カテゴリ:ユングのタイプ論( 4 )

四つの機能 1

 ユングは、人はそれぞれ最も得意な心理的機能を持っていると考え、「思考」「直観」「感覚」「感情」の四つに区別しました。例えば、ある絵画を見た場合でも、人によって起こる情動は違います。

以下に例を挙げてみます(あくまで、例えです)。
---------------------------------------------------------
●「思考型」・この絵は何を意味するのだろう? などと考える、判断する。
●「直観型」・まったく別の発想を得る、そこから可能性を得る、受け取る。
●「感覚型」・色や形を的確に把握する、そのまま詳細に受け取る。
●「感情型」・好きか嫌いか感じがいいとか悪いとかを決める、判断する。
---------------------------------------------------------

ユングは「思考」と「感情」を合理的機能、「直観」と「感覚」を非合理的機能と呼んでいます。
「思考」「感情」が何らかの判断を下すのに対し、「直観」「感覚」はまず自分のうちに取り入れる機能だからです。

○「思考」型の人は、それが何ものであるか考えたりと、思考的なもので、分類・判断・規定します。
○「感情」型の人は、それが好きか嫌いか等、感情的なもので、判断したり、分類したりします。

このように「思考」「感情」共に、ある事象に対し、ある種の方向付けをし、合理的に判断を下します。また、逆に言えば、非合理なものを、そのまま受け入れるのが苦手です。理由が分からなくても、ともかく「そう思う」、「それが起こった」、「そこにあるのだ」というものも世の中にはあります。

しかし、「思考」型の人は、「どうして?」という思いに囚われ、そこにある事象をそのまま受け取る事が苦手な傾向にあるようです。また、「感情」型の人は、「どうして、(嫌いなものが)そこにあるの?」と思ってしまったり、「どうして、(好きなものが)そこにないの?」と思ってしまう傾向があるようにも思います。(もちろん、これがすべてではありません)

一方、「直観」「感覚」型の人は、目の前の事象を、そのまま受け取るのが得意です。

○「直観」型の人は、そこから可能性を受け取ります。そこに付随する、発想を受け取ります。
○「感覚」型の人は、とにかく、そのままの形状、色彩などを詳細に受け取ります。

このように、「直観」「感覚」型の人は、あれこれ考えたり、好き嫌いを判断する前に、ともかく、そこにあるものを受け取るようです。但し、その理由を表現することが不得意な傾向にあるようです。そういった状態に留まらず、先に進むためには、「思考」や「感情」という機能の補助が必要なのかもしれません。

これらの合理的機能は互いに対立するペアをなします。つまり、思考的傾向が強い人は感情が未分化・未発達であり、感情的傾向が強い人は思考が未分化・未発達です。思考型の人は、考えを深めるのが得意ですが、感情を表現するのが苦手な傾向にあります。逆に、感情型の人は、感情を表現するのが得意ですが、考えを深めるのが苦手な傾向にあるようです。

これは非合理的機能にも言え、
直観的傾向が強い人は感覚が未分化・未発達で、
感覚的傾向が強い人は直観が未分化・未発達です。
直観型の人は、可能性を見出すのが得意ですが、そのものの形状・色彩などを覚えるのは苦手です。
感覚型の人は、そのものの形状・色彩を受け取る事が得意ですが、そこに潜む可能性を見出すことが苦手です。

しかしながら、未分化な機能が必ずしも弱いとは言えず、未分化だからこそ無意識で強く働き、
それが表に出てくることがあります。ただ、未分化なだけに未熟な態度で現れることが多く、
トラブルを発生しがちです。思慮深い人が急に子供のように感情的になって怒ったり、ありがちな物語に感激して涙を流したり、あるいは、感情的な人がチンプンカンプンな(思考的)理論を展開することも珍しくないでしょう。

さて、実際に各機能を見ていきたいと思います。

---------------------------------------------------------

●思考型
 「その固有の法則にしたがって、与えられた表象の内容に概念的なつながりをもたらす心理機能」とユングは言います。

感覚や直観で得られたものを、ある法則にしたがって概念的に形作る機能。外的な事実、内界から得たイメージを思考によって、意味を持った「カタチ」にし、理解する。そこにある事象を、思考によって加工し、取り込む。もう少し一般的にいうと、考えること。知識や経験をもとに、それを結びつけたり、組み合わせたりして、あれこれ考えること。

感覚や直観から得たものを、知識や経験により概念化し、判断したり、推理したりすること。主に外的な事実に依存して思考するのが、「外向的思考」型、内界のイメージに依存するのが、「内向的思考」型であるといえます。(但し、両方を持ち合わせるのが普通で、どちらに力点がおかれているかによって、分けることができるように思います)


