カテゴリ:フロイトの(リビドー)精神分析( 3 )

「生」と「性」は、「エロス的な生存欲求」の現れ

  まずフロイト思想について説明します。フロイトは、心の中に、意識、無意識、前意識という三つの空間を区別し、更に、自我、超自我、エス(イド)からなる心的構造を想定し、幾つかの本能衝動のエネルギーの量やベクトルで人間心理を説明しようと試みました。

その心理とは、「人間というものは、自分で思っているほどには自分を支配していない。実は、エスの中から沸き上がる無意識の力に駆り立てられて動いているのだ」といったものです。そして、人間の心は、動物のように、ただその瞬間を生きるものではない。

生まれたときからの記憶を積み重ねながら、その上に現在の自分を営む歴史的な存在である。・・・つまり、人は歴史を持つ。その歴史的な記憶こそが、人を熱愛させたり、動かしたりするものだ。といった心の科学を解き明かしました。

フロイトが解き明かした無意識の秘密。更に深層心理として、秘めているエディプス・コンプレックスや感情転移・リビドーを踏まえながら、恋愛感情やロマン的感情を考えていきます。


【イルマの注射の夢】
  イルマの注射の夢とは、人の夢や無意識の秘密を解くトリガーとなったフロイト自身の出来事です。 ところで、一般的に、よく夢は無意識の現われでもあり、心に秘めた欲望の象徴だと言われていますが、これは、正に夢は願望充足的な現象の一つなのです。

また、無意識には自分自身も気が付かない驚くべき秘密があります。そもそも人間というのは、意識している自由意志だけで行動しているわけではなく、むしろ無意識の大きな力によって突き動かされているのです。 そして、その無意識の奥底には、意識から抑圧され放逐された記憶と、生物としての人間が誰しも抱く本能のカオスが渦巻いています。

つまり、人間を駆り立てている力は、人々が普段は口に出して語ろうとしない、性の本能や攻撃本能なのです。 人間は大人になって、忘れてしまっていた過去の記憶や体験を無意識の奥底に閉まっています。 しかし、その「閉まっている記憶」に知らず知らずに支配されています・・・日常の意識、行動、性格・・・実は遠い昔の記憶によって規定されているのです。

人が身近な人に抱く感情には、幼児期に親に抱いた感情がそれと知らずに(無意識のうちに)くり返され、投影されています。 つまり、人間は共通して幼児期からすでに性的な欲望に駆られていてその欲望を身近な人に向けているのです。 内的な性の欲望を自覚した人間は、もはや子供ではなく大人、つまり自分自身が父、あるいは母であろうとします。


【エディプス・コンプレックス】
  人間の内面に潜んでいる母への性的願望と、父への嫉妬という2つの感情の複合体をエディプス・コンプレックスと言います。 これは、ソフォクレスの悲劇=「エディプス王」にちなんでいます。

「エディプス王の物語」について
  エディプスはテーベの王ライウスの息子として生まれますが、父を殺害する運命にあると信託によって告げられたため、キタエロン山に捨てられます。 コリント王のボリブスに拾われ育てられたエディプスは、成長して大人になり旅にでます。その旅の途中、父のライウスと出会いますが、父と知らずにライオス王を殺してしまいます。
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そして、スフィンクスの謎(朝に4本、昼に2本、夜に3本で歩くのは何か?の問で、答えは人間)を解いた褒美に王妃を与えられ、実の母と知らずに父の妻イヨカステと通じてしまいます。 父殺しと近親相姦の大罪を犯したエディプスは、罪悪感のあまり自らの目をえぐり、放浪の旅に出ると共に、母は自害します。 ・・・と言った悲劇です。

このエディプスの近親相姦の苦悩は、人間の無意識に潜む人間の倫理の起源に目を向けさせるものであり、エディプスの犯した2つの罪こそ、全ての人々がかつて犯すことを恐れた根源的な願望である、とされています。

また、似たような例としてトーテムのタブーと言う物語りがあります。 これは、人類が遊牧者として群れをなして暮らしていた時代、群れはボスに支配されており、全ての女性を自分のものとし競争相手を殺したり追放していました。 ところがある日、息子たちがボス、つまり父親を殺してしまいますが、父親を殺した後、息子たちは互いに争い合い、誰も遺産を継ぐ事が出来ませんでした。

この失敗と後悔から、息子たちは理性的になり社会をつくりあげました。ここにタブーを成立させ、人間の倫理の起源となりました。 タブーはもともとポリネシア語で「神聖不可侵」なもの、「禁じられたもの」などを意味します。 この、女性を所有したい欲望が原父殺害の動機であり、この原父親殺害に対する罪悪感こそ罪意識の起源であります。

