カテゴリ:ユングの「個性化とマンダラ」( 4 )

個性化と自我の肥大

  ユングは最終的には実存主義者ではなく実在論者の立場を取ったと考えていますが、実存主義を理解していたことは確かであると思います。ユング心理学の言うところの「自己」とは、極論すると「神」または「全宇宙」と言い換えても良いものです。

ユング学派の言う「個性化」が進むとフロイト学派の言うところの自己同一性は高まって行くのですが、その結果心理的変容の1つの最終過程である「自己」との一体感を感じる瞬間が起きます。これをユング心理学ではエナンティオドロミーと呼びますが、この際に経験者には自我肥大(エゴ・インフレーション)という物が起きているとされます。

この自我肥大という言葉は、言葉だけでも良い印象は無いと思いますが言ってしまえば、「自分と宇宙が一つになったような全能感」が起きます。私の経験からですが、頭の片隅ではこれは一種の錯覚に過ぎないと気付いているのですが、確かに自分がまるで「神」になったかのような気持ちになり、一種傲慢になりました。

そして非常に分かりにくいと思いますが、同時にそれは「死」に非常に近接した状態、生と死の交わる1点に自分が立っている感覚であり非常に危険です。別のある心理学者(セラピスト)の言葉を借りると「自分が100%死ぬと分かっていた」という表現も可能です。(彼の場合は私と比較し幾らかポジティヴな状態であったようですが。)

この異常な精神状態が、おそらくニーチェの言うところの「永遠回帰(永劫回帰)」になるのであろうと考えています。心理的変容が未経験の哲学・文学系の方々は、この永遠回帰を文章・文脈的に理解しようとする傾向があるようですが、この永遠回帰思想はそれだけでは断片的理解に過ぎず、彼のツァラトゥストラには、むしろこの「死を伴った全能感」をニーチェが克服しようとした時に表された言葉が出ているだけと考えています。

ニーチェの「ツァラトゥストラ」含め彼の作品は皆、一種の高揚感がありまた傲慢とも言える全能感に満ちていることがありますが、この原因には彼の梅毒罹患による脳の器質的破壊があったかもしれませんが、ユング派の言葉を借りれば個性化過程における自我肥大による影響もあったのではないかと思います。

ニーチェの文体は非常に力強いのですが同時に一見、混乱・破綻したような文章になっています。これは自我肥大を伴う個性化課程を経験した者のみは「ああ、そうだよね。同じことを経験しているんだ。」と読み解けるようある程度意図的に設計されていると思います。
[PR]
by sigma8jp | 2008-12-22 16:31 | ユングの「個性化とマンダラ」 | Comments(5)

自己と個性化の過程 2

2.自己の表現、そのかたち
  「自己実現」「個性化」が人間としての究極の目的であることは疑いようのない事実ですが、そこに到達点があるかというと、そうではありません。人は自己実現の過程で、ある種の理想像のようなものを設定するでしょうが、その像は永久不変なものではなく、むしろ日々変化するものでしょう。

自己実現は常に発展してやまない可能性に満ちており、それゆえ、その『過程』を歩むことに大いに意義があるのです。この可能性に満ちている点が、人間の優れた点です。人は常に進化する可能性を持っているのです。これは神にも悪魔にもない、人間の財産です。

そして、地球上の進化の頂点に立つ人間の誇りであるように思います(「誇り」が「驕り(おごり)」になってはいけませんが…)。我々は自身の魂そのものを見ることができないように、自己そのものを見ることは出来ません。しかし、自己の象徴的表現を通して、その働きを知ることが出来る、つまり意識化することが出来るのです。

自己の象徴は様々なカタチをとるのですが、それが人格化した姿としては、男性における「老賢者」、女性における「至高の女神」などが挙げられます。この姿は個人の夢にも、世界中の物語の中にも現れます。主人公が苦難の旅の中で身動き取れない状況に陥ったとき、老賢者や至高の女神は、その閉塞を打ち破るだけの、価値ある助言や忠告を与えてくれます。(物語やゲームなどでは、閉塞を打破できるアイテムを与えてくれたりします)

実際、自我の力で問題を解決しようと努力に努力を重ね、しかし解決には至らず、疲弊し、まさに絶望しようかというとき、我々の知らない自己に働きが起こり、我々の知りえなかった高次の解決法を授けてくれる場合は多いようです。(この辺は、禅の公案にも通じるものがあるかもしれません。禅の場合、考えて考えてなお分からず、ふと考えることを放棄した瞬間に、(葉が落ちるなどの)ふとした自然現象などをきっかけに、悟りを得る場合も多いように思います)

この自己の働きと、老賢者の像は、まさに相重なるものです。我々の知らぬ、未知なる叡智を示し、閉塞状態を打破する「ヒント」や「きっかけ」を与えてくれます。(とはいえ、自己や老賢者の言うことに「聞く耳」を持っていることが必要となってきますが…)

老賢者の像は、時に「老人の知恵を持った子供」として現れることがあります。このモチーフは、夢などにもよく現れますが、一見、弱そうであったり、価値の低いものに見えるものが、実際には価値ある知恵を持つ存在であるところが非常に興味深く感じます。また、別の見方として、子供という可能性に満ちた姿をとっている点も興味深いです。