【外向的思考】
  このタイプの人は、外的な基準を取り入れ、知的な考察に基づいて行動します。自分の思考体系というよりは、一般的な、あるいは、一般的にも受け入れられるような思考体系を好みます。故に、このタイプの人の価値基準・知的基準は、良い悪いは別にして、一般的です。

一般的な思考体系を持つことは、社会で生きる上で、あるいは、公の場でものを言うのには必要ですが、それが行過ぎると独創性が失われ、時には、当たり前のことを言う人になるようです。また、外向的思考に囚われすぎると、その「例外をゆるさぬ態度」で相手や自分を苦しめる傾向もあります。(一般論から外れることを赦さないとか…)

何事も、基本的態度と共に、例外や息抜きも必要です。すべてのものを自分の価値観・枠組み、一般論的な価値観・枠組みで捉えようとしても無理があるし、特に人間に対してそれを行うと、無理が出てくるように思います。(枠が硬くなると、本人も、周囲も、息苦しい面があります)
社会や公の場では一般論的に、保護された空間や個人的な場ではより個人的に、生きていいように思います。(まあ、これもすべてではありませんが…)

このタイプの人は問題を解決したり、事業を再建したり、問題を明確にしたり、必要なものと不必要なものを分類するのを得意とします。どんどん分類・判断して、前に進めるようです。また、一般的な考えをするので、相手に伝えやすいし、受け入られやすい傾向も持ちます。これがうまく働けば、社会の成功者になるでしょう。

この型の人が関心を寄せるのは外的事象であって、理論とか観念ではありません。彼らは実際的な経験則を好み、それをどんな状況にも当てはめようとします。彼らは感情よりも思考を上におくので、冷たく、よそよそしく見えることもあります。(よく言えば、クールでしょうか)

(その影)
内向的感情
 感情的な価値判断が粗雑で、不適当で、表現不十分な傾向にあるようです。外向的思考型の人は、自分の人間関係を当然視していて、周りの人の感情に気づきにくい傾向があります。(自分の考え=一般的な考えは、ごくごく当たり前のことで、多くのものが、その枠に当てはまって当然だと思う傾向にあります。世の中には例外も、少数派もあるのに、です)

また、感情機能が古典的な傾向にあるので、突然政治的あるいは宗教的な議論を始めて、自身の信条を突然変えることもあるようです。(好き嫌いの価値判断が未分化なので、ですかね)
プライベートを軽視する傾向もあります。まず会社や組織、社会が初めにあり、個人や感情はそのあとです。(内的事象より外的事象に重くを置くため、当然、個人的なものよりは、社会的、組織的なものに重きを置くことになります)

そして、未分化な感情が爆発して、論理的に話していたはずが、相手を突然罵倒したり、息を抜くことや例外をゆるさぬ態度の反発として、スキャンダラスな事件を起こすこともあるようです。
(感情が未分化なだけに、その処理の仕方が、どうしても未熟になりがちです)

傾向:
  一般論に支配されやすい。また頑なにこれを守ろうとする。これが過ぎると、人を型にはめたり、支配するようになり、はた迷惑になる。例外をゆるさぬ態度や、未熟な感情反応で家族や周囲を苦しめる場合がある。(一昔前の社長さんタイプやリーダー・タイプ?)ともかく、これで間違いない、とすべてを(一般論的な)枠にはめ込んだり、感情の処理の仕方が未熟なために、烈火のごとく怒ったり、甘い罠にはまったりすることもある。

この機能に囚われ、思考や態度が硬くなると、自身に対しても周囲に対しても例外を認める事ができず、「一般常識」という呪縛に囚われ、自分や周囲を苦しめてしまう場合もあります。逆に言えば、一般常識や一般論に従うという基本的な態度と共に、例外や息抜きをゆるすことができれば、世界が広がり、支配することなく、周囲と折り合いをつける事ができるように思います。
また、人間的に豊かな人になるでしょう。(但し、自分の基本的態度は捨て去る必要はなく、むしろそれを大事にしながら、例外や息抜きを認めていけばいいように思います…これがけっこう難しかったりしますが)


【内向的思考】
 このタイプの人も、知的考察によって行動します。但し、彼らは内的基準に従う傾向にあります。彼らは概して外界の事象にあまり興味を示さず、本質的には理論や観念に関心があります。外界の事実よりは、内界の見解に重きを置きます。これが建設的に働けば、独創的になるし、否定的に働けば、独りよがりな考えや、理解不能の考えになります。また、外界の事実をないがしろにしすぎると、事実と違うところで思考し、悩み苦しむ場合もあるようです。

