カテゴリ:高次な身体と霊的フィールド( 2 )

呪術師の 「力の約束」

力の約束はいつも守られる約束である!

《 約 束 》
 力の約束は自己の時代 the age of the self にあって行き渡っている闇への回帰の信号灯である。それは人間の限界なき力 potential のかすかな光であり、スピリットの無限のデザインが到達しうる限りのところから、我々のために明るく輝いている。

力の運動は人間の機械的な把握を乗り越える。そしてそのリズムは第1の注意力の世界で、測りがたい神秘として、またはげしい矛盾として己を映している。いかにこの複雑さから意味を取りだそうと闘っても、スピリットのデザインは我々に知られることはない。

力の約束はこの測りがたい神秘の中心に座している。このようなものとして、同じ様な不調和を持つ。遍く不変の範囲と適用を持ちながらも、人はいかにして力の約束がそれ自体、地上のあれこれの人間の運命へと翻訳されるのかは、決して予言することはできない。

我々は戦士として、敬意と謙虚さを持ち、この矛盾に同意する。我々は理解を越えた神秘の手中にあることを認める。完璧な impeccable 解放の態度を現実にすることによって、我々は力の謎をもっとも良く尊重する。この離脱 detachment の力ある意味はトルテックの戦士の定式の言葉に雄弁に述べられている。

わたしは自分の運命を支配する力にすでにひき渡されている。
そして何ものにもしがみつかない。
だから何ものも守るべきものを持たない。
わたしは思考を持たないがゆえに見る。
何も恐れないがゆえに、わたし自身を想い出す。
離脱し detached、そしてくつろぎ at ease
矢のようにイーグルの脇を駆け抜ける、自由へと。

しかし戦士の同意は全面的で絶対的ではない。それもまた力の理解しがたいデザインの矛盾した本質を映し出しているからだ。知の道をゆく旅人として、私たちは完璧さをもって、また個人的責任を冷静に引き受けることによって、放棄 abandonment と解放 release が調和しなくてはならないことを知る。回帰への究極の旅は完全なバランスの中で巧みに混合された節度 sobriety と放棄 abandon の同じ重みなしには成し遂げられない。

ふらつく矛盾の極の間で微妙に漂いながら、我々は戦士-呪術師としてこの調和を達成する。力への放棄の感覚を、最も大切なエネルギー資源の節度ある管理 conservation と釣り合わせる。真の抽象的戦士として、我々は意図へ自己を再結合するために無慈悲に relentlessly 闘わなくてはならない。我々の運命の機械的な詳細 mechanical details と格闘するのではなく、どこへ力が導こうと完璧な道を旅する努力をすることによって。

力の約束は輝く光としての全ての男と女に作られた約束である。固体的物体の世界を越えた不変の現実へ全ての人間 humanity を結びつけるのは、揺れることのない不動者 constant である。我々の生活が個々の状況でいかに異なって見えようとも、我々個人個人は意識の同じ契約の意味するところにより、普遍的に祝福されているのである。それは普遍で否定し難い、必ず守られる力の約束なのである。


《 自由の鳥 》
 隠された直観的レベルで、力の約束の瞬く信号灯が我々一人一人をじらしている tantalize 。抽象への回帰の個人的な旅をイニシエートするために我々を誘いながら。不幸にして、人類はナワールのこれら永続する瞬きを無視するように条件づけられてしまった。第1の注意力の複雑さによって、多くの人が抽象の親しみ安い一つの表現に完全に焦点を合わせ続けている。その結果、人はそのすべてのすることのただなかに、さまよい続けている。

たいていの男女が知覚する唯一のことは、自分たち自らが創造した宇宙の限界である。それは固体的物体の世界、トナールの世界である。人間の多数は生涯親しまれた世界の安全な境界の中に幽閉されたままである。己の作際した知覚のバリアを越えて広がろうとはしない。

我々を力から分離しているのは、全てを消費する all-consuming 自己の感覚である。それは我々の持ち得るエネルギーを漏らし、我々の自己-投影の鏡で取り囲む。日々目前で魔術は飛翔し、踊る。しかし我々はあまりに自己に関わりすぎている self-involved。 そしてその現前を認知するための力が流れていってしまっている drained of。

