カテゴリ:ユングの「精神の錬金術」( 2 )

ユング 「錬金術と無意識の心理学」No.2

《闇と光》
  光は闇の中にあってこそ光彩を放ちます。
心理学的には「闇=自然や無意識の一面」の上に「光=自我」があるとも考えられます。(ある一面的な見方をした場合です)
母なる大きな存在の上に、個人の自我が輝く。自然の中に人が立つ。宇宙に星が輝く。内的世界に光明がイメージできる。本能の上に理性が輝く。・・・・そんな考え方もできます。

闇も光も互いを助け、補償します。対立しながら、互いを必要とします。同時に存在しながら、混ざり合いません。時々刻々と絶妙なるバランスをとるのです。闇を否定する必要は無いのです。光ある存在でありたければ、闇の中にあって尚光り輝けばよいのです。

闇に悲観する必要はありません。闇を意識した瞬間に、光が現れるのです。今は小さくとも、必要とあらば敢然と輝ける可能性を有しているのです。光のバランスをとればいいのです。すべてを照らし、同時に焼き尽くさぬように注意しましょう。闇と仲間になると良いでしょう(勿論、呑み込まれてはいけません)。光と闇の絶妙なるバランスを知るのです。

そうすれば、思考も、肉体も、宇宙さえ、次の次元にシフトするでしょう。光はやがて死んで闇に溶けます。しかし悲観する必要はありません。闇とは生命の源。我々は先人たちと同じように、やがて来る人たちの土台となるのです。

そこで永遠の命を得るのです。そして転生を待ちましょう。過去の光がすべて溶けた闇が新しい自分の素となります。確実に進歩して生まれ変わるでしょう。見えない最終到達点を目指しましょう、道を探すのです。己の道です。また真理を輝かせましょう。いずれまた溶け合う、その日まで・・・・。

パラケルススはその書の中で二つの錬金術について触れています。
ひとつは自然的生命で、これは肉体的なものと無意識のことだと考えられます。(人の土台か? あるいは人の殻か?)
そして、もうひとつは「身体的なものを一切含まない『空霊的』生命」で、これは自我であると考えます。

(空霊的生命は一般的には肉体を除いた、つまり意識と無意識のことをさすようですが、私は無意識は自我が宿るための基盤であり、特に集合的無意識は人類共通であると考えるので、敢えてこう設定します)(個人的無意識は集合的無意識と自我をつなぐ、ネットワーク配線のようなものか? あるいは個人を構築するOS?)(それでありながら、自我が理解できるようにする「フィルター」? 同時に、自我が得たものを集合的無意識へと還元する際の「フィルター」?)
人の土台に自我が宿ることで個人が誕生するわけで、父性を帯びたこの空霊的生命により個が確立します。

では、魂とは?
辞書を引くと「こん: たましい。特に、陽の気に属して精神をつかさどるとされる」とあります。
陽の気だとすると、魂は父性の光になります。これは自我であり、個人を分類するものでもあります。しかし、私は敢えて魂を無意識の奥底にある光であると設定します。これは陰の気であり、母性の光、すべての生命の源の中心です。その深遠なる奥底から、魂は自我に対して語りかけるのです。

士郎正宗氏の「功殻機動隊」ではゴーストなる言葉が出てきます。私はこのゴーストを魂と同義であると考えます。この作品中でも、ゴーストは意識の奥底にあるもののように表現され、あるいは意識と無意識とを含んだユング心理学でいう自己を連想させます。そして主人公「草薙素子」は度々「ゴーストが囁く」という表現を使うのです。(あくまで私見です。間違っていたらごめんなさい)

【死を迎える意味】
パラケルススは「最大の人間」であるとか「エノク的半神」とかいう表現で半不死の人間について語っています。では、なぜ人は今の寿命を得たのでしょうか? 聖書で語られる原始の人たちと比べて、なぜ短いのでしょうか?私は、人は死してその知識と経験を集合的無意識に返還すると考えます。その知識、経験を蓄積する最適な期間が、現時点での平均的寿命なのではないでしょうか。(勿論、個人によって差があるのですが・・・)

短く生きると知識、経験は未成熟なものになるし、長く生きれば我々は生物的機能を失い破綻します。その絶妙なるバランスが、現時点での寿命なのではないでしょうか?では、なぜ生物的機能を失うようにできているのでしょう?それは絶えず時代が変容するようにとの配慮であるのかもしれません。

