が存在する驚異と不条理性」をめぐるヘレニク世界の宇宙観全体を貫く問題意識に、彼らグノーシス主義者が正面から立ち向かい、「超越的光核の幻像性」と云う言葉で表現した痛切な「本来的超越存在トポス=故郷の不在」を彼らが実感していたと云うことである。

  振り返って見れば、一つの文明世界のなかにあって、みずからの生の実存を営みつつ、その文明の現実存在性を基盤より支えている「原超越存在規定」乃至「原存在根拠神話」を、かように明白に否定的に、断固として、かつ詩的に美しく、壮麗に論じ、しかして自己の「超越存在ヴィジョン」に殉じた人々の例と云うのは、歴史上、このヘレニク時代のグノーシス主義者を除いて、皆無乃至、極めて稀なことではなかったかとも思えるのである。彼らは、その意味においても、「人類の歴史空間宇宙」にあって、まさに、「宇宙の孤児 Orphanoi Kosmou」でもあったと云えるのである。

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  宇宙的孤児性(Kosmische Waisenheit): 「孤児性(Waisenheit)」と云うドイツ語は、私たちの造語ですが、ドイツ語でこういう言葉があるかも知れません。少なくとも、私たちが使った辞書には、「孤児」はありましたが、その抽象体形はなかったので、造語しました。なお「宇宙的孤児性」と云う言葉乃至概念は、これとして造語になります。この意味を表現するための散文的な言い回しは存在しますが、一語に表現したものはないと思うので造語です。その意味と云うか概念定義をめぐり、上での文書を記しています。

 なお、ギリシア語での「孤児(orphanos)」、そして「この世の孤児」ならば、これは『新約聖書・福音書』のなかのイエズスの弟子たちへの言葉のなかに出てきます。(追記 : 「orphanos」と云う言葉は、書店店頭で、「新約聖書ギリシア語コンコーダンス」で調べると、『ヨハネ福音書』と、あともう一カ所にしか確か出てきていませんでした。そうすると、『ヨハネ福音書』に出てくる「孤児・みなしご」と云う表現は、グノーシス主義の側に起源がある可能性があります。「聖書コンコーダンス」を目下所有していないので、確認できないのですが、注記として取りあえず追記します。-010514-)。

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 光核(こうかく): これは、本文中に説明がありますが、形而上学的超越普遍ロゴスの措定が、そもそも「不完全な我々の理性」の営みであるが故に、この意味の「超越普遍ロゴス」は擬制であるとする前提において、我々の「不完全な理性」を超越する「理性階梯」での展望として、超越普遍ロゴスの展望を、これまた「仮想・想定」における擬制において構想し、擬制の超越性の上に、更に擬制の超越性を措定した処の「超越普遍ロゴス」の超越的超越論的展望のロゴス構造における、「コア」を指す概念です。

  超越ロゴスを光・光明(phoos)で比喩し、その中核であるので、「光核」と造語しました。「Phoos-pyreen, Φως-πυρην(ポース・ピュレーン)」はギリシア語で、「光-核」と云う意味で、合成語の場合、「photopyreen(ポトピュレーン)」の方が形からすると、より妥当なはずですが、光(ポース)の音を残すため、「ポース・ピュレーン」としました。(「フォース・ピュレーン」と云う読み方も可能ですが、「ph」の気息音を私たちは、「パ」行のカタカナで示します)。

また、「Phoos-kardiaa, Φως-καρδια (ポース・カルディア)」は、「光-心」と云う意味で、これはコアの原語である英語の「core」が、果実の中心の意味と、ラテン語の原義での「心・心臓」の両方の意味を持つので、「心・心臓」の方は、「ポース・カルディア」としました。場合によって使い分けると便利であろうと考えたからです。「光核」は従って、「光心」とも云えます。

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 世界共織的普遍性(katholikon kosmosynyphainikon): この言葉は、そもそも、「共織(きょうしき)」と云う造語から構成された言葉です。「共織」は、「共に織り上げる」と云う言葉を約めて一語にしたものです。理性や感性の超越論的構造から現象が主観として現象するような事態が、超越的世界の「共織構造」と云うことになります。なお、「synyphainoo(シュニュパイノー)」と云う動詞は、ギリシア語で実際に存在し、「共に織り上げる」と云う意味で、これは、言葉は同じようですが、二人または複数の人が一緒に織物を織り上げると云うよりは、複数の絲などで「織り合わせる」と云うような意味ではないかとも思いますが、複数の人が共同作業で「織り上げる」と云う意味を排除していないはずです。

この言葉は、syn + hyphainoo と云う構造で、syn が「共に」にこの場合当たり、hyphainoo(ヒュパイノー)単独では、「織る」とか「計画する・考案する」などの意味があります。興味深いのは、「hy」の部分を外した「phainoo(パイノー)」が、「光を齎す」「出現させる」「説明する」「明らかにする」などの意味があることです。「織る」過程において、織物自体、或いは織物の上の模様などが「出現」しますから、何か関係があるのではないかと思いますが、「hy」と云う語が、何かの接頭辞なのか、何か意味を持つのかが分かりません。

 「共織」において、「光明が齎される」或いは「理性構造が世界に組み込まれる」、このような意味を内含させて、「synyphainein(シュニュパイネイン)=共織」と云う概念が提示されれば興味深いとも思うのですが。(追記: キリスト教『新約聖書・ヨハネ福音書』冒頭の有名な言葉(1:5):「光は暗闇のなかで輝いている(kai to phoos en teei skotiaai phainei)」に出てくる「輝いている」に使われているのが、この phainoo と云う動詞です)。
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by sigma8jp | 2008-11-21 05:09 | 古代叡智(グノーシス主義) | Comments(0)

「宇宙的孤児性」(1)

 現代グノーシス主義或いはグノーシス主義一般を考えるにおいて、私たちは、「宇宙的孤児性」と云う特殊な概念を提言したのであった。いま、この提示概念がいかような意味を持ちえるのか、私たちの拙い思索において考察を試みてみよう。


【Ⅰ】
  私たちは、「宇宙的孤児性」を、いわゆる処の「疎外(Aelination)」或いは「実存疎外(existentielle Entfremdung)」の特殊な形態であると説明した(参照→『現代グノーシス主義原理試論』)。そこにおいて、「宇宙的孤児性(Kosmische Waisenheit)」なる実存の姿勢を、「存在の不条理」に対する鋭敏な感性による現存在把握であると説明した。いま、この説明のより具体的(或いは、より原理根柢的)な意味について考えてみたく思う。

  最初に(en arkheei), 「存在 einai」についての問いと云うものは、哲学の生成の原基に淵源するものであり、哲学はそもそも、存在に対する「驚異 θαυμαζειν」の自覚より誕生したと述べたのは、かのアリストテレースであった。「存在物 ens」が存在することは自明のことであり、それが自然であるとする、自然的態度よりすれば、存在物 on の存在性 einai そのものに驚異を感受する精神のありようと云うのは、反自然的であり、不合理であり、理なき「理性」即ち「不条理の理性」であるともなる。

しかし、「存在の存在に対する驚異」の自覚は、一面で、概念の抽象的織り上げのソピストケートの果てに現れた一種の精神の病理のようにも思えるが、他方、この「驚異する精神の境位」こそが、実は、普遍なるべき「理性」が潜ませていた、秘教的真智、或いは、理性=ロゴスの普遍性の底に暗在する「永遠宇宙」のアポリアであり、課題であり、精神の達成目標、その報いなき試練であったのかも知れないのである。