人間は理性を持っていますが、知性や理性では抑えきれない破壊性を持っているのも事実です。 人は基本的には、倫理に反するような行為を取らないようにプログラムされています。つまり、近親を性の対象と見なす事は、正常な人間ならありえません。 良く男性で、知り合った女性のルックスが姉・妹に似ていると萎えてしまい興味がなくなる、とゆう現象がありますが、これはDNAに刻み込まれた遥か太古からの記憶なのかもしれません。


【感情転移】
 信頼関係から恋愛感情が生まれる転移現象を「感情転移」といいます。これは、性的な感情の転移であり、好きになる転移を「陽性の感情転移」、逆に嫌いになる転移を「陰性の感情転移」と言います。 良く、友達から恋人に発展する事例がありますが、これも感情転移の現われなのです。

そして、この転移は非常に強力です。気が付けば情が移っており、そうなると意識レベルではどうしようもなくなります。 ちなみに、好きな人を惹きつける技法としては、この「感情転移」を上手く利用する方法が一番、効果的だといわれています。


【性欲(リビドー)】
  性欲(リビドー)についてですが、動物(人間)は誰しも性欲を持っています。もちろん、男性に限らず女性も性を欲しています。 古代から現在へ人類の生命は連綿と続いていますが、その「鍵」は愛であり、「性」の営みなのです。
 
生まれつき人間は、快楽を求める欲望がありますが、社会活動では、「快楽原則」にもとづく欲望を抑圧して、理性的な「現実原則」に合わせないと、安定した社会生活を送ることはできません。 つまり、「社会的に生きる事」と、「性の欲望」は、個人の中では対立しますが、全人類から見れば、それらの欲求の本能は、人間の「自己保存本能」と「性」の欲望であり、人類の生存を目指す衝動として、一つにまとめて考えれています。これらに見る「生への欲望」が「エロス」なのです。

つまり「性」と「生」の二つの欲望を統合した生命力が、「エロス」であり、この対立する欲求が人を動かす「本能」なのです。 「性」は「生」の根元であり、人間はみな「性」の交わりで「生」まれてきたわけですから、生命が尊いように「性」も尊いのです。しかし、社会では、とかく「性」をタブー視し、下品なものとして罪悪視している感もあります。

人は、「性対象」と「性目標」の区別を持っています。「性対象」で正常なのは男女の異性愛です。しかし、倒錯として、同性愛、幼児愛、獣姦があげられます。「性目標」は営まれる行為であり、正常なのは男女の普通の性行為です。

しかし、倒錯には、サディズム、マゾヒズム、露出症窃視症、フェラチオ、肛門性交フェティシズムといったものが挙げられますが、倒錯はすべて異常な行為と言うわけではなく、正常人でも特定の条件が与えられると、それらの妄想が出てきますが、それが最後まで固執される場合にのみ「異常」と見なされます。

ちなみに、子供と大人とでは性欲の質の違いが見られます。幼児性欲は自分の身体内に対象を見い出す自体愛であり、性器の合一という正常な性目標には向かっておらず、部分欲動という意味では倒錯的で多形倒錯質素といえます。

子供が性に対して関心を持つ年代は、口唇期、肛門期、男根期の〔三段階〕に分けられます。

具体的には、
・口唇期は唇で乳房を吸ったり、指をしゃぶって快感を味わう段階です。
・肛門期は、排泄や排尿などで快感を感じる段階です。
・男根期は性器が性感帯になり、まだ完全な性器的体制になる前の段階です。

ちなみに、女性は思春期において、性器領域が陰核から膣になり、愛の対象は異性になります。 思春期における変化として、思春期に入ると異性が性対象となります。つまり、性器性欲を持ち、正常な大人の性生活へと発展し、この性衝動が生殖に結びつき、新しい生命を生み出します。第二次性徴と共に、男女の生物学的な分化が始まり、心理的な分化も起こります。
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by sigma8jp | 2008-12-01 22:21 | フロイトの(リビドー)精神分析 | Comments(0)

リビドー(Libido) について

Ⅰ リビドーの語源
  リビドーは、ラテン語で欲望、羨望をあらわす。A.モルが自著の中で性的な欲望をさしてもちいたものを、精神分析学を創始したフロイトが転用し、性の欲動の精神エネルギーをさすための用語としてとらえなおしたものである。

精神分析学では、性の欲動をせまい意味の性欲(身体の性的興奮)に限定せず、むしろより広く愛の満足をもとめる欲望ととらえる。それゆえ、リビドーもまたたんなる性欲のエネルギーではなく、むしろ性愛の満足をめざすという精神的側面をさすエネルギー概念である。