この人にとって大事なのは、主観的な考えの無意識下にある根源的な象徴的イメージ、その発展と提示です。無意識下のイメージを読み取り、思考によって具現化することを好みます。(一般論よりも、自分のイメージや見識に重きを置くわけです)

このタイプの人は一人で自分の考えに没頭することを好むので、往々にして人付き合いよりも孤独を好み、そうやって知的に満足してしまうことによって、自分の考えが一般に受け入れられるかどうかには関心がない場合が多いようです。

また、自我が「孤独を好むのだ」「自分が知っていればそれでいい」と思ったり、思い込もうとしても、無意識の方はそれをゆるさず、その無意識の補償作用によって苦しむ場合もあります。しかし、逆に、その無意識のメッセージに耳を傾け、それを受け入れていくと、人間的に成長するように思います。無いものが補われ、徐々に豊かになれるでしょう。(これは内向的思考タイプに限ったことではありませんが…)

(その影)
外向的感情型
  一般に内向的思考型の人は、自分特有の思考体系を持ち、それを大事にする傾向があるので、他人の感情がなかなか理解できず、その感情を他人と共有するのが苦手な傾向にあるようです。(また、それでいいと思う傾向にあるように感じます)
感情は本能的、無意識的であるため、これが未熟だと、突飛な形で現れることがあります。

傾向:
 事実よりは見解に重きを置く傾向がある。うまくゆくと独創的になるが、失敗すると独りよがりになる。内的な満足に重きを置き、人に伝えるのが苦手、または興味がない。自分の気持ちを相手に伝えられないもどかしさから、未分化な感情を爆発させてしまうこともある。(それがあまりにも攻撃的に使われると、時には、犯罪になる)

この機能にのみ囚われてしまうと、自分の見解だけが重要になり、人間関係や他人の見識を軽く見てしまう事があります。いくら自我が「これでいい」と思い込もうとしても、無意識はそれをゆるしませんから、人間関係や他人の見識にも注目し、それを大事にしていけるようになると、あるいは素直に本能的な情動や他の見識を受け入れられるようになると、人間関係もスムーズになるだろうし、人間的にも豊かになるように思います。(但し、せっかくの宝である自身の見識を捨て去ることはなく、むしろ、他人の見識を考慮することで、自身の見識をより豊かにしていけばいいように思います)

---------------------------------------------------------

●感情型
 「与えられた内容について、これを受け入れるか斥けるか、一定の価値を付与する機能」思考のような知的判断ではなくて、好き嫌い、快いか不快か、などで判断します。感覚や直観から得たものを、好き・嫌い、快・不快、怒り、恐怖などの感情で、価値をつけたり、判断します。

【外向的感情】
  このタイプの人の感情や価値観や判断は、一般的に平凡で、親しく付き合っている人とは調和しています。そのためこのタイプの人は愛想がよく、付き合いやすく思われます。自分の感情にしたがって生きているようであっても、その感情が一般的であり、周囲の要求と一致している場合が多いので、トラブルを起こすことも少なく、割合円滑に暮らすことができるようです。感情の共有が得意という言い方もできるかもしれません。

このような人は、初対面の人に対しても好印象を与えるので、生きることが得意な人、という見方も出来るかもしれません。実際、このタイプの人が、人の間に入り、潤滑油としての仕事をすれば、物事が円滑に進むような気もします。ただ、あまりにも一般論的に振舞ってしまうと、「自分自身」というものを失ってしまう可能性もあります。

これには注意が必要でしょう。また、一人ぼっちでいることを嫌い、自己反省はあまりしない傾向もあります。友人や同僚に人気があり、親分や姐御肌(あねごはだ)の人として、いざという時は必ず味方になってくれると期待されたり、慕われている事も多いようです。

(その影)
内向的思考型
  思考が未成熟なために、その思考は、幼稚的、原始的、否定的な傾向にあるようです。また、偏狭で、粗雑で、冷淡的でもあります。悪くはたらくと、自身の感情を正当化するために、理由をでっち上げて、適応した振りをします。あるいは、自分の感情の都合に合わせて、稚拙な思考機能を使い、言い訳じみた理論を展開することもあるかもしれません。また、ある知的体系に興味を抱くと狂信的になる場合があるようです。なぜなら、その体系に対し、じっくり考えられないからです。

傾向:
 一般的には対人関係を円滑にする。但し行き過ぎると、主体性がなくなり、浅薄になることもある。相手を引きおろすのに、未熟な思考を使い、うわべの満足をすることがある。自分の認めたくない対象を、偏見を使って引き落とす場合もある。「結局…なのさ」と言って、表層だけで納得しようとしてみたりする。上記のような自覚が希薄。宗教や抗議運動にはまり易いタイプかもしれない。