 このことは、「存在 ens の存在 existentia の驚異の覚知性」が、ロゴスの普遍根柢原理に底通し、ロゴスの永遠本質の「光核」の閃光覚知であったのではないかと云う、妄想的思念を私たちに喚起させるのである。世界や存在物が「ある」ことは、いかにも自然事態であると云える。これに疑問を提示する精神と云うのは、何かの意味で病んでいるのだとも、或いは狂気の様態にあるのだとも一面で理解される。

しかし、現代的な意味の狂気の整序構造性の問題とは別に、「あること esse entis」に「自然」ではなく、むしろ「疑問」と「謎」「不可知性」を感応する精神の様態と云うのは、上に示唆したように、ロゴスの隠された、暗き根柢の「光核」の構造性へと到達し得る、精神の姿勢(ハルトゥング, Haltung)の超越構造性破片である可能性を私たちは構想するのである。

  「存在」と云う概念、あるいは「了解」は、諸生物が生存において、世界を了解乃至相互確認する仕方・様式における、人間と云う特殊存在者における「特権的世界了解」のコア様態であり、この人間・現存在の世界了解・存在了解の本来性構造は、世界に対する「根源的関心」であり、世界存在との「相互織りなし」において、「時間における自己」への根源関心であるとしたのが、ハイデッガーの存在論であったと私たちは考えて見るのである。

 「時間における自己」とは、言い換えれば、時空の共織世界において「みずからを気遣う・意識し・自覚する」「魂psyukhee」であると云うことの確認自覚であり、超越論的認識である。時空の共織世界における自己存在の存在自覚と、「存在の存在性の不条理性」の驚異或いは覚知が、普遍ロゴス的存在の一者たる人間の特権的ありようであり、このような特権的普遍ロゴス的人間存在の存在自覚或いは存在違和了解の現前が、逆に、昼光的自然性において「忘却されていた」ロゴスの真理様態への「超越感性」を鋭敏化させ、現存在の姿勢において、存在の超越的謎の「光核」の暗在的構造への自覚を促進させる、或いは、「資格性」を付与するのだと私たちは考えてみるのである。

  ロゴスの「光核(Phoos-pyreen, Phoos-kardiaa)」とは、人間理性の階位にあっては到達できない「普遍ロゴス Logos pankoinos」の超越的構造性より放射される光明としての「叡智理性」の淵源として仮定される、ロゴスの構造コアである。純粋理性は、ロゴスの光核より放射される光明の光線の一本を手繰っているあいだに、或いは、光線を辿っているあいだに、一本であったはずの光線が、実は多様に分岐しており、更に、「上昇追跡」していたはずであるのに、エッシャーの絵のように、論理の理線が、何時の間にか「降下整序」作業を行っていたことに気づき、そこに、理性の限界を自覚するのだとも云える。

 人間の使用する「概念」と「理性」の論理演繹操作は、純粋な光明のなかに燦然と輝いているように思える他方、「概念」は、透明なガラスが暗闇の前に置かれる時、暗闇をそのまま透かして見せるように、「暗在構造」を私たちに示唆しているのである。論理体系の公理的無矛盾性と完全性が、それら自身として完結しないのは、或る意味で当然であるとも云えるのである。
「概念」や「理性」は、私たちがそう考えている程度には、普遍でも明晰でもないのだと云う真実がここに開示されているのだとも云える。それは比喩的に言えば、「論理」や「理性」は、曇り、或いは、或る「暗さ」を備えているのだと云うことでもある。

  この人間理性或いは論理・概念の「暗さ・晦暝さ(Trübheit)」が、逆にイデアー界の光明を弥増しにするのであるとも云えるであろうし、或いはまた、超越的世界からの光核の光散の放射において、初めて補完される理性やロゴスの普遍性は、「グノーシス(知識・認識),Gnoosis」の光明ではなく、不合理にして不条理な「信仰 Pistis」の普遍性であろうとも云える。アリストテレースは、可視秩序の彼方に超越的不可視秩序を仮定したのであり、それは、ロゴスの超越光核の秘かな暗在的要請であったとも云える。ネオプラトニズムは、ロゴスの超越光核そのものを、「一者 To Hen」の名において、公然と名指したのだとも云え、原始キリスト教の教義もまた、「一者」の超越的光核の光明の余光の放射を人間の存在救済の原理として前提していたのだと云える。

しかし、これらの耳慣れない言葉で私たちが述べて来たことが、すべて「超越的永遠界」、即ち超越ロゴスの暗在の光核に関する人間の側の一方的な「期待」乃至「希望」であったと云うことを強調せねばならないであろう。プラトーンが伝える処では、ソークラテースは、その死の間際に、なお、「言語嫌いは避けよう」と述べていた。「言語」とは、この場合、ロゴスであり、思考の理であり、また純粋概念の「世界共織的普遍性(katholikon kosmosynyphainikon)」のことであった。そしてソークラテースは、死後の人間の生について、否定も肯定もしない「答え」において自死して行った。「死はまた、神々が人間に与える最高の幸福であるかも知れない」。

 ソークラテースは「生成する自然」の「根拠 rhiza, raison」を少なくとも自分は知らないことを「知っていた」。彼は、「智者 sophos」と自称していた人々と議論し、その議論の過程で、智者と自称していた人々が、実は、技術的知識と疑似ロゴスの狡知において智者たりえたことを論証した。とはいえ、その論証過程は、実は、ソークラテース自身が、まさに誰よりも「無知noia」なる者だと云う自覚を導いたのであるが。ロゴスの狡知が人を容易に瞞着できることの発見は、ロゴスの「暗さ」の予感であり、覚知であったとも云える。

  プラトーンは、ロゴスは明るくなければならないと云う要請を恐らく持っていたのであろう。でなければ、師ソークラテースの「死」は無意味となるのではないか。或いは、自己自身の生と死もまた「無意味」に落下するのではないか。しかし、ロゴスは暗さ(amydron)を事実持っていたのであり、世界の根源基盤に安定性を保証しようとする時、プラトーンは、超越的光核の実在ではなく、光核の幻像(エイドーロン, eidoolon)の存在を、それも比喩的に語った。プラトーンは、理性の二元論哲学を論じたが、ロゴス自体の明晰性或いは超越的光明構造の現存については、神話(Myuthos)を語ったのである。

しかし、師のディアレクティケーを継承して慎重であったプラトーンに比し、彼以外の思索者、哲学の学徒たちは、「神話」と称して、超越的ロゴスの真実についての臆断を多く語った。或いは、ストアの禁欲主義は、知においても発揮されたのであり、超越的世界の光散の存在保証について、彼らは語ることを止めることを旨としていたと主張する。だが、超越的ロゴスの普遍性の原拠たる光核の光明放射は、理性の暗闇(amydron)を越えて、「存在 esse」に条理性・実体根拠性を与える原理であったはずなのである。

 その意味では、超越を語ろうとしなかったストアも、また、超越神話を神話だと云って語った……或いは、自然が根拠付与を現在させていると主張したエピクロス派も、共に、普遍的ロゴスの人間的位階ロゴスよりの瑕疵を認めない意味において、超越的光散の被浴を暗黙に前提していたのである。それは、存在世界の存在が、自然的に基盤付けられている、或いは、何かの更新儀式において、世界は存在基盤を維持できるのだと云う態度(世界把握のハルトゥング)と基本的に同じものであったと云える。