フロイトは(当初)性的心理エネルギーを表す言葉として、このリビドーを用いた。そのために、どうしても汎性欲説だけが注目されてしまうわけだ。しかし、彼は、晩年になって名著(と名高いらしい)「快不快原則を超えて」の中で「死の本能(タナトス)」という概念を示すことになる。

性欲がタナトスに含まれるはずはないので、この段階で汎性欲説者という評価は取り下げられるべきだろうと思う。因みにタナトスという概念は、強迫神経症に対する研究から導き出された。その攻撃性・破壊性において、リビドーという保存を主体とするエネルギーでは説明不可能だったからだ。

タナトスについては以前にも触れたが、破壊することによって根源的な(これ以上壊れようのない)安定を指向する衝動である。「何らかの力が働かなければ全てのものは無秩序を形成しようとする」という「エントロピーの増大」と捉えることも可能かもしれない。生とは、そのエントロピーに逆行して何らかの秩序を保とうとするベクトル。

すなわち、保存傾向という属性を備えたリビドーそのものの発露であって、私たちは、その保存(生)と安定(死)の均衡をとりつつ日夜生息していると表現することも可能だろう。因みに、ユングはこれを心理的エネルギー全般という意味合いに拡張したがった。様々な解釈があるようだが、基本的には、フロイトの主張を汎性欲説として退けたり忌んだりすることは、枝を見て森を見ない態度と私には思われる。

なぜなら、人間の生は性的エネルギーがなければ始まらないし、どこまでが性でどこからが生なのかという線引きは非常に難しいはずだから。性的エネルギーに快感が付与されているのは確かだが、だからといって性的エネルギーが性的快感のためだけにあるということには論理的にもならない。

現代においてもどちらか一方に解釈が定着しているようにも見えないし、この言葉が単体で使われる場合、「性的心理エネルギー」なのか「心理エネルギー全般」なのかということは文脈から判断するしかないのだろう。

特に注釈が無ければ、リビドーという言葉は、基本的にフロイトの「性的」心理エネルギーという意味で使うことが私は多い。しかし、そのエネルギーの源(あるいは同一のもの)としての「生的」エネルギーとは常に不可分である、というスタンスを取るので、誤解を与えそうなときはその旨注釈するように心がけているつもりだ。

ユングのいうところの、(リビドーが)心理エネルギー全般を指すという定義を殊更否定するわけではなく、生的エネルギーとするほうがややこしくないし、一貫性が出てくると思っているから。心理エネルギーと言うからには生理エネルギーの存在も考慮される必要があると思うが、この生理エネルギーが精神に影響を与える場合もあるわけで、その際、心理エネルギーという限定が足枷になって正しい分析へと進めない場合も出てくるように思うからでもある。

繰り返しになるかもしれないが、性がなければ生は存在し得ないし、その性は生があればこそ存在しているわけだ。何らかの因子を求める場面においては、説明しやすいほうでよいのではないか、と思う。

実際、神経症治療においても、たとえば、ヒステリーは性的心理エネルギーを想定するほうが説明しやすいし、パラノイア(偏執病、妄想性人格障碍)や、強迫神経症などは逆に性的心理エネルギーでは説明が難しい、とされている。因みに、統計的にみて前者は女性に後者は男性に多く発症するようだ。


II リビドーの備給(カセクシス)
  リビドーは量的に増大したり減少したりするエネルギー概念であり、それが何にむけられるか(備給されるか)、どのように蓄積、放出されるか、何におきかえられ加工されるかという観点から、精神分析理論の構成において重要な位置を占める。まず、リビドーが何にむけられるかの方向によって、自我リビドー(自己愛リビドー)と対象リビドーに二分される。

精神分析理論によれば、リビドーは発達初期には自他未分化で、全能感に支配された原初的自我に備給されており、これを1次的自己愛リビドーとよぶ。それが、発達がすすむにつれて外的対象(たとえば母親)に備給されるようになる。これを対象リビドーとよぶ。

たとえば、相手に恋愛感情をいだくということは、対象リビドーがその相手に備給されたということを意味する。ところが、自我は外的対象との間で摩擦や葛藤(かっとう)を経験すると、対象リビドーを自我の内にひきもどす。このように自我に撤収されたリビドーを2次的自己愛リビドーという。

精神分析学においては、精神病者の場合はこの2次的自己愛リビドーがふたたび対象にもどれなくなって自我の内部に鬱積(うっせき)し、その内部で過剰となるために自己誇大妄想や心気妄想が生まれると考える。また対象への備給がおこなわれないために、現実への無関心や内閉的態度が生まれるとされる。