【内向的感情型】
  このタイプの人は非常に特殊な価値観を持っていて、大抵はそれを他人には見せません。しかし、自身の生き方において様々な模範を体現しており、知らず知らずの内に周囲に影響を与えていることがあるようです。ユングいわく、「静かな水は深い」、この言葉は興味深く思います。

彼らはたいてい無口で、何を考えているか分かりづらい、と思われがちで、協調的で、目立たず、落ち着き払っているような印象を与えます。しかし、内的にはしっかりとした価値判断をもっており、皆が嫌っているような相手にでも、自身の価値観に従って、親切に接することもできます。これが建設的に働くと、一般論を超えた自己犠牲の精神を発揮することもあるし、否定的に働くと「わがままな人」や「その場にそぐわないことを言う人」になる可能性もあります。

(自分の価値基準をあまりに人に押し付けようとすると「わがまま」になるし、自分の価値基準に従った言葉を簡単に口にすると、それが正しい判断であっても、公の場で人を非難してしまうこともあります。まあ、内向的なだけに、それを人に見せようとすることは、少ないかもしれませんが)

このような人は、人を感化しよう、影響を与えよう、といったところが微塵も感じられません。また、他人の真の感情にちゃんと応えようという努力は殆ど見られないようです。このタイプの人は、好意的な、しかし批判的な、中立を保ち、同時にかすかな優越感を抱く傾向にあります。
(人は人、私は私…そういうタイプでしょうか)

(その影)
外向的思考型
 この思考は、具体的で、原始的ですが、外向化されると客観的事実にべったりと結びついてしまうので、このタイプの人が思考機能を用いようとすると、細部に囚われ、「木を見て、森を見ず」ということになります。(一つ一つについては正しいが、全体としてトンチンカンであるとか…)


傾向:
  外目には控えめで不親切、無感動のように見えるが、内面に深い同情や、細やかな感情があったりする。自分独特の価値基準を持つので、周囲と感情的調和が取れず、苦しむことがある。
誰にも伝えられない深い情熱を子供に向け、結果、ひとり立ちできない子を形成する場合がある。

独特の価値基準を持つので、多くの人から非難されているような人に対しても、自身の価値基準に従い、それをかばう事ができる。が、同時に、自分の価値基準にしたがって、みんなが好意を寄せる人を無視したりもする。あまりに感情を表現できないと、他人の目が気になり、未熟な思考機能で考え込んでしまって、疲弊する場合がある。

あまりこの機能に囚われてしまうと、単に嫌われている人や孤立している人をかばい(あるいは好み)、それに意見する多くの人を非難したり、嫌ったりする人になる。一般的に正しいかどうか、ということは不問に処してしまう。そうなると、いつも、時代の傍観的反逆者となったり、単なる「すね者」になったりする。

逆に、自分の価値基準と共に、一般論的な価値基準も考慮できるようになれば、世界が広がり、適切に表現できる手段を持てるのではないかと思います。また、周囲との折り合いもついてくるのではないでしょうか。(但し、宝ともいえる、自分の価値観自体を否定することはありません)
[PR]
by sigma8jp | 2008-12-01 19:28 | ユングのタイプ論 | Comments(0)

四つの機能 2

●感覚型
 「生理的刺激を知覚に仲介する機能」物事をそのまま受け止める。
外界から何らかの刺激を受け取り、それを正確に把握する。
外界から、五感などを通して、視覚的なもの・音・匂い・温暖・味などを得ていく機能。

外界からの刺激そのものに重きを置く場合、外向的感覚型、それを受け取った内的感覚に重きを置く場合、内向的感覚型、…そう言えるでしょうか。


【外向的感覚】
  このタイプの人は客観的事実に関心があります。本質的に、現実的で、実際的で、細部を好み、抽象や価値や意味についてはあまり考えないようです。彼らの目標は常に「感覚を持ち、できれば楽しむこと」です。外界から得る感覚を、ともかく楽しみます。危険なスポーツなどで積極的にスリルを求め、「享楽家」の人が多く、将来のことはあまり気にしない傾向にあります。

ですから、友達として付き合うには最高の相手かもしれません。「食べよう、飲もう、楽しくやろう、明日は明日の風が吹くさ」が彼らのモットー。しかし一方で、薄っぺらで「心無い」ように思われることがあります。「アリとキリギリス」のキリギリス・タイプでしょうか。