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【Ⅱ】
 原始キリスト教が擡頭し始めていた、紀元一世紀のヘレニズム世界の世界把握のモードは、このような状態にあったのだとも云える。原始キリスト教は、ユダヤ教が特異的に主張していた「絶対一神教」原理を、混淆思想の巷であったヘレニク世界において適合させるにおいて、「絶対一神」に「宇宙普遍原理」の位相を与えた。光核の光散の比喩で云うならば、ユダヤ教の絶対神は、ユダヤ教徒・ユダヤ人だけに特権的に超越的光散を付与し、その超越的存在根拠基盤を保証してくれる、「異常な神」であった。

  何が「異常」かと云えば、「神」とはそもそも、光明光散の神話象徴であり、根拠原型であり、縦令世界に夥しい神がいたとしても、これらの神々は、実は、超越的存在世界の超越基盤を前提として、共織し合って、諸部族・諸文化・諸国家のあいだで秩序を構成する「世界の超宗教的ロゴス構造」の結節的要素であり、そのことは昼光的に自明であり真理であったのである。それに対し、ユダヤ教のヤハウェは、「存在世界の超越的基盤」は自分そのものであり、共織的世界の多文化世界のヴィジョンは「誤謬」乃至「僭称」であると主張して憚らなかったのである。

そして、歴史的に明らかなように、そのような「狂気の論理」は、ユダヤ人の社会・文化においてしか、有意味ではなかったのであり、更に『旧約聖書』が伝えている通り、かような「狂気にして異常のヤハウェ」の超越光散の独占妄想を喧伝する預言者たちは、彼ら自身、ユダヤ社会の正統権力よりしても異端であったのである。しかし、イスラエルの超越的な、狂える預言者たちの超越世界論と絶対一神の光散の独占宣言が、歴史上希有なことであったと云うべきであるが、イスラエル共同体・ユダヤ文化において、「正統伝統」と化したことが、ユダヤの異常性であり、また唯一絶対僭称神ヤハウェの異常性でもあった。

 原始キリスト教は、ユダヤ教の、そしてヤハウェの「狂気」を継統しつつ、しかし、イエズスは、「太陽の光はすべての人に分け隔てなく与えられる」と説き、「神の子となるために祈れ」と語った。超越僭称者ヤハウェの超越存在基盤の光散は、ユダヤ人にのみ付与されたものであり、それがヤハウェの、そしてユダヤ教の超越選民的光散原理であった。

しかし、ユダヤ人の肉と心魂を持ちながら、その教養・知性・ロゴスはヘレニズム人であったパウロスにおいて起こった実存的自己定位の精神的旋回運動は、キリストが自己に与えた「盲目の肉体」こそ、非本来的・反選民的現存在様態であるとする「解釈」を齎し、その「光明 phoos」の復活において(すなわち、パウロスの視覚の回復において)、パウロスは、ユダヤ教的僭称超越光散は、ユダヤ人の神「唯一者」ヤハウェの独占物ではなく、復活のキリスト、そして復活の自己の「本来性」、即ちその「ロゴス・知性 nous」へのカリス(恩寵, KHARIS)としてあるものであり、ヤハウェの民たるユダヤ人ではなく、まさに「異邦人 allogenes」にこそ、存在世界の超越的ロゴスの根拠光散の被浴はあると云う了解・啓示的真実開示に覚醒し、このような現存在的真理了解を、「キリストの福音」であると主張し宣明した。

  溶暗と薄明の謎の世界を生きたプラトーンは「神話」を語ったが、その遥かな後継者である、新プラトン主義の智者プロティーノスは、神話ではなく、明晰なる理性の思索において、そして感性的至高体験における超越的ロゴスの自己顕現としてのエクスタシス経験において、純粋なるロゴスの超越的一者が、晦暝の理性の超越的永遠界に純粋形相として、「無」において充満しているとのヴィジョンにあって、超越ロゴスの晦暝のディレンマ或いはアポリアに、疑似理性的構造回答を提示した。

このようにして、ヘレニク時代と云う位相世界は、文明の爛熟期にして黄昏の時代、そして新しい思想や信仰の生成される時代であったが、同時に、存在世界と自己存在の根拠原理を求め、「救済の光線」の超越的光散を喧伝する救済宗教、或いは、古き已に死に瀕した伝統がもたらす根拠光散を信奉する伝統的既存宗教・思想・哲学が同居し、「宇宙の超越的秩序構造基盤原理」について、少なくとも「その存在」を疑う者は、原理的に「いない」はずの時代であり世界であった。

しかし、ヘレニク文明は、その世界の隅々にまで、文明の光明を齎したのであり、そのことは逆に言えば、ギリシア古典の高度な哲学的形而上学的思索を通じて透かし見えていた「超越ロゴス」の晦暝的位相の存在と、存在世界の存在の驚異の実在、それを基盤付ける超越的ロゴスの光核の光散原理と云う存在宇宙の共織的アスペクトの根柢に関わる思索や理論が、広く多数の人に知られていたとも云えるのである。

 パウロスは、超越ロゴスの瑕疵たる晦暝の光核幻像をキリストに措定して、「信仰 pistis」によって、壮麗な超越的存在根拠の神話を構成したのだとも云える。それはパウロスの現存在、実存において、決定的な意味を持ち、光核幻像キリストの伝道が、すなわち生ける神話となったパウロスの実存の実践課題であった。パウロスは自己を神話化し、そしてまさに光散神話そのものとして死んで行ったとも云える。

  原始キリスト教は、狂気の僭称絶対唯一神ヤハウェの異常なる超越的光散原理を導入しつつ、「原人間 Adam」たるイエズスの霊肉を彼らの地上的存在の受影原像とし、存在の超越的根拠の光核光散の被浴を、彼らの原始祭儀において神話化して行った。彼らはやがて、プロティーノスを初めとするヘレニク思想形而上学の精髄を自己の超越ロゴスの光散原理の説明理論として導入することによって、形而上学的「宇宙秩序肯定」神学を構成して行った。

しかし、その根柢にあったのは、普遍光核幻像たるキリストの原霊を、洗礼儀式によって受影分与され、また、麺麭と葡萄酒の聖餐儀式を通じてキリストの原肉と原魂を受影分与される秘儀過程における現存在充足であり、文字通り、彼らはキリストの「霊と肉の子 Ta tekna tou Pneumatos kai tees Sarkos tou Khristou」となって救済の超越保証を得たのである。

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【Ⅲ】
  「存在が存在としてあること(Ens esse ut existentia)」の不条理性や超越ロゴスの晦暝の謎(mysteria)等は、古典ギリシアの強力な秩序宇宙ヴィジョンへの信頼性とロゴスへの確信性から、逆に、その綻びが人間実存の理性にあって自覚されたものであったが、かような超越普遍ロゴスの神話的補完の事実性や、その晦暝の矛盾事態、すなわち「理性・ロゴスの限界」の苛烈な自覚は、ヘレニク文明にあって、高度な知性を持ち、存在の超越根拠について、その理性理論の超越的破綻を目の当たりにした人たちにとっては、まさに「悪夢」に他ならなかったのであるとも云える。

 そのことは、ヘレニク世界のほとんどすべての住民・市民が、古典ギリシアの思索とヘレニク文明自体が生み出した、強力な「秩序宇宙・整合超越ロゴス神話」の無意識的確信の影響の下にあったことを示唆しているのである。

しかし人々は、ヘレニク文明の理性的秩序宇宙ヴィジョンの擬似的根拠存在光散が壮麗かつ明晰であればあるほど、それに逆比例して、いわゆる実存の「疎外意識」を心の内奥において強烈に抱き、離散のユダヤ人と底通するとも云えるほどの「故郷喪失意識」を裡に持っていたのであろう。