当然のことでもあろうが、心身の関連ということについて、何らかのエネルギーの関与があるという想定は古くからされている。17世紀のフランスの哲学者デカルトはいわゆる『心身二元論』という説を唱えた。形の見える肉体と見えない心が存在し、それを取り持つものとして「生霊」のようなものを想定した。

19世紀のドイツの哲学者グスタフ・テオドール・フェヒナーも近い立場をとったが、彼は敬虔なクリスチャンでもあり、また物理学者でもあった。心身を取り持つものとして「神」を想定しつつも、心身それぞれを物理学的原理によって説明しようとする『精神物理学』の創始者である。

このフェヒナー生誕の51年後、オーストリアに生まれたのがジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856年5月6日 - 1939年9月23日)である。彼は、フェヒナーの影響もそれ相応に受けたらしく、心に物理的作用を想定(または適用)することが多いのはそのためであるということも言えそうだ。

フロイトはリビドーの貯蔵庫のようなものを想定し、ある個人のリビドーは質的(心理的)であると同時に量的でもあるとし、その全体量を「リビドー総量」と称した。性が発達段階において口唇期・肛門期・尿道期・男根期・潜伏期・性器期などに分類され得ることは良く知られているが、つまり、性感は必ずしも性器からだけに限られているわけではなく、肉体全体から得ることが可能だということを前提としている。

また、上記の段階を相応にクリアできない場合には、その時期の性感に固執するなどし、それが精神上にも影響してくるのではないかという導きも可能になる、ということなのだろうと思う。
フロイトがリビドーという言葉を用いることになった契機は、ヨゼフ・ブロイヤーによる、ある女性のヒステリー治療によってである。

父親の看病をしていたこの女性の、ある「抑圧された思い」がヒステリーという症状になって顕現してくるということを後年フロイトは証明し、ブロイヤーとの共著「ヒステリー研究」で報告している。端的に言うと、本能と超自我の葛藤がヒステリーを引き起こしたのであり、その(本人さえ気付かぬ場合も往々にしてある)性的心理エネルギーをリビドーとフロイトは名づけたわけである。


III リビドーの発達段階
 フロイトはまた、このリビドーが発達の各時期に特定の身体部位(性感帯)に備給されるという考えにたち、口唇期、肛門期、男根期、性器期の4段階が区分されるとしている(→ 精神分析)。

精神分析学は、各発達段階を支配するリビドー体制があること、そして人はその発達過程で早期のリビドー段階に固着することがあると仮定し、神経症の各症状をその固着点への退行であると説明する。たとえば、強迫神経症は精神分析学では肛門期への固着として、ヒステリー神経症は男根期への固着として説明される。


IV リビドー概念に対する批判
  フロイトのリビドー概念は、当初より、すべてを性欲で説明しようとしているといった批判を内外からうけた。なかでもユングはリビドーを性的エネルギーよりももっと広い意味をもつ心的エネルギーとしてとらえるべきだとして、師のフロイトに対立し、決裂することになった。

また、精神分析が米国に広がる中で生まれたネオ・フロイト学派からも、リビドー理論は生物学主義だとして批判された。

しかし、早期の性感帯やリビドー体制、あるいはリビドー発達段階に関する理論はともかく、人が人を愛したり、きらいになったり、あるいは人に自分を閉ざしたりすることを理論化しようとすれば、おそらくこのリビドー概念に類する概念装置が必要になってくる。その意味では、内外の批判にもかかわらず、この概念のもつ意味は大きいといわねばならない。


Ⅴ リビドー ナルチスムスとの関連
  リビドーは元々自己の内面に蓄えられているものであるが、それは自己以外の対象を本来求めるものといえる。(対象リビドー)対象から受け入れを拒絶されると、当然のことながら再び元の場所(=自己の内面)に引き上げられる。(自我リビドー)

この自我リビドーがいわゆるナルチスムスの本態ということになる。ただ、どんな人においても、全ての対象リビドーが満たされるわけではないから、人は誰しも、幾分かはナルチストであるということもまた事実と言えるだろう。ナルチスムスは自己愛という訳が一般的だろうが、自惚と訳すことも可能である。同時に自尊心と裏表であるから、ナルチスムスの全く消失している人間というものを想定することはほぼ不可能と言える。

ただ、その程度が問題になる。リビドーをすべて自らに引き上げた(完璧な)ナルチストになりたいと考える人間は皆無と言って良い。いるとすれば、そう思い込んでいるだけにすぎない。他者へ纏綿されるべきリビドーの流れが阻害(あるいは拒絶)されたことで、自己内面に(やむなく)還流しているというのがその実態と言えるだろう。

