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グルジェフ回想録(チェコビッチによる)

  2003 年10 月にフランスのL'Originel社から出版されたチェスラヴ・チェコビッチによるグルジェフ回想録『Tu l'aimeras』(「あなたもお好きのはず」)のうち、版元のウェブサイトで公開された部分の翻訳です。原著(フランス語)はオンラインで注文できます(紀伊国屋ブックウェブ)。チェコヴィッチは、レスリングのチャンピオン、サーカスの力持ちなどの経歴を持つ、グルジェフの肉体派の弟子の最右翼として知られています。


 チェスラヴ・チェコヴィッチは、一九一八年にグルジェフに出会い、コンスタンチノープルからプリュウレに至るまで行動を共にし、二十八年間にわたって頻繁にグルジェフと直接に関わった。チェコヴィッチは、グルジェフの教えを直接に耳にし、生のさまざまな局面におけるグルジェフの行動と対応を目撃する機会を持った。

六十歳を超えてから彼が書いた手記のなかで、彼は、自分の人生はグルジェフに出会ったときに始まったと書いている。その晩年にチェコヴィッチは、不穏なヨーロッパ情勢のなかでこの記録が失われることを恐れ、フォメンテラ島の友人に原稿を託した。そしてその四十年後、この原稿は、この島の小さな白い家の屋根裏で発見されたのである。

                   * * *
今日幸運にもグルジェフの教えに出会った者は、彼を直接に知るという幸せを得ることができない。グルジェフを直接に知った者は、グルジェフの死後にグルジェフの教えに出会った者に、グルジェフという人物から受けた印象を伝えるべきであろうか。その答えは明白である。だが、どのように伝えたらよいのか? 起こったことの客観的な記録というのは不可能である。だから私はただ、自分が受けた主観的な印象を伝えよう。

ゲオルギー・イヴァノヴィッチ[グルジェフ]の教えについて私から話を聞いた者たちは、この人物から私が受けた印象について知りたがった。彼らのうち何人かは、私が彼らに語ったことは記録されるべきであるといった。ミスター・グルジェフという人物の持っていたそれらの側面が忘れ去られることのないようにである。一部の者は、私の語ったことを書き留めた。この回想録は、そのようにして生まれたものである。

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今日幸運にもグルジェフの教えに出会った者は、彼を直接に知るという幸せを得ることができない。グルジェフを直接に知った者は、グルジェフの死後にグルジェフの教えに出会った者に、グルジェフという人物から受けた印象を伝えるべきであろうか。その答えは明白である。だが、どのように伝えたらよいのか? 起こったことの客観的な記録というのは不可能である。だから私はただ、自分が受けた主観的な印象を伝えよう。

ゲオルギー・イヴァノヴィッチ[グルジェフ]の教えについて私から話を聞いた者たちは、この人物から私が受けた印象について知りたがった。彼らのうち何人かは、私が彼らに語ったことは記録されるべきであるといった。ミスター・グルジェフという人物の持っていたそれらの側面が忘れ去られることのないようにである。一部の者は、私の語ったことを書き留めた。

この回想録は、そミスター・グルジェフとの関わりのなかで私が目にした彼の行動と対応は、私に強烈な印象を与えた。それを知る者がほとんどいなくなった現在、それについて証言することは私の義務であろう。アレクサンダー・ザルツマンはすでに死んでいる。ドクター・シャーンヴァルもだ。トーマス・ド・ハートマンが私と同じ試練を受けたのか、彼の記憶が私の記憶と一致するのか、私には確信がない。

彼はミスター・グルジェフの音楽の整理に忙しい。彼も手記を書くだろうか? これをあてにすることはできない。いったん何かの思い出について語り始めると、一連の記憶が奔流のように呼び起こされる。私はそうして記憶をたどり、何が起こったか、どのような事実があったかを報告しよう。口述と初回の校正は一九五二年と一九五三年に行われた。私がこの回想録に引用したグルジェフの言葉が正確なものであるかどうか、疑う者もいるだろう。

それは当然の疑いである。だが、P・D・ウスペンスキーは『知られざる教えの断片』[奇跡を求めて]で「彼がわれわれに与えた答えがなにを指し示していたのか、私は長い歳月の後に理解した」と語っている。私の場合もまったく同じである。この回想録は、私が体験した本当の出来事について、それからかなりの時間がたってから、私がミスター・グルジェフに寄せる真実の情をもって思い出したことの記録である。

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一九二四年、ミスター・グルジェフはアメリカに行き、いくつかの都市でムーヴメンツのデモンスレーションと講演会を行った。私はこれに同行したグループの一員だった。どの都市でも、われわれはデモンストレーションを行い、ムーヴメンツの後、超心理学的現象の実演をしてみせた。観客は、トリック、半トリック、本物の超自然的現象を見分けるように言われた。この種のデモンストレーションを何回かした後、ミスター・グルジェフは講演会を開いた。

これから話すことがどの都市で起こったかは重要ではない。ミスター・グルジェフが講演する日、会場は人であふれかえっていた。聴衆は何か刺激的なことを期待していた。劇場で夜のショーが始まる前のような雰囲気だった。そして幕が上がり、聴衆が目にしたのは、何か特別なものを提供するふうでもなく、およそ三十人の生徒に囲まれて静かに足を組んで坐るミスター・グルジェフの姿だった。

聴衆はショーの準備ができていないうちに幕が上がったかのような印象を受けたように見えた。しかし、ミスター・グルジェフが、人間の三つの脳(思考/感情/肉体のセンター)、それらのセンターの間の不均衡と不調和によって人間の内面生活に生じる混乱、そして粗雑なものを精妙なものの支配下に置くことの必要性について話しだすと(>参考)、聴衆の一部が苛立ちと不満を露わにした。

何人かが立ち上がり、座っている人たちを乱暴に押し分けながら退場した。ミスター・グルジェフはそのまま話し続けた。さらに退場する者が増え、その喧騒のために、続けて話を聴きたいと思っている人たちはミスター・グルジェフの声を聞き取れないまでになったが、ミスター・グルジェフは忍耐強く話し続けた。さらに退場する者が増え、ゆっくりと会場全体に動揺が広まっていった。

それでもミスター・グルジェフは、まるで聴衆全員が熱心に聴いているかのように豊かなゼスチャーとイントネーションを交えながら話を続けた。われわれの目に、講演会の失敗は確実に見えた。われわれは、完全に空っぽになった会場で話を続けるミスター・グルジェフの姿を想像して、耐え難い思いをした。

しかし、ミスター・グルジェフは、豊かなイントネーションをもって話し続けた。ときどきミスター・グルジェフは、自分の知らない英単語について、われわれに尋ねた。やがて突然、ミスター・グルジェフは話をやめ、咳をし、あごを撫でると、よく透る声で、聴衆への非難を開始した。

「おまえたちは、生まれてはじめて、真剣な話を耳にしている。この挑戦を前に、おまえたちは自分らが空っぽの人間であることをあからさまにした。これは重大な話であり、だからおまえたちはそれを嫌がる。軽いコルクが水に弾き出されるように、おまえたちは弾き出される」

「去りたい者は去れ! いますぐに去れ。だれもここを出られないよう扉に鍵をかける。その前に出て行け」ミスター・グルジェフは、われわれのひとりに、扉のところに行き、出入りのできないように閉鎖するように言った。聴衆の大多数が立ち上がり、会場から出て行った。ミスター・グルジェフは煙草を点け、静かに吸った。会場に沈黙が戻ると、彼は立ち上がり、次のように言った。

「他に出て行きたい者はいないか? 君たちは皆ここに残るのか?」残った人たちは、沈黙をもってこの問いかけに答えた。するとミスター・グルジェフは、完全に声のトーンを変え、とても快活な声で、みんなそばに来て坐るように言った。それまで椅子席や会場の隅にいた人たちはステージに昇り、ひとかたまりになって坐った。ミスター・グルジェフは、このようにして選ばれた聴衆に対し、明瞭な声をもって、自分が話したいと思っていることは万人向けではないのだと宣言した。

「馬鹿者どもが去った今、われわれは深く話すことができる。問題の根底まで掘り下げるのだ」聴衆は、非常な注意と関心をもってミスター・グルジェフの言葉に耳を傾けた。ミスター・グルジェフによる英語の発音の奇妙さをだれも気に留めなかった。彼らはミスター・グルジェフの言葉を飲み干しているかのようであった。ミスター・グルジェフは大量に話した。たまに話を中断し、他の教えとの矛盾に関する質問に答えた。

特に記憶に残っているのは、すでにムーヴメンツの公演を見て、ミスター・オラージュ(ミスター・グルジェフのアメリカへの招待者)のミーティングにも出席したことがある人物からの質問に対するミスター・グルジェフの答えである。彼は、自らの努力が、彼がそれまで揺るぎないものと信じてきた彼自身の内面世界の完全な崩壊を招くのではないかと予感していた。

このミスターは、彼の内面の動揺を物語る悲痛な声をもって、彼の抱いている恐怖について語った。それは、世界に対する彼の哲学的な見解や信念、そしてそれらが彼のなかに育んできた希望の基盤となっていたものが剥奪されるのではないかという恐怖である。ミスター・グルジェフの誘いに応じて、彼は立ち上がり、体を震わせながら、およそ次のようなことを話した。

「ミスター・グルジェフ、あなたは私の内面世界をかき乱した。私の意見、私の見解は、揺れ動いている。おそらくそれらは長くは持ちこたえられないだろう。やがて私には、これまでの人生が私のなかに培ってきたものすべてが信じられなくなるだろう。だから私は恐れている。空っぽのままで留まるのが恐ろしい。あなたの教えのなかに、新しい基盤を作るための素材を私は果たして見つけられるのか、私には心配だ。

大事なものを失った人間のように、自分の不運を呪い、苦しみに耐えるはめになるのではないかと予感している。かつて私は、自分の足が地面を踏みしめているのを感じていた。今、その地面は消えた。あなたはどんな権限をもって、私や他の人々に、われわれの心理的/精神的なバランスを乱すような、そんな仕打ちができるのか?」さらに彼は、彼の内面世界が被った破壊的な影響の数々について述べ、ミスター・グルジェフを非難した。

聴衆は静まり返り、だれもが彼の言うことを自分にあてはめ、ミスター・グルジェフの答えを待望した。ミスター・グルジェフは、このような非難をあらかじめ予想していたようであり、一瞬、彼の顔には満足げな表情が浮かんだ。「あなたの恐怖、あなたの心配を、私はよく知っている。私の教えはあなたの意識に急速に浸透したが、あなたはまだ、人が現実にどのような状況に置かれているかについての厳密な知識を欠いている。

だれもが、その時が来るまで(多くの人間は死ぬまで)、自分は人生で堅い地面の上を歩いていると信じている。だが、自分にはバランスなどないこと、自分の心理的/精神的な安定はスピリチャルな意味での盲目性を土台にしたものであること、自分の知人にも自分自身にも何をする力もないこと、すべてが無に消えていく流れに沿って自分たちは常に歩いていることを確信したならば、あなたはおそらく、今の道を歩き続けるなら自分はどこに行くのかを知りたいと思うかもしれない。

私はそれがどのような道なのかを知っている。そしてあなたがその道を避け、苦しんだり歯ぎしりしないですむことを願っている」「私が話すことを理解しだした人間が恐怖を予感する、そして本当に恐怖を感じるというのは、まさにそのとおりだ。しかし、この恐怖は、彼らが主体的に感じるものではなく、彼らのなかに機械的に生まれてくるものだ。

だから、あなたの言っている恐怖は、あなたの存在に関わる本当の恐怖ではない」「あなたが捨てなければならないすべてのことが、あなたが言うような恐怖をあなたに抱かせ、あなたにこれまでどおりの道を歩ませようとする。人のなかには大勢のつまらない『私』がいて、当人が現実を見始めた瞬間、それらは存亡の危機に直面する。だからそれらは当人のなかに恐怖を作り出し、私が話すようなことはすべて『悪魔に食わせたい』という衝動を当人にもたらす。