また、現実問題でも、若い者や子供の意見の中にも、有用な知恵が隠されている場合もあるし、若くして経験を積んだ者が深い洞察や見識を示すこともあります。そしてこのような時、受け取る側が、若さや幼さを理由に、その知恵を簡単に無視したり否定したりすれば、大事な宝を失うことにもなるでしょう。(ここでも「聞く耳」が必要になります)

何度も言いますが、自己実現は素晴らしいものですが、同時に苦難の道でもあります。
ユングが「自己実現は高くつくものだ」と言ったように、実際には出来れば避けて通りたいくらいの苦難の道です。自己実現の道を歩もうとしてからも、投げ出したいと思ったり、実際一時的に投げ出すこともあるでしょう。

そのことを経験的に知らずに、安易に自己実現を勧めれば、それをなす側も、それに付き合う側も、その苦しさに耐えられなくなるのではないでしょうか。あるいは、実際に自己実現の過程を歩んでいる人は、安易に勧めないだろうし、また付き合うだけの強さや耐性も、ある程度持つと言えるかもしれません。

ある種の症状に苦しむ人は、苦しい自己実現の道から逃げ出そうとしているために、ほかの意味の苦しさを味わっている、という見方も出来ます。すべきでない苦労をしている、と言ってもいいかもしれません。しかし、言い方を変えれば、本人も自覚していない実現すべき可能性を持った人だ、という言い方も出来ます。こういうことを考慮すると、同じ苦労をするにしても、本来取り組むべき仕事と向き合い、その道を歩む方が建設的であるように思われます。

そして、こういう場合、いかに自己や無意識に耳を傾けるか…ここが大事なようです。自分が無価値なように思っているものの中に、何かしらの可能性を見出し、「なんだ、こんないい面もあったのか」と気づくと、人間としてより成長できる面もあるでしょう。そういう仕事を通して、自分に欠けているものを補完し、全体性に近づいていくのです。

逆に言えば、外向型の人が内向型の人を簡単に馬鹿にしたり、直観を主機能とする人が感覚機能を簡単に蔑視したりするのは、せっかくの可能性を殺しているともいえます。ある意味では、自分の劣等な部分と対面し、それをなんとか統合しようとする努力が「個性化の過程」「自己実現の過程」だと言えるのですが、このような統合性を示す例として「男と女の結婚」や「男女の結合」、「陰と陽の結合」などがあります。これは夢や物語のモチーフであるとともに、宗教的なモチーフでもあるように思います。

確信犯的に脱線します。
このように人間としてより成長するための姿としての「結婚」を考える場合、現代の現実世界の結婚に違和感を感じます。現実はそう甘くない、とか言うのは簡単です。そう、簡単なのです。簡単にくっついたり、別れたりしていいのでしょうか? その未熟さに気づいているのでしょうか? 気づいていても逃げているのでしょうか?(まあ、簡単に離れているわけでもないでしょうが…。それに、離れない事がいいこととは、決していえません)

その昔(昔でもないかもしれませんが)、離婚した人が不当に低く見られたことを考えれば、気の毒に思いますが、それを歪曲して、「離婚率が高いほど文化が高い」などと声高に言う人がいる始末。その背景には、低いアニマ・アニムスがあるのかもしれません。更に進んで、「同性愛は素晴らしい」なんて団体まであり、それが国に認められたりする。これにも私は違和感を感じます。何でもかんでも簡単に大歓迎!!なんてのは、いかがなものか?考えることを放棄していないでしょうか?

「人間としての権利」は守られるべきである。「趣味嗜好」の傾向も、守られるべきだ。しかし、本来取り組むべき仕事の象徴表現として、離婚や性的な不適応などが現れている場合、安易に表層の問題のみの解決にこだわることは、正しいのでしょうか? それよりは、そこに隠された真の問題を模索し、向かい合うほうが建設的であるように思います。

離婚や、性の不適応や、同性愛者であることが理由で、人間としての権利を奪われたり、人格までも否定されたら問題ですが、だからといって、それが素晴らしい、と言っていいものではないように思います。それは、あまりに思慮の浅い行為ではないでしょうか。

繰り返しますが、まずは離婚や性的不適応、同性愛などの問題の背後にある「真の問題」を明確にしていくほうが意義深いように思います。逆に(意識的にか無意識的にかは別にして)、真の問題から逃げるために過剰に表層の問題にこだわるのはいかがなものでしょうか。それは安易な道であると同時に、本来ある可能性を殺してはいないでしょうか。不適応→適応という、成長の過程を奪ってはいないでしょうか。

そして、特に危惧すべきは、こういう問題を思想活動や政治的な運動に利用しようとする人たちが世の中にはいることです。この辺は十分に注意した方がいいと思います。(とはいえ、最後に何を選択するかは、本人のすべき仕事です。誰が代わってくれるものでもないし、誰かが誘導したりコントロールしていいものでもないでしょう。ただ、こういう考え方もあるという事です)