知に到るためには、この自己-投影のトンネルから、未知 the unknown と不可知 the unknowable の想像不能の拡がりへと出て行かねばならない。トナールの世界へ我々を幽閉するものから自身を解放させることによって、条件づけられた期待 expectations の彼方に我々の知覚を拡げなくてはならない。

トルテックの伝統にある戦士として、我々は自己のエネルギーを集め、力の約束の光へと自らを開く。スピリットへの勝利 victoriousへ我々を戻す力の通りが存在するという不可能な展望 impossible prospect へ我々を明け渡す release。

そのような奇跡的な勝利の約束はナワリズムの信号灯であり、戦士の知の道のエッセンスである。地上のあらゆる生き物はチャンスを持つチャンスを持っている。我々個人個人が究極の創造的勝利 creative victoryを実現する隠れた能力を持つというチャンスである。この回帰への魔術の戸口は自由の鳥のメタファーとして戦士の対話を通して見られることができる。

トルテックの言によれば、この神秘的な鳥は全ての人の上を沈黙のうちに舞い上がり、力の約束の意識をその身にたずさえている。この畏るべき生き物は我々一人一人の上を滑空し、意図の構築物を通してその現前を認知する準備ができた者に普遍的希望と目的をもたらす。

ひとたび知覚されれば、自由の鳥はしばしその飛行のうちに休息し、そのときは個人として我々は選択しなければならない。我々はその鳥を過ぎ去らせるかも知れない。あるいは従う勇気を奮い起こすかも知れない。もし留まることを選択するならば、自由の鳥は舞い上がり、決してまい戻ることはない。もし従うことを選択するならば、戦士と呪術への不可解な道へ我々はとりかかることになる。

そしてそれでも、知の神秘的道に関する他の全てのことと同様、このトルテックのメタファーは混乱させる矛盾を持っている。戦士は全てのことにも関わらず、誰にとっても真実に戦士を「選択する」ことはできないということを知っている。それはちょうど、他のものから区別してある選択をするときに優越性を認めるのが馬鹿げたものであるのと同様である。

我々はみな力の手の内にある。そして我々の決定に対して誤っているとか正しいとかいう断言的な categorical 権利は存在しない。しかしながら我々は選択する可能性がある。however we may choose

見る者は、すべてが平等である、トナールの領域においてはなにも重要ではないことを理解している。我々一人一人は自らの運命 fate の複雑さによって、結びつけられている【原語:is bound 他に「方向づけられている」「決心している」など】。我々が自由の鳥とともに行こうとも、それとも留まることを選択しようとも、何ものも力の約束が永遠に不変 constant であり続ける事実を変えることはできない。


《 戦士であることを選ぶ 》
  戦士であることを選ぶ、ということは実は選択などではない。たとえ信じることの中に我々自身を欺き入れることは可能であるとしても、自由の鳥に従う決断を理解し、コントロールすることは可能である。

その選択は我々の意識的コントロールを越えた神秘のたんなる別の反映 reflection である。知の道へ我々を導くのは力である。そして我々のできる最大限のことはそのデザインに同意する acquiesce ということである。

見ることによって、戦士は決定が真実にはトナールの世界に属してはいない、ということを理解する。世界の記述は人間がするように信じることを人間に訓練する。しかし人間はその選択をそういう風にコントロールすることはできないのである。

決定 decision はナワールに属している。そこではコントロールと理性 reason の概念は意味を持たない。地上を歩く人間として、我々は選択し、それでも選択しない。これは戦士の知の道のもう一つ別の基本的な矛盾である。

トルテックの視点からすれば、知に接続する access ために「選択する」ことは単に不可能である。スピリットが前に踏み出すように決定するのを避けることもまた不可能である。力へと到達すること business はたんに操作しうるすること doingではない。

戦士はこれを理解し、了解不能のしないこと not-doingとして、知の道へ接近する。彼らの力の通りを機械的にコントロールする闘いをする代わりに、戦士はその旅のエッセンスを何もコントロールしないことによって命令する。

この意味で、選択する戦士の状態 warriorship は条件づけられたコントロールの行為というよりは、無条件の解放 unconditional release の行為である。知の抽象的順序はいかなる人間の把握も越えている。

そして戦士は敬意と究極の謙虚さをもってこの事実を受け入れることにより、自らを自由にする。力は存在する。力は運動する。これらが力の約束への途上にあって唯一確かに知っておくべきことがらである。
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by sigma8jp | 2008-12-25 03:40 | 高次な身体と霊的フィールド | Comments(0)