あなたは、不運への嘆きと苦しみを予感していると言う。それは正しい。自分の状況について何も知らない者は幸せだ。自らにふさわしい進化を遂げた者も幸せだ。だが、いくつかの基本的な真実を知ったばかりの者、良心が目覚めたばかりの者は、幸せではありえない。目覚めたての良心というのは犯罪人の前に現れた警官のようなものだ……」

「粗末なベンチに座ったままでいるなら問題はない! 客間の安楽椅子に座るのは、それよりはるかに快適だ。不幸せなのは、ベンチから立ち上がったはよいが、安楽椅子までたどり着いていない者だ。カラスというのはそれなりに美しい。クジャクはもっと美しく、はるかに賞賛に値する。尾に二本だけクジャクの羽を生やしたカラスは不幸せだ。

そんなカラスは、他のカラスを苛立たせるから、仲間のカラスにいじめられる。このクジャクのなりかけは、クジャクの仲間にも入れない。本当のところを言うと、これはクジャクが意地悪をしているのではない。このクジャクのなりかけは、一部のクジャクから言われたことをすべて自分への悪意と解釈し、自分で群れを離れるのだ」

「いつの日か、百万人がこの苦しい状況を体験するだろう。だが、それで終りではない。百万人が失敗し、自分の責任において百万人が苦しむ。たった一人でも、<自然>に対する自らの義務を果たすことに失敗したすべての人間を待つこの悲しい運命を逃れることに成功したならば、それがこの百万の苦しみの埋め合わせをする」

ここで何人かの聴衆が、ミスター・グルジェフに抗議した。「それならばあなたはどんな権限をもって?」、「それならばどうしてあなたは?」、「あなたはどんな目的で?」。ミスター・グルジェフはほほ笑み、慈愛に満ちた声で、次のように語った。「一人が救われたならば、その一人は百人を救う。百人は千人を、千人は百万人を救う。この百万人の幸せは、百万の苦しみと百万の不幸せの埋め合わせをする。

そして数億の人間が、彼らのなかに現れたこの新しい人類のプレゼンスから幸せを感じる。権限について言うならば、この権限は、客観的良心に基づくものだ。何の自覚もなしにどこにもたどり着かない道を歩む人間が体験する喜びや生理的な幸福感と、自分が破滅の方向に向かって動いていることを自覚するに至った人間の苦しみと不運とを天秤にかけるため、この二つを比較するなら、一方は何も自覚していないのに対し、もう一方は自分が自分にしたことを後悔し、それに苦しんでいる。

だが、この二つを比べ、どちらを大切にしなければならないかという問題は、客観的には存在しない。庭師は苗を植えるために、何の呵責も感じずに雑草を抜く! これは花を咲かせる可能性を増やすために必要なことだ。苦しみの原因は、用意された状況を利用しないことにある」ふたたび全員を沈黙が包んだ。しかし今度の沈黙は、肯定の沈黙、ミスター・グルジェフの使命に関する理解のあらわれとしての沈黙だった。だれもが時間の感覚を失った。

次のような言葉でみんなに家に帰るように促したのは、ミスター・グルジェフだった。「それではここで切り上げよう! 明日はみんなまた働かなければならない。今のうちに帰って、少し休みなさい」その晩、ミスター・グルジェフの言ったことから深い印象を受けた人々は、お互いの間の堅い結び付きを感じ、自分たちが受け取った真実への理解を深めるために、その後も共に集まりたいと願った。

このようにして、この都市では、ミスター・グルジェフの生徒たちの中心的な核が生まれた。
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by sigma8jp | 2008-12-31 01:58 | グルジェフの覚醒プログラム | Comments(0)

グルジェフが教えたエクササイズ

 グルジェフが教えたエクササイズの内容を初心者のために説明するのは、この個人的な回想録の本来の目的ではなく、私の手に余ることでもある。眠れない夜に頭を機械的に駆けめぐる思いを断ち切ろうとしたことがある人、あるいは三十秒の間だけでも機械的な連想に心を奪われることなく祈ろうとしたことがある人は、彼が私たちに教えた自らと関わるにあたっての毅然とした姿勢の持つ味わいをわずかなりとも理解できるだろう。

彼が私たちに教えたのは、人が内的なエネルギーを増すことを助ける、基本的なスピリチャル・エクササイズだった。エクササイズについて彼が与えた最後の指示は、私に深い印象を残した。「修行僧のように単純でありなさい」、と彼は言った。「するべき仕事を与えられた修行僧のように、信頼をもってこのエクササイズをやりなさい。知ったかぶりをもってではない」。

そう言いながら、彼は額を指さした。「知ったかぶりをもってではなく、確信をもってやりなさい」。彼は額から手を離し、太陽神経叢に触れた。「頭をもってするのではなく、フィーリングをもってやりなさい」[…略…]「人のなかでは、ひとつの部分があれこれを望み、それとは別の部分がそれを為す」、と彼は言った。

「人のなかにはこの二つの部分があり、その働き方には、このような法則がある。片方の部分だけに生じた望みが強ければ強いほど、その人間は、もう片方の部分をもって為すことができなくなる。持続的な努力においてさえ、これはそのようになる。若いうちは、<為すこと>への努力を<自然>が助けてくれる。だから、責任ある年代に達した人ほどは必死にならなくてもよい。

だが、ある年齢を越えた後では、この種の努力はとても難しく、不可能なときさえもある」[…略…]グルジェフのアパルトマンは、常にブラインドが降ろされ(だれもその理由を尋ねなかった)、客間のひとつだけの明かりが、じゅうたんに覆われた彼の長椅子の上を照らしていた。そこで私たちは、夜でも昼でもない、不思議な時空の世界、鎧戸の降ろされた窓の外の世界から完全に分離した世界にいた。

私たちは、いつも正確な時間にグルジェフのアパルトマンを訪れ、廊下でコートを脱ぐと、小さな客間に自分の場所を見つけ、ひとりひとりが別の部屋でエクササイズの進み具合について尋ねられる間、他の者たちは彼の執筆中の原稿を読んだ。深い理解をたたえた彼のまなざしを前にして、私はしばしば何も言えなくなった。

もっと単純で、もっと的確に真実を反映した言葉を捜して私が口ごもる間にも、彼のまなざしは、私が味わっている自己嫌悪の奥まで見抜いているようだった。ある日、私からとりわけ中身のない報告を聞いた後、彼は真剣にうなずき、こう言った。「クロコディール、簡単なことではないのだ。ここでわれわれが試みていることは……」。

[クロコディール(子供を食べてしまってから涙を流すというワニ)は、グルジェフが著者に付けたニックネーム]われわれが試みていること? 彼が「われわれ」と言ったことで、私は一瞬、動揺した。彼もまた、私たち同様に地面に縛られていて、私たちと一緒に、一歩一歩よろめきながら、意識の高みに向かおうと、闘っているのだろうか?

彼はすでに、私の目にさえもわかるほどの、非常な高みに達しているというのに? それとも、彼が「われわれ」と言ったのは、私たちが最初のハードルを越えて、機械的な世界――私たちがいま住んでいて私たちが知っているいまのところ唯一の世界――との同一化を離れて第一歩を踏み出すのを助けるための、計算された思いやりなのだろうか?

別の日、彼は、彼が外の世界で直面している厄介事について話しながら、また「われわれ」という言葉を使った。それまでにも頻繁に、彼の何気ない言葉が突然に別のレベルでの理解をもたらしたことがあったので、このときも私たちは、もしかしたら月賦なしで新車を買えるかもしれないという彼の話に、注意深く耳を傾けた。「これはめったにない儲け話だ。だからこれがうまくいくよう、誰かに加護を求めなければならない」、と彼は言った。

「君たちがそれにふさわしい聖人の名前を挙げなさい。私はその聖人にロウソクを捧げよう」。彼はそう言うと、私たちの先輩格にあたるミス・ゴードンの顔を見た。彼女は、願いをかなえてくれることで有名な、ある聖人の名前を挙げた。グルジェフは首を振り、その聖人のことならよく知っている、その聖人では「だめだ」と言った。「われわれのひとりに対して<弱み>を持っている聖人でなければいけない……。

このワークをしているわれわれのひとり、私または君たちのひとりだ」。彼は、呆然とした私たちの顔を順番に見つめてから、肩をすくめた。「君たちがそのような聖人を指名できないなら、私は自分の守護聖人、聖ジョージに頼むことにしよう。だが、彼はとても高くつく。彼は金とか、またはロウソクとかいった品物には興味がない。

彼は代償として苦しみを求める。内面における何かを求める。私が私の内面世界のために何かを作ること、彼はそれにしか興味がない。そして私がそれを作ったなら、彼は必ずそれに気づく。だが……このような苦しみは、とても高価だ」[…略…]グルジェフは、彼が意識的に蓄積した力を私たちに向けて頻繁に放射し、私たちが最初の試みで必要な強さを維持できるよう、助けてくれていたと思う。

「人間にとっての真の内面世界」に到達すること……。彼は私たちのなかに、この目標に向けての激しい願望をかきたてた。「人には三つの世界がある。第一の世界は、外側の世界、われわれの外側で起こるすべてから押し寄せてくる印象の世界だ。第二の世界は、いわゆる内側の世界、われわれの身体の内部的な働きが総体として作り出す世界だ。

そして第三の世界は、魂の世界……昔の人々は、これを人間にとっての真の内面世界と呼んだ。人にはこの三つの世界がある」。さらに彼の目は、「そして人は、このうちどの世界で生きたいかを決めることができる」と言っているようだった。「このエクササイズは、人間にとっての真の内面世界、魂の世界のためのエクササイズだ」[…略…]

二、三週後、まったく別の話をしていたグルジェフは、あたかも話のついでのように、私のなかにくすぶっている頑固な否定性について触れた。その日、彼はルーエンまで車で出かけ、全部で百六十八マイルの行程をいつもながら驚くべき速度で周遊し、夕方七時半には、私たちが待つカフェ・ド・ラ・ペに戻ってきていた。彼は晩餐室に入ってくると、うれしげな溜め息をつき、「バラまたバラ」と、自分の満足について語った。

彼はその日、あるビジネス上の取引に成功し、あと一週間は経済上の特定の問題について考えないでもよくなったという。だが、この「バラまたバラ」はやがて消え失せ、「トゲまたトゲ」になるという。それでもなお、外側の世界のトゲというのはよろしい、と彼は言った。外側の世界にトゲがあるおかげで内側の世界にバラが咲くのだから。

「これは法則だ」、と彼は言った。「ひとつひとつの不満に対応して、必ずひとつひとつの満足が存在する」。彼はコーヒーを飲みながら、「外側の世界のバラと内側の世界のバラのどちらが欲しいか?」と私たちに尋ねたが、「これは複雑すぎる問題だ」と言って、質問を取り消した。「それよりも、私から君たちに、ひとつ言っておくのがよいだろう」、と彼は言った。

「これを知ったなら、君たちは一生、裕福に暮らせる」。彼は人差指を立てたまま、次のように言った。「人のする努力には二つの種類がある。内側の世界での努力と外側の世界での努力だ。だが、この二つが出合い、第三の世界のための素材を作り出すことがない。内側の世界での努力と外側の世界での努力を出合わせるというのは、神のお膳立てによっては不可能だ。自分が親からもらったものによっても不可能だ。

方法はただひとつ、あなたは意図的に、外側の世界での努力と内側の世界での努力を出合わせなければならない。そのときはじめて、あなたは人にとっての第三の世界、魂の世界の素材を作ることができる」十一月十七日、私たちは、グルジェフの指導のもとで、第三シリーズのエクササイズへの取り組みを始めた。

この新しいエクササイズは複雑で、これまでになく、内的な注意力を持続させる必要があった。私たちがそのときに体験したような「存在における努力」のことを、グルジェフが若年時代の探求の旅で訪れた古い僧院の先達たちは、「自らを打つこと」と呼んだという。「自らを打つ」という言葉は、横暴きわまりない自我の主人となることに向けての毅然とした努力という意味では、私たちの体験した努力を適切に描写していた。