話を戻します。
このような二者の合一による全体性の象徴で、人格化されたものではないものに、『曼荼羅』があります。ここでは、統合による全体性が、幾何学的な図形として表れています。ユングもまた、自身の夢の中で、曼荼羅の夢を度々見たそうです。これはユングの著作にも残っています。

このような曼荼羅は、ある個人が心的な分離や不統合を経験している際に、それを統合しようとする心の内部の働きの表れとして生じる場合が多い、とユングは言っています。更にユングは言います「これは明らかに、自然の側からの自己治癒の企てであり、それは意識的な反省からではなく、本能的な働きから生じたものである」

そして河合隼雄氏も言います。「意識的には分裂の危機を感じ、あるいは強い不統合性を感じて解決策もなくて困っている人が、この曼荼羅象徴が生じることによって心の平静を得、新たな統合性へと志向していく過程を経験すると、人間の心の内部にある全体性と統合性へ向かう働きの存在、自己治癒の力の存在を感ぜずにはおれないのである」

自己の象徴としては、他に、「宝石」や「動物」があります。物語には、「宝石」を求めて冒険する話も多いようです。これは曼荼羅に共通する幾何学的な精密さと、得がたい高価なもの、という2点が強調された姿でしょうか。また、未だ意識化されない面が強調されると「動物」の姿で現れることもあるようです。無意識的要素は、夢の中などでも度々動物の姿などをとって現れます。
おとぎ話などで、この「動物」が主人公を助けることがあるのも興味深いことです。

---------------------------------------------------------

3.「時」
 「自己実現の過程」「個性化の過程」を歩もうとするには、「その時」というものがあるように思います。悩みに悩みぬき、あるときは逃避し、疲弊しながらも、なんとか自分の足で立とうとする、そんな「時」があるように思うのです。

ユングは「自己実現は高くつく」と言いましたが、その通り、自己実現は偶然出会う幸運でもなければ、簡単なアドバイスにより達成されるような甘い話でもないようです。それよりは、理不尽な不幸に巻き込まれて、旅に出発し、幾たびの苦難を乗り越えながら、なんとかお宝を手にするといった物語との方が共通点が多いように思います。

そして、そこには危険が常に付きまといます。まさしくこれは冒険でしょう。そして冒険せねば得られぬ宝もあるのです。町で平穏に暮らす選択肢もあります。危険な冒険に出て宝を求める選択肢もあります。しかし、宝を欲するなら自分で得るしかありません。自己実現の宝に分け前はないのです。(苦難の旅を共にした――そんな場合は、素敵な分け前があるでしょう)

人生の後半において、自分の内面と対決せねばならない「時」が来るのは、容易に想像できるのではないでしょうか?世間から人生の成功者のように思われる人も、「その時」には、自分の空虚な心に気づき絶望するかもしれません。

会社から仕事を奪われた人が、「その時」には、仕事以外に何もなかった自分に気づき、立ち尽くすかもしれません。この「時」を、不幸だと嘆くか、新しい可能性だと思うかは、その人次第です。他人の慰めなど、虚しいだけです。

河合隼雄氏が『寿命の話』として、グリムの面白い話を提供してくれています。神様はロバに三十歳の寿命を与えようとしましたが、ロバは荷役に苦しむ生涯の長いのを嫌がったので、神様は十八年分短くすることを約束しました。

次いで、犬もサルも三十歳を長すぎると言って辛がるので、神様はそれぞれ十二歳と十歳分だけ短くしました。さて、そこに人間がやって来たのですが、人間が三十歳の寿命が短いというので、神様は、ロバ、犬、サルから取った年齢分、十八、十二、十歳の合計を人間に与えたので、人間の寿命は七十歳になりました。

人間はそれでも不満げに退いたのですが、この物語のよると、それ以来人間は、三十年の人間の生涯を楽しんだ後、あとの十八年は重荷に苦しむロバの人生を送り、続く十二年は噛み付こうにも歯の抜けてしまった老犬の生活をし、後の十年は子供じみたサルの年を送ることになったそうです。

これは非常に興味深い物語です。
「重荷に苦しむロバの人生」、「噛み付こうにも歯の抜けてしまった老犬の生活」、「子供じみたサルの年」…これらの喩えは笑えません。

このような物語は、論理的な人生の説明よりも、よほど胸を打つものだと思います。
読む各人に様々な情動を与えてくれるのではないでしょうか。

この物語を読むと、長寿を得た人間の不幸話の印象が強いのですが、現実世界に生きる人間の一人としては、せっかく得た寿命という貴重な「時間」を有効に使い、動物の人生を送るのではなく、せめて人間として年齢の分だけ価値ある人生を送りたい――そう思います。

ただ、三十歳までを生きた人生を、そのまま晩年にまで生きようとしても無理があるでしょう。実際の世界でも、「若さ」や「強さ」に固執し、それを売り物にしようと努める人もいます。しかし、それが限界に達したとき、急降下が始まります。この急降下が悲劇であることは容易に想像できるはずです。急降下ではなく、自負を持ってゆっくり下る、これが出来る人は「人生の達人」でしょう。