一面性が破滅へと向かうのは周知の事実です。それを避けるために、人は一瞬のきらめきの中で生き、そして死ぬのではないでしょうか。
細胞が死に再生することで、人は保たれます。すべての個が絶妙なる期間で死と再生を繰り返すことで、宇宙は保たれるのかもしれません。

無意識の中に足を踏み入れるとき、我々はどうあるべきでしょうか?無意識には闇のイメージがあり、実際 影という厄介な元型も存在します。暗闇は恐怖を煽るし、無意識は闇の側面を持つので自我は恐怖します。何より、無意識の中心、あるいは底に近づくにつれ、自我が薄まるのだから恐怖もするでしょう。未知であるという点でも不安です。

しかしながら無意識にも光が存在します。錬金術でいう自然の光です。生命の根源と言ってもいいものです。私はこれを魂と呼び、自我の光とは区別します。たとえ暗闇の中にあっても、この母性的な光を見出すことができれば、不安になることもないのではないでしょうか。

しかしこの光は無意識の中心、あるいは最下層にあると考えられます。そこに辿り着くまでに暗闇の道を通過せねばなりません。この表現はカウンセリングに似ているようです。クライエントが自身の魂の要求に耳を傾けるとき、暗闇を通過するような体験をすることがあります。

現実問題として陰惨な事件に出くわすかもしれないし、内的に人には理解してもらえないような体験をするかもしれません。しかし、その苦しみの向こうには、まだ見えぬとはいえ確かに光が存在するのです。そして、そのとき、クライエントは自身にとっての真理、宝を獲得することでしょう。

この意味でも、治療者はこの暗闇通過の儀式、宝探しの冒険を体験しておく必要があるでしょう。自身の体験により、暗闇通過の厳しさ、つらさが分かり、これがクライエントへの受容と共感につながります。そして宝を得た経験は治療に対しての希望となるのです。またこの冒険が自身の治療者としての、それ以前に人間としての、強さを与えてくれます。

無意識の旅の必要性を述べたのですが、これには厄介な問題があります。ひとつは、無意識では自我が薄れ、それ故に物事を認識する機能が弱まる点です。そしてもうひとつは、お宝を得るには、「気づき」が必要になる点です。この「気づき」は禅の小悟といってもいいでしょう。

無意識のメッセージに耳を傾けるには自我の機能が必要です。それに対し、何らかの気付きを得るわけだから当然です。しかし、自我が強いと無意識には潜れません。このジレンマを解消する方法を心理学は有しているようです。絵画療法、心理検査、箱庭療法、など無意識の情動に注目した技法はたくさんあります。これらにより非言語的な無意識の情動を探るのです。

私個人的には夢分析が有効ではないかと考えます。夢は自我の作用が非常に弱いです。無意識の表現、と言ってもよいかもしれません。また、これを記憶することは慣れれば難しくないので、自我を離れた無意識の経験を、後追いという形で分析できます。(分析するのは勿論自我です)

これにより無意識からのメッセージに耳を傾け、その中に隠されたお宝を得ることが可能になります。(能動的想像法という技法もありますが、それはまた別の機会に・・・・)しかし、このお宝、実生活で実践できてこそ本来の意味を発揮します。せっかくのお宝を手にしても、宝箱に収めたままでは(つまり、内的世界に置いたままでは)、その効能が得られないのです。

内的に安心する、という効能を私は無視しませんが、おそらくはその効能もやがて薄らぎ、安心は不安に変わるのではないでしょうか。(内的な世界にしまったままでは・・・です)我々は社会に生活するものです。つながりなしには、生きてゆけません。人肌なしでは生きてゆけません。

自身が得たお宝は、懐から出すのがいいようです。そしてその光を皆にお目にかけるのです。その光は、ある人にはまるで無価値なものかもしれません。しかし、ある人には価値あるものでしょう。そこで共感が生まれ、つながりが生まれ、人肌が得られるのです。(この人肌は直接的な意味ではありません)

しかし、注意しましょう、強い光は相手を焼く恐れがあります。自身には有効な光が、相手にとって迷惑な場合もあります。価値観は人それぞれ、どうにかできるものではないし、してよいものでもありません。(洗脳などはもってのほかです)用心しながら、自身のお宝を披露すればよいのです。