いや、大なり小なり、多くの人々が故郷喪失の薄暮の自覚意識にあって、自己の本来的世界、或いは「本来的自己」の希求・探求と云う、苦痛に満ちた実存の様態位相において、その日々を反復的に、懐旧的・郷愁否定感的に生きていたのに相違ないのである(或いは、刹那的生の充足において、快楽主義的・虚無的に、拭い難い黄昏の絶望意識・終末意識において、日々をやり過ごしていたのだとも云える)。

  他方、先に述べた、高度に知的で、かつヘレニク文明の最高の知性が提示した「超越的ロゴスの晦暝性(amydron)と存在の超越的根拠の不在」を現存在的課題として「実感する」人々にとっては、精神的生存の事態は更に過酷なものであったはずである。彼らは、世界も、社会も、自然も、同胞たちも、そして自分自身もまた、超越的なロゴス光核の理性的被浴による存在根拠基盤の充足を得ていないことを痛感していた。

こうして、知性ある人もそうでない人も、また自己と世界の根拠に理性的課題を見いだす人もそうでない人も、すべてを含め、この世に存在する悪しきことごとについて、悲痛の叫びを挙げた哲人皇帝マルクス・アウレーリウスと同様に、人々は、「この世=宇宙 Cosmos」の存在自体に絶望と終焉の兆候を痛感していたのだと云える。

とはいえ、上で語った、高度な知性を持ち、かつ、存在の超越的根拠の不在を実感する人々は、ただに「この世」に絶望するのではなく、「この世 Cosmos」は、「幻像」であると云う認識に恐らく傾いたであろう。質料の「この世」が、永遠世界の幻像=エイドーロンであると云う説明は、古くプラトーンが提唱していた。しかし、プラトーンは、そうも云いつつ、別のことも語っていた。

 「この世は、悲しむべきことごとの起こる世界ではあるが、しかし、生きてあることには、喜びもまた存在し、そもそも《宇宙=この世》を創造した神々の意図を知る術もない我であれば、神々が《善》(agathon)である以上、この世もまた、善なる秩序宇宙である」。このようにプラトーンが対話編のどこかで述べていたと云う確証はない。しかし、アカデメイア派は、古来よりの伝統の神々を敬虔に信仰していた哲学者集団でもあった。始祖プラトーンもまた、信仰していたのであるし、高邁なるプロティーノスも、純然たる信仰心を尚抱いていた。

だが、ヴァレンティノスであったのか、別人であったのか、高度に知的で、かつ詩的・文学的想像力に恵まれていた人物は語ったのではないだろうか。「我々は、この存在世界=宇宙に、超越ロゴス的根拠が存在しないことを知っている。我々の内なる思考力、裡なるロゴスさえ不完全なものではないのか。この世は悪の世でもあるが、しかし、それ以上に悪しきことは、《根拠なき偽りの存在世界》であると云うことではないか。

  我々は、この世=宇宙(kosmos)と同様に、肉体(sarks)において不完全で滅びるべきもので、更に我々の思考力も、ロゴスも理性も、曇っており不完全で、我々の魂そのもの(psyukhee autee)が不完全である。『この世=宇宙は、我々の《本来的故郷》ではない。我々の存在そのものも、《本来的な我々》ではない。

 我々は、《この世の孤児》(Orphanoi en tooide Ksomooi)ではないか』。……聞く処によれば、《聖なる預言者》は、我々は《上天の父の子》(Ta tekna tou Patros en tois Hypsistois)であり、《父》(Pateer)は、《汝ら子を、みなしご(’ορφανοι, orphanoi)にはしない》と約束したと云う。この預言者こそ、我々《宇宙の孤児》に、存在世界の究極の根拠を開示し、我々宇宙の孤児を救済してくれる者であろう……」。

  以上のように述べたことが、「宇宙の孤児であること」即ち「宇宙的孤児性」と云う現存在姿勢のありようであると説明されるであろう。それは、社会的・実存的「疎外」に留まらず、「存在の超越的根拠の不在」と「存在の不条理性」を痛感する精神の抱く「疎外感」であった。
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by sigma8jp | 2008-11-21 05:06 | 古代叡智(グノーシス主義) | Comments(0)

グノーシス主義 「暗闇のなかの光」(結論)

【 暗闇のなかの光 】
 キリスト教『新約聖書・ヨハネ福音書』第一章5節に、「光は暗闇のなかで輝いている。暗闇は光を理解しなかった(και το φως ’εν τηι σκοτιαι φαινει, και ‘η σκοτια ’αυτο ’ου κατελαβεν. - kai to phoos en teei skotiaai phainei, kai hee skotia auto ou katelaben.)」と云う言葉があります。

『ヨハネ福音書』はグノーシス主義の影響の大なる福音書ですが、この短い言葉のなかに、グノーシス主義の反宇宙的二元論も、人間の救済も、本来的人間としての「光の霊の破片」も、すべてが語られていると云っても差し支えありません。

我らの心の奥底の本来なる「光」を信じ、永遠なる「超宇宙的光明」と救いを求めて、叡智を探求して行く実存の実践の過程に、グノーシス主義の「真実の光, Phoos Aleetheiaas」が輝くのでしょう。此の世と云う「暗闇」のなかに。
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by sigma8jp | 2008-11-14 22:32 | 古代叡智(グノーシス主義) | Comments(0)

グノーシス主義 「叡智の開示者」(Ⅴ)

【 叡智の開示者 】
  人間の救済は、こうして「心魂」の救済の意味となります。或いは、霊に伴われた心魂の救済ともなるでしょう。しかし、グノーシス主義における霊魂の「救済の条件」は何かと云う問題に再び戻れば、それは本質的には、霊及び心魂の「浄化」と云うことになるでしょう。

プレーローマと本質を同じくするはずの「霊」に「浄化」が必要になるのは、霊が、ただに霊だけではなく、「霊+心魂+肉」の構造となっているためでしょう。肉から切り離されても、霊には、地上世界の暗黒の影響を払拭するための「浄化」が必要になるのであり、ましてや、「中間世界」に属する不安定な位置の心魂においては、「浄化」は必須とも云えるでしょう。

そして「心魂」の浄化は、その本来性の故郷、即ち、プレーローマの「知識(グノーシス)」の自覚と、霊との神的再結合によって可能となると、或る派では主張します。この場合、心魂を「花嫁」とし、霊を「花婿」として、霊と心魂の「聖婚」によって、心魂の浄化が行われると、神話的比喩で語られます。

(「心魂 Psykhee」は、ギリシア語の女性名詞であり、他方「霊 Pneuma」は、中性名詞です)。こうして、心魂は女性的人格要素であり、霊は中性的・男性的人格要素であり、両者の神秘なる「結合=聖婚」によって、丁度、プレーローマの高次アイオーンたちがそうであるように、人間の霊魂の「両性具有」化が実現され、それを通じて、心魂の浄化が起こり、これによって、霊と心魂は聖化され、プレーローマへと帰還する準備が完了するのだともされています。

かくして、「霊魂の浄化」には何が必要であるのか、と云うことがグノーシス主義の救済論の根本条件になるでしょう。そしてそれは、上述の通り、「秘密の知識=グノーシス」であると云うのが、まさにグノーシス主義の答えであり、また、これが、グノーシス主義が、「グノーシス (叡智・認識・知識,Γνωσις)」の名で呼ばれる所以でしょう。

しかし、人間は、「秘密の知識=叡智」について、「無知(アグノイア Agnoia)」な状態にあるのであり、その理由は、光明の世界の真実が、「光の破片=霊」を存在の裡に秘める人間たちに知られのを怖れた、或いは嫉妬した、造物主=デーミウルゴスが、この知識を人間から隠蔽した為であるとも、或いは、人間の霊が地上に落下した時、その「本来的故郷」についての記憶や知識を、人間自身が忘却してしまった為であるともされます。