無論、それが悪いことと言っているのでは決してない。これは、堰き止められた川の流れが大きく迂回して川原に流れ込み、そこで池のように停留している状態に似ている。川下へ、そして海へと向かいたいエネルギーはそこで抑圧(阻害)され、不本意な納得を強いられる。池には池の、湖には湖の良さが確かにある。

ただ、リビドーの本態からすると、それは鬱屈であることもまた事実であるから、そこに当然生じる無理は自覚しておかないと穏やかな水面を保つことは難しくなる。台風が来て大洪水が起こり、堰き止めているものを破壊してくれないだろうか・・・。停留ではなく、流動して海に流れ込みたいというこうした欲求、と同時に(期待することへの)怖れは無意識的にせよナルチストの内面には必ず宿っている。


Ⅵ リビドー 抑圧
  リビドーの流れのままに生きることは本能のままに生きると同義である。本能のみでも生きることは可能だろうが、それを抑圧(制御)することによって得られる超自我性を希求する脳の領域を人間は持っている。ホースを押さえつけることにより強い水流を得ようとするのと同じで、リビドーに対する抑圧により私たちは何かを求めようとする。押さえ方を間違えればとんでもない方向に水は飛ぶだろうし、押さえつけすぎると水は止まってしまう。

そしていつか他の箇所を突き破って噴き出す。適度に押さえつけてやることで、何らかの有為な水勢を得ることができる。何が有為なのか、という点に関しては(長くなるし、推測のみに終始することになる上、今うまくまとめて論じるゆとりがないため)敢えて言及しないでおく。

リビドーに対する抑圧は必要である。しかし、その抑圧は適切なものである必要がある。因みに、ここで言う「必要」が意味するものは、卵子と精子の結合によって人間が生まれるというメカニズムを生み出している、そのエネルギーにとっての本分とでもいうようなものがあるとするならば、その本分に逆行しないような抑圧が必要である、ということだ。

適切に狭められた川の流れは、それまでとは違う勢いを得、あるいは、新たな大地に向けて水路を開拓することも可能になる。適切な抑圧とは何か、と考えると難しい。しかし、不適切な抑圧というものの定義は明白であるように私には思える。つまり、(結果的にではあるのだが)個人のキャパシティを超える抑圧である。そうすると、『予測』こそが我々にとって重要になってくるのだろうか。また、それは可能なのだろうか。

ところで、抑圧には見えない抑圧というものもまた存在することを私たちは知っている。端的な例として、いわゆる過保護という関係をすぐに思い浮かべることが可能だろう。表面的には川の流れを促進しているようでいて、実質的には阻害している典型と言える。『川の流れに過剰な手を加えようとすること』

「過剰」の意味は上に述べたように「キャパシティを超えるほどの」という意味だが、抑圧に関してはこのように定義してよいのではないかと思われる。余談だが、たとえば、小さい子供の疑問などに対し即座に解を与えるのは(一般的な場合)あまり好ましいとは言えない。あくまで、自分で解を導き出せるように、そういった脳の神経回路を活性化させるように誘導すべきと思う。

真っ直ぐな流れにするためにコンクリートで護岸工事をしようとするよりは、蛇行しつつも自らの力で流れを形成できる川のほうが、長い目で見て豊かなものをもたらすのではないかという気がする。見守るだけなのはじれったいし辛いことでもあるが、他者の生を生きることは結局我々にはできない。

文化文明はリビドーの抑圧によって築かれ発展してきた。
しかし、リビドーの抑圧によって失ったものを我々はあまりに知らなすぎるのかもしれない。リビドーは性の、そして生の源泉と言えるから、自由に発露させるにしろ、適切に抑圧するせよ、扱いはもっと慎重にされるべきものなのだろう。抑圧というものが自我、あるいは超自我とどのように関係していくものなのか。そのへんについても、いずれもう少し考えてみたいと思っている。

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 リビドーを理解するには深層心理学の根本的な考え方の一つである力動的システムとしての心(サイキ)という考え方を理解しなければならない。フロイト・ユングなどの学者は心(サイキ)ないし精神(マインド)を固定的構成要素の静的な集まりから構成されているものとは考えず、むしろ適切な現実知覚と適切な機能を維持するために思考と情動(感情)の流れを制御し調整する一種の複雑な内的メカニズムというふうに見ていた。

精神を神経学的にのみとらえる考え方を拒否し、現実の心(サイキ)がつねに動いており、つねに変化している相互関係の集まりだということを認識するに至った。その活動は意識の外部にある。つまり無意識的なのである。