たとえ少なくても、そのお宝に価値を見出す人が出てくるはずです。彼こそが真の友人であり、欠損を埋めてくれる存在になるでしょう。

このように「無意識と折り合いをつける」ことは、ユング心理学において重要なのだけれど、錬金術師は錬金術を用いてこの作業にあたった、とユングは考えています。錬金術の本を読むうち、その目的がいわゆる物質としての金の創造を目的としているのではなく、むしろ錬金術師自身がより完全なる存在になることを目的としていることが伺えます。

これは人間として生まれたものすべてが持つ宿命ではないでしょうか。よりよい存在を目指すことは遺伝子に強く刻まれているはずです。そして何より、魂がこれを強く望むので、自我がこれを無視できなくなるのです。もし無視しようものなら、魂はその人間を病気にしてでも振り向かせようとします。

言い方を代えれば、魂がその人間が高みに達することができると判断した場合、高みに達するための試練を用意することになるといえます。そして、治療者は直接的には手を出さないにしろ、知識と経験を元に、人間的成長に挑戦する人を見守り、危機に対しては何らかの助けを出すのです。

無意識の働きについて下記のような説明がありました。(本文P139)
すなわち無意識とは、たんに「意識下にある」意識の付属物でも掃き溜めでもなく、意識的態度に含まれる先入見や異常を補償する心的組織であって、それ自体はほとんど自立的な存在であり、その補償作用はおおむね機能的ではあるが、場合によっては意識の偏移を有無をいわさず修正する

自我による先入観が人間の可能性の幅を縮めるのは周知の事実ですが、これなしでは生きにくいのもまた事実です。先入観は共有意識にもなるし、それによって安心したりもします。社会規範を作るともいえます。

要するに物事はその一面性のみでは破綻するのです。ただ、この先入観、これが悪い方向に働くと、非常な残忍性を帯びる上に、罪悪感が働かぬから性質が悪い。この社会の害悪とはいずれ戦わねばならないように思います。

「有無をいわさず修正する」という表現は興味深いですね。これは無意識の持つ力の凄まじさを感じさせるし、心理学における症状についても考えさせられます。この強大な力と折り合いをつけるには、ある程度の強さを持った自我が必要とされますが、自我で無意識を屈服させられるはずもなく、またそうする必要もありません。

無意識は闇の側面も持ちますが、付き合い方しだいで非常に意味深い宝になるのです。海を想像してください。この母なる存在は、一方では、危険性や未知なる領域をあらわしますが、人間にとってかけがいのない存在でもあります。要は、どう付き合うかです。

考え無しに海に出れば、呑み込まれて死んでしまいます。しかし、十分な配慮のもと、航海に出れば、得るものは大きいのです。無意識も同じです。海に出る方法や技術は、先代たちにより洗練させられてきたし、今も進んでいます。無意識もまた然り。

しかし、十分な配慮の上でも痛ましい事故は起こります。海は偉大であり、危険です。未知の領域も多いのです。ただ、それ故、無限の可能性を秘めるということもいえます。
ともかく、無意識の航海も危険なのだから、一人旅はおすすめできません。経験ある同伴者とするのをおすすめします。

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C・G・ユング著、松田誠思・訳 「ユング 錬金術と無意識の心理学」
                                 ・・・からの抜粋!
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by sigma8jp | 2008-12-01 02:29 | ユングの「精神の錬金術」 | Comments(4)

ユング 「錬金術と無意識の心理学」No.1

この本の表紙には「メルクリウスの霊とその変形」なるものが描かれています。

b0140046_244053.jpg  「奇怪な竜の形で描かれたメルクリウスの霊とその変形。四部分からなり、第四のものが他の三者を統一するが、この統一を象徴するのが秘儀者ヘルメスである。図の上方の三者は(左から右へ)、「月」「太陽」「金牛宮=ウェヌスの館における太陽と月の合一」である。それらが合体してメルクリウスとなる」と書かれています。

この姿を見て、「月=影」「太陽=光」「光と影の統一」というのが容易に見て取れるでしょう。そして、この対立するものの統一こそが、ユング心理学におけるひとつの奥義であるとも言えます。
更に注目すべきは、この三者を統一する第四者なる存在があることです。この秘儀者ヘルメスなる存在がなにを意味するかは、本を読み進めていくうちに明らかになるのではないでしょうか。