現代では、若さに固執するあまり老いを否定して生きたり、親の責任を放棄して、友達や兄、姉として子供と接するような人もいます。しかし、これが正しい姿なのでしょうか?老人の叡智、親の責任、それらはどこに消失してしまったのでしょう。少なくとも、未熟な親が未熟な子を育て、その子がまた未熟な親になり、未熟な子を育てる、このような無限ループだけは脱したいものです。

自分の責任を放棄した仮初めの姿ほど醜いものはありません。むしろ、年齢の分だけしっかり生きた人には、老いというよりは、そこに成熟がみられるように思います。そして、そこには老いを受け入れた人の美しさがあるのではないでしょうか。自己実現の「時」がいつ来るかは誰にも分かりません。このような「時」は、一般に言う時計で測定できるような「時」と区別して考える必要があるでしょう。

神学者パウル・ティリッヒは時を以下の二つに分けて考えています。ひとつは「クロノス」で、これは時計で測定できる時間です。一方、「カイロス」は時間の質の体験で、例えば、何かに熱中していて時計の時間的には長いのに、感覚としては瞬間にさえ感じてしまうような体験です。またある人は、「カイロス」を神が定めた「時」という言い方をします。ここでは、意義深い何かを感じる「時」、何かを成そうという内的衝動に駆られる「時」、運命の「時」とでもしましょうか。

自己実現の問題と、このカイロスの問題とは密接な関わり合いを持ちます。例えば、外向的に生きてきた人が、内向的な生き方にも意義を見出さねばならない「時」、家庭を顧みなかった人が家族の病気に際して、家族と深く向き合わなければならなくなった「時」、自分の中の弱さや欠損を否定したり抑圧して生きてきた人が、それに気づき、なお逃れられず、どうしても向き合わねばならなくなった「時」、これらのカイロスを大切にしないと、この人は自己実現の道を誤ることになりかねません。

しかし、カイロスを大切にするばかりに、クロノスを忘れてしまうと、外界に対して適応した態度であるペルソナを損なう恐れがあります。勤務時間、面接時間、劇場の開演時間、約束の時間、これらのクロノスを守ることは社会人として最低限の常識です。クロノスのみに囚われると大事なカイロスを見逃してしまうし、カイロスのみに囚われると大事なクロノスを見誤ってしまいます。
ここでも、バランスが問題になります。

そしてその「時」を見極めることも重要になってきます。カイロスをとるか、クロノスをとるかは、難しいところでしょうし、場面場面で違います。一般に、人はクロノス的な時間を(人生を?)過ごすことの方が多いでしょうが、何かに熱中したり、深く関わったりと、カイロス的な時間を過ごすこともありそうです。また、ある意味、必要でしょう。それが社会的には価値の低いものであっても、です。

自己実現もそうですが、人生の重要な「時」に、我々は不思議な現象に出会うことがあります。
それは偶然という言葉でくくるには、あまりにも意味深い現象であり出会いです。例えば、「夢のお告げ」と考えられるような夢を見ることもあるでしょう。祖母がやさしく笑う夢を見て、覚醒した瞬間に電話が鳴り、祖母の死を知ることもあるかもしれません。あるいは、夢の中でのアニマが現実世界にも現れるかもしれません。

このような『意味ある偶然の一致』をユングは重要だと考え、これを因果律によらない一種の規律であると考え、非因果的な原則として『共時性』(シンクロニティー)と名づけました。ここで注意せねばならないのは、「因果律によらない」ことです。上記のような例でも、祖母の夢を見たから祖母が死んだのではありません。仮に、地震の夢を見たとしても、その夢を見たから地震が起きた訳ではないのです。

このような共時性の現象を因果律によって説明しようとすると、偽(ニセ)科学や偽魔術、インチキ宗教などに陥ります。祈ってもらった「から」、症状がよくなった。信心しなかった「から」、悪くなった。そんな都合のいい解釈はないでしょう。良いことは神のおかげ、悪いことは本人のせいでは、自分の努力が価値の低いものになります。

せっかくの人生を愚弄されたようにも感じます。(まあ、実際問題、本人の努力を放棄して、仕事そのものを神頼みならぬ、神任せにして、放り投げている人もいるかもしれませんが…)また、それが過剰な商売や思想活動につながっていたなら、罪は重いと思います。

共時性の現象を見るときは、原因を探るよりは、その現象が当人にとって何を意味するのか考えるほうが、より建設的でしょう。
共時的現象が、何と何をつなぎ、何を教えようとしているのか? …それが大事なのかもしれません。

「個性化の過程」は自分だけの理想像、なるべき姿、人生の仕事を模索し、それを成し得ようとする作業であり、過程です。それは既存の価値観でもなければ、誰かに押し付けたものでもないし、世間の流行によるものでもありません。無意識の深遠から突き動かされ、自我と自己とがタッグを組み、人間の深い部分からの要求を、この我々が生きる世界で体現することです。
言い換えると、「自分だけの人生をしっかり歩むこと」、「自分だけのヒーロー、ヒロインになること」だと言えるかもしれません。
[PR]
by sigma8jp | 2008-12-01 20:25 | ユングの「個性化とマンダラ」 | Comments(0)