このような人は、事実を事実としてそのまま受け取り、経験値を上げていきます。ただ、思考や感情という合理的機能の力を借りないと、その経験を分類したり判断したりする事ができず、その機能を現実的に活かすことが難しいようです。また、事実のみに囚われすぎると、そこにある可能性に目がいかず、多くを失っている場合もあります。

(その影)
内向的直観型
  未熟な直観機能が内向化されているので、内的な出来事に左右され、外界とつながりを持たないことがあります。それが活性化されると否定的な予感を生みます。ないものを見たり、予見したりして、困る場合もあるでしょうか。それゆえ、些細なことで誇大妄想になったり、敵対的になったりすることもあるようです。また、その画一的な直感のせいで、秘教的な宗教や、古代神秘主義などに没頭し、周囲を驚かせることがあります。

傾向:
本来は、リアリスト
 思考や感情が極端に欠如すると、お気楽者、享楽者になる。あまりに現実のみに囚われると、その補償作用で非現実的なものに傾倒したりする。下品に働くと異性を性欲の捌け口としか見ないし、上品に働くと耽美主義者になる。とにかく感覚を楽しむ傾向がある。

これに囚われてしまうと、とにかく人生を楽しく生きることにのみに力を使う人になるかもしれません。そうなると、単なるお気楽者になることになり、友人としてはいいが、身内としては困る存在になったりします。また、楽しむことに重きを置きすぎると、その他の多くのものを失うこともあるようです。(人生を楽しんで、何も残さない人とか)

ただ、感覚的なものだけでなく、思考や感情という機能を鍛える事ができれば、蓄積した経験や事実を分類したり、芸術的表現につなげることも可能であると思います。

---------------------------------------------------------

【内向的感覚】
  このタイプの人は、客観的刺激によって引き起こされた主観的感覚によって動かされます。外界から得た、光景、色、書物の一節、音、会話、匂い、味、手触り、などを鮮明に記憶している傾向が強いようです。

外的な事実そのものより、それを受け取った内界の感覚に重きを置き、また、その感覚が一般と違う場合もあるので、他の人と違う見方のものを強く受け取っている場合もあります。また、それを的確に表現するのが比較的苦手な傾向にあり、誰かに伝えたりするようなことは少ないようです。(あるいは、なかなか伝わらないことを経験的に知ってしまっている)しかし、自身の内的現象を伝える手段を得たとき、多くの人に感動を与えることもあります。このような人の内的現象は想像ではなく、内的な事実であり、現実です。(人には理解されにくいですが)

(その影)
外向的直観型
 直観が未熟なため、否定的に働くことが多いようです。何かにつけて疑い深く、他の全てがうまくいっていても、何か一つがうまくゆかないと、全てが台無しだと感じてしまうこともあります。この直観はたいてい間違っていますが、時に金的を射止めることもあります。


傾向:
  自身の内的世界に住むため、実生活において住みにくい傾向にある。外的な事実より、そこから得た内的感覚のほうに興味がある。自身の世界を持つため、世間からは不可解に思われることがある。この内的世界を外界に伝える手段を得たとき偉大な芸術家になる。

この機能に囚われてしまい、内的な刺激ばかりに注目してしまうと、それを伝えたり表現する事ができず、せっかく得た内的な宝の意味も薄くなってしまうような気がします。
しかし、逆に、それを外界に伝える事ができれば、誰も知らない世界を、内的な感覚に留まらず、一つの事実として伝える事ができ、非常に意味深いものになるのではないでしょうか。

---------------------------------------------------------

●直観型
 「これは事物そのものよりも、その背後にある可能性を知覚する機能である」思考を働かせて推理するのではなく、インスピレーションなどを得て、直接的に結論に至る機能です。無意識から可能性を得る機能。それゆえ説明できないことが多いが、爆発的な打開(策)を生み出すこともある。理解を超えて結論を得るので、思考機能などが補助機能としてないと、その筋道を説明する事ができず、相手を納得させるのが困難な場合もある。


【外向的直観】
  このタイプの人はたいてい自分の直観を用いて外界の現実に対処します。現実的な事実より、「それをどうすることができるか?」「その背後に何があるのか?」といった可能性に重きを置く傾向にあります。このタイプの人は、ある状況の中から可能性をすばやく見抜き、それが将来どう発展していくかを予測するのが得意です。

但し、補助機能として思考を持っていない限り、自分の始めた計画を維持し、満足のゆく結果が得られるまでやり遂げることが困難なようです。したがって、新しい可能性は次々に発見するものの、実を得る前に次の可能性に移行してしまい、実際に実を得る事が少なく、生活が困難になる場合もあります。