しかし、私たちの試みには、「自らを打つ」という言葉から連想されるようなマゾイスティックな要素は、ひとかけらもなかった。その逆に、私たちが体験したのは、かつて味わったことのない深さの内的な満足感だった。エクササイズの毎回のセッションで、私たちは自らの存在の中心に、グルジェフが「稼ぎ取った真珠」と名付けたものを見出した。グルジェフは私たちに、毎回のエクササイズの前に必ず口にしなければならない誓いの言葉を教えた。

このエクササイズから何かを得たら、私はそれを自己満足のためにではなく、全人類のために使うという誓いである。この「すべてに対する善意」の誓いは、その意図の深さにおいて私を深く揺さぶり、私に甚大な影響を及ぼした。私は生まれてはじめて、自分が自分に任された小さな部分の成長のために努力することで、人類に対して真の意味で役に立つ何かをしているという実感を持った。

かつて私は、ワークというものを、完全にエゴイスティックで、自己中心的な観点から理解していた。ところが突然、ワークという言葉の意味は大きく広がり、まるで生命の樹のように、無数の枝を伸ばして花を咲かせ、全人類を包含するものとなった。それは途方もないことを意味していた。より深く存在することに向けてのたったひとりでの努力を通じて、人は全人類がほんの少しだけ神に近づくことを助けられる。

エクササイズの前にこの誓いの言葉を口にするたび、私は、私が私の真の内面世界のために何かを作るということは、全人類のために何かを作るといういうことなのだと思った。これが「キリストの神秘の体」についての私の最初の体験である。「キリストの神秘の体」の教えについて、当時の私は何も知らなかったが、その後の長い年月を経て、それはいまだに底知れない神秘をたたえてはいるが、私が身をもって理解できる教えとなった。

(Kathryn Hulme, Undiscovered Country: A Spiritual Adventure, pp. 88-116 の一部抜粋)

私は存る。私は存りたい。私は存れる。
悪にではなく、善に仕え、仲間を助けられるのは、
私が存るときだけなのだから。
私は在る。
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by sigma8jp | 2008-12-31 01:24 | グルジェフの覚醒プログラム | Comments(0)

神秘思想家G・グルジェフ

b0140046_6514982.jpgゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフ(Георгий Иванович Гурджиев, 1866年1月13日? - 1949年10月29日)は、ロシアの神秘思想家。

神秘思想家として紹介されることが多いが、著作・音楽・舞踏によっても知られる。ギリシャ系の父とアルメニア系の母のもとに当時ロシア領であったアルメニアに生まれ、東洋を長く遍歴したのちに西洋で活動した。20世紀最大の神秘思想家と見なされることもあれば、怪しい人物と見なされることもあるというように、その人物と業績の評価はさまざまに分かれる。

欧米の一部の文学者と芸術家への影響、心理学の特定の分野への影響、いわゆる精神世界や心身統合的セラピーの領域への影響など、後代への間接的な影響は多岐にわたるが、それらとの関係でグルジエフが直接的に語られることは比較的に少ない。

人間の個としての成長との関係での「ワーク」という言葉はグルジエフが最初に使ったものであり、近年ではもっぱら性格分析のツールとして使われている「エニアグラム」はグルジエフが初めて一般に知らしめた。精神的な師としての一般的な概念にはあてはまらないところが多く、弟子が精神的な依存をするのを許容せず、揺さぶり続ける人物であった。

グルジエフという名前は生来のギリシア系の姓をロシア風に読み替えたものであり、表記としては「ジェフ」も一般的であるが、ここでは便宜上、参考文献の題名も含めて「ジエフ」に統一した。生年については公文書上の記録が一貫しないために諸説があるが、伝記作家ジェイムス・ムアらが主張する1866年説が一般的であり、グルジエフが自分の生年に触れた数少ない言辞の記録(米国国会図書館蔵)とほぼ一致する。


グルジエフの生涯
  グルジエフはギリシア系の父、アルメニア系の母のもとにアルメニア(当時ロシア領)に生まれた。生年には諸説があるが、伝記作家のジェイムス・ムアはこれを1866年としている。

グルジエフが1910年台にロシアにあらわれる前の前半生は、自伝的な著作である『注目すべき人々との出会い』に描写されている。その叙述には寓話的なところもあり、すべてを事実として読ませるように意図して書かれたとは受け取りにくいが、少なくともそのあらましと一部のエピソードは実人生を下敷きにしたものであろうことが近親者の証言などからうかがわれる。

グルジエフは少年時代のこととして、父親からの独自の教育からの強い影響に言及している。父親は裕福な羊飼いだったが、牛疫によって多くの羊を失い、経済的な困窮のなか、小さな木工場を立ち上げる。グルジエフは少年時より家業を手伝うとともに、各種の工芸や小規模の商いをもって生計を助けた。

父親は吟遊詩人でもあり、父親からギルガメシュ叙事詩を聞かされたことが「失われた古代の叡智」への関心のひとつのきっかけとなった。ロシア、ペルシャ、トルコが国境を接し、宗教と民族が混交するこの地で少年時代を送るなか、グルジエフはいくつかの不思議な現象を目撃し、それはやがて人間の生の意味をめぐる探求への衝動となった。

グルジエフの家族はまもなく、当時ロシア帝国が要塞の建設を進めていたカルスへと移った。グルジエフは、そこで学校に通い、医者もしくは技師になることを目指して勉学にふけるとともに、聖歌隊の一員となり、カルス陸軍大聖堂のボルシュ神父を最初の師として、精神的な事柄への関心をさらにつのらせ、やがて近傍の聖地や遺跡などの探訪を始める。学業を終えたグルジエフは、機関車の火夫として働くなど、鉄道に関係した仕事につき、鉄道建設に先立つ調査にも関与して、「正規外の収入」を得たこともあったという。

自伝によると、グルジエフは友人とアルメニアの古都アニの廃墟で、伝説的な教団の実在を示唆する古文書を掘り出し、これがアジアとオリエントの辺境をめぐる長い旅の最初のきっかけとなった。

放浪時代のグルジエフは「真理の探求者たち」というグループに属し、彼らはかつて存在したと信じられる「唯一の世界宗教」を求めて東洋の各地を放浪し、修道院や精神的な共同体、遺跡などを訪れ、神話や象徴なども含めた秘教的知識を収集したという。

「真理の探求者たち」のメンバーが集まったときには、それぞれの専門分野での研究成果を互いに分かち合い、知識を統合したという。グルジエフには、ひとつの専門領域として、催眠という現象への関心があった。のちに執筆された著書『ベルゼバブの孫への話』によると、その関心には、医学的または心理学的な側面のほか、特に集団心理としてあらわになる人間の暗示にかかりやすさやただ自動的に何かをしてしまう傾向に関する研究という側面があった。

のちにグルジエフは革命や戦争といった形でのこうした集団心理の働きをたびたび目撃し、トルコによるアルメニア人大虐殺のおりには、父親を失っている。人間の「自動的精神」が彼の大きな関心事だった。彼は人間の精神の脆さを研究し、それに打ち克つ方法を知ることをみずからの課題とした。彼は革命や動乱の危険な場にしばしば身を置き、3回にわたり「流れ弾」に当たって重傷を負った。

国境を越えて遍歴するのは容易ではなかったはずだが、グルジエフはこの時期、諜報面でロシアに協力していたのではないかという説もある。イギリスとロシアとの間でのアジア支配をめぐる「グレートゲーム」が展開されていたこの時代、精神的な探求者が旅のなかで見聞きすることにさえ大きな戦略的価値があったので、必ずしもスパイではなくても、これはありえる話かもしれない。

巨大な対立の狭間に身を置いて、その対立から自分の「存在」を肥やしてくれるものを手に入れるという、グルジエフの教えを通底するテーマは、このような体験のなかで育まれたのであろう。

1900年台になるとグルジエフはようやく遍歴の時代を終え、モスクワに姿をあらわし、小さなグループを指導する。1915年には当時すでに神秘思想家として名の通っていたピョートル・ウスペンスキーに出会う。しばらくのち、音楽家のトーマス・ド・ハートマンがグループに加わり、グルジエフとともに数々のピアノ曲の作曲にあたった。

ウスペンスキーはのちに離反し、グルジエフの名前を表に出すことなくグルジエフから教わったことに基づく一種の体系を独立して教えるようになる。ウスペンスキーはグルジエフの思想を体系的に記録していた。ウスペンスキーはそれを出版せずに世を去ったが、ウスペンスキー夫人はグルジエフの許可を得てその出版を決めた。その記録『奇蹟を求めて』は、後代においてグルジエフの教えが広く知られていくきっかけとなった。

1917年、ロシア革命が勃発した。グルジエフは弟子たちを連れてコーカサス山脈を越え、ロシア国内の動乱から危うく逃れた。特に危険なこの旅路のさなかでは、グルジエフはグループのメンバーに強い結束や命令への服従を求めたが、目的地に辿り着いた後には一転して、弟子たちの依存を許容せず、主体的な意志なしにグループの一員として留まることが困難となるような試練を意図的に作り出したことが、弟子たちの手記から窺われる。

グルジエフの一行は、コンスタンチノープルやベルリンでの滞在を経て、パリ近郊の森の中にあるプリオーレ館に落ち着く。グルジエフはここでかねてより蓄積してきた「人間の調和的発展」のためのメソッドの実践的な追求を本格的に始めた。肉体労働、音楽、舞踏、講義など、多彩な活動が展開された。

夜には特殊な舞踏もしくは体操の訓練があった。これは「ムーヴメンツ」と呼ばれ、グルジエフが各地に伝わる様々な神聖舞踏を組み合わせて独特なものにまとめあげたものである。動きは複雑で、身体の複数の部分の独立した動きの統合や頭の働きと体の働きの協和を要し、特殊な芸術であるとともに心身の調和的発展に向けての挑戦となることが意図されていた。

グルジエフの思想はヨーロッパの知識層に知られるようになり、とくにイギリスとアメリカ合衆国の一部の作家や思想家や芸術家の間での反響が大きかった。しかしグルジエフは、こうした欧米の知識層による思想の受け入れを必ずしも歓迎せず、のちにはグルジエフと彼らの間に対立が生じるまでになった。

グルジエフは最後の著作である『生は<私が存在し>て初めて真実となる』のなかで、「自己想起」や「自己観察」などの言葉をめぐる誤解など、知に偏った解釈や一面的な理解の弊害を指摘している。

1924年、グルジエフはアメリカに渡り、ムーヴメンツのデモンストレーションや講演で成功を収める。しかし同年、自動車事故で重傷を負い、やがて学院の閉鎖を宣言する。怪我から回復したグルジエフは、それまでの活動を大幅に縮小し、執筆に力を注ぐようになる。『ベルゼバブの孫への話』に始まる三部作はAll and Everythingと題され、宇宙、人間、意識、生命に関わるほとんど「ありとあらゆる」問題を扱ったものである。正式に出版されたのはグルジエフの死後である。

グルジエフはヨーロッパでの最初の試みで、ヨーロッパの知識人たちや自分のそれまでのアプローチに絶望したようであり、自動車事故の後、古い弟子たちの多くと関係を断つ一方で、1930年台には、アメリカで新しいグループを発展させたり、パリではソリタ・ソラノやキャサリン・フルムをはじめとするアメリカの女流作家たち数人のグループを相手に、新しいアプローチを試したりしている。

このようにして、長いブランクの後、ロシア時代やプリオーレ時代のワークとはかなり趣が異なる、内的な性格が強まったグルジエフ晩年のワークのアプローチが生まれた。

この大幅な方向転換に伴い、もっぱら思想面でグルジエフから影響を受けていた欧米の一部の知識人との間での亀裂は深まり、すでに離反していたウスペンスキーや他の知識人を中心として、グルジエフに由来する思想をグルジエフのその後の方向性とは切り離して広めようとする動きが生じた。