自己と個性化の過程 1

  人は生まれながらに自分だけの「人生の課題」を持っていると考えます。この人生の課題に取り組む事、自分の理想像に近づく事をユング心理学では「個性化」と呼びます。また、この「個性化の過程」に深く関わるのが「自己」という概念です。「自己」という言葉は生活の中でも使われますが、ユング心理学の定義とは些か(いささか)違うようです。これらふたつについて、勉強していきましょう。

---------------------------------------------------------

1.個性化の過程
  今まで、タイプ論や、ペルソナ、アニマ・アニムスについて述べてきましたが、これらが互いに補償しあう関係にあることは理解いただけたと思います。例えば、外向型と内向型、思考と感情、感覚と直観、ペルソナとアニマ・アニムス等、これらは対極に位置すると共に、お互いを補い助けます。つまり、相補的な関係にあります。

一人の人間が成長しようという時、これらのどちらかに頼るというよりは、両方をうまく統合することで事が成されるのは今まで述べたとおりです。一人の人間を考えてみると、意識は自我を中心に、ある程度統合性を持っており安定しています。それゆえ、一人の人格として成り立ち、「私」と言えるのです。また、外界も私を認識してくれます。

このように人間はある程度、安定しているものですが、その安定を崩してまででも、より成長しようとする傾向があります。これは個人にも言え、社会にも言えます。このような「個人に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程」を、ユングは『個性化の過程』あるいは『自己実現の過程』と呼んでいます。

もう少し違う言い方をしますと、「病気」や「苦悩・苦難」、「不適応」などを経験してでも、自分の足りなさや欠損、本来なるべき姿を知り、それを目指す…そんな道ともいえるでしょうか。私はカウンセリングは、症状をなくするというだけのものではなく、『人間成長の物語』だと考えます。
そしてこれこそが、『個性化の過程』であり、『自己実現の過程』なのです。

そしてこれがなされた時(完全にはなされぬものの、ひと山越えた時)、おのずと症状は消え去るものだと考えます。実際、病気や苦悩・苦難、不適応を乗り越えた人は、人間的にも成長しているだろうし、ある種の強さや見識を得ているだろうし、今までにない新しい生き方や価値観を得ていると思います。(ただ、それは安易な道などではなく、苦難の道です)


【自己の定義】
 ある人の意識が安定した状態であっても、つまり自我が変更する必要を感じなくても、「ある時」、無意識下の内的問題や現実世界の外的問題により、自らが変化することを強要されることがあります。(「価値観の崩壊と再構築」とか、「生き方の変更」とか、「誰かを赦すこと」とか、「認めたくないものを認める」とか…)

「中年の危機」といわれるものも、この類でしょう。
ある程度の地位を築き、自分でも、世間でも、ある程度社会で成功を収めたり、社会に適応していると思っている人でも、ある日、説明のできない不安に襲われる場合もあります。あるいは、長年適応した社会に新たな価値観が現れ、それとの適応を急に迫られ、困る場合もあるかもしれません。

前者は内的に深い部分からの要求であるように思いますし、後者は外的な要求のように思います。これは自我にとっては、非常に理不尽で、辛いことですが、それでも問題が投げかけられてしまいます。変われ、適応せよ、と要求されます。(「ある時」あるいは「その時」については、後述します)

このように、こころは(あるいは魂は)、自我の崩壊や既存の価値観の崩壊という危険を冒してまで、ひとりの人間としての成長を要求します。そしてこれを考えるとき、ユングは『自己』の概念を構築しました。

ユングは、自我が意識の中心であるのに対し、自己は意識と無意識を含んだ「心の全体性」であると考えました。自己は「意識と無意識の統合機能の中心」であり、「人間の心に存在する二面性を統合する中心」とも考えられます。

ユングはある論文の中で、「二重人格として生じるものは、新しい人格の発展の可能性が何らかの特殊な困難性のために妨害され、その結果、意識の障害として現れたものである」と述べています。私もある種の症状というものは、人間成長の可能性だと考えます。

そして、二重人格や幻覚、幻聴の場合、その「魂からのメッセージ」のようなものに耳を傾けるわけですが、ここで注意が必要です。別の人格や幻聴が言う事そのものに耳を傾けるわけではないのです。むしろ、その背後にあるものに耳を傾けるのです。この辺を読み違えると、無意識的要素に振り回されることになります。

例えば、誰かに見られている、と訴える人に対する場合、それが内的な現実であるのは確かなのですが、それが外的にも現実であるかどうか慎重に見極めねばなりません。盲目的に信じてもいけないし、頭ごなしに否定できるものでもありません。

カウンセラーがその言葉のみに注目してしまい、クライアントさんの無意識に呑み込まれてしまうと、罪もない周りの人を糾弾してしまうという最悪の結果に陥ってしまうかもしれません。しかしまた、その人にとっての内的現実を、そんなものは現実ではないのだ、といっても始まりません。

繰り返しますが、それはその人にとって(内的な)現実なのです。そこで、カウンセラーは、話を聞きながら、その訴えの背後にある真の問題に注目していくことになります。そして、そこから真の対決が始まります。