このタイプの人は改良する才能に恵まれ、逆に同じことを繰り返すことが苦手な傾向にあります。彼らは次から次へと、新しい友達、新しい趣味、新しいアイディア、にとびつきます。しかし別の可能性が見えてくると、それらをあっさり捨ててしまう困った傾向を持ちます。

(その影)
内向的感覚型
 あまりにも感覚に無自覚であると、疲れたとか、寒いとか、空腹だとか、それらに気づかないことがあります。ひとたび未熟な内向的感覚が活性化されると、自身の感覚器官から送られてきたメッセージを誤って解釈し、心気症になったり、ダイエットや運動に熱中したりすることもあります。現実を過剰に受け取り、それに囚われ、悩む場合もあるようです。


傾向:
  現実的な価値よりは、そこに秘められた可能性に注目する。カンが働き、流行に敏感。その一方で、同じところに留まるのが苦手。思考や感情の判断が補助機能としてないと、結果を残さないで次から次へと可能性ばかり追い続ける人になる。あまりにも一面的過ぎると、逆に(補償作用により)現実的なものに支配されることがある。

この機能のみに囚われてしまうと、前述したように、可能性ばかり追い求めて、足元の定まらない、あるいは、いろんな意味で安定しない人になる場合があります。
しかし、逆に、思考や感情を補助機能として鍛える事ができれば、それを「カタチ」として成し遂げる事ができ、結果を残せるようになるのではないでしょうか。


【内向的直観】
 このタイプの人は、外界の可能性よりは、外界の対象が心の中に何を生み出したかに関心があります。つまり、観念やイメージや洞察を、まるで現実であるかのように扱います。したがって内的なイメージが物質と同じ威厳を持つことになります。

自分の内界、イメージの世界に住むので、現実問題の価値は低く、それ故、人に理解されにくかったり、不当に格下に判断される場合もあります。内的に豊かなものを持ちながら、過小評価されている場合も多いようです。しかし、逆に、内的なものを表現するだけの手段を持てば、想像もつかないような成功者になる可能性を持っています。

このタイプの人は自分の考えを理路整然と分かりやすく説明するのが苦手です。無意識の中にある可能性をただ追いかけるだけで、その可能性が持っている個人的な意味合いを往々に見落としてしまいがちです。

(その影)
外向的感覚
 感覚が殆ど無意識的なので、常に外界の現実と接点を失う危険にさらされています。現実の細部に関して、ぼんやりしていて、空間感覚や時間感覚が乏しいので、よく約束を忘れたり、時間にルーズだったり、知らない土地でよく迷子になったりします。現実との貧弱な関係と、深い洞察があいまって、自分を「誤解された天才」と思い込むこともあるようです。
また、自分自身の身体や相手の身体で何が起こっているか、無頓着だったりします。


傾向:
 カンは働くが、それで何かしようというよりは、そのカンが生んだ内的イメージを楽しむ方に興味がある。人に理解されにくく、また自分の考えを説明するのも不得意な傾向にある。それゆえ、不当に過小評価されることが多い。しかし外的に表現する手段を得た場合、大いなる輝きを発する。いわゆる、不思議ちゃんか?(人工モノではなく、天然モノの方の、ね)

現実的な感覚が希薄。
この機能ばかりに囚われてしまうと、現実世界で生きることが困難になってきます。その困難が更なる不調和・困難・誤解を生み、より一層、内的なイメージの世界に住む(あるいは逃げる)ことになるようです。また、あまりに内的なイメージの世界と現実世界を混同してしまうと、より一層、現実生活が困難になるし、自分も周囲も戸惑ってしまいます。

しかし、逆に言えば、現実世界と内的世界を混同することなく、どちらも大切にする事ができれば、豊かになるし、その橋渡しや、表現の手段を学べるのではないかと思います。内界を表現することで、素晴らしい仕事をなすかもしれません。(但し、内的イメージの世界という宝を、無理やり否定することはないでしょう)


以上のようにタイプをあげましたが、どれか一つに完全に当てはまるというよりは、いくつかの傾向を合わせて持っていると感じたはずです。しかし、その中で強い傾向があるのも事実で、それが個性を形作っているとも言えます。

更にこれらの傾向は、とり様によっては、肯定的にとれるし、逆に、否定的にもとれます。これらの片方に目をつむることなく、この二面性を認識し、自分にとって、周囲にとって、よりよい方向に変容できれば、豊かな人生を送れるのではないでしょうか?
[PR]
by sigma8jp | 2008-12-01 19:28 | ユングのタイプ論 | Comments(0)

1. 態度(内向と外向)