尚、この絵を見て不気味さを感じる人は少なくないと思いますが、先に私が【ユング心理学への考察】で述べた「宇宙の進化論」を適用するならば、生命は死に際して、その生前に得た財産とともに、魂の中心、宇宙の中心に、帰り、そこで宇宙の歴史ともいえる集合的無意識との融合を果たすわけで、そういった意味では、このような形も理解できるのではないでしょうか。(様々なエッセンスが融合されるという風な意味で・・・)

更に先ほど注目した第四の存在も、そのものが群を抜いた超絶なる叡智を持つならば、その影響力に注目するという点では、統一する存在といえるのではないでしょうか。(すべてが融合しているのに、なぜ個なる存在があるのかと言われるかもしれませんが、私の考えでは、融合した後も個としての意味は残り、すべてが個であると同時に全体であるという、そんな状態になると思うのです)(そのために「前世」とか「縁」とかいう解釈や定義があるのかもしれません)

パラケルススは病気の本質についての知識は「自然の光」に由来する、と言っています。
また、このように述べています。「だから雄鶏が天候を予告したり、孔雀が飼い主の死とかそれに類する事柄を予示するように、鳥が何かを予兆するのはこうした生得の霊的働きによることとも、また認識されなければならない。これらすべては生得の霊によるもので、自然の光なのである。

この「自然の光」とは、集合的無意識、あるいはその中心たる魂のことではないでしょうか。
ここで鳥であらわされた下等生物は、人間に比べると理性がなく、より本能に近い、ということは、集合的無意識に近いところにある、といえます。

つまり、天候予測や死の予告は、これら集合的無意識から得られたものであると推察します。したがって、すべての生命はこの作業が可能であるともいえます。しかしその反面、自我が強いとその作業はできないのですから、その能力を得られるものは同時に、その能力を建設的に使えない、とも言えます。

(つまり無意識の深層にある集合的無意識の能力を使うわけですから、当然自我の能力は低下するわけで、当然、認識・判断する能力が低下するわけです)ある種の宗教では、自我を殺すことにより真理を得ます。この作業は上記の集合的無意識へのアプローチと同じです。

自我と自己、意識と無意識、この対立は、合理性と神秘力の対立ともいえます。合理性にのみ囚われれば神秘の持つ可能性が消え、神秘にのみ囚われれば合理的判断ができません。ここでまたバランスが問題になります。(無意識的な(あるいは神秘的な)要素を無視すれば人間的魅力に欠けて、味も素っ気もないことになりますし、無意識や神秘的なものに囚われすぎれば、現実世界の生活を困難にする事になります)

ある種のクライアントは無意識界に埋没するあまり、合理的判断ができません。しかしこの裏には、隠された可能性があるのではないでしょうか。あるいは魂からのメッセージということもできます。そういった意味でも、内なる魂に耳を傾けるのもいいのかもしれません。ただ、先ほども申しましたように、無意識界に埋没すると冷静な判断ができません。個人個人のバランスを見極めるのが大事です。

無意識界に生きる人は、例えそれが現実でないにしろ、それを経験していることは紛れもない事実です。それを考慮したうえで、無意識界に生きる人の言い分が、現実社会において真実であるか、も見極めなければなりません。そう、無意識界に生きる人の言い分をその人の内的事実として受け入れられる態度と、それを一般的に事実なのか客観的に判断できる態度、その両面が必要とされるのではないでしょうか。

キリスト教的な光は父性を帯びた光であると思います。この光は、与える光でありであり、導く光です。しかし、その光の力が強すぎるとき、相手を焼き殺す光でもあります。一方、東洋的な光は母性の光でしょう。内なる無意識から湧き上がる光です。これは無償の愛を前提に、やさしく包み込む光です。しかし、その力が強すぎるとき、相手を深遠に呑み込む光でもあります。パラケルススのいう「自然の光」は、後者であると推察できます。

これは人類の、宇宙の、智恵の財産です。また、ユング心理学でいう集合的無意識のことでしょう。そして私の考える魂そのものであると考えます。(私の言う「魂」は、無意識の深遠にある集合的無意識にあるもので、宇宙の万物の知識・経験の濃縮されたものでありながら、個というものにも非常に関連のある存在であると考えます)