ユングはその臨床の中で、一般的には異常とも取れるものの中に、意識と無意識の持つ相補的な働きを見出し、心の持つ全体性(自己)を見出してきたのですが、これは彼が東洋の思想に触れることにより、より明確になったようです。

中国に『道(タオ)』という考えがありますが、この「相対立する陰と陽の相互作用と、その対立を包含するものとして把握される点」にユングの思想との共通点が見受けられます。

ユングは下記のように述べています。
「我々が意識の世界のみを重んじることなく、無意識も大切なものであることを知り、この両者の相補的な働きに注意するときは、我々全人格の中心はもはや自我ではなく、自己であることを悟るであろう」、「自己は心の全体性であり、また同時にその中心である。これは自我と一致するものではなく、大きい円が小さい円を含むように、自我を包含する」

このようなユングの考えは、自己が軽んじられた当時の西洋世界に対して述べられた言葉であるという認識が必要であると思います。勿論、ユングの述べることは事実にほかなりませんが、捉え方を間違えると危険に陥ります。つまり、自我を鍛えることなく、自己を過剰に評価するあまり、無意識の世界の魅力にとり憑かれると、危機が訪れるということです。

無意識の強烈な力を建設的に得ようとすれば、それなりの強固な自我の力が必要なのです。
(自我と無意識は基本的に相反する傾向を持つことを忘れるべきではありません)無意識界に呑まれた人の傾向としては、現実の認識が困難な点が挙げられるでしょう。例えば、時間や空間の認識、個と全体の認識、内界と外界の認識、などです。

また、強固な自我を持とうとして、自我と自己を同一化するという、自我肥大に注意する必要があります。これを注意するには、内的に見つめるというよりは、外界に反射した自分を見ることに頼った方がいい場合もあります。例えば、謙虚さを内的にうたっていても、外的には傲慢以外の何者でもない場合もあり、その傲慢さが無意識内の傲慢に根付いていることもあります。

カウンセラーは謙虚でなければなりません。しかしそれが実践できているかどうかの判断は、外界がするのであって、内的にするものでもありません。逆に、いくら内的に謙虚であっても、外的に傲慢であれば仕方ないのではないでしょうか。

ただ、その外界の判断基準が本当に正しいのか? という問題もあります。ある人は逃げを打つために、相手を傲慢だ、と糾弾する場合があります。この辺が難しいところです。これを避けるために、信頼できる外的判断基準(となる人)を持つ必要があるのかもしれません。(まあ、傲慢さについては、夢などを通して内界からも異議が出る場合もあるようです)

繰り返しますが、自己から何かを得ようと思えば、まず自我を鍛えることでしょう。鍛えられた自我が、自らすすんで無意識界への門を開き、自己との相互的な対決と協同を通じてこそ、自己実現の道を歩くことができるのです。強い自我なしに、無意識の迷宮に迷い込み、外界との関係を絶つのは危険です。また、いくら内的に大きな財産を得たとしても、自我無しに、それを外界に表すことは出来ません。

ましてや、自我の努力を怠り、自己に自我の仕事を丸投げしても価値は薄いでしょう。自我と自己はあくまで「協力関係」を持つことで補完されるし、力を発揮するのであって、片方だけで完全性・全体性を得られるものではありません。

但し、自己を軽んじても、危機に陥ります。いくら現実世界で地位や財産を築いたとしても、内的な地位や財産が欠落していれば、人生の後半や、環境の変化によって、価値観が変わったとき、一気に世界は崩れ、自分の存在意義を失うでしょう。

現代において、外的には適応しており、何の不自由もないように見られている人が、言い知れぬ不安に悩まされていることも多々あります。いわゆる、自分の人生に意味を見出せないケースです。

全自動洗濯機、自動のお風呂、各種交通機関、テレビ、パソコン、通信手段、様々な物が発明され、また日々進化しています。これにより我々は『時間』を得ました。しかし、これが「自分を見つめる時間」、「成長の為の時間」に使われているかというと、そうでもないようです。逆に、「逃げ」に使われている場合の方が多いのではないでしょうか?

(あるいは、余った時間が、自分のことを放って置いて、相手をよくしようという態度・行動につながり――その対象は子供や弱者だったりしますが――それも行き過ぎると、相手への支配やコントロールにつながることになって、相手を疲弊させたり、混乱させることもあるかもしれません)

自分自身を見つめるのを避け、映画やドラマに熱中してみたり、酒、タバコ、アルコール、ギャンブルに走ってみたり、家族との対決を避けるために、趣味や不倫に逃げ場を求めたり、どれも建設的とは言えないようです。そして、逃避は往々にして不安を生み、それを大きくすることも見逃せません。

私は万人が自己と対決せねばならないとは思いません。ただ、どうしても対決せねばならない時、どうか逃げないでほしいのです。自己と対決するのは危険ですが、強力な自己から逃避することもまた危険です。(とはいえ、一時的に逃げることもまた、大事で意味深いことなのですが…)