ヤキ・インディアンの呪術の世界

 ドン ファンの教え:ヤキの知の方法は1968年に初めて刊行された。その30周年を機に私はこの著作自体についていくらか明確にしたい。また真剣で永続的な努力を何年か続けたあとで達したこの本の主題についての一般的な結論を述べてみたいのである。

この本はアリゾナ州とメキシコのソノラ州で行った人類学のフィールドワークをもとにしている。ロサンジェルスのカリフォルニア大学人類学で卒業論文を書いているとき、私はメキシコのソノラからやってきたヤキインディアンの老シャーマンと出会うことになった。彼の名前はファンマトゥスといった。

この老シャーマンを中心的情報提供者として人類学のフィールドワークができないか、私は人類学部のいろいろな教授に相談した。誰もが言うことには、フィールドワークについて考えるよりも一般的に要求される学術的主題の山を優先するべきだし、筆記、口述試験という卒業論文の形式を優先するべきだということだった。

教授たちはまったく正しかった。私としては彼らのアドヴァイスの論理性を見て取るのに説得される必要はなかった。ところが、一人、クレメント メイガン教授はフィールドワークへの私の関心に拍車をかけてくれたのだ。この人は人類学的調査を遂行するよう奮起させてくれた人で、私は完全に信頼しなければならない。

自分にとって開かれる可能性にできる限り深く沈潜するよう促してくれた唯一の人であった。彼の促しは考古学者としての個人的な経験にもとづいていた。時は本質的なものであり、傾きつつある文化によって獲得された知の膨大で複雑な領域が、現代技術と哲学的衝動の衝撃のもとに失われてしまうのに、残された時間はあとほんのわずかしかないことを、自分の作業を通じて学んだ、と彼は言うのであった。

例として世紀の変わり目、今世紀の初期に登場した何人かの人類学者を取り上げた。彼らは高原地帯、カリフォルニアのアメリカインディアンの文化について、できるだけ素早くしかし方法的に、民族誌的データを集めたという。彼らが急いだのももっともである。というのは、とくにカリフォルニアのインディアン文化にあっては、その土着の文化の大部分に関する情報源がおよそ一代で消失したからである。

こういうことがあったときに、UCLAで社会学部のハロルド ガーフィンケル教授の授業に出席するという幸運にめぐまれた。彼は途方もないエスノメソドロジーの範型を与えてくれた。そこでは日常生活の実践的行動が哲学的言説の真の主題となっていた。そして調査される現象はすべてその独自の光の中で、その規則性や恒常性に従って調べられなくてはならなかった。

もし法や規則が判明にされるのであれば、それらは現象それ自体に固有のものと成らなければならなかった。従って、その独自の規則や構成を持つ一貫したシステムとして見られたシャーマンの実践的行動は真剣な探索の確かな主題であった。そのような探索はアプリオリに作られた理論の主題となる必要はなく、また異なった哲学的理屈の助けによって得られた題材と比較する必要もない。

彼ら二人の教授の影響によって、私は自分のフィールドワークに没頭していった。私の二つの衝動はこの二人の人間との出会いから引き出されたのだ。つまり、すべてが現代技術の寄せ集めの中に消失していく前に、ネイティブアメリカン文化の思考プロセスがとどまり続ける時間はあまりにわずかだということ。そして、なんであれ、観察される現象は探索の真の主題であり、最大の注意と真剣さに値する、ということである。

自分のフィールドワークにあまりに深く飛び込んでいったので、結局私は自分を後援してくれた人たちを失望させることになった。私は人のいない土地に立っていた。実際それは人類学、社会学、哲学、宗教の主題ではなかった。

私は現象のそれ自身の規則性と構成に従った。しかし安全な地点で抜け出す(emerge)可能性を持ってはいなかった。だからその価値やその価値の欠如を計る適当な学術的ものさしを手放すことで、全体的な努力と折り合いをつけることにした。

フィールドでやったことの記述は何にも換えがたいものだが、それは言ってみれば、インディアンの呪術師であるドンファンが古代メキシコのシャーマンの認識 cognition へ私を引き入れた、ということになるだろう。認識 cognition ということで、日常生活の意識 awareness に影響しているプロセス、記憶、経験、知覚、そして与えられたシンタックス(構文)の熟練的な使用を意味している。