フロイトはラテン語からリビドーという術語を借用した。リビドーとは心的システムが稼動するための燃料であり、フロイトが発見したさまざまな心理過程によって、抑圧されたり、水路づけたり、置換えされたり、昇華されたりする駆動エネルギーを記述するための術語であった。

フロイトは特に性的エネルギーを指す為に用いるようになり、そして、リビドーは精神分析において一般的になった。
  
ユングはこの語をただの性的エネルギーのみを指して、用いるのにはあまりに狭く、その元来のラテン語の意味である欲望、憧憬、衝動とも一致していないと考えた。「私にとってリビドーは心的エネルギーを意味するそれは心的内容が負荷される所の強度と同義である」とリビドーは結果ないし効果によってしか規定されない。

たとえば人が内的あるいは外的に向ける注意とか、人間の相互関係に存在する流動的な磁力(マグネット)、特定の性質や事物に感じる魅力、物事を成就する力(やる気)、これらの心的エネルギーつまりそのエネルギーこそリビドーであり、フロイトのリビドーよりユングのリビドーの方が広く拡大して把握したといわれる理由である。
    
参考資料 ユング心理学への招待(青土社)
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by sigma8jp | 2008-12-01 22:15 | フロイトの(リビドー)精神分析 | Comments(0)

フロイトの精神分析

b0140046_21394841.jpg  ジークムント・フロイトは、オーストリアの精神医学者である。モラヴィアのフライベルク(現チェコ)の生まれで、貧しいユダヤ羊毛商人の子。4歳のときにオーストリア、ウィーンに移る。

ウィーン大学卒業後、病院勤務、大学講師を経て、ウィーンで開業医となる。神経症の臨床的研究から、これらの症候が幼児期に遡る、抑圧された欲求の無意識的な代償充足であることを突き止め、深層心理の力動的なメカニズムを解明する精神分析学を創始した。

人間の心の大部分が無意識の領域であることを発見、人間の行動を究極的に支配する要因としての生物学的衝動の解明は、理性中心の従来の文化、文明観に大きな衝撃を与えるとともに、「エディプス・コンプレックス」の概念、精神構造論(エス・自我・超自我)、生の本質をなすとされるエロスとタナトスの本能二元論などの展開は、社会的にも反発は多かったが、徐々に浸透。20世紀前半の思想界、文学などに与えた影響は測り知れない。

主著に『トーテムとタブー』、『夢判断』、『精神分析入門』、『幻視の未来』、『文化の中の不安』などがある。フロイトの弟子にはC.G.ユング、A.アードラーなどがいた。特にユングとは一時期蜜月状態になるほど親交を重ねていたが、彼等は後に独自の理論を展開、離反している。フロイトの理論は娘のアンナによって児童心理学に用いられ、それが晩年の失意のフロイトにとって唯一の救いとなったようである。

なお、彼は顎の癌に苛まれていたが、その痛みを反動にして、その主張に鉄壁の意志を貫いていた。しかしその痛みが耐え切れる限度を超え、そのことに意味が感じられなくなったとき、彼はその苦しみからの開放を望み、モルヒネ投与によって安楽死した(享年83歳)。この死は、結果論としてフロイト自身が主張していた「死の本能(≒タナトス)」の理論を、自ら立証するなど、彼は死に際してまで、毅然とした態度を崩さなかったのである。


【フロイトの精神分析学】
  フロイトの精神分析学は、大きな科学史の流れから見れば、人間を神秘的存在としてではなく、動物の進化の過程で捉えるダーウィンの進化論、人間の精神の科学的量的な研究を目指したフェヒナーの精神物理学、あらゆる現象をエネルギーという概念で捉えようとしたH.v.ヘルムホルツなどを背景に生まれてきたものである。人間の心の働きに対してあくまでも自然科学者の目で虚心に迫ろうとする彼の果敢な姿勢と、その働きのダイナミックな捉え方は、それらから強い影響を受けている。

彼の発見は以下の四つの諸点に纏められる。

①人間を基本的に動かしているものは意識的な自我ではなく、『無意識』の力である。
②無意識の力は多くの場合『性的』なエネルギーに彩づけられている。
③人間の行動の仕方はその無意識のエネルギーと意識的な自我(および良心として超自我)のエネルギーの『力関係』として捉えられる。
④力関係のパターンは基本的に幼児期の親子関係のなかで決定される。