自己と向き合うことのない人生を私は否定しません。ただ、苦しいながらも自己と向き合い、乗り越えた人間には成長があると確信します。内的な問題や、外的な問題により、自己対決を迫られた場合、逃避することは建設的でないばかりか、危険です。なぜなら、無意識下の存在、真の問題を気づかせよう、気づかせようと、次から次へと、自我に対して問題を投げかけてくるからです。そして、逃避すればするほど、より大きな問題を投げかけてきます。それを避けるには、自己と対決する意外、方法がないように思います。
(もちろん、建設的な一時撤退はありだと思います)


上記のように述べましたが、自己対決が肯定的な面ばかり持つものではありません。なぜなら、今まで自己を軽んじていた人が自己対決する場合、往々にして既存の価値観を破壊する必要にかられるからです。

外向的に生きてきた人は内向的に生きることも強いられるかもしれないし、強さばかりを求めてきた人は弱さを知ることを求められるかもしれないし、理性的に生き過ぎた人は本能的要素も大事にするように迫られるかもしれないし、家族と向き合うことなく生きてきた人は家族と向き合うことを強いられるかもしれません。

愛情深く育てられた人が、その愛情を切らねばならなくなる事もあるでしょう。自分が否定してきたものの中に身を置かねばならない場合だってあります。これは内的には勿論のこと、外的にも、です。また、そのジレンマが心理的な病気などのカタチで現れることもあるかもしれません。

ここにユングの言葉を借ります。
「全て良いものは高くつくが、人格の発展ということはもっとも高価なものである」自己実現の過程を内的なイメージの世界に追及するとき、それが今までの講義で述べたような、影、そしてアニマ・アニムス、次に自己、という順番をなし、その中のアニマ・アニムスにも順番があることを認めた点に、ユングの特性があります。ただ、注意しなければならないのは、内的世界の追求のみでは、自己実現の過程を歩めないことです。

実際、上記のような内的世界の追求は、外界と密接に関係してきます。また、何度か述べたように、内的に得た真理も、外界との関わり合いの中で活用しないと、非常に虚しいものとなるばかりか、こころに定着しません。人間は内的世界を持ちますが、現実世界で生活していることも忘れてはいけません。内的世界も、外的世界も、その関わりを大事にしていくことが大切になってくるでしょう。

例えば、影と対決しようと思い、内的に追求していると、そのイメージを投影した実在の人との関係が、絡み合うことになります。そして、内的に影が統合されるとき、その人たちとの関係も、改善されていくことでしょう。あるいは、その人との関係の改善が、影の統合を促進します。

またユングの言葉を借ります。
「個性化は二つの主要な面を持っている。まず一つは、内的・主観的な統合の過程であり、他の一つは同様に欠くことのできない客観的関係の過程である。ときとして、どちらか一方が優勢となることもあるが、どちらも欠かすことができない」

我々が人間として生きていく以上、内的なものも、外的なものも、疎かに出来るものではありません。ここが人間の難しいところであり、素晴らしいところでしょう。自身の内面と向き合い、真の自分を見出し、それを外界との関わり合いの中で現すことで、修正しながらも、こころに定着させていくのです。

「個性化の過程」「自己実現の過程」は可能性に満ちています。しかし、その可能性は肯定的なものだけではなく、否定的な面、危険な面も含まれています。この否定的な面、危険な面に注意しながら、その背後にある肯定的な可能性に支えられ、「個性化の過程」「自己実現の過程」を歩んでいくのです。

簡単に「希望に満ちている」とは言えないし、「危険だからと逃げる」ものでもありません。
これらの二面性の認識が必要でしょう。
[PR]
by sigma8jp | 2008-12-01 20:24 | ユングの「個性化とマンダラ」 | Comments(0)

ユングにおける「個性化」

  ユングにおける「個性化」を論じるためには、人間の心における「意識」と「無意識」を考察する必要がある。自らの「心」を知り得てこそ初めて、「個性化」は成立するであろうし、これは絶対的な大前提なのである。では、意識と無意識とは何なのか。まずはここに焦点を絞ってみる。

ユングにおける無意識というのは、非常に興味深い考察であり、「無意識」とはつまり、感情や夢を通じて顕在化し、且つ、無意識は常に人間の行動や心の動きに働いているらしい。これらの仕事は当然、直接、観察できるわけではなく、間接的な結論を導くに過ぎない。

つまりは、夜間における夢の中での直接的な「無意識」であったり、昼間の「意識的活動」による「阻止」を破る「無意識」であったりし、しかし、その程度に終始してしまう。以上の性質を持つ「無意識」は人間の「人格」を構成する大きな材料となる。

自我で自らの「無意識」を「意識」で抑える事などは決して出来るものではなく、「無意識」のいわば爆発を防ぐためにも、「無意識」に対する自らの弱さを全面的に白状する事が必要となり、こうした一連の流れは「人格」の形成における構成要素になるのである。

故に、私たちは「無意識」を1つの完成体としてとらえ、自らでそれを知り得る事で、まさに人格的である「意識」を作っていくのである。つまり、無意識は自動的に反応する、ここに収束するのであり、これと自我との関わりが「個性化」の第1歩なのである。

さらに、「無意識」を掘り下げて考察していく。無意識には、「集合的無意識」と「個人的無意識」がある、とユングは唱える。「集合的無意識」は、個人的体験に由来するのではなく、本質的に「元型」によって構成されている。