一般に「フォースウェイ」(第四の道)という言葉は、グルジエフがこの言葉に与えた元来の意味を離れて、グルジエフ自身が支持しなかったこの動きとの関係で使われることが多く、Wikipedia英語版でのFourth Wayのエントリはこれを意識したものとなっている。

1940年台になると、グルジエフはパリの自宅のアパルトマンで、ジャンヌ・ド・ザルツマンを中心とする小さなグループでワークを主導するようになった。グルジエフは執筆を打ち切り、現在では「サーティナインシリーズ」として知られる一連のムーヴメンツの創作を始める。『ベルゼバブ』の朗読、内的なエクササイズへの取り組み、ムーヴメンツの稽古などを主体とする集まりはだんだんに規模を増しつつ、戦時中も継続された。

この親密なグループでのやりとりの内容はグルジエフの指示によって克明に記録され、その一部は米国国会図書館に保存されている。その内容は個人に焦点を合わせた具体的な取り組みへの指示や助言が中心であり、グルジエフの活動前期におけるワークとの顕著な違いとして、個人の問題と結び付いた切実な問題を離れての思想や理論をめぐる質疑応答はなく、その方面はすべてを『ベルゼバブ』に一任した形になっている。

グルジエフのパリのアパルトマンでの集まりは会食を伴うのが常であり、戦後ますます数を増していった訪問者らにグルジエフはみずからの手で用意した食事をふんだんにふるまい、「愚者への乾杯」(Toast of the Idiots)として知られる乾杯の儀式を含んだ会食の場での緊張と笑いとユーモアが伝説的な色合いを帯びて当時の弟子たちの手記に描写されている。

終戦とともに、長く遠ざかっていたアメリカとイギリスの弟子たちが、ウスペンスキーのかつての生徒たちも含めてパリのアパルトマンに殺到し、ふたたび活動は広がりを増していった。1949年10月29日、グルジエフはパリのセーヌ河岸のアメリカン・ホスピタルにて逝去する。


■人間の役割
 「ワーク」とはグルジエフに由来して一般化した言葉だが、グルジエフは著書ではこの言葉をほとんど使っていない。著書ではそれに対応するものとして、「存在に伴う義務」(being-duty)、あるいは「意図的な苦しみと意識的な働き」(intentional suffering and conscious labor)という主題を提示している。

「存在に伴う義務」は、普遍的な文脈のなかで人間が果たすべき役割とそれに応じた個の成長の可能性との関係で語られている。「意図的な苦しみ」は「自発的な苦しみ」(voluntary suffering)とはニュアンスが異なると述べられており、「ワーク」もしくは「意図的な苦しみと意識的な働き」は個人の真正な利益にかなったことであることが示唆されている。これは「真に自己を利する者だけが真に他者を利する者となる」というグルジエフの別の言葉と結び付く。


■宇宙観・小宇宙観
  グルジエフはその宇宙観において、創造の源泉から発する原初の力が徐々に物質性を高めながら銀河群・太陽群・惑星群などを次々に形成していく創造の流れと、そうして生まれた被造物がこの流れを逆に遡ろうとする回帰の流れ、そしてこの二つの流れの間での均衡をもって存続する宇宙を描いた。

創造の流れは被造物に生命と意識を授けるが、これはトップダウンの流れであるから段階が進み、末端に近づくごとに質が落ちることは避けられないため、創造の流れは退化への流れでもある。グルジエフはこれに対抗する進化の流れのなかでの生命と意識の役割を強調した。


■三の法則と七の法則
「三の法則」は、能動・受動・中和(もしくは肯定・否定・和解)という三つの力の作用をもって、物事や現象の成り立ちを理解するための見方を提示する。

「七の法則」は、ひとつひとつは「三の法則」に基づいて成立する事象が連なっての物事の進展のプロセスの「不連続性」に対する見方を提示する。これは「オクターブの法則」とも呼ばれ、ドレミファソラシドの音階のなかで半音の欠けた(ピアノの鍵盤では間に黒鍵のない)二つの箇所、つまり「ミ~ファ」の箇所と「シ~ド」の箇所が、物事の自動的な進展が困難となる箇所(インターバルまたはギャップという)を表しているという。

グルジエフによれば、エニアグラムは「三の法則」と「七の法則」の結び付きをあらわしている。


■三つのセンター
 人間の全体としての働きに関与する三つの中枢。思考センター、感情センター、運動センターと命名され、頭・心・体に対応する。機能的な中枢に留まらず、そこから自分という思いが生じうる、三つの主観の座として描写されている。

グルジエフによれば、この三つのセンターはお互いから完全に独立しており、この三者間には満足なコミュニケーションが成立していないのがふつうである。グルジエフはこれを自分のなかに三人の人物にたとえ、ありふれた状態におけるこの三者間での不和から脱し、この三者が調和的な成長を遂げることの必要性を強調した。


■クンダバッファ
  グルジエフの著書のなかで「クンダバッファ」は人間が現実を直視することを妨げる生物学的な安全装置として描写されている。言葉の由来としては、サバイバル上の便宜のためや心の平和を守るために現実からの衝撃を回避するための緩衝器(バッファ)という言葉を、背骨を通じて働く力としての「クンダリーニ」という言葉の前半と合わせている。

グルジエフは著書のなかで「クンダ」とは「反射」であると述べている。それが意味するのは自己防衛や保身のための反射機能が自動的に頭を動かす状態であり、いわゆる「クンダリーニの覚醒」を求めての修行の多くはじつはこの隷属的な状態の追求であるかもしれないことが示唆されている。


■第四の道
 グルジエフが一時期に使った言葉として、ウスペンスキー『奇跡を求めて』を通じて広く知られるようになり、現在では多くの団体が使用するようになった言葉である。グルジエフは人間の分裂を解消し、眠りから覚めるための道について、これまでの宗教の伝統を三つに分類したうえで、第四の道を提示した。

第一の道 - 行者の道 肉体に働きかける(苦行)
第二の道 - 修行僧の道 感情に働きかける(信仰)
第三の道 - ヨーギの道 知識と精神に働きかける(訓練)
第四の道 - 肉体・感情・精神に同時に働きかける

グルジエフはこの「第四の道」を世間にありながら世間に属さない道として描写している。


■グルジエフの音楽と舞踏
  グルジエフは、ロシアの作曲家であるトーマス・ド・ハートマン(1885-1956)との共作で数々のピアノ曲を残した。ハートマンの手記によると、グルジエフはピアノを一本指で弾くことで、あるいは口笛によって旋律を指示し、ハートマンがそれを展開させていくと、さらにグルジエフが新しいパートを加えるなどして、曲が生み出されていった。

これらの曲は作風の違いからいくつかに大別され、全集の多くでは、「アジアの歌と踊り」(エスニック系の作品集)、「聖歌」(キリスト教系の作品集)、「ダルヴィッシュの儀式」(スーフィ系の作品集)、「魔術師たちの闘争」(同名のバレエのために作曲された作品集)などのタイトルを使用している。

ハートマンとの共作以外にも、グルジエフ自身の演奏の録音が残されており、公開されているものもある。

グルジエフが教えた数々の舞踏や体操は「ムーヴメンツ」と総称され、200余りの作品が現在まで伝えられているという。グルジエフの自伝的著作に基づく映画『注目すべき人々との出会い』の最後に映像が収められている。


■現代のワークグループ
 グルジエフ・ファウンデーションなどが正統性を主張し、アメリカとイギリスの団体が主導し、各国のサークルと提携している。非公式の名称ではあるが宣伝上で「グルジエフ・ウスペンスキー・センター」を名乗っているのは、ロバート・バートンが主宰する「フェローシップ・オブ・フレンズ」という団体であり、他のグループとは直接の接点を持たない。

日本では、グルジエフの著作の訳者である浅井雅志氏が同氏の主宰するイーデン・ウェスト・キョートというグループについて言及している。グルジエフに関する本の著者である郷尚文氏は海外のグループとも交流しながら、同氏が主宰するムーヴメンツ等のプログラムを提供している。ワークグループは多様性を増し、更にそれ以上にオクターブの法則による偏向も含みながらも、活動を続けているといえる。
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by sigma8jp | 2008-12-03 07:07 | グルジェフの覚醒プログラム | Comments(0)

グルジェフの語ったこと

『 人類は眠っている,人は一人ではなく多くの〈私〉を持っている,夢想と忘却の中に自己を喪失する,生まれるには死ななければならない,無数の同一視から自己を解放しなければならない,自分自身を知れ,永続する〈私〉を達成せよ.』

『 私は,宇宙を支配している法則の統一性についてあなたが理解していることを知っているが,その理解は思索的,いやむしろ,理論的なものである.知性で理解するだけでは充分でない.あなたの存在をもって,絶対の真実と,この事実の不変性を感じなければならない.そうして初めて,あなたは意識し,確信をもって�私は知っている�と言うことができるのだ.』

『 あなたは,言葉がいかに余計で無用なものであるかを感じるだろうか?理性そのものがここにおいてはいかに無力であるかを感じるだろうか?』

『 思考も,あらゆる他のものと同じように,物質である.』

『 われわれにいちばん近いものは人間であり,あらゆる人の中であなたに最も近いのはあなた自身である.あなた自身についての研究から始めなさい.』

『 知識は隠されてはいないが,人々がその事実を理解できないのだ.』

『 われわれの発達は蝶の発達に似ている.われわれは�死に,生まれ変わらなければならない.�われわれは,自己の緩衝装置を壊さなければならない.子供はそういったものを一つも持たない.幼子のようにならなければいけない.』

『 (なぜわれわれは生まれ,なぜわれわれは死ぬのかと尋ねた人に),あなたは知りたいですか?本当に知るには苦しまなければならない.苦しむことができますか?できない.一フラン分も苦しむことができないのに,少し知るためにも,百万フラン分苦しまなければならない...』

『 われわれは,学ぶとき,自分の思考に従って聞くから,新しい思考を聞くことができない.新しい方法で聞き,学ぶことによってのみ...』

『 自己知識を追及するならば,自由を追及しなければならない.』

『 人間とは,「為す」ことができる存在である.「為す」とは,意識して,しかも自己の意志に従って行動することを意味する.人間に関してこれ以上完璧な定義は見出せない.』

『 人々の間にみられる差異はすべて,行動における意識の差異に帰せられる.ある人々の行動は徹底して意識的であり,一方,他の人々の行動は,機械的であり注意力の欠如が甚だしく極めて無意識的である.』

『 最初に自分自身の機械性を理解しなければならない.自分自身の機械性は,正しい手法による自己観察の結果,初めて理解できる.』

『 人間は複数の存在である.自己について話すとき,普通,「私」という.「私はこうした」,「私はこう考える」「私はこうしたい」という.だが,これは間違っている.
 こんな「私」などありはしない.いや,むしろ,われわれ一人一人の中に,無数の小さな「私」がいる,と言うべきであろう.われわれは分裂しているのだが,自分が複数であるということは,自己を観察し,研究しなければ認識できない.ある瞬間にはある「私」が出演し,次の瞬間には別の「私」である.人間が調和しないのは,われわれの中の「無数の私」が互いに矛盾しているからである.』

『 あらゆる人間の機械は三つの基本的部分,すなわち,三つのセンター(知性中枢部,感情中枢部,運動中枢部)に分かれている.これら三つのセンターを制御するすべての力を使えるようになって初めて,われわれは道徳的でありうる.』

『 私(グルジェフ)を信じるなどということは,無用である.自分で証明できないことは何も信じないように,しいてお願いする.』

『 自主的な苦しみだけが価値を持っている.』

『 隣人を見つめ,その人の本当の意味を知り,その人がやがて死ぬということを実感すると,あなたの中にその人への憐憫と慈悲がわき起こり,ついにはその人を愛するようになる.』