  「外向的」「内向的」という言葉は日々の会話の中でもよく使われる言葉だと思います。ただ、そのような場合、言葉で認識する事で、表層的な安心を得ようとしていると感があるように思います。そして、そんな場合、自分や相手を「型にはめたり」「分類すること」で終わってしまいがちです。(例えば、「この子は内向的だから、人付き合いが苦手なのか…」とか…)

治療的側面を考慮すれば、そこで終わってしまえば意味は薄く、「そんな自分をどうしたいのか?」「それを踏まえて、どうするか?」…それが大事なように思います。また、態度には長所もあれば短所もあるわけで、自分の価値観だけでそれを捉え、否定的な面ばかり見ていては、「態度を判断する」ことの価値が薄れてしまうように思います(肯定的な見方ばかりするのも、同意です)。

肯定的な面と否定的な面、両方を認識し、そのバランスを見極め、長所を伸ばし、短所を克服したり、受け入れたりすることに意味があるように思います。

では、傾向をみていきましょう。


その人が「何に興味を持ち、何に惹かれるか」、ということで態度が見えてきます。
その人の関心が主に外界の事象に向けられるとき、「外向的」傾向が見られ、
その人の関心が主に自身の内界に向けられるとき、「内向的」傾向が見られます。

人がある種の意見を持ったとして、
その考えを得た瞬間に積極的に皆に伝える人もいるし、
自分にとって真理とも言える考えを得ても、口には出さない人もいます。
この場合、前者が「外向的」、後者が「内向的」と言えます。

また別の見方をすれば、
ことを成すのに、まず行動し、それから内に取り込むのが「外向型」、
まず内的に形作り、それからそれを外に現すのが「内向型」、
とも言えるでしょうか。

このような傾向は新しい環境に身を置いたときに顕著に現れます。外向的な人は新しい環境に身を置いても、苦労することなく適当な態度をとり、周囲と折り合いをつけるのが比較的得意です。一方、内向的な人はそれを苦痛に感じ、戸惑い、身動きが取りづらくなります。

ただ、内向的な人も保護された空間ではその能力を遺憾なく発揮し、その空間が広がるにつれ、自身を外界に知らしめることになるようです。外向的な子供は一般的に得をします。どこにいても適当な態度を取れるので、大人や先生、新しい仲間にも好かれます。

それが自信へとつながることも多いようです。但し、これも過ぎると、言わないでいいことを言ったり、危険な行為をしたりして、煙たがられることもあります。(何事もバランスです…過ぎると失敗します。アチチ、アチチと火傷するかもしれません)(また、それが「建設的な反省」につながるか、「自己否定」につながるかでも意味も違ってきます)

「適当」な態度を取れるというのは興味深い言葉です。「適当」には、「ふさわしい」というような意味と、「いい加減な」というような意味があります。まさに、外向的な人は、その場その場の状況に応じて、時に「ふさわしい」、時に「いい加減な」態度をとるのが上手な傾向があります。(「いい加減」というより、「好い加減」ですかね)

逆に、内向的な人は、「いい加減な」態度をとることが苦手なようです。その場に「ふさわしい」と思われる態度を「とらなければならない」という思いが強すぎて、「いい加減」な態度をとる事ができず、頑張りすぎて疲弊してしまう事が多いようにも感じます。

「こういうところでは、面白いことを言わなければならない」・「こういう場面では、きっちりとしなければならない」…そういう思いも大事ですが、あまりに思いが強すぎると、自身の行動を制限することになるし、何より息苦しいです。まさに、「息を抜く」ことが必要になります。

ただ、その一方で、その場に「ふさわしい」態度に興味がなさすぎて、ゆえに適応できない場合もあるように思います。内向的な子供は一般に、理解されるのに時間がかかる傾向があります。仲間にも、大人や先生にも馴染むのに時間がかかるので、心配されることも多いようです。
また、それが自信の無さや、否定的な考えにつながることもあります。

しかしながら、この子達も内的に立派な財産を持っているので、行過ぎた心配をすることはないと思います。むしろ温かい目で待つことができれば、その保護された空間で徐々に自分らしさを発揮してゆき、その世界を徐々に広げて行けるのではないでしょうか。

付き合いが深まるにつれ、その人の奥の深さに感動することも多いようです。(人前で表現するのが下手な子も、家族の中で表現する事を覚え、それが友達の中でできるようになり、やがて表現できる世界を広げていくでしょう)

逆に無理やり外向的に矯正しようとするのは愚であると思います。それも当人の個性です。せっかくの、その子の宝を取り上げるのは愚かでしょう。(ただ、あまりに一面的な場合はまた考えなければならないように思います。考え無しに放っておくのと、見守るのは違います。また、保護された空間が無いとしたら、それは問題だと思います)(ただ、いくら自分の子供とはいえ、その子の生き方まで操作できない――そういう意識はあってもよさそうです)