対して、「個人的無意識」は、一度は意識されながらも、忘れたり抑えられたために「意識」から消えていった内容であり、その構成要素はほとんどがコンプレックスである。ここで、「元型」と記したように、「心」にはいくつもの特定の形式が存在している。

つまり、心における様々な形式の中で、「集合的無意識」は、遺伝による継承であり、生まれつきのものであるため、他人に指摘されて気付いたり、「癖」などの形で、意識の内容にもしっかりと形式を与えるものである。

これと言うのは、無意識ではあるが能動的要素として表現され、思考・感情・行為に予め形式を与え、影響を与えるという事なのである。しかし、この「形式」というのは、あくまでも限られた仕方に過ぎないという事も強調しなければならないだろう。いわば、人間の一様性と人間の多様性と言えるのではないだろうか。

本質的な「元型」によって構成された「集合的無意識」と「経験」によって構成されていく「個人的無意識」は、つまりは、「意識」の「材料」に過ぎないのである、と。「前もって一定の形式を与えており、それでいては物質的には存在しない」のであり、それは、「形式であり、表象ではない」と。続いて、「意識的個人」に触れていこうと思う。

「個性化」を説くためには、当然、「個人」を考慮しなければならない。自分の中の理想像を作り上げるために、自らを抑えつけ、仮面をかぶる。これをユングは「ペルソナ」と表し、「個性」との相違を唱えている。「ペルソナ」は、自分の理想を目指すが故の、個体と社会との間の「妥協」なのである。

仮面をかぶる事に対する「反抗」「抵抗」を感じ、さらには「違和感」を感じて、それが爆発し、「限界」となってしまう。
完全に自らを見失ってしまうのである。その負担は非常に大きいのである。これは決して「個性」とは異なる。これは、「無意識と意識の補償関係」という事につながっていく。2つは決して対照的なのではなく、互いに補償し合って1個の全体、本来的自己になるからである。

「無意識」には、普段生活している「意識」の裏側の態度が存在していて、それはまさに補償関係なのである。心の中には、どんなに意識化しよとしても意識化されない無意識が存在する。
故に、先に記した「ペルソナ」として抑えつけられた「無意識的事象」は、「夢」の中で観察する事が出来る。

つまりは、「知らない所で気になっている」という事なのであろう。しかし、「抑えつける」のではなく、「理解」していけば、「生まれつき」という「個人的無意識」は消えていく。こうした流れで、自我世界という狭い世界が広くなっていく事は、より良い人間関係の構築につながり、「ペルソナ」とは決して違う形で「個性化」していく事が出来るのであろう。

以上のように、自らを知る事による無意識の意識化は良いのだが、これを抑えつけていては、「気にしすぎるようになり、」「自分らしさがなくなり」、「人格変貌」となってしまう。そこに存在しているのは「葛藤」であり、自我と無意識との関係は非常に困難な問題である事が理解できる。
「無意識の意識化」において、強い意識を持てば、新しい人格を発見する事もできるが、それと同時に心が疲労してしまう可能性もあるのだ。

ここで、最後に、「個性化」という事を考察していく。大きなポイントは、「個人主義」と「個性化」との相違であろう。「利己的」になるのではない。集合的要素を見た上で、個人的要素を出さなくてはならないのである。それは普遍的であり、程度の差である事も理解しなくてはならないのであろう。

「個性化」の為には、他人との関わりが非常に重要になってくる。しかし、答えは自分の中にしかない。仮面をとり、より良い個性を自ら見出していかなくてはならない。ユングにおける「個性化」においては、「集合的無意識」を理解し行動していく事が絶対的な条件となり、「人は何をなすべきか!」ではなく、「人はなにをなすことができるか!」 という非常に、優しい見解を感じ取る事が出来る。優しい見解は、相手と共感する事からも考察できる。

どんな人間の行動でも、ある程度は共感できるのであろう。「個性化」とは、これらを大前提にして起こるものなのだ。ユングにおいては、他人との「柔軟性」「吸収性」「共感性」により、自らの意識化を無理なく図り、人間関係をより良く構築し、自らをも成長させていく事が「個性化」なのだ。そして更にいえることは、人間には一様性があり、その「個性化」というのも程度の差であり、且つ、普遍的な存在なのである。

加えていうならば、それは簡単に自らで知り得る事は出来ず、日々自らの慣習となっている個人主義的なものではなく、しっかりと目指さなければならないものなのである。人間の心には様々な形式が存在している。それぞれの中から、自分で自ら、自分の形式を選んだり変えていく事こそが、一人ひとりの「個性化」だと思うのだ。

私にとっての「個性化」とは、「自律」に関係していると思う。「普通」からの自律、「価値」からの自律、様々なモノから自律していき、自分を確立していく。この流れの中で、「苦しみ」を伴ってはいけない。「普通」からも「自律」するのだから、それに寄り添う事もなければ、抑えつけられる必要もないのである。

今回の機会を通じて、「個性化」の困難さを非常に感じ取る事が出来た。
[PR]
by sigma8jp | 2008-11-21 01:01 | ユングの「個性化とマンダラ」 | Comments(0)