認識の観念は当時私の最も強力な障害物であった。教育を受けた西洋人としての私にとっては、現代哲学的言説で定義されるような 認識 が人類全体にとって全てを含む同質的事態をわきにおいて、なお何かである可能性は理解し難かった。西洋の人間は文化的差異を考える。それは現象を記述する興味深い方法を説明する。

しかし文化的差異は我々に知られていない記憶、経験、知覚、言語の専門的使用のプロセスをなんとしても説明できないだろう。言い換えれば、西洋の人間にとっては一群の一般的プロセスとしての 認識 しかない。

ところがドンファンの系統の呪術師たちにとっては、現代人の認識も古代メキシコのシャーマンの認識も存在する。ドン ファンはこの二つを日常生活の全体的な世界と考えていた。それらは内的に異なったものである。あるとき、気づかないままに、自分の作業が人類学のデータを単に集めることから新しいシャーマン世界の認識プロセスを取り込むことへ神秘的に変化した。

そうした理屈を取り込むことは一つの変容を、あるいは日常生活の世界への異なった応答を含んでいた。この変容の最初のひと突きはいつも知的な献身 allegiance として生じた。たんなる概念として現れるが、疑いなく力に満ちた底流でもある何かへの献身である。これは次のようにドン ファンが言うとき非常に良く描写されている。

「日常生活の世界が我々に力を及ぼす個人的なものと見てはだめだ。我々を作り、また壊すものと見てはいけない。人の戦場は身の回りの世界との格闘にあるわけではないからな。彼の戦場はあの地平線の上にある。普通の人間には考えつかないところの中に、人が人であることを止める ところにある。」

その言葉を説明しようとして彼は言った。人間存在にとって唯一重要なことが 無限 との出会いだということを理解することはエネルギー的には避けようのないことなのだ。この 無限 という語をもっと扱いやすい説明に直すことはドンファンにはできなかった。 それは無限 lo infinito という漠然とした語によってしか具体化できない、いな言及することすらできない何かだった。

当時ドン ファンが私に対し魅力的な知的概念を与えていたのではない、ということを私はまず知らなかった。彼は エネルギー的事実 energetic fact と呼ぶ何かを記述していたのである。エネルギー的事実 とは、彼にとっては自分とその系統の他のシャーマンたちが 見ることseeing と呼ばれる機能に関わったときに到達した結論であった。このような仕方でエネルギーを知覚する能力はシャーマニズムの頂点の一つである。

ドン ファン マトゥス によれば、古代メキシコのシャーマンの認識 cognition へ私を案内する仕事は伝統的なやり方でなされた。すなわち彼が私にしたことは何であれ世代を越えてすべてのシャーマンの参入者になされたということである。

異なった認識システムの過程を内化することは、いつもシャーマンの参入者の全面的注意を私たちが死につつある存在者であることの理解へ向けることから始まった。ドン ファンと彼の系統のシャーマンたちはこのエネルギー的事実の完全な理解、この何にも言い換えがたい真実が新しい 認識 cognition を受け入れることに繋がっていると信じていた。

ドン ファン マトゥスのようなシャーマンたちがその弟子たちのために求めていた結果はその単純さによって手に入れることが難しいひとつの理解であった。つまり私たちは実際死に行く存在なのである。従って、人間の本当の戦いは彼の仲間の者たちとの間の戦いではない。そしてこれは戦いですらない。それは本質において、同意 acquiescence である。

私たちは意図的に無限に対して同意しなければならない。呪術師の記述では私たちの生は無限において始まり、それが始まったところ、無限 において終わる。私が刊行した著作で述べた過程の大部分は、新しい合理性の衝撃のもとで社会化された存在としての私のペルソナの自然なやりとり give and take に関わっていた。

私の作業状況で実際に生じたことは、新しいシャーマン的認識 cognition の過程を内化することへの単なる招待というよりも、もっと緊急な何かであった。それは一つの要求だったのだ。私のペルソナ的接触の境界を維持しようとして何年も闘ったあとで、その境界は負けた。

それらを保つ戦いはもしドン ファンとその系統のシャーマンたちがしようと望んだことの観点からすれば、意味のない行動であった。しかしながら、それは私の必要性から見ればとても重要な行動だったのだ。それは文明化された人なら誰でも持っている必要性であろう。つまり知られた世界の境界を維持するということである。