【錯誤(しくじり)行為】
 物忘れ、言い間違い、書き間違い、或いは行動の間違いなど、一見偶発的な行為において、無意識的には、忘れたり、間違ってしまった方を望んでいることがしばしばある。すなわち、無意識的な力は、正常な日常生活においても、「うっかりしたはずみ」を利用して現れる。無意識の存在と、その広汎な影響力、そして何気ない行為にも十分意味が有り得ることを、フロイトはこの事実から強調した。


【無意識】
  フロイトは、ヒステリーの精神分析療法、夢、錯誤行為、催眠現象の研究から、人間の心は氷山のようにその一部しか意識的でなく、大部分は無意識であると考えた。感情や観念や思考の生起は、意識だけを見れば、その理由を十分に把握できず不連続であるが、無意識の過程を仮定すると心を厳密な因果律に従うものと考えることができ、科学的研究が可能になるとされる。


【無意識の重要視】
  意識的過程がそれだけで完結した系列を作らないことは、一般に承諾されている。無意識的過程の存在を認め、その働き方を解明し、それを重要な媒介変数として取り上げることによって、意識、行動、身体的過程を含めた全体としての人間存在を、統合的因果的に把握することが出来る。このことは、病理的過程のみならず、知覚や思考を含めて、正常な人間の諸行動についてもあてはまる。


【快感原則と現実原則】 (pleasure principle & reality principle)
  精神活動を、緊張低減を志向する絶えざる過程であるとみるなら、その志向する形式には、短絡的即時的非現実的である場合と、現実的諸条件の配置をふまえていく場合とがある。前者を快感原則、後者を現実原則という。

快感原則は不快を避け、快を求めようとする傾向。「快=不快の原則」(pleasure-pain principle)とも言う。フロイトはこれを、欲動の充足を求める「エス(Es)」の行動原理であるとし、快楽を得るも、真の満足を得られないものであるとした。

対して現実原則は、現実的諸条件を考慮して自分の行動を調整し、快を求めることを一時的に延期したり、永久に断念したりする働きで、「自我(Ego)」の行動原理の本質であり、対象選択、現実検討、合理的判断など、成熟した精神活動である。これは快感原則に基づく行動を抑圧するものとして、「エス」の行動原理(快感原則)と対置している。

フロイトによれば、幼児はもっぱら「エス」の行動原理である快感原則に従うが、成長とともに「自我」が形成されて、現実原則に従った適応行動が可能となるとされている。


【生の欲動と死の欲動】 (life drive & death drive)
  フロイトは、かつて種族保存欲動(≒性の欲動)と自己保存欲動の2つを対立的な行動の原動力としていた。しかし自己愛のように、種族保存には直接関係ないものでも、同じエネルギーの変形とみなされることから、「性の欲動」の概念を拡大させていった。

フロイトの欲動論は、最初、「性の欲動-自我の欲動」の組み合わせから成り、次に「性の欲動-攻撃欲動」の対置に変わり、最終的にそれらを「生の欲動」と「死の欲動」の二大欲動に包括し、発展させている。

前者は「エロス(Eros)」とも呼ばれ、「性の欲動」を中核とするこの「生の欲動」は、本質的に結合と創造の力(建設欲動)であり、なおかつ生命を維持し、豊かにする働きをするエネルギー(≒自己保存欲動)も含まれているとされる。

対して後者は「タナトス(Thanatos)」ともいい、これは生命体に内在する死への傾性であり、生きることの緊張と努力からの解放、ひいては生命以前の無機状態への回帰を目指す力とされ、解体と死に至る生命のもう一つの過程に裏付けられたものとされる。自己破壊衝動や反復強迫(repetition compulsion)などはこの「死の欲動」の表れとみなされる。

この2つの欲動は、普段は一緒になり、融合的作用を果たしている。例えば、人には自己を破壊しようとする傾向(自殺など)があり、これは「性の欲動」と結びつき、サディズムやマゾヒズムとなるか、自己を破壊しないために、攻撃を外部に向け、破壊・攻撃的な傾向を結果的に生じさせるとしている。


【リビドーとモルティドー】 (Libido & Mortido)
  「リビドー」はフロイトが構築した人間の本性に関する概念で、人間の成長・発展を可能にする心的エネルギー源のこと。よって、広義ではしばしば自我三層構造の欲動の貯蔵庫「エス」とほぼ同義とされる。フロイトによれば、「リビドー(≒エス)」は未分化で、流動的な欲動エネルギーである。発達に伴って分化し、構造化され、具体的対象を持つ欲求となる。

このエネルギー源にはエロスよりの性的エネルギーと、タナトスよりの破壊的な欲動エネルギーが共に含まれ、厳密に言うのであれば、前者を狭義の「リビドー」、後者を「モルティドー(mortido)」(≒デストルドー)という。