『 他人を助ければ,あなたも助けられる.あるいは明日,あるいは百年後に,ともかく助けられる.自然は負債を全部支払わなければならない.それは数学的法則である.すべての生命は数学である.』

『 われわれは過去をふり返り,人生の困難な時期だけを思いだし,平和な時期は少しも思いださない.後者は睡眠である.前者は奮闘であり,それゆえに人生である.』

『 ヨーガ行者は唯心論者で,われわれは唯物論者である.私は懐疑論者である.私の最初の禁止命令は,「何も信じるな,自己さえ信じるな」である.私は統計的証拠があって初めて信じる,つまり,繰り返し同じ結果を得て,初めて信じる.私が研究し,仕事するのは,導きを得るためで,信じるためではない.』

『 普通の人は魂も意志も持っていない.普通に意志とよばれるものは,単なる欲求の所産である.人がある欲求を持つと,同時に反対の欲求,つまり最初の欲求より強い反抗が生じて,第二の欲求が第一の欲求を抑え,消滅させる.これが普通の言葉で,意志と呼ぶものである.』

『 自己を変革する力は知性にあるのではなく,身体と感情にある.』

『 人為的なものは初歩的段階においてのみ必要である.われわれが望むものの完全さは人為的に達成することはできないが,初めはこの方法が必要である.』

『 自己に誠実であることは非常にむずかしく,人は,真実を見ることをとてもこわがるということを理解しなければならない.』

『 人は先入観に充ちた人格である.二種類の先入観がある.本質の先入観と人格の先入観である.人は何も知らず,権威に従って生き,あらゆる影響を受け容れ,信じる.われわれは何事も知らない.ある人が本当に知っている主題について話しているときと,無意味な言葉を話しているときを区別できず,全部信じる.われわれは自分のものを何も持っていない.』

『 私は助言することができても,助けることはできない.あなたが道を進むとき,初めて助けることができる.初めに,あなたが決めなければならない.』

『 植物が人の気分に影響し,人の気分が植物の気分に影響する.壷の中の切り花さえ,われわれの気分次第で,生きも死にもする.』

『 普通に,意志と呼ぶものは,自発的行為と,それを否定する行為との調整である.知性が感情に勝てば,人は知性に従う.反対の場合は,感情にしたがう.これが凡人の自由意志というものである.
 真の自由意志は,常に一人の私が命令するとき,初めて存在する.』

『 不幸なことに,われわれは常に反応する.彼は他人の意見の奴隷である.他人の意見を気にしてはならないという厳しい基準を理解し,打ち立てるべきである.周囲の人々から自由にならなければならない.内面で自由になれば,彼らから自由になる.』

『 偏見を持たず,一つ一つの行為をひとごとのように仕分けし,分析することを学ぶ必要がある.そうすれば,公正であることができる.偏見のない態度は内的自由を得る基礎であり,自由意志への第一歩である.』

『 文化的環境で,教養ある人生を送る人によくあることだが,その人の人生において恐怖がいかに大きな役割を演じているかに,気づかない.その人はあらゆることを恐れる.
 無意識の恐怖は,眠りに固有の著しい特徴である.』

『 人が,自己を取り巻くすべてのものにとりつかれているのは,自分と周囲の関係を充分客観的にみることができないからである.人は,その瞬間に自分を惹き付け,あるいは撥ね付けるもののどれにもとらわれずに,自己を見ることはできない.この無力さゆえに,人はあらゆるものと自己を同一視する.
 これもまた眠りの特徴である.』

『 暗示は非常に強い力を持つ.あらゆる人が暗示の影響を受けている.一人がもう一人に暗示する.』

『 自分自身をあてはめて他人を判断すれば,めったに誤らない.』

『 人々があなたに言うことではなく,あなたをどう思っているかを考慮しなさい.』

『 他人に教えることにより,自分も学ぶ.』

『 自己についてのワークをする願いを呼び起こす最善の方法の一つは,自分がいつ死ぬかもしれないということを実感することである.だが初めに,いかにしてそれを心にとどめておくかを学ばなければならない.』
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by sigma8jp | 2008-12-03 07:03 | グルジェフの覚醒プログラム | Comments(0)

グルジェフの神秘思想 4

■「性センター」の制御──性エネルギーの誤用を改める
  こうして意識エネルギーを高次のセンターに向けたなら、次にこのエネルギー自体のボルテージを高める作業を行なう。つまり、いくら意識エネルギーを高次のセンターに向けても、それが弱々しいものであったなら、高次センターを発火させることはできない。

そこで、いかにして意識エネルギーを高めるかが問題となってくる。それにはまず、エネルギーの無駄な消費を阻止しなければならない。

各センターを機能させているのは、そのセンター独自のエネルギーである。動作センターはそれ専用のエネルギーで動くのがベストであり、感情センターもそれ専用のエネルギーで動かなくてはならない。ところが、さまざまな理由で、通常の我々は、各センターがそれ専用のエネルギーを消費していない、とグルジェフは指摘する。

性センターのエネルギーが盗まれて他のセンターが作動してしまった状態では、ちょうど質の悪いガソリンを入れた車のように、性センターのエネルギーではうまく機能せずに、むしろ好ましくない結果をもたらすという。

例えば、性エネルギーが動作センターで使われると、異常に闘争的になる。感情センターで使われると、病的な禁欲、嫉妬、残忍性が現れ、思考センターの場合は、論争や批判、性的妄想となって現れるという。

一方、他のセンターに自分のエネルギーを取られてしまった性センターは、逆に他のセンターからそのエネルギーを奪い取るという。つまり、各センターは、自分専用のエネルギーを使えば最高に機能できるのに、他のセンターからエネルギーを奪いあって、かえって機能を低下させているわけだ。

そこで、各センターが自分専用のエネルギーを使って働くようにしなければならない。そのためには、性センターが自分のエネルギーを使うように操作すればよい。グルジェフによれば、性センターは強大な力を持っており、このセンターを正常化させれば、他のセンターも自分専用のエネルギーで動くようになるという。

 
■「超努力」──大蓄積器とセンターを直接に連結させる
  次に、センターに大量のエネルギーを流し込むワークを行なう。そのためには、大蓄積器と呼ばれるエネルギーの供給源とセンターとを連結させる必要がある。

グルジェフによれば、センターはまず、2つの小蓄積器で連結されており、その2つの小蓄積器は大蓄積器で連結されているという。

たとえば、動作センターを使って肉体労働をしていたとしよう。最初は小蓄積器のAを用いてそこからエネルギーを補給して働く。すると、やがて小蓄積器のAが空になるので疲労を覚え、少し休むことにする。このとき小蓄積器のBと連結され、人はまた元気に働くことができる。その間に小蓄積器のAは、大蓄積器からエネルギーを補給している。

やがて小蓄積器のBも空になるので人は疲労し、休みはじめる。するとまた小蓄積器のAに連結されるが、十分な量のエネルギーがまだ補充され終わっていないため、以前ほど働けずに、すぐ疲労がやってくる。

そしてまた休むと、小蓄積器のBに連結されるのだが、これもまだ十分にエネルギーが補充されていないために、たいして働けない。こうして人は両方の小蓄積器を消費してしまい、ついには疲労困ぱいに達してしまうという。

ところが、ここでさらに努力を続け(超努力)、同時に感情センターを刺激することによって、大蓄積器とセンターが直接に連結される、とグルジェフはいう。このとき、信じられないパワーが生じ、すさまじい体力、感受性、そして知能を得ることができるというのだ。

この「超努力」についてグルジェフは次のように説明している。
「……ある目的の達成に必要な努力を超える努力だ。私が一日じゅう歩いて非常に疲れていると想像してみなさい。天気は悪く、雨の降る寒い日だ。夕方、私は家に帰り着いた。まあ、25マイル(約40キロ)ばかり歩いたとしよう。

家には夕食が用意され、暖かくて快適だ。しかし、座って夕食をとる代わりに、私はもう一度雨の中へ出てさらに2マイル(約3.2キロ)歩き、それから帰ってこようと決心する。これが超努力だ……」

我々は能力の限界を出したつもりでも、実際はその限界はさらに上に位置しているようだ。100%の力を出したつもりでも、おそらくほんの40%くらいではないのだろうか。したがって、通常のわれわれの努力では、小蓄積器だけで十分に間に合っており、大蓄積器と連結する必要がないのだ。

超努力しなければ生きていかれないような極限の状態に自分を追い込むときに、大蓄積器と連結される可能性がある。安易な生活では決して実現することはないのだ。

ここで、「超努力」によって大蓄積器と連結したJ・G・ベネット(グルジェフの弟子)の体験を紹介してみよう。

そのとき彼は、何日もの間、激しい下痢に苦しめられており、日増しに体力が衰えていった。起床するのが辛く、とうとう熱が出て体が震えだした。彼はもうベッドに安静にしていようと思ったが、次の瞬間には体がひとりでに動き、起きて服を着ていたという。気分が悪くて昼食もとれなかった彼は、にもかかわらずダンスの授業に参加した。

グルジェフのダンスはムーブメントと呼ばれ、通常では考えられない体の複雑な動きと強度の精神集中を要求される激しい内容を持っている。彼は死ぬほどの疲労と苦しみに耐えながら、限界を超えてがんばった。

「……すると突然、私の体全体に、たくましい活力がみなぎってきた。肉体が光に変わってしまったようであった。肉体の存在を、いつもの通り意識することがなくなってしまい、疲労も倦怠感も消え去り、自分の重ささえ、感じなくなった……」

その後、彼は自分の力を試すためにスコップを持ち、普通なら2、3分でくたくたになるほどの激しさで穴を掘り始めた。夏の炎天下にもかかわらず、ベネットは1時間以上も掘り続けることができたのである。

この「超努力」は「自己観察」と並んで最も大切なワークのひとつである。
超努力は苦しいものだが、それを行なうたびに自己の限界が破られていく。人の能力は、怠惰と自己限定のためにほんのわずかしか発揮されていない。この超努力によって、自分にはこんな偉大な可能性があったのかと驚嘆することだろう。そして、自分自身に大きな自信を持つことができるだろう。

なお、超努力をして健康を害さないかと心配することはない。グルジェフは、その前に自己の防衛本能が働いて自動的に休息するという。ただし、感情の乱れと過度の緊張は避けねばならない。

 
■エネルギーのロスを防ぐ
  最後に、センターを無駄に使ってエネルギーをロスしないように注意しなければならない。たとえば、筋肉のよけいな緊張、心配や恐怖といったことで、著しくエネルギーが浪費される。

「有機体は、普通、1日で次の日に必要な全物質を生み出すということに留意しなさい。ところがほとんどの場合、これらの物質は全部、不必要な、また概して不快な感情に費やされてしまうのだ。悪い気分、心配、杞憂、疑い、傷つけられたという感情、いらだち──こういった感情はみな、ある強度に達すると、30分、いや30秒で翌日用の全物質を食いつくしてしまうだろう……」

グルジェフもこのようにいっている。したがって、このような無駄なエネルギーをくい止めるワークがぜひとも必要なわけだ。

さて、以上がグルジェフワークの覚醒理論である。
エネルギーを高次のセンターに向け、なおかつそのボルテージを高めることによって、高次のセンターと通常のセンターとが連結され、我々は覚醒に至るのである。

この場合の覚醒とは、いうまでもなく高次の意識──純粋意識(真の自己意識)を獲得した状態のことをいう。すなわち、レベル7(人間第7番)の意識を顕現させた状態である。知覚が非常に鋭敏になり、新鮮な感動に包みこまれ、機械的な反応や外部からの影響で干渉されることのない完全な自由(内的自由)に達した状態である。


「地球外知的生命体」と「高次元生命体」の存在について

■宇宙に存在するあらゆるものを、振動密度/物質密度という考えで分類
 グルジェフは、宇宙に存在するあらゆるものを、振動密度/物質密度という考えで分類した。
つまり精神や霊も、いかなるものも基本的に「物質」であり、ただそれは我々が手で触れることのできる物質と比較すると、振動密度が高く、そのぶん物質密度は低いのだ、という考え方だ。