ドン ファンによれば、古代メキシコのシャーマンたちが持つ知覚の標識であるエネルギー的事実とは、宇宙のあらゆるニュアンスがエネルギーの表現であるということであった。直接にエネルギーを見ることのレベル plateau から、それらのシャーマンたちは宇宙全体が二つの力、対立し同時に相互補完的な二つの力から成っているというエネルギー的事実に達した。

彼らはそれらの二つの力を生きているエネルギー animate energy と生きていないエネルギー inanimate energy と呼んだのだ。彼らは生きてないエネルギー inanimate energy が意識 awareness を持っていないことを見た。意識はシャーマンたちにとっては 生きているエネルギー の振動する状態だった。

古代メキシコのシャーマンたちは地上の生き物全てが振動するエネルギーの所有者 possessor であることを見たはじめての人間だとドン ファンは言った。彼らはそれを有機的存在 organic beings と呼び、そうしたエネルギーのつながりと境界を設定するのは有機体自身であることを見た。

彼らはまた有機体の境界から自由で、それ自身のつながり cohesion を持つ、振動し 生きているエネルギー の集まりがあることも見たのだ。彼らはそれらを非有機的存在と呼んだ。人間の目には見えず、それ自身を意識し、有機体の粘着力とは別の粘着力によって決定される統一体を所有するつながったエネルギーの束として、彼らは描写した。

有機的であれ、非有機的であれ、生きているエネルギーの本質的状態とは宇宙に偏在するエネルギーを感覚データに変えることであることをドン ファン マトゥスの系統のシャーマンたちは見た。有機的存在の場合であれば、この感覚データは解釈体系に変換され、そこでエネルギー一般は分類され、その分類がどんなものであれ、与えられた反応が分類に割り当てられる。

呪術師の確信とは、非有機的存在の領域において、エネルギー一般が非有機的存在によって変換される感覚データはその定義により、それがどんなものであれ理解不能の形に解釈される。

シャーマン的論理学によれば、人類の場合、感覚データを解釈する体系 system はその認識 cognition である。彼らは人間の認識が一時的に temporarily 解釈されうるものであると主張する。なぜならそれはたんに分類システムであり、そこでさまざまな反応は感覚データの解釈に従って分類されてきたのである。

この解釈が生ずるとき、呪術師たちはエネルギーが宇宙に漂うがままに直接に知覚されうることを主張する。呪術師たちはエネルギーを直接知覚することを目で見ることの効果として描写した。とはいえ、目は最小限の関わりしか持たないのであるが。

エネルギーを直接知覚することによって、ドン ファンの系統の呪術師たちは光り輝くボールの外観を持つエネルギーフィールドの集まりとして人間を見ることができた。そうしたやり方で人間を観察することで彼らシャーマンたちは日常性を超えるエネルギー的結論を引き出すことができたのである。それらの光り輝くボールはそれぞれが途方もない大きさを持ったエネルギーの塊に個別的に繋がれ connected ていることに気づいた。

その塊は宇宙に実在し、それを彼らは意識の暗い海 the dark sea of awareness と呼んだ。そして光り輝くボールよりももっと明るい点で、それぞれのボールはその 意識の暗い海 に結びついている attached ことを彼らは観察したのである。彼らシャーマンたちはその結節点を集合点 assemblage point と呼んだ。それというのもそこで知覚が生じるからである。

その点で自由なエネルギーの流れが感覚データに変わり、このデータが今度は我々を取り巻く世界として解釈されるのである。どのようにしてエネルギーの流れが感覚的データへ変換されるのがドン ファンに説明を求めたとき、彼はこう言った。シャーマンが知っている唯一のことは、意識の暗い海 the dark sea of awareness と呼ばれるエネルギーの巨大な塊が、感覚データへのエネルギーの転換を誘い出すのに必要なものを何でも与える、と。

そしてそのようなプロセスはもともとのソース source の広大さからして、解読できないということだった。 意識の暗い海 に彼らの見ること seeing の焦点を合わせたとき、古代メキシコのシャーマンたちが発見したのは全宇宙が自身を無限に広げる光り輝く束 filament から出来ているということだった。シャーマンたちはそれらをお互いに触れずに独自の道を行く光り輝く束として記述した。

彼らはそれらが個別的な束であり、それでも考えられないほど巨大な塊の中に集まっている grouped ものであることを見た。その振動でシャーマンたちが気に入り観察した意識の暗い海に加えて besides そうした束の塊のもう一つを彼らは意図と呼んでいた。