これらの「知識=グノーシス」は玄妙な叡智であり、それを正しく認識し覚知できる者は、優れた人間においても稀であり、それ故、至高世界プレーローマにあって、アイオーン・ソピアーの救済を計画している高次アイオーンたち、或いは榮光の「知られざる神=ビュトス」が、「真実の知識=叡智」の開示者を、「救済者 Sooteer」として、人間の存在する地上に派遣し、それによって、グノーシスの教師たち・その信徒たちに、「叡智」を開示し、救済への道を示したと云うのが、グノーシス主義の「グノーシス=叡智」の覚知・自覚・認識による救済論の構造です。

「グノーシス(叡智)」とは究極的に何であるのか、一つは、反宇宙的二元論構造の世界のありようの真実や、またプレーローマ永遠界の存在や、人間の裡なる「光の霊」の存在、デーミウルゴスやアルコーンたちの「悪の策略」の暴露などが「知識」として含まれるのでしょう。しかし、果たして、それだけであるのかと云う疑問もあります。

「知られざる神・認識を越えた榮光のプロパテール」についての「知識」が謎であるように、「真実開示者=救済者」の伝える「知識」そのものに、何かの「資格」を持つ者でなければ分からない「真実の智慧」が秘められている可能性が大いにあると云うべきでしょう。

救済を可能とする「グノーシス=知識・叡智」の開示者は、同時に「救済者」でもあり、それはヘレニク・グノーシス主義、特にキリスト教的グノーシス主義では、イエズス・キリストがそれであるとされます。

しかし、ヘレニク・グノーシス主義の起源問題において、救済者は、最初、女性的原理或いは霊であったとする見解があります。ソピアーは、救済されるべき「人間の運命」の象徴原型でもあり、「救済される者」ですが、実は、ソピアー自身が、人類の救済者であるとも解釈できます(「救済する者」が、実は同時に「救済される者」であると云う逆説的事態が、グノーシス主義にあっては、救済論における原理として前提されています)。

また、救済者は、一般に、プレーローマより派遣される高次アイオーンの超霊と考えるべきでしょう。しかし、無論、マニ教では、まさにマニ自身が「真実開示者」で、また、彼に先行する覚者である仏陀、ゾロアスター、イエズスなどの「人間」が救済者であるとされています。

しかし、マニにしても、「パラクレートス(取りなしの聖霊)」の啓示を受けて、「真実」を覚知し、真実の伝道を始めたのです。このことは、人間イエズスの場合にも同様で、イエズスは、ヨルダン川で、バプティスマのヨハネより洗礼を受けた時、天から訪れる、鳩の形の聖霊(ハギオス・パラクレートス)の言葉を聞き、自分が救済者であることを自覚したのです。
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by sigma8jp | 2008-11-14 22:25 | 古代叡智(グノーシス主義) | Comments(0)

グノーシス主義 「魂の救済」(Ⅳ)

【 魂の救済 】
 ヘレニク・グノーシス主義においても、人間の「運命」は、定まっていると云う教説がある一方、それは宙吊りになっているとも云えるのです。ユダヤ教での救済は、広範囲な「律法の遵守」と、神への帰依、信仰の深さによって決まるとされます。

このことはイスラム教もそうでしょうし、キリスト教の場合、イエズスが「律法」を「成就した」と宣言しているので、律法の遵守とは云いませんが、「キリスト教的律法」と呼べるものが、早くも、紀元二世紀乃至三世紀には形成されており、カトリックでは、「聖座教会=カトリック教会」への従順と服従が、その救済の要件にもなっていると云えます。

しかし、いずれにせよ、ヤハウェの啓示宗教である、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教にあっては、「神への帰依・従順」つまり、言葉を換えて云えば、神への「信仰(ピスティス Pistis)」が、救済の条件になっているとも云えます。

それに対し、グノーシス主義における「救済の要件」は、プレーローマの「知り難い至高神(プロパテール=プロパトール,ビュトス)」への信仰(ピスティス)の度合いで決まるのではない、と云う点が異なります。

グノーシス主義は、まさに「グノーシス」の主義と云うその名が語る通り、「グノーシス(Gnoosis)=叡智・認識・知識」を人(の魂)が熟知しているか、真の神と偽の神(デーミウルゴス)の対立になる、この全世界の「反宇宙的二元論」構造を覚知し認識しているかと云うことが、救済の与件となると云っても過言ではありません。

グノーシス主義のこの「救済観」は、仏教の救済或いは解脱に似ているとも云えます。少なくとも原始仏教においては、「正しい言動」を行い、「戒律(正しい言動とは何かを定めた規則とも云えます)」を遵守し、そして何よりも、自己が「無明」つまり「無知」であり、「世界の真理」を知っていないことを自覚し、世界の真理とは何かを覚知し認識し、無明より脱することで、「覚りの境位」 「救いの状態」に入れると教えます。グノーシス主義の「救済論」は、或る意味で、この仏教の、「無明」よりの「真理の覚知」にも似ています。

仏教とグノーシス主義の救済論が異なるのは、仏教は、「迷妄」を脱し、真実の現実の認識に到達することを目標としたのに対し、グノーシス主義の「覚知・認識」は、一見、荒唐無稽とも云える「創造神話」などを認識して受け入れ、宇宙と人間の運命についての「神話的構造」を自覚すると云う点でしょう。

ともあれ、仏教は、「無明(無知),avidyaa」により、世界のありようの真実に対し、迷妄=妄想を抱いている人間が、その妄想より解放されることで、覚りの境位・解脱の境地に入れ、救済が実現すると説くのに対し、グノーシス主義もまた、確かに、人間の「無知(アグノイア),

agnoiaa」からの離脱と、グノーシス(叡智・知識)の獲得或いは覚知を目指すとは云え、グノーシス主義の説くグノーシスは、反宇宙的二元論構造の世界のありようについての「知識」であり、「認識を越えた、知り難い榮光の至高神」が真実の神であり、また、この至高神の宰領する永遠の圏域である「プレーローマ」こそが、自己の魂の本来的故郷である、と云う真実なのですから、そのような「知識」を覚知し認識することで、いかにして「救済」が成立するのかと云う疑問が生じます。

しかし、グノーシス主義は仏教ではない訳で、ユダヤ教やキリスト教が、自由意志を持つ「人格神」の「選択」により、人間の魂の救済が成ると説くのとはかなり異なりますが、グノーシス主義においては、先にヴァレンティノスの「予定説」教義を述べた際、既にその一端が明らかになっていたのですが、「人間の救済」は、その存在の裡に含む「霊(プネウマ)」によって可能となると云うのが、グノーシス主義の救済原理です。

「霊」は、元々プレーローマ或いは「至高神」に繋がり、プレーローマ永遠世界を本来的故郷としているが故、人間の裡なる「光の霊」は、最初から救済されているのだとも云えます。

キリスト教の場合にも、人間の「霊魂」は永遠なもので、本来的に天上世界に属するものですが、それが、滅びの定めに陥るのは、人間の「原罪」において、「存在と命の源なる神」よりの「距離」が成立し、この「距離」つまり「神との隔たり」を解消しない限り、本来永遠なる霊魂も滅亡・死滅するのであると云う論理が前提されているからです。