振動密度と物質密度は反比例の関係にある。我々の肉体よりも、感情はもっと振動密度の高い物質だ。更に思考はもっと振動密度が高い。それでも、やはり感情も知性も有限の物質なのである。

グルジェフは振動密度/物質密度の異なる物質を「水素番号」で識別した。といっても、いま一般に知られている元素の水素とはまったく異なる概念のようだ。

水素の番号は数が小さいものほど、振動密度が高い高次元の物質で、数が多くなるにつれて、一般にいう物質的な姿になってゆく。

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●【水素1】 は、この宇宙で分割不可能な、絶対といわれる物質。

●【水素6】 は、高次思考能力の物質といわれる。だが、この思考能力は、ふつうの知性と違い、象徴を象徴そのままに考えることのできる知性で、神話はこの知性で語られているという。生命の根底にある本当の意図とでもいうべきだろうか。

●【水素12】 は、高次な感情能力だといわれる。これは宗教的な感動や、言葉で語りつくせない強烈に神聖な感情などに象徴される。一般の人間の感情も知性もこの強烈さについていけないので、たとえば瞑想家などもこの水素の体験をすると、一時的にエクスタシーに飲み込まれ、言語能力を喪失する。

●【水素24】 は、グルジェフ体系になじんだジョン・C・リリーの言葉を借りれば、専門家的悟りの意識だといえる。たとえばあるひとつの仕事に練達した人は、必ず常識では納得できない不思議な能力を持っている。レーサーが驚くべきスピードで、すでに脳の認識力では追跡できないはずの路面を冷静に観察し、正確に車を運転する能力などだ。また優れた武道家や兵士が、あるとき砲弾が自分に向かっているのを肉眼で見たりする、という例もあげられる。一瞬でも通常の「考え込む」状態に入ると、この危ないところを綱渡りするような優れた能力は失われる。レーサーはその瞬間事故を起こす。人はひとつの仕事に熟練することで、この水素を蓄積する。独特の高速の意識だ。

●【水素48】 は、一般にいう思考能力だ。考え、分析し、語るというレベルのことだ。ジョン・C・リリーは精神の無風状態だという。

●【水素96】 は、濃密な感情、たとえば怒り、嫉妬、憎悪など。われわれが、この物質に内面的に同化せず、外的な物質として観察する場合、これは“気”や、動物磁気として観察される。また光の速度もこの96だ。

●【水素192】 は、空気。

●【水素384】 は、水。

●【水素768】 は、私たちの食べている食物の水準に近い。水分の多い栄養の少ないものは水である384に近く、フレーバーの多い堅い食物は1536に近くなる。

●【水素1536】 は、樹木。

●【水素3072】 は、鉄。

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すべては振動密度/物質密度の違いで分類したこの物質表は、つまるところ、極度に優れた霊や知性も、樹木も、鉄も、すべて唯物論的な尺度のなかで分類されることになる。

とはいえ、科学的に計測できるのは、いまのところ水素96までで、それよりも高次元の物質は、思考実験としては数学的になり、推理できるのだが、なかなか証明されづらいものだといえる。

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↑水素の分類法に基づき、この宇宙に存在する「生きとし生けるもの」の関連を説明した一覧表

さて、上の図を見てほしい。これは水素の分類法に基づき、この宇宙に存在する「生きとし生けるもの」の関連を説明した一覧表だ。

ひとつの枠に3つの数字が入っている。これについて説明しなくては、この図の意味が分からないだろう。 古代から継承されてきた哲学体系には、しばしば人間や、ほかのあらゆる有機体は、三つに区別される組織でできているといわれている。たとえていえば、これは知性と感情と肉体だ。あるいは霊・魂・体といういい方もある。

もっと分かりやすくいうと、宇宙は振動の高いものから低いものへ、連鎖的につらなっているので、ひとつの生き物の性質を特定するには、その生き物そのものを上下ではさんだ宇宙を含めて、合計3つで判断しなくてはならない、という考えだ。

われわれ人間はもっとも低い部分は肉体でできている。また高い部分は精神だ。この2つの中間に、われわれ自身の“自然体”と感じるものがある。

そこで、生命を記述するのに、3つの水素が記入される。ひとつは、その知性の理想に近い支配的な因子。その生命はこの物質に従属し、食い物にされている。真ん中にある水素は、その生き物そのものを示している。

下にある水素は、この生き物が土台として立ち、なおかつその物質を食い物にしている、といえるものだ。従うものと、従えるもの、その真ん中に自分自身がある、という図式である。

例をあげると、この図表では人間は6・24・96の組み合わせだ。といっても、これはじつは人間の将来的に理想とする生き方で、実際には、12・48・192という水準で生きているのが実状といえる。

専門家的悟りを中心にして、ちゃんと自分のすすむべき方向がある人と、考え込みいろいろと迷っている48を中心に生きる人の違いだ。ここで96とは、光の速度に対応する。これよりも数字の小さなものは、光よりも速い物質。これよりも数字の大きなものは、光より遅い、すなわち可視の世界である。

水素の3つの組み合わせは、思考・感情・肉体のことなので、人間の肉体はこの96を中心として、より密度の濃密な脊髄動物、無脊髄動物、植物、鉱物、金属を体内に含有していると解釈することができる。

われわれは6=高次思考物質や12=高次感情物質を視覚化はできない。それは光よりも速度が速い、すなわち振動の高い物質だからである。視覚的に対象化できないものは、われわれ自身の内面にある原理だと感じてしまうのである。

グルジェフは、宇宙に存在する生物はすべて他の存在との相対的な位置づけを持っていると主張したので、たとえば、ここから次のような推理も可能である。

大天使1・6・24にとっては、24は肉体である。人間にとって視覚化できないが、きわめて聡明な意識状態で達成される24の意識状態は、大天使という存在レベルから見ると、あたかもわれわれが肉体を見ているかのように、物質的に認知されるものである。

またこの図表では大天使よりももうひとつ物質密度の重い実体である天使は、肉体を48としている。これは人間のレベルでは、言葉や思考の速度を表している。つまり天使は、人間の言葉や思考のなかに、その肉体を置いているという見方である。

また肉体ではなく、実体はというと、ごくまれな人々しか体験しない、強烈な宗教的なエクスタシー(水素12体験)のなかでのみ、その本質を知ることができる、というわけだ。これではまるで聖書や書物のなかに生きている妖精みたいなものだ。

いずれにしても、われわれは天使や大天使のような知性体を視覚化して目の前に見ることは不可能だということになる。専門家的な悟りのなかに、大天使レベルの意識の足跡をかすかに感じ、また書物の精神のなかに、小天使的なイメージを追うしかない。

これでは、グルジェフの体系とは、芸術や文学の体系に見えてしまうかもしれない。だが、現実に、目に見えるものだけが存在するとする科学的な見方では、こうした体系は解釈しきれないのである。

より高度な存在の知性は、われわれの瞬間的な霊感のなかに、あるいは生き生きとした聡明な意識が閃く瞬間に、また言葉やアイデアのなかに、足場をもち、彼らの存在それ自身からみれば、彼ら自身は3次元的な実体であるにもかかわらず、われわれがちょうど岩を見ているように、彼らは人の意識や感情を見なしている、ということになるのである。

彼らから見れば、人間の思考や感情をあたかもレンガを持ち運ぶように、あそこからここへと動かすことも可能だということだ。

さて、もしこの図表が真実だとすれば、われわれはどうやって宇宙的な知性を認知すればいいのだろうか? 科学的観測でこうした知性を確認することはどだい不可能だということなのである。“気”や超能力が証明されたとしても、水素96の振動レベルまでしか解明できない。あとは哲学・宗教や心理学の分野の問題にゆだねられてしまう。

だが、こうやって宇宙を種々の分野に分断して考えると、結局、全体像もはっきりしないし、宇宙人のことなどとうてい理解できないのではあるまいか。UFOのことを考えると、結局われわれは人間全体のことを考え、また内在する超意識のことにまで思いをはせるのが必然だといえるのである。人間のすべてをトータルに考慮する総合的な知恵が必要になってくるのだ。

従来までは、漠然とこうしたものごとを精神分野と物質分野に分け、それぞれの専門家はもう一方の領域には侵食しないようにしてきた。それではもう解明のつかない現象が多すぎる、ということを、多くの人が知っている。

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《 グルジェフ関連書籍 》
『注目すべき人々との出会い』 G・I・グルジェフ著 (めるくまーる) 
『グルジェフ・弟子たちに語る』 G・I・グルジェフ著 (めるくまーる) 
『奇蹟を求めて・・・グルジェフの神秘宇宙論』 P・D・ウスペンスキー著 (平河出版社) 
『グルジェフ・ワーク・・・生涯と思想』 K・R・ピース著 (平河出版社) 
『ベルゼバブの孫への話・・・人間の生に対する客観的かつ公平無私なる批判』 G・I・グルジェフ著 (平河出版社) 
『生は〈私が存在し〉て初めて真実となる』 G・I・グルジェフ著 (平河出版社)
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by sigma8jp | 2008-12-03 06:16 | グルジェフの覚醒プログラム | Comments(0)

グルジェフの神秘思想 3

グルジェフの説く「人間論」

■人間の「3種の脳」と「発達の7段階」

グルジェフは人間というものをどうとらえていたのだろうか。
  彼はまず、人間は3種の脳を持っている、という。この3種の脳はビルの階のように、それぞれ機能の異なる3つの段階に対応している。

3階は知性センター、2階は感情センター、1階は動作センター、本能センター、性センターである。なお、普通人はほとんど活用していないが、3階には〈高次の知性センター〉、2階には〈高次の感情センター〉が存在する。

そして、これらの脳のセンターの活用の仕方によって、人間は7段階に分類される、と彼はいう。
人間第1番、2番、3番は普通人の3つのタイプだといっていい。

すなわち、人間第1番はその重心が動作──本能センターにある本能型人間、欲望のままに動きやすい人間だ。第2番は重心が感情センターにある感情型人間、好き嫌いがその行動の基準になる。第3番は重心が知性センターにある思考型人間、なにごとにつけて観念的である。この分類法は、我々が人間を観察するとき、すぐに役に立つだろう。

が、人間第4番以上は、いずれかの道に努力することで実を結んだ結果としてしか到達できない。当然のことながら、上の段階へいくほどその属性は高度のものとなり、人間第7番は、意志、完全な意識、恒久不変の〈私〉、個体性、そして不死性という、人間に可能な能力のすべてを所有している。


■4つの体 (肉体─アストラル体─メンタル体─原因体)
グルジェフは、これを別の角度から次のように説明する。
 「古代のある教えによれば、人間に可能なかぎりの発展を成し遂げた人間、本当の意味での人間は、4つの体から成り立っている、という。

これら4つの体は、しだいに微細になり、相互に融合し、そして、ある明確な関係をもっているが独自の行動ができる4つの独立した有機体を形成するような物質で構成されている。人間という肉体は非常に複雑な組織をもっているので、ある条件下では、その内部で、意識の活動にとって肉体よりはるかに便利で敏感な器官を生みだす新しい独立した有機体が育ちうるのだ。」

この4つの体については、古来、多くの密儀体系がさまざまな定義を加えているが、
簡単に整理すると次のようになる。

 ◆ 第1の体 現世的、肉欲的肉体 肉体 (身体)
 ◆ 第2の体 自然体 アストラル体 (感情、欲求)
 ◆ 第3の体 霊的体 メンタル体  (知性)
 ◆ 第4の体 神的体 原因体 (私、意識、意志)


第1の体は死とともに塵に帰す体であり、第2の体は内外ともに好ましい条件が存在する場合に限って人為的に育成できる。このアストラル体は肉体の持つことができない機能を持ち、肉体の死後も生き残れるのだ。が、これは言葉の完全な意味での不死ではない。というのは、ある時間がたてばこれも死ぬからだ。