キリスト教がここまで勢力を伸ばしたにも意味があると考えられます。キリスト教は父性を示し、自我の強化を要求します。ということは、時代が自我の強化を必要としたとも考えられます。(本当は様々な意味があるでしょうが、あえてここでは触れません。社会規範の確立とか、ね)
(社会規範の確立に父性要素、厳格な戒律が必要であったとするならば、逆に言えば、それだけ野蛮だったともいえます。

但し、母性要素に根ざした東洋が野蛮でなかったかというと、そうでもありません。ただ、厳密な戒律よりは、集団の雰囲気のようなものが代わりをしていたのかもしれません。文書化されない規則や戒律です。また、これを破った時の仕打ちも、酷いものだったようです)(このような考えからも、西洋は個を重んじ、東洋が集団や場を重んじていた事が伺えます。・・・まあ、現代社会においては怪しいですが・・・日本は混迷期なのかもしれません)

しかし一面的な強化が破綻するのもまた事実です。キリスト教ではそれを防ぐために、聖母信仰が現れました。聖書を見るに、聖母に対する信仰は見られないように思います。むしろ、聖書内のキリストの言葉をみると、その逆の要素さえ伺えるのです。現代に生きる私としては、自我の強化を行いつつ、無意識との会話、集合的無意識にある財産の活用というアプローチをしたいと考えます。

(聖母の愛は「高貴で深い無償の愛」です。未熟な母性とは切り離して考える必要があります。未熟な母性は、時に「条件付の愛」を示します。「あなたの好きにしていいのよ」と言いながら、見えない言葉で理想像を強要することもしばしばです。また、愛や平和の大安売りのような未熟で判断力に欠ける行為とも、区別する必要があるでしょう)

「人間の自我の光は頭に宿り、無意識の光は胸に宿る」
アリストテレスの論説:「汝のうちなる光が闇にならぬように気をつけるべし」
私は人の心は闇という基盤があると考えます。

闇というとマイナスなイメージを想像されると思いますが、そうではなくて、ここでは「無意識の側面」という意です。
闇⇒深遠なる暗闇⇒無意識、ということです。
(あるいは宇宙を想像されると分かりやすいかもしれません。星々は闇のような宇宙に存在します)無意識には本能的な側面が色濃く現れます。食欲、性欲、征服欲、・・・・などなど。

そしてそれらに自我が支配されたとき、人は規範を失い、闇の淵に落ちることとなるようです。
それをさせないのが、自我の光、父性の光でしょう。しかし、その一面のみの光では不完全であり、完全体になるには、内なる光、母性の光、つまり、無意識の中心なる魂にある光と手をつなぐ必要があるようです。

私にとっての科学の結婚は、自我の光と、無意識の光、これらの結合であると考えます。そして、その背景に無意識たる闇があるのです。

自我の光は、智恵、知識、行動などであらわされます。では、無意識の光は? それは個人を超越した人類財産とも言える(あるいは宇宙財産とも言える)智恵、知識、経験のことでしょう。
別の見方をすれば、自我の光は裁き、無意識の光は赦し、とも言えます。
更に別の見方をすると、西洋は前者を神とし、東洋は後者を神とする傾向にあります。

錬金術の中では、光は度々「子」として人格化されます。男と女が互いを知り、聖なる光、新たなる可能性たる「子」を生み出すのです。これは錬金術の奥義でもあり、ユング心理学の補償作用、対立するものの統合、とも言えます。

自我の光は炎でもあらわせることもあります。炎は周りを照らしますが、強すぎると、周りを焼いてしまいます。無意識の光は水であらわせるでしょう。水は生命の源で、安らぎを与えますが、それが深いと相手を呑み込み殺してしまう側面も有します。炎を消すことなく水に浸る、これが大事なのではないでしょうか。

イリアステル:存在一般の根本。宇宙の根。
火の精アレス:決める力、判断力、父性。個別化、細分化。種の方向性。
イリアステルの中でアレスにより個性化の方向性を決めると、人になったり、狼になったりします。