(Another of such masses of filaments, besides the dark sea of awareness which the shamans observed and liked because of its vibration, was something they called intent) そして一人一人のシャーマンは彼らの注意力をそのような塊に向ける、これを意図すること intending と呼んだ。

宇宙全体が意図の宇宙であることを彼らは見た。そして意図は彼らにとっては知性と同じもの equivalent だった。従って彼らにとっては宇宙は至高の知性の宇宙だった。一部は 認識的世界 cognitive world から彼らは結論した。振動するエネルギーはそれ自体を意識し、究極において知的である intelligent であると。

その意図の塊は、この宇宙の全ての可能な変化と全ての可能な変動の原因であることを見た。それは恣意的で盲目な状況のためではなく、エネルギーそれ自体の流れにレベルで、振動するエネルギーによってなされる意図することのためである。

ドン ファンが言うには、日常的世界においては世界を解釈するような仕方で人間たちは 意図 と 意図すること を使っている。その例として、私の日常的世界は私の知覚によって支配されているのではなくて、私の知覚の解釈によって支配されている事実にドン ファンは注意を促した。彼は 大学 university という観念を例にとった。

当時私にとっては最も重要なものだった。大学 というのは私の感覚で知覚できるような何かではないと彼は言った。私の視覚や聴覚、味覚、触覚、臭覚はどれも 大学 についての手がかりを与えるものではないからだ。大学 は私の 意図すること の内でのみ生ずる。そしてそこに構築するために、意識的下意識的に文明化された人間として知りうる全てのことを利用しなくてはならない。

光輝く束から出来ているという宇宙のエネルギー的事実から、それ自体で無限に広がるこれらの束のそれぞれがエネルギーフィールドであるとシャーマンたちは結論することになった。それら光り輝く束、あるいはむしろそうした性質のエネルギーフィールドが集合点に集まってくる converge のを彼らは観察した。集合点の大きさが現代のテニスボールのそれに等しいので、ただ限られたエネルギーフィールド、とはいえ無数のそれがこの点に集まって行く。

古代メキシコの呪術師たちが 集合点 を 見た とき彼らが発見したのはエネルギーフィールドの衝撃が 集合点 を通って行くとき、感覚データに変換され、そのデータが日常世界の 認識 cognition へと解釈されるということだった。彼らシャーマンたちは人類にとってはその 認識 が同質なものであることを説明した。

すべての人間にとって 集合点 は我々がそうであるエネルギー的輝きの領域の同じ場所に位置しているという事実によってである。それは光り輝く玉の境界に接して私たちの背後、肩胛骨の高さで腕をのばしたところにある。 集合点 を 見ること -観察で、その 集合点 が通常の眠りや極度の疲労、病、向精神性の植物摂取によって位置を変えることに古代メキシコのシャーマンたちは気づいた。

集合点 が新しい位置にあるとき異なったエネルギーフィールドの束 bundle がそこを通り、集合点 はそれらのエネルギーフィールドを感覚データに変え、知覚すべき新しい真実の世界を結果として与え、解釈せざるをえない。新しい世界のそれぞれはそうしたやり方で全てを内含する all-inclusive 世界であり、日常的世界とは違っているがしかし人がそこで生き、かつ死ねるという点で完璧に似ていると彼らシャーマンたちは主張した。

ドン ファン マトゥスのようなシャーマンにとって、意図することの最も重要な訓練とは集合点を意図的に動かすことを含んでいる。そうやってエネルギーフィールドの全集積 conglomarate に存在するあらかじめ決まった地点に達するわけである。この全集積が人間を創っている。つまり何千年もの探索を通して、ドン ファンの系統の呪術師たちは人間がそうである光り輝くボールの中にある鍵となる位置が存在していることを発見した。

そこへ集合点を移動させることができる。そしてそのエネルギーフィールドの爆発の結果まったく真実な新しい世界を創ることができる。それらのいくつかの世界、またはすべての世界へ旅する可能性がすべての人類にとっての遺産であることは エネルギー的事実 であるとドン ファンは断言した。

ちょうど問いがなにか問われるべきものとして要求されているように、それらの世界は訪ねられるべきものとなっており、呪術師あるいは人間がそこに達するために必要とするものは 集合点 の運動を意図することだけであると彼は言った。