第3の体は高次の思考力の開発と関達しており、〈創造の光〉の体系でいえば、太陽の材質からできているため、アストラル体の死後も存在できる。

そして、第4の体は人間の全センターが統一的な調和と意志を持って機能したとき発達するもので、〈創造の光〉のシステムの中では銀河系の材質からできている。ということは、この太陽系内にはこれを破壊できるものは何もなく、第4の体を持つ人間は太陽系の領域内では不死なのである。

グルジェフは、この4種の体全部を発達させた人間=人間第7番のみが、本当の意味での〈人間〉だという。しかも、彼は弟子たちに、彼のいう“第4の道”をたどることによって、「あらゆる個別性を超越して、その真の人間に到達することができる」と教えたのだ。


■覚醒の体験──覚醒するとどうなるか
  グルジェフによれば、人間が「覚醒」を体験することは、レベル7(人間第7番)の意識を顕現させることである。もちろん、最初からそのレベルに到達することは容易ではない。とりあえずレベル4(人間第4番)の意識を持つことが大事だ。この意識でさえ、今までの意識状態に比べたら驚くべき進化なのである。

ここでグルジェフの熱心な弟子だったJ・G・ベネットが、この覚醒状態に入ったときの様子を書いているので紹介しよう。

「……まわりの樹木は、どれも大変個性的だったので、林の中をどこまで歩いていっても、この驚異の念を感じ続けるにちがいないと思った。次に『恐怖』という考えが頭に浮かんだ。すると、たちまち恐れで体が震えだした。正体不明の恐ろしいものが、四方から私を脅かしていた。

『喜び』を思い浮かべると、胸が破裂するほど嬉しくなった。『愛』という言葉が浮かんできた。えもいわれぬ優しさと思いやりで、胸がいっぱいになり、それまでの自分は、真実の愛を持つ深さと幅を全く知らなかったのだ、と思わずにはいられなかった。愛はどこにでもあり、どんなものの中にもあるのであった……」

これが典型的な覚醒の断片的体験なのである。知覚が非常に鋭敏になり、新鮮な感動に包み込まれるのである。ここで、覚醒するといったいどのような恩恵があるのかまとめてみよう。


●運命の干渉から逃れられる。したがって、覚醒した人には、占いの予言は必ずしも当たらな い。自分の意志のまま、自由な生き方ができる。
●意識が拡大し、通常では感知しえない宇宙的真理を把握することができる。
●悲嘆に変わることのない絶対の幸福と自由が顕現する。

このように、覚醒することによって人間は“真実の生き方”をすることができるのである。


グルジェフの錬金術──グルジェフワークの覚醒理論
■グルジェフの錬金術
  グルジェフはヘルメス思想を継承した錬金術師であったといえる。しかも、現代に多い“思想の錬金術師”ではなく“実践の錬金術師”である。

グルジェフの高弟ウスペンスキーは、最初にグルジェフに会ったときのこととして、次のように書いている。

「グルジェフはモスクワでやっていることを話したが、私には完全に理解できなかった。彼の仕事は主に心理学的な性質のものだったが、その中で化学が大きな役割を果たしていることが彼の話から察せられた。当然のことながら、最初に彼の話を聞いたときは、その言葉を文字通りに受け取ったのである。」

だが、グルジェフは次第にウスペンスキーにその化学の真の意味を明らかにしていく。
「化学を例にとろう。通常の化学は物質をその宇宙的特性を考慮せずに研究している。しかし、通常の化学のほかに、宇宙的特性を考慮しつつ物質を研究している特殊な化学──お望みなら錬金術と呼んでも結構だが──が存在している。」

そしてウスペンスキーによると、ローマ時代のグルジェフは、モスクワの本拠でその特殊な化学=錬金術の実験・研究に、かなりの資金を注ぎ込んでいたようなのである。

グルジェフはいう。
「人体の各機能に特有な物質があり、一つ一つの機能は強められもすれば弱められもし、また覚醒させておくこともできれば眠らせることもできる。しかしそうするには、人体の機構と特殊な化学に関する多大な知識が必要だ。

このような方法を用いているスクールでは、実験は本当に必要なときだけ、全ての結果を予見でき、また望ましくない結果をも処理できる経験豊かで有能な人の指導のもとでのみ行なわれるのだ。」

この言葉からも分かるように、グルジェフのいう特殊な化学=錬金術は、一般的にいわれる世俗的な黄金を求めた錬金術ではない。グルジェフの錬金術は、主にヨーガとイスラムのスーフィズムから編み出された“精神と肉体の錬金術”だったのである。


■普通人の諸センターは未開発の状態にある
グルジェフは普通の人々を「条件づけによって反応するロボット」だとみなしていた。

彼はこう語っていた。
  「人間は機械だ。彼の行動、言葉、思考、感情、信念、意見、習慣、これらは全ては外的な影響、外的な印象から生ずるのだ。人間は、自分自身では一つの考え、一つの行為すら生み出すことはできない。彼の言うこと、為すこと、考えること、感じること、これら全てはただ起こるのだ。人間は何一つ発見することも発明することもできない。全てはただ起こるのだ。

……人は生まれ、生き、死に、家を建て、本を書くが、それは自分が望んでいるようにではなく、起こるにまかせているにすぎない。全ては起こるのだ。人は愛しも、憎しみも、欲しもしない。それらは全て起こるのだ。」

グルジェフにいわせれば、普通人は人体の5つの諸センターの動きそのものが非能率的であり、相互間の調和を失っている。諸センターに用いられるエネルギーはそれぞれ別のものなのだが、互いに他のセンターのエネルギーを併用し、盗用しあっている。それがあまりにも慢性化して、衰弱の原因になっている、というのだ。

人はまず、それを止める適切な策を講じて諸センターの高次の機能を維持し、更にそれを最大限に作動させ、隠れている高次の2つのセンター、「高次の感情センター」「高次の思考センター」と連結するようにしなければならない。グルジェフは諸センターについて、こうした考えをもっていたのである。


■肉体からアストラル体への変成
グルジェフによれば、不死なる人間への道の第1段階はアストラル体の獲得にある。

 そのアストラル体も“巨大な化学工場”である人間の体で産出される、というのだ。とはいえ、これは生の普通の状態では起こりえない。

グルジェフは語る。
  「“上質のものを、粗悪なものから分けることを学べ”──ヘルメス・トリスメギストスの『エメラルド・タブレット』のこの原理は、人間工場の働きを指した言葉であり、もし人間が“上質なものを粗悪なものから分ける”ようになれば、まさにそのことによって、他のいかなる手段によっても成し遂げることのできない内的成長の可能性を自分自身で生みだしうるのだ。内的成長、あるいはアストラル体、メンタル体などの人間の内的体の成長は、肉体の成長と完全に相似した物質過程なのである。」

また、こうもいう。
「アストラル体は肉体と同一の素材、同一の物質から生まれ、ただその過程が違っているだけだということを理解しなければならない。肉体全体、その全細胞は、いうなれば物質【シ12】(人体中の食物変成の最終的産物)の放射物に浸透されている。そして、それが十分染みわたったとき、物質【シ12】は結晶化を始める。この物質の結晶化がアストラル体を形成するのだ。

この過程を錬金術では、〈変成〉または〈変質〉と呼んでいる。錬金術で〈粗悪なもの〉から〈上質のもの〉への変成とか、卑金属から貴金属への変成と呼んでいるのは、まさにこの肉体からアストラル体への変成のことなのである。」

 
■「自己観察」──「緩衝器」を除去して自分自身を見つめる
さて、ここから具体的にグルジェフワークの覚醒理論を紹介していきたいと思う。

  覚醒するためには、感情&思考センターのエネルギーを、高次の感情&思考センターに連結させなければならない。高次のセンターはわれわれの手の届かない領域であるから、通常、われわれの持っている感情および思考のセンターを操作し、ボルテージを高めて高次のセンターにまで触手を伸ばす必要がある。

感情&思考センターのエネルギーを、高次の感情&思考センターに向ける作業が「自己観察」である。これは自分の内面の動きをじっと観察するワークだ。

つまり、われわれの意識は、すなわちエネルギーだということを知らなければならない。しかし、通常、意識は外部に向けられ、あるいは夢想や理想にばかり向けられて消費してしまっている。そのため、高次のセンターを着火させるほどのエネルギーが到達してこない。そこで、この自己観察をすることによって、意識のベクトルを高次のセンターに向けるのである。

ところが、このエネルギーの方向を弱めてしまう要因が内部に存在している。グルジェフはそれを「緩衝器(クンダバッファー)」と呼んだ。自動車には地面からの振動をやわらげるダンパーとかショック・アブソーバーと呼ばれる緩衝器がついている。人も心理的な緩衝器を持っており、それが自己観察を妨げる最大の原因となっている。

誰しも自分は、有能で魅力的であり、人気があって重要な存在であると思いこみたい。自分のありのままの姿が無能で、魅力のない、つまらない存在であると知ったなら、大きなショックを受けるだろう。普通はそれに耐えられない。そこで「緩衝器」を使ってそのショックをやわらげ、ありのままの自己から目をそらしてしまうのである。

たとえば、仕事で失敗したとする。これをありのままに認めるなら、自分は無能だということになり、ひどいショックを受ける。そこで緩衝器は次のようにいうのだ。

「失敗したのは上司の指導がまずかったからだ、部下がだらしなかったからだ、会社の経営方針に無理があったからだ、体調がすぐれなかったからだ、運が悪かったからだ……」

こうして、ありとあらゆる理屈をいって自分を正当化する。すると、ショックがやわらげられる。しかし、同時にありのままの自己の姿が観察できないために、意識のエネルギーが高次のセンターに向かわない。こうなると我々は眠ったままであり、覚醒する可能性がなくなってしまうのだ。これがグルジェフのいう「緩衝器(クンダバッファー)」の役割なのである。

しかし、もし人が緩衝器を取り去って自分の失敗を認め、あえてその苦しみを受けて自己のありのままの姿を見つめたなら、意識エネルギーは高次のセンターに向かいはじめ、ついには覚醒に至る。

自尊心、いわゆる「我」の強い人ほど緩衝器が強い。緩衝器がある以上、自己観察は不可能である。ただし、緩衝器のない状態は非常に苦しい。緩衝器を撤去すると同時に、我々は強い意志を獲得しなければならないのである。

グルジェフはいう。
「覚醒は、それを捜し求めている者、それを得るために長期間うまずたゆまず自己と闘い、自己修練をする準備のできている者にのみ可能なのだ。そのためには『緩衝器』を破壊すること、つまり矛盾の感覚と結びついている、あらゆる内的苦痛と直面すべく進んで歩み出る必要がある。」
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by sigma8jp | 2008-12-03 06:03 | グルジェフの覚醒プログラム | Comments(0)

グルジェフの神秘思想 2

■「人類の進化に対して闘う意識的な力」について

Q.(弟子の質問) 人類の進化に対して闘う意識的な力があると考えることはできませんか。

A.(グルジェフ) ある観点から見ればそうも言える。

Q. この力はどこからくるのですか。

A. それは説明するのにかなり時間がかかる。しかしそれは、現時点の我々に実質的な重要性をもつものではない。普通〈退化〉と〈進化〉と呼ばれる2つのプロセスがある。その違いは次の点にある。退化のプロセスは〈絶対〉から意識的に始まるが、次の段階ではもう機械的になり、しかも進むにつれてどんどん機械的になる。

一方、進化のプロセスは半意識的に始まるが、進むにつれてどんどん意識的になる。しかし退化のプロセスのある時点で、意識と、進化のプロセスに対する意識的な抵抗とが現われることもある。

この意識は、どこからくるのだろう。もちろん進化のプロセスからだ。進化のプロセスは中断せずに進行しなければならない。いかなる停止でも元のプロセスからの離脱をひきおこす。そのような発展途上で停止した意識のバラバラな断片は、結びつけることもでき、少なくともしばしの間は進化のプロセスと闘うことによって生き延びることもできる。しかし結局それは進化のプロセスをもっと興味深いものにするだけだ。