アレスはイリアステルの要素を集中させ人を形づくる。混沌の中から必要要素を集め凝固させる。これが肉体であり、自我の意識である。アレスを弱めるとき、人は拡散し、無意識と接触する。すべての個が拡散する。つながりながら拡散する。その身を、その意識を、粒子状に拡散させつつ、尚それを保つ。これこそが自我を持ち、無意識の財産を得る奥義でしょうか・・・。

錬金術的思考による人間の成り立ちを考えてみます。
イリアステルは宇宙の始まりにして混沌であり、ユング心理学でいう集合的無意識である。また、イメージとしては炉であるといえる。(全体としての魂)
次に、アクアステルは原因にしてきっかけ、私のいう魂(個としての魂)である。

またイメージでは何かを形作る上での核である。アレスは火の精にして父性の光、物事を分析・認識する力、意思、自我を形作る力である。イメージでは核の肉付け。メルジーネは水の精にして母性の光、個人的無意識である。この個人的無意識が定着してこそ、個人が集合的無意識につながる。

つまり宇宙の混沌たるイリアステルに、魂ともいえるアクアステルなる核が投げ込まれ、アレスによりそれが肉付けされて肉体と自我を得、メルジーネなる個人的無意識の定着によって個なる人間は宇宙そのものといえる集合的無意識とつながるのである。これが世界の、宇宙の、ネットワークである。

現代においては、科学が先代の聖書的な役割を果たします。先代は聖書を基盤とし、真理を得ました。人間存在においても然りでしょう。現代においては科学を基盤とし、真理を得ようします。人間存在の切り口も当然科学になります。

私は神秘的なものを背景に、合理的な学問的切り口でものを考えます。神秘と科学の結婚です。聖なるものと、実際的なものの結合とも言えます。心の内にあるものと、手にできるものとの結合でもあります。これこそ我が奥義かもしれません。

心理療法としてのアプローチ。
無意識の深遠に沈み、自分が認識できない人は、自我の光を鍛えればよいように思います。そうすれば、拡散していた自我や肉体的感覚は復活し、現世において人として生きることが可能となるでしょう。逆に、強すぎる自我のために身が締め付けられ苦しい人は、自我の光を緩めればよい、そうすれば一息つけるでしょう。その技法はそれぞれの心理療法が持っていると思います。すでに実際に活用しているはずです。

しかしながら、その技法に縛られず、可能性に対しては常に開かれた態度を持つべきです。個はすべて違います。似通った傾向を持とうとも、まったく同じではありえないのです。したがって実際の治療においては個を尊重し、一方学問的にはその傾向の把握と、治療には害悪になる一般論的見地が必要となるのです。

宗教においては神の存在が人間の救済につながります。中世においてはこの傾向が強かったようです。では、現代においてはどうか?神なる存在が人間に与える影響は大です。しかし、それだけでは納得できない部分も出てきました。そこで、そこに科学的なアプローチも加わりました。しかし、それでも釈然としない。では、どうするか?

私は自身で考えるしかないと思います。神とは? 人間とは? 自分とは? 確かに何らかの答えを与えてくれるものは存在します(本とか人の言葉とか・・)。それに共感もするでしょう。しかし、それは借り物でしかない、とも言えます。それらの考えを自身に定着させるには、それなりの思考と経験が必要とされるのです。人は各個人の神話を持たなければならないようです。個人に根ざした真理を持たなければならないのです。

(人が何かに対し理解を深めようと思えば、その問題をかなり咀嚼したり、経験する事が必要なように思います。本に書いてある事柄を理解しようとしても、その問題が深ければ、何度も頭の中で咀嚼し、自身の血肉にする必要があるでしょう。言葉を借りるだけでは、心に根付きません。理解も深まりません)

それを可能にするのが心理学です。(この場合、心理療法か・・・)
カウンセラーはクライエントに答えを与えません。答えを出すのはクライエント自身です。カウンセラーは自己の経験と技術、人間性や責任を背景に、クライエントと共に歩みます。手は繋ぐかもしれませんが、導きはしないのです。

クライエントがこけても、立ち上がるのを無償の愛を持って待つ。崖から落ちそうになれば、それは全力を持って阻止する。やがてクライエントがひとり立ちし、手をはなし旅立つのを待つ。それによってカウンセラー自身も成長する。互いの人間性に賭け、互いがより高みに達するのです。
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by sigma8jp | 2008-12-01 02:25 | ユングの「精神の錬金術」 | Comments(0)