グノーシス主義の場合、「霊」は、キリスト教での霊魂の場合のように、滅び、消滅することはないと考えられます。では、何がグノーシス主義にあって救済されるものなのかと云えば、それは、「個人の本質」とも或る意味で云える、「心魂」の救済であろうと云うことになります。

キリスト教『旧約聖書・伝道の書(コヘレトの言葉)』は次のように語ります : 「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」(十二章7節)。人間が、「肉」と「霊」より構成されている場合、「塵(質料)=肉」は、本来的に地上に朽ちる定めにあるのですから、「霊」が永遠の世界=神の許に帰って行ったとしても、人間個人は地上に滅び消え去る定めにあると云えます。だから、コヘレト(伝道者)は続けます : 「なんと空しいことか、とコヘレトは言う」。

グノーシス主義の場合、人間は三元構造だったのですが、キリスト教では、人間は二元構造、或いは、四元構造になっています(「霊 pneuma」と「肉 sarks」、そして「身体 sooma」と「魂 psykhee」の四元です)。

キリスト教では、霊・肉の二元、或いは、霊・肉・体・魂の四元が、救済にあっては、至高の神の許で、復元され、回復すると説きますが、グノーシス主義にあっては、救済において回復するのは霊であり、そして、人に「資格」がある場合、その「心魂」の永遠世界への帰還があると云うべきでしょう。「肉 sarks」は、「心魂 psykhee」の救済の有無に関係せず、地上に滅びる定めにあると云うべきです。

ここで、グノーシス神話におけるアイオーン・ソピアーの運命を考える必要があるでしょう。ソピアーは、至高アイオーンに連なる者であったのですが、いわば、アダムとヘーヴァが楽園を追放されたように、自己の行為の責任であるとしても、「中間世界」に落下します。

神話は更に、ソピアーが地上世界にまで落下したとも語っていますが、ソピアーは、多数の分身のごときものに分かれ、その一部が地上に落下して、惨めな存在となるのですが、同時に、中間世界に、ソピアーの分身が存在しており、更に、至高アイオーン世界、つまりプレーローマにも、ソピアーの分身が、残存していることが示唆されています。

このソピアーの「落下」と、その分身の運命は、実は、人間の地上への落下と、救済、プレーローマへの帰還の象徴神話になっています。何故なら、まさに、グノーシス神話は、ソピアーの救済とプレーローマへの帰還の物語を語るからです。

ソピアーを人間に置き換える時、人間の持つ「霊」は、まさにプレーローマに属するもので、他方、「肉」は地上に属するものでしょう。そして「心魂」は中間世界に属し、そこで、「無知」のまま、肉と共に滅びるか、「霊」の導きにより、「叡智=知識」を得て、永遠の光の世界へと救済されて行くかが決められると云うことになるでしょう。

プレーローマより、その至高霊の部分である、「光の破片」 「霊の破片」が、ソピアーの過失事件により、中間世界、地上世界にばらまかれた時、「光明の霊の破片」は、人間の肉の衣を纏ったのです(或いは、「肉の牢獄」に閉じこめられた、とも幾つかの派では表現します)。やがて、宇宙的運命において、ヤルダバオートの世界が完全にプレーローマより切り離される時、「光明の霊の破片」は、肉の衣を離れ、プレーローマへと上昇し、帰って行くでしょう。

この時(或いは、それ以前にか)、肉の衣と霊の分離が起こる時、地上に残された肉の衣と共に、ソピアーの過失により生成されたと云える中間世界に属する「心魂」の運命が決まるとも云えるでしょう。それは、肉の衣と共に地上に残され、そこで滅び消えるか、または、霊と共に、プレーローマよりの救済者と共に、中間的世界より、至高世界=プレーローマに帰還するかのどちらかであると云うことになります。
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by sigma8jp | 2008-11-14 22:18 | 古代叡智(グノーシス主義) | Comments(0)

グノーシス主義 「世界論,反宇宙的二元論」(Ⅲ)

【 世界論,反宇宙的二元論 】
 こうして、人間の三元構成論は、実は、グノーシス主義における「全体世界論」における「三世界構造論」に対応します。以上までの説明で、グノーシス主義は、悪に満ちる「地上世界=この宇宙」と、悪より解放された、榮光の知られざる至高神の支配する「プレーローマ」または「オグドアス・アイオーン界」の二元構造になっていることが明らかになっています。

このように、「悪の暗黒宇宙」と「真の本来的光明永遠世界」を対比させ、「この悪の宇宙」を否定する思想を、「グノーシス主義」の「反宇宙的二元論」と称し、これは、或る思想・信仰が、グノーシス主義であるかどうかの一つの判定「規準」です。そして、このような世界全体について云える「反宇宙的二元論」構造が、実は、人間の存在においても、構造として備わっていることが分かります。つまり、「悪の宇宙」に属する闇の「肉」と、「プレーローマ」に属する「光の霊」の二元対立構造がそれです。

ところで、上の説明で、何故「心魂(プシュケー)」を、「悪の宇宙」に属すると、述べなかったのか、疑問に感じられる方もおられるでしょう。それは、実は、人間の「心魂(しんこん・たましい)」と云うのは、非常に複雑と云うか、微妙な位置にあり、それはデーミウルゴスが創造したものです。

しかし、「霊的要素」 「神的性質」も僅かに帯びており、グノーシス主義の派によって解釈が異なりますが、或る条件においては、「心魂」の救済が可能であり、「たましい」は、「霊」と共に、プレーローマの神的永遠世界へと帰還して行く可能性が認められているからです。「心魂」は、「境界的存在要素」であり、人間の三元構成論が、「霊・心魂・肉」であるならば、これは、「全体世界」の三階梯構造に丁度対応しているとも云えるのです。

   先に少し述べましたが、グノーシス主義の「全体世界構造」は、「悪の暗黒宇宙=地上的世界=質料的・物質的世界」 対 「光と善の宇宙=天上的超越世界=形相的・霊的世界」の二元論が基本にあり、これを、グノーシス主義の「反宇宙的二元論」構造と呼びました。

しかし、もう少し詳細にグノーシス主義諸派の世界論を眺めると、もう一つ、「地上世界=悪の宇宙」と「天上世界=霊の永遠界」の中間に、「境界的世界」と云うものが設定されているのが普通です。これは、「創造神話」において通常語られるのですが、プレーローマ永遠界における「或る事件」とは何なのか、と云う問題にも通じます。

   そもそも、この世=悪の宇宙が創造される契機となったのは、最初に述べたように、「知られざる至高神」の永遠的「流出」の過程において生じた「或る超宇宙的事件」に起源があるとされます。この「事件」は、幾つかのヘレニク・グノーシス主義の派の神話では、至高アイオーン(プレーローマを構成する光明の高次霊・永遠原理)たちのなかの最低次のアイオーンである「ソピアー(智慧) Sophiaa」と呼ばれる女性アイオーンが、その未熟さ故に、知り難い、至高の「父(ビュトス=深淵,Bythos)」の本質を知ろうとして過失を犯し、大いなる苦しみや困難に陥り、彼女は、それ故に、プレーローマ世界より落下して、「中間世界」とも呼べる世界にあって霊の流浪を経験します。

(この超宇宙的過失事件を引き起こしたのは、最下位女性アイオーンのソピアーではなく、男性アイオーンのロゴスであったと云う教説も存在します。『ナグ・ハマディ文書』中の『三部の教え』においては、そのように説明されています。勿論、これには或る理由が想定されるのですが)。

   アイオーン・ソピアーのこの「過失」とその結果の苦悩から、「中間世界」にソピアーの分身とも云える様々な霊が生まれます(例えば、ヤルダバオート=デーミウルゴスの母とされる「アカモート」など)。