エロスは生きている物質を更に大きな総合体に纏めようとするものである。精神分析の理論においては、人間の行動は全て、このエロスとタナトスの相互対立的、または結合的作用にほかならないと考えられている。


【フロイトの精神装置論(自我の三層構造「エス・自我・超自我」)】
  フロイトは、心的活動の全体を、一定のエネルギーに基づいて力動的に機能する統合的体系とみなした。そしてその心的性質・機能からして、人間の心的構造を「エス」「自我」「超自我」の3領域からなる装置になぞらえて概念化した。

「エス」とは、人間の心(精神装置)を構成する三領域(エス・自我・超自我)のうち、最も深奥にあって、欲動エネルギーの源泉をなす部分、いわば欲動の動力源であり、貯蔵庫である。エスは未分化で、その働きは無意識的であり、現実をも理想をも無視する、非論理的かつ無道徳的衝動としてひたすら快感原則に従い、ただむやみやたらと快を求め、解放を求めており、リビドーの直接的・即時的充足を目指す。幼児は全面的にこのエスの力に支配されているが、成長するにつれて、これを規制する自我、及び超自我が分化し、発達してくる。

「自我」は、意識的機能の主体を為すものである。これはエスの一部が現実に触れて変化したもので、現実を認識して順応し、エスの欲動エネルギーを表象化したり、制御したり、あるいは水路を与える。自我は快感原則ではなく次第に現実原則を目指し、現実に適応することを目指すようになる。また、自我は超自我を適当に満足させたり抑えたりする働きも持っている。

「超自我」は、個人が両親や権威者などを通してのしつけ・教育を学習し、内部に取り入れて出来た、いわゆる良心に該当し、個人の中に内在化された道徳・規範・理想をもって、自我を監視・禁圧する心的メカニズムである。

フロイトによれば、人間は欲動(エス)に突き動かされるものだとされるが、文明社会における欲動の自然な発揮は禁止される。そこで性を抑圧するか(抑圧された欲動はかえって非合理強力な影響を心身に及ぼす)、社会的活動に昇華するか、反動形成して逆の極みに走るか、抑圧が不十分で非社会的人格になるしかない。自我が弱いと現実認識(現実吟味)は不十分となり、過酷な良心(超自我)の命令のままに欲動を抑え過ぎたり(神経症的人格)、逆に欲動に飲み込まれて現実を見失ってしまう(精神病的人格)ことになる。

自我と超自我の機能は、エディプス期になってわがままを抑える働きとして強化されていく。よって自我の強さは健康な人格の基本条件となる。


【自我の防衛機制論】 (defense mechanism)
  本能的諸欲求と外界との調和を図りながら、現実適応の仕事を担う自我機能は、時に過大な負担に直面する。この際に、必ずしも適切な適応とはいえないが、目前の破綻を逃れるべく、自我はあらゆる非常手段をとって、本能的諸欲求を制御せざるを得ない。この種の自我の働きを総称して、防衛機制と呼ぶ。

防衛機制は、制御課題の大きさと、それに応ずる自我機能の発達程度の不均衡(主観的には不安として体験される)を契機に発動される。具体的には「抑圧」「反動形成」「投射」「合理化」「退行」「置換え(転位)」「分離」「昇華」「同一視(同一化)」「取入れ」「代償行動」などがある。また、フロイトの元弟子であるA.アードラーは「補償」を唱えている。

防衛機制は、内的衝動や外的現実の認知を否定、もしくは歪曲し、かつその作用は無意識のうちに行われる。したがって一度形成されると、類似の事態に対して反復される傾向を持つ。本来は自我の一機能として出発しながら、柔軟性と合理性を欠いた自動的・強迫的機能となり、かえって適応を阻害することになりやすい。


【フロイトの性格理論】
①本能的衝動を源泉とする心的エネルギーの力動学的体系とみなす。この体系は、エス、自我、超自我の3領域から成り、緊張低減の原則の下に作動する。

②この体系は、意識と無意識の層に分かたれ、心的エネルギーの主要なものは無意識層に属する。そして、無意識的過程を明らかにするための臨床的技術について解明した。

③心的決定論、すなわち全ての心的現象は意識・無意識を含めた全体系において、厳密な因果関係に支配されているとする。

④性的エネルギーについての新しい概念の提起、これに基づいて、パーソナリティの発達理論を展開したこと。

⑤進化論的機械論、すなわち個人発達の段階を、系統発生の反復とみなし、かつ幼児期形成の反復的発展とみなしたこと。
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by sigma8jp | 2008-12-01 21:14 | フロイトの(リビドー)精神分析 | Comments(0)