意図 に関する別の問題、しかし宇宙的な 意図すること のレベルに移し置かれた問題は古代メキシコのシャーマンたちにとってはエネルギー的事実なのだが、それは私たちがたず宇宙自体によって押され、引かれ、試されている tested ということである。一般的に宇宙というのが最大限捕獲的 predatorial であるということも彼らにしてみればエネルギー的事実である。

しかしそれは略奪したり盗んだり、傷つけたり、あるいは自分の獲物として他者を利用するという我々が理解する意味ではない。古代メキシコのシャーマンにとって宇宙の捕獲的状況とは宇宙の意図することが意識をいつも試しているということを意味する。彼らは宇宙が無数の 有機的存在 と 非有機的存在 とを作り出していることを見た。

それらに圧力を及ぼしながら宇宙の力はそれらの意識を高め、こうして自己に対する意識を持とうとしている。したがってシャーマンの 認識世界 では意識が最終的問題となる。ドン ファン マトゥスと彼の系統の呪術師たちは 意識 awareness を人の全ての知覚的可能性について慎重に意識している conscious 行いとみなしていた。そのメンバーの知覚能力を制限するように見えるなにがしかの文化によって述べられたたんなる知覚的可能性ではない。

ドン ファンの主張するところによれば、人間の全知覚能力を解放し、あるいは自由にすることはいかにしてもその機能的行動 functional behavior によって干渉されるわけにはいかない。実際、機能的行動は新しい価値を獲得するので異常な問題となるだろう。この状況下での機能はもっとも命令的な必然性 demanding necessity となる。

観念性とか偽の目標から自由になれば、人はただ彼を導く力としてただ機能 function を持つ。シャーマンたちはこれを 完璧さ impeccability と呼ぶ。彼らにとって、完璧であることは最大限のこと、そしてまだもう少しすることを意味する。エネルギーが宇宙に漂っているのを直接 見る ことによって、彼らは機能を導いた derived 。ある仕方でエネルギーが漂うと、エネルギーの流れに従うことは彼らにとって機能的となるのである。

従って、機能とはシャーマンたちが彼らの 認識世界 のエネルギー的事実に面と向きあうための共通分母である。 呪術師たちの認識 の全単位を訓練することによって、ドン ファンと彼の系統のシャーマンたちは奇妙なエネルギー的結論に達することになった。

それは最初のうちは彼らとその個人的状況にのみ関係していると思われたのだが、もし注意して試されたならば私たちの誰にでも適用可能なものになりうるということであった。ドン ファンによれば、シャーマンの探究の極地は究極のエネルギー的事実と考えられる何かであり、それは呪術師ばかりでなく、地上のあらゆる人間にとってそうなのである。これを彼は 決定的な旅 definitive journey と呼んだのだ。

個体的な意識がシャーマンの 認識 へと個体的に結びつけられて、有機体が一貫したユニットとして機能する限界、つまり死を超えて維持されうる可能性、これが 決定的な旅 である。この超越的な意識は古代メキシコのシャーマンたちによって、宇宙に漂うエネルギーのレベルで、このようにして知られるもの全てを超えて行き到達する人間の意識の可能性と理解された。

ドン ファン マトゥスのようなシャーマンたちは彼らの探究を最終的には 非有機体 となる探究と定めていた。つまりそれ自体を意識するエネルギー、一巻した単位として、しかし有機体をもたずに行為するエネルギーである。彼らは自分の認識 cognition の側面 aspect を完全なる自由 total freedom と呼んだ。そこでは意識は実在するが、社会化 socialization や統辞法 syntax の枷から自由なのである。

これらが古代メキシコのシャーマンの認識 cognition に私が没入したことから得た一般的結論である。『ドン ファンの教え:ヤキの知の方法』の出版後何年もしてから、私はドン ファンが提示していたものが完全なる認識的革命 cognitive revolution であることを理解した。続く著作で私はこの認識的革命を成し遂げるための手順を与えようと試みた。ドン ファンは私に生きた世界とその世界での変化の過程を知らしめようとしていた。

その事実の観点からして生きた世界は止まりはしない。したがって、結論は想起のための道具、あるいは操作的構造にとどまる。それは 認識 cognition の新たな地平への跳躍板という機能なのである。
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by sigma8jp | 2008-12-25 03:24 | 高次な身体と霊的フィールド | Comments(0)