他方、プレーローマの至高アイオーンたちは、ソピアーを救おうと試みるのですが、事態は進行し、「中間世界」にアルコーンと呼ばれる低次霊・低次アイオーンが誕生し、その頭でもあるデーミウルゴスが、驕り高ぶった挙げ句、自己を至上者と錯誤して、みずから「世界」を創造しようと試みます。

しかし、デーミウルゴスは、完全な霊ではなく、至高のアイオーンでもないので、不完全な創造・造形しか行えず、その結果、「この世=暗黒の悪の宇宙」が創造され、人間もまた、この暗黒の宇宙の住民として創造されたのだと云うことは既に説明しました。

   そこで、以上に述べた、グノーシス主義世界論における、「天上世界」 「中間・境界世界」 「地上世界」の三世界論と、既述の「人間の三元構成論」は、丁度パラレルな形にあるのだと云うことが出てきます。プレーローマ或いは天上世界に対応するのが「霊」であり、地上世界或いは悪の宇宙に対応するのが「肉」で、そして、「中間・境界世界」に対応するのが「心魂」であると云うことになります。

「心魂」は、この三元世界論との対応性から見ても、明らかに、不安定な位置にあることが分かります。人間の「霊」は紛れもなく、天上世界=プレーローマに属するに対し、「心魂」は、この境界世界に属すると考えられるからです。

   哲学的原理より見れば、「肉」は、「質料・物質」であり、「霊」は、「純粋形相・イデアー」であると云うことになりますが、「心魂」は、「質料的性質を備える形相的存在」と云うことになるでしょう。アイオーン・ソピアーが、中間世界で苦難に陥っているのと丁度対応して、人間の魂=心魂も、中間世界において、苦難に喘いでいるのだとも云えます。

   ヴァレンティノス派では、人間は最初から三種類に分かれており、それぞれ生まれた時より「運命」が定まっているとされます。即ち、「質料的・物質的人間」と「霊的人間」、そして「心魂的人間」です。「質料的人間」には「救済」はなく、「霊的人間」は、最初から「救済」に与れることが予定されており、「心魂的人間」は、その行いや、「認識・覚醒」に応じて、救済されるか否かが、決定されるとします。これは一種の「運命論」になっています。

   他のヘレニク・グノーシス主義諸派は、ヴァレンティノス派の教えほど明確ではありませんが、しかし、やはり、「宇宙的既定運命」と云う概念を持っていたと考えられます。「人間」は、肉と霊を持つことで、滅びる部分と、救済に与れる部分があると云うことになりますが、問題は、「個人の意識=我」の救済があるかないかでしょう。

そして、「個人の意識=我」とは、要素的には、「心魂(たましい)」のことを意味すると考えるのが妥当でしょうから、「人間の救済」の問題とは、つまる処、人間の「心魂」或いは「霊魂」の救済の問題である、と云うことになります。そこで、次に問題となるのは、霊魂(たましい)の救済を、ヘレニク・グノーシス主義では、どう考えていたかと云うことです。
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by sigma8jp | 2008-11-14 22:13 | 古代叡智(グノーシス主義) | Comments(0)

グノーシス主義 「人間」(Ⅱ)

【 人間 】
  この世は、グノーシス主義にとっては、以上に述べたように「悪の世界」です。では、そのなかに生まれ、悪しき世界のなかで、悪と共に生きる、わたしたち「人間」と云う存在者は、グノーシス主義では、どのようなものと把握されるのでしょうか。(実は、思想の発生機構からすると、この問いは転倒しており、「人間の存在条件・存在様態」が悪にあると云う自覚から、逆に、世界創造神話が構想され、「悪の宇宙の起源」神話が構成されたと云うべきなのです。しかしここでは、説明の順序として、ヘレニク・グノーシス主義における、「人間の把握」つまり「人間観」を説明しましょう)。

「人間」の起源は、グノーシス主義の諸派によって、様々な創造神話があり、起源論がありますが、基本的には、人間の「三元構成論」と云うグノーシス主義に特有の人間把握から説明するのがよいでしょう。これは、人間は、「霊(プネウマ Pneuma)」「心魂(プシュケー Psykhee)」「肉(サルクス Sarks)」より構成されると云う理論で、グノーシス主義の教えでは、この裡、「心魂」と「肉」は、デーミウルゴスやアルコーンたちの創造になるもので、この不完全な宇宙と同じ性質を持っており、即ち、不完全で、悪であり、また永遠的でなく、可壊で、地上に腐敗し滅び消滅する定めにあるとされます。

では、「霊(プネウマ)」はどこから起源したのかと云う疑問が起こります。これは、グノーシス主義の諸派によって説が色々とありますが、基本的に共通するのは、「霊(光の霊)」は、プレーローマに起源があり、霊を創造したのは、デーミウルゴスや諸アルコーンではなく、それは、光明に満ちる「プレーローマ永遠界」と、この「悪の宇宙」の中間にある「境界世界」を介在として、プレーローマの「知られざる至高神」が創造したものである、或いは、プレーローマの真実の高次アイオーンたちと同質なものであり、これこそ、「人間の本来的本質」であり、不滅であり永遠世界に属し、「悪よりの解放」の原理を裡に含むものであるとされます。
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by sigma8jp | 2008-11-14 22:09 | 古代叡智(グノーシス主義) | Comments(0)

グノーシス主義 「悪の起源・創造神話」(Ⅰ)

【 悪の起源 ・ 創造神話 】
 ヘレニク時代の多様な思想も宗教も、皆、「善と秩序の宇宙」を確信していたのに対し、ヘレニク・グノーシス主義が何故「悪と混沌の暗黒宇宙」を唱道したかと云えば、それは彼らの「現存在」における世界把握に起源があるとも云えるでしょう。とはいえ、彼ら自身は、「創造神話」と呼ばれる、「この世の悪と混沌の起源」についての合理性的な「説明理論」を持っていました。

ヘレニク・グノーシス主義の教師たちは、伝統的な「秩序宇宙・秩序の善なる神」を否定し、この世界は「悪の宇宙」であり、この世界を創造した者も「悪の神・不完全なる神」であると見做し、多くの派では、この悪の宇宙の創造者を、プラトーンの『ティマイオス』に描かれている。

下級の世界造形者である「デーミウルゴス=造物主」と同一視しました。プラトーンのこの著作においては、当然、デーミウルゴスの上位に、高次の「真の神」が前提されているのですが、グノーシス主義の教えにおいても、「この闇の宇宙」の上位に「真にして隠された・知られざる光の超世界」があり、また、デーミウルゴスの遙か上位に、「真にして隠された。

または忘却された、至高神」が存在すると主張します(この「隠された、知られざる真の至高神」は、認識や理解を超えた存在であり、名を付けることもできないとされますが、幾つかのグノーシス主義のシステムでは、この「知られざる至高神」を、「ビュトス(深淵)」とか「プロパテール(原父・先在の父)」と呼びます)。

ユダヤ神秘主義思想のカッバラーが説くように、或いは新プラトン主義の哲人プロティーノスの「一者 To Hen」よりの存在者の下降・流出の説にあるのと同様に、グノーシス主義においても、「真の至高神=知られざる神」からの「存在の流出」と云うものを考えます。

この「流出」は、最初、グノーシス主義者たちの立場より云っても、「秩序的」に行われていたのですが、「或る事件」を契機として、グノーシス主義の「真の秩序宇宙」(これを、プレーローマ とか、オグドアス・アイオーン世界などと呼びます)に、無秩序と混沌・暗黒の萌芽が生じ、この萌芽より、「この悪の宇宙」を創造した、アルコーン(ギリシア語で「支配者」の意味)と呼ばれる。