前にも述べましたが、これらの態度が全く一面的に働くことはなく、どちらも有していることが殆どであると思います。(内向的な態度を基本的に持ちながら、家や仲間内の間では外向的であるとか…)(また、基本的態度を持つことと、例外を作ることが大切なように思います。例外を作れずに悩む人も多いですし、基本的態度がないが故に、悩む人も多いようです)

しかしながら、どちらかの態度が強く現れる傾向にあるのは周知の事実です。したがって、大体の人はこの態度の分類が可能になるのではないでしょうか。

時代の好む傾向というものもあります。ある限られた空間(家族であったり、地域であったり、社会であったり、国であったり…)で、好まれる態度があるのも事実です。一般的に、欧米では外向的な態度が好まれ、逆に内向的な態度は理解されにくく、大きな誤解さえ受けることがあります。

また、一昔前の日本では内向的態度に美徳がおかれ、過ぎた外向的態度を敬遠する傾向がありました。これについて、どちらが良いというものではありませんが、互いに理解しようとする態度が必要な気がします。

価値観の違いは誰にでもあるものですが、それで相手を抑え込もうとしても無理があるように思います。価値観の違いで議論しても、不毛な結果に終わる事が多いです。親子の場合、ある程度、親の価値観の下で子は育てられますが、それも行過ぎると支配的になり、子供は疲弊してしまいます。

自我が、親に従おう、親が正しい、と必死に思い込もうとしても、無意識の方は納得しません。
自分が生まれ持った態度や機能という「宝」を育てるように要求してきます。それを無視しようとすればするほど、あるいは、自我が一面的であればあるほど、無意識は力を発揮し、やがてそれは自我の領域にまで影響し、障害を与えます。親子とはいえ、別の人間です。

自我がある程度育つまでは親が責任を負って教育し、社会の規範や倫理、礼儀や適切な態度を教えますが、それも成長に伴なって、子供自身に任せる部分が多くなるはずです。教育しないことも問題だし、いつまで経っても幼児や年少者に対するように接するのも問題でしょう。

(もちろん、子供の態度や行動も問題になります。いつまでも幼稚な態度や行動とっているのに、大人として扱えと要求しても虚しいだけです。両者の折り合いが大事でしょう。また、それをスムーズに行うには、親子が、自身の態度を鑑みることも大事だと思います)
(何事も、相手が、相手が、だけでは、よくならんです)

余談ですが、
私はある時、外向型の典型のような女性と話をする機会を得ました。
彼女は強いリーダシップを持ち、それを職業にも活かしています。
彼女はあれこれ考えるよりは、まず行動してみる、とのことでした。
ことを成すのにまず考えてみる私とは対照的です。

私はどちらかというと外向型の人が好きではありませんでしたが、
この人は素敵だと思いました。
また自分と大いに共通する点を持つ方だと思いました。

彼女はまず行動し、そこで得られたものを内に取り込みます。
私はまず考え、そこで得られたものを外に現します。
共通する点は、ともに物事の核心に触れようとするという事でした。
私は「外向型の人は表層にとらわれる傾向にあり、物事の真理は考えないのでは…」という偏見を持っていましたから、これは意外な点でした。嬉しい驚き、と言っていいかもしれません。

このような「気づき」があって、人間が少しずつ成長するように思います。
[PR]
by sigma8jp | 2008-12-01 19:16 | ユングのタイプ論 | Comments(0)

タイプ論

ユングは人の傾向を見るのに、二つの態度と四つの機能を定義しました。

★二つの態度とは、「外向」と「内向」

★四つの機能は、「思考」「直観」「感覚」「感情」です。

但し、これらのタイプはあくまでその人の傾向を見るものであり、これに全てを当てはめてしまうものではありません。(だいたい、分類を目的とはしていません。求めるのは人間が成長する上での、一つの指針、方向性です)

例えば、完全に外向、あるいは完全に内向、という人はいないと思います。あるタイプで、ある傾向が非常に強いという人はいると思いますが、全くその通りという人はいないでしょう。内向的な人でも、ある場所では外向的になるし、一見外向的な人でも、ある状況では内向的になったりします。

とはいえ、その人なりの強い傾向が存在しているのも事実で、それを知ることで見えてくるものもあります。また、これらの言葉は日常でよく使われますが、ユングの意図した使い方をされているかというと、そうでもないようです。
[PR]
by sigma8jp | 2008-12-01 18:54 | ユングのタイプ論 | Comments(0)