(或る意味で無知蒙昧で傲慢な)複数の超霊的存在が生み出されます。彼ら、または彼らの第一人者である「第一のアルコーン」(これが、上に述べた「デーミウルゴス」であり、デーミウルゴスはまた、ヤルダバオートの固有名を持ち、『旧約聖書』の至高神ヤハウェと同一視されます)が存在を始めます。

こうして、ヤルダバオート或いはアルコーンたちが、自己の「不完全な知識や能力」において、それと意識してか無意識でか、上位の光の高次世界(すなわち、プレーローマ超世界)等を模倣して、「この世界」を創造乃至造形しますが、それは、彼ら低次アイオーンであるアルコーンたちの不完全さ故に、不完全な世界となります。そして、このようにして生み出された「不完全な世界」が、実は、わたしたち人間が生きる「この世界=宇宙」であり、そこには、悪と闇が満ちている云うのが、グノーシス主義の主張です。

これが、グノーシス主義に共通する基本構造としての「悪の宇宙」の起源の説明神話=創造神話です。以上の説明より明らかなように、この世界を創造した者=デーミウルゴス・アルコーン自体が、そもそも不完全な存在で、「超宇宙的過失事件」を契機として、「偶然」に生み出された存在なのですから、彼ら、または彼(ヤルダバオート)が創造した、この世界=宇宙が「悪の宇宙(光なき暗黒の世界)」であるのは、当然の事態であると云うことになります。
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by sigma8jp | 2008-11-14 22:01 | 古代叡智(グノーシス主義) | Comments(0)

グノーシス主義 「悪の宇宙」(序)

【 序 】
  グノーシス主義では、一般に、此の世を善の世界とは考えずに、矛盾と悲惨、悪しきことごとが充満する「悪の宇宙」と考えます。ヘレニク・グノーシス主義の場合も同様であり、しかし特徴的なのは、このグノーシス主義は、ギリシアやローマの哲学の理論体系や、神話枠が前提されており、「古典ヘレニク世界的秩序宇宙」概念を反転させて、この宇宙が、暗黒の「悪の宇宙」であると主張したことです。

古典ヘレニク哲学の基本前提としては、「宇宙」は本来的に「善の秩序」の宇宙であり、宇宙の創造者乃至宰領者がいる場合、このような創造者・創造神も、善の神・善の創造者と考えられました。それは、「この世」に現実に、現象的に「悪」が満ち満ちているように思える場合にも、「宇宙の秩序構造」は存在し、それは「善」であり「善なる神・超越者」の設定だと考えたことです。

古典ギリシア哲学、そしてローマの哲学もまた、「混沌」や「無限」を否定的に捉え、そのようなものを嫌ったことが知られています。(ここで云う「無限」は近代的な数学概念としての無限ではなく、「限定されないもの」つまり、本質が「無規定なもの」の謂いで、それは「混沌」と同様に、「秩序」に反する事態・事象であったのです)。

原始キリスト教は、その思想原理や信仰原理が、古典ヘレニク思想とは異質ですが、しかし、宇宙創造者=神=ヤハウェを「善の神」と考え、神の創造になる、この「被造世界」もまた、「本来的に善」であり「光の世界」と考えたことで、古典ヘレニク思想・哲学と、神観・宇宙観において共通しているとも云えます。原始キリスト教の諸派も、宇宙を「秩序宇宙」と考えていたと云うことであり、また「秩序」は「善」であることより、この宇宙・世界は、「善の宇宙」であると見做していました。

しかし、グノーシス主義は、ヘレニク思想の「秩序宇宙」概念を反転させ否定する思想であり、それは、「この世=宇宙」に、秩序よりも寧ろ「混沌」や「暗黒」を見るのであり、この世の「無秩序性・反理性性・非本来性」を主張します。古典ヘレニク哲学も原始キリスト教も、或いはその他のヘレニズム時代の諸宗教(例えば、ミトラ教、ユダヤ教、ゾロアスター教等)も、宇宙の「善なる秩序性」を認めていたのですが、ヘレニク・グノーシス主義は、上述の通り、「宇宙の無秩序性」「混沌と悪の宇宙・暗黒の宇宙」の現前性を主張し、また、そのような世界把握を、信仰・思想の前提としていました。

(ゾロアスター教は、光と闇の二元論宇宙観を展開しますが、その世界観は、「この宇宙」を舞台にして、「光の秩序勢力」と「闇の混沌勢力」が争っていると云うもので、[最終的には、「光の秩序」が勝利することが前提とされています]、それに対しグノーシス主義の宇宙観は、「この宇宙」は、アルコーンたちの絶対的な支配下にある「悪の宇宙」であって、「光明の世界」は、「叡智=グノーシス」なしでは到達できない、遙かな彼方にあると云う展望で、光と闇の二元論と云う点で似ていても、根本的に異なる世界観なのです)。
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by sigma8jp | 2008-11-14 21:58 | 古代叡智(グノーシス主義) | Comments(0)

「グノーシス主義」とは

  「グノーシス主義 Gnosticism」と呼ばれている思想乃至信仰は、その原義からは、紀元一世紀より、三世紀乃至四世紀頃まで、ヘレニク世界・地中海世界において流布した、独特の世界観と神観・人間観を持つ「教え」です。

「グノーシス主義」と云う名称は、一つに、この教えを説き、信奉していた複数の様々な派の人々が、自分たちを「知識ある者=グノースティコイ γνωστικοι (gnoostikoi)」と自称していたからですが、この名称が定着したのは、当時、擡頭しつつあった原始キリスト教会が、グノーシス主義運動を、キリスト教にとっての重大な「敵・障碍」であると見做し、「グノーシス主義異端」として、排斥しようとしたためです。

(その理由には、キリスト教的グノーシス主義者たちが、自分たちこそ、「キリストの啓示」の真実の意味を知る、「真のキリスト教徒だ」とも称していたことがあります)。

従って、西欧の思想の伝統において、「グノーシス主義」と云う概念は、キリスト教と密接な関係にあり、長い期間において、初期キリスト教会が、グノーシス主義諸派に対して与えた「異端」と云う烙印を、そのままに受け入れていました。グノーシス主義は、その「思想原理・世界観・人間観」等からすれば、キリスト教の「異端」ではなく、「異教」と云うべきであり、事実、キリスト教とは全く無縁なタイプのものも存在します。

また、グノーシス主義一般が、キリスト教の「異端」ではないことは、多くの研究者のあいだで、今日、同意を得ています。とはいえ、この文書では、紀元の数世紀、地中海世界領域にあって繁栄し、原始キリスト教会より、異端とされたグノーシス主義の考えについて、主に説明し論じます。

わたしたちは、このような意味のグノーシス主義を、取りあえず、「ヘレニク・グノーシス主義」と呼びます。それに対し、思想原理よりして、明らかに、キリスト教とは独立していることが明らかな、「グノーシス主義の原型的」形態については、これを(ヘレニク・グノーシス主義も含め)、「普遍グノーシス主義」とも呼びます。普遍グノーシス主義は、ヘレニク・グノーシス主義よりも広義な意味内包を持ち、また、地理的歴史的にも一般性を具備する思想・信仰の概念です。

と云うことで、以下においては、ヘレニク・グノーシス主義(とりわけキリスト教的グノーシス主義)を、取り上げます。このグノーシス主義は、次のように概説されます。
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by sigma8jp | 2008-11-14 21:54 | 古代叡智(グノーシス主義) | Comments(0)