機械的な力に対する闘いのかわりに、ある時点で、先程のかなり強力な意図的抵抗に対する闘いが起こることもあるが、もちろんその抵抗力は進化のプロセスを導く力とは比較にならない。これらの抵抗力は時には勝ちさえするかもしれない。

なぜなら、進化を導く力には手段の選択範囲がより限られている、言いかえれば、ある手段、ある方法だけしか使うことができないからだ。抵抗する力は手段の選択範囲が限定されておらず、あらゆる手段、一時的な成功しか生みださないような手段でも使うことができ、最終的な結果として進化、退化の両方を、今問題としている時点で破壊してしまうのだ。

しかし、すでに言ったように、この問題は今の我々には実質的な重要性をもっていない。今我々に重要な唯一のことは、進化の始まる徴候と進化の進行する徴候をより確かなものにすることだ。そして、もし我々が人類と個人の間の完全な相似を覚えていれば、人類が進化しているとみなしうるかどうかを立証するのは難しいことではないだろう。

たとえば、人間の生は意識を有する一群の人々によって支配されていると言うことができるだろうか? 彼らはどこにいるのだろう? 彼らは何者なのだろう? 我々はそれとちょうど正反対のことを目にしている。つまり生は最も意識の低い人々、つまり最も深く眠っている人々に支配されているのだ。

生において、最良で最強、最も勇気ある諸要素が優勢であるのを目にしていると言うことができるだろうか? とんでもない。それどころか、あらゆる種類の粗野や愚かしさの優勢を目にしている。また、単一性への、統一への熱望が我々の生の中に見てとれると言えるだろうか? もちろん言えはしない。我々はただ新たな分裂、新たな敵対心、新たな誤解を見るばかりだ。

というわけで、人類の現況には、進化が進みつつあることを示すものは何一つない。それどころか、人類を個人と比較してみるなら、本質を犠牲にして人格が、つまり人工的で真実でないものが生長していること、また、自然で真実なその人本来のものを犠牲にして外部からきたものが生長していることをきわめてはっきりと見ることができる。これらとともに我々は自動性の増大を目にする。

現代文化は自動機械を必要としている。そして人々は獲得した自立の習慣を疑いの余地なく失い、自動人形に、機械の一部になりつつあるのだ。これらすべてがどこまでいったら終わるのか、また出口はどこにあるのか、いやそれどころか終わりや出口があるかどうかさえ言うことはできない。

一つだけ確かなことがある。
人間の隷属状態は拡大しつづけているということだ。人間は喜んで奴隷になっているのだ。彼にはもう鎖はいらない。彼は奴隷であることを好み、誇りさえ感じているからだ。これこそ人間に起こりうる最もいとわしいことだ。

これまで言ったことはみな、人類全体について言ったのだ。しかし前にも指摘したように、人類の進化はあるグループの進化を通してのみ可能で、そのグループが残りの人々に影響を与え、導くのだ。そんなグルーブが存在しているなんて言えるだろうか。ある徴候をそう考えればおそらく言えるだろう。

しかし、どちらにせよ、それは非常に小さなグループで、少なくとも他の人々を従わせるにはきわめて不十分であることを知らなければならない。あるいは、別の祝点から見れば次のようにも言える。つまり人類は意識的なグループの指導を受けいれられない状態にあるのだ、と。

Q. その意識的なグループには何人くらい入れるのでしょうか。

A. それを知っているのは彼らだけだ。

Q. それは彼らはみな、互いに知りあっているということですか。

A. それ以外考えられるかね。多数の眠っている人々の真只中に2、3の目覚めた人がいると想像してみなさい。彼らはまちがいなく互いに知りあうだろう。しかし眠っている人は彼らを知ることはできない。彼らが何人かだって? わからない。我々自身が彼らのようになるまでは知ることはできない。前にはっきり言ったように、人間は自分自身の存在のレベルしか見ることができないのだ。

しかし、もし彼らが存在し、しかもそうすることを必要かつ道理にかなったものであると考えるなら、意識的な200人で地上の生きとし生けるものすべてを変えることができる。しかし今は、彼らの数が十分でないか、彼らが望まないか、おそらくその時期がまだきていないか、あるいは他の人々があまりに深く眠っているかのいずれかなのだ。我々はエソテリズム(秘教)の問題に近づいてきた。


■真の世界平和を求めるのなら、まず〈汝自身を知れ〉である
Q.(弟子の質問) あなたが説いている教えとキリスト教とはどういう関係にあるのですか。

A.(グルジェフ) 私は君がキリスト教について何を知っているのか知らない。君がこの語で何を理解しているかをはっきりさせるには、長時間いろいろと話す必要があるだろう。しかしすでに知っている人のために、お望みならこう言おう──これは秘教的キリスト教なのだ。しかるべき順を追ってこの言葉の意味を話すつもりだ。

今は質問についての話を続けよう。出された欲求の中で最も正当なものは、自分自身の主人になるという欲求だ。なぜなら、これがなくては他のいかなることも不可能だからだ。この欲求に比べれば他の欲求はみな単なる子供じみた夢か、たとえ叶えられたにしても全く無駄な欲求にすぎない。

たとえば、誰かが人々を助けたいと言うとしよう。人々を助けるには、まず自分の面倒をみれるようにならなければならない。

多くの人は、単なる怠惰から他者を助けるという考えや感情におぼれるのだ。彼らは自己修練をするには怠惰すぎる。それと同時に、自分は他人を助けることができると考えることは、彼らにはたまらない快感なのだ。これは自己に対する虚偽であり、不誠実でもある。もし自己をありのままに見れば、彼は他人を助けようなどとはそもそも考えないだろう。そんなことを考えるのを恥ずかしくさえ思うだろう。

人類への愛、利他主義、どれも非常にきれいな言葉だが、それらは自分の選択と決断で愛するか愛さないか、利他主義者であるか利己主義者であるかを決めることができるときにだけ意味をもつのだ。そのとき彼の選択は価値をもつ。

しかし、全然選択しないのなら、あるいは彼自身違うものになれないのであれば、または偶然に身を任せているのであれば、すなわち今日は利他主義者、明日は利己主義者、また明後日は利他主義者というふうにコロコロ変わるのなら、そのうちのどれであろうと全く価値はない。

他人を助けるためにはまず利己主義者、意識的なエゴイストになれなければならない。意識的なエゴイストだけが他人を助けることができるのだ。今のままでは我々は何一つできない。人はエゴイストになろうと決心はするが逆に自分の最後のシャツを与えてしまう。

あるいは、最後のシャツを与える決心をしたのに、今度は逆に相手の最後のシャツをはぎとってしまう。あるいは自分のシャツを誰かに与えようと決心はするが、実際には誰か他の人のシャツを奪って与えようとする。そして、もし他の人がシャツを譲ろうとしないものなら腹を立ててしまう。これこそ最も頻繁に起こることだ。何にもまして、困難なことをするためには、まずやさしいことができるようにならなければならない。一番難しいことから始めるのは無理だ。

戦争についての質問もあったね。たしかどのようにして戦争を止めるのかと。戦争を止めることはできない。戦争は人間がその中で生きている奴隷状態の結果なのだ。厳密に言えば、人間は戦争の責任をとる必要はない。戦争は宇宙的な力、惑星の影響によるものだ。

しかも、人間の中には、これらの影響に抵抗するものは何もないし、またそもそもありえない。というのも、人間は奴隷だからだ。もし彼らが人間であり、〈為す〉ことができるなら、彼らはこれらの影響に抵抗し、殺しあうのをやめることもできるだろう。

Q. しかし、これを認識した人々は必然的に何かすることができるのではないでしょうか。もし十分な数の人が戦争はあるべきではないという確たる結論に達すれば、彼らは他者に影響を与えることはできないでしょうか。

A. 戦争を嫌う人々は、ほとんど世界創造の当初からそうしようと努めてきた。それでも現在やっているような規模の戦争は一度もなかった。戦争は減らないどころか増えており、しかもそれは普通の手段では止めることはできない。世界平和とか平和会議などに関するすべての理論も、単に怠惰、欺瞞にすぎない。人間は自分自身について考えるのも働きかけるのも嫌で、いかにして他人に自分の望むことをやらせるかばかり考えている。

もし、戦争をやめさせたいと思う人々が十分な数だけ本当に集まれば、彼らはまず、彼らに反対する人々に戦争をしかけることから始めるだろう。また彼らはまちがいなく、別の方法で戦争をやめさせたいと思っている人たちにも戦争をしかけるだろう。彼らはそういうふうに戦うだろう。人間は今あるようにあるのであって、別様であることはできない。

戦争には、我々の知らない多くの原因がある。
ある原因は人間自身の内にあり、また他のものは外にある。人間の内にある原因から手をつけなくてはならない。環境の奴隷である限り、巨大な宇宙の力という外からの影響をいかにして免れることができよう。人間はまわりのすべてのものに操られているのだ。もし物事から自由になれば、そのときこそ人間は惑星の影響から自由になることができるのだ。

自由、解放、これが人間の目的でなくてはならない。
自由になること、奴隷状態から解放されること──人間が自己の位置に少しでも気づけば、これこそが彼の獲得すべき目標になる。内面的にも外面的にも奴隷状態にとどまる限り、彼にはこれ以外に何もなく、また可能なものもない。さらに、内面的に奴隷である間は、外面的にも奴隷状態から抜けだすことはできない。だから自由になるためには、人間は内的自由を獲得しなければならないのだ。

人間の内的奴隷状態の第一の理由は、彼の無知、なかんずく、自分自身に対する無知だ。自分を知らずに、また自分の機械の働きと機能を理解せずには、人間は自由になることも自分を統御することもできず、常に奴隷あるいは彼に働きかける力の遊び道具にとどまるだろう。

これが、あらゆる古代の教えの中で、解放の道を歩みはじめるにあたっての第一の要求が〈汝自身を知れ〉である理由だ。


■古い世界と新しい世界
以上が、グルジェフが弟子たちに直接語った「宇宙論」の一部抜粋であるが、グルジェフによれば、人間は誰でも体内に「磁力センター」を持っており、それを成長させることによって宇宙的なエネルギーの偉大な貯蔵庫と接続できる可能性を秘めているという。

が、その方法は秘密であり、修行僧やヨガ修行者はそれを求めて数年、数十年と苦行を積まなければならない。しかし、世の中には〈ずるい人間〉が存在し、その秘密を別の形で手にした人間もいるという。もちろん、この〈ずるい人間〉はグルジェフ本人のことを意味しており、その秘密の一部の公開をグルジェフは実施してきたわけだ。

そして、その超人化のプロセスは、徹底的に厳しい自己制御の技法=真の自己意識の獲得であった。なお、グルジェフは晩年、弟子ベネットに次のようなことを語っていたという。(前章と重複)

「このような進展(=進化)は、いわゆる惑星界の利害と力とに抵抗する人間の中にだけ起こりうる。人は次のことを理解しなければならない。彼個人の進化は彼自身にとってのみ必要なのだ。他には誰もそんなものに興味はない。

誰にも彼を助ける義務はなく、またその気もない。それどころか多数の人々の進化を妨げる力は、個人の進化を妨げるのだ。だからその力の裏をかかなくてはならない。そして、1人の人間ならそれはできるが人類にはできない……」

「古い世界が私を『ぷちっ』とつぶすか、私が古い世界を『ぷちっ』とつぶすかなのだ。『ぷちっ』。それから新しい世界が始まり得るのだ……」

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※ 以上、『奇蹟を求めて──グルジェフの神秘宇宙論』
P・D・ウスペンスキー著(平河出版社)より
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by sigma8jp | 2008-12-03 05:43 | グルジェフの覚醒プログラム | Comments(0)

グルジェフの神秘思想 1

グルジェフの覚醒のためのワーク

■人間を“不死”に導くための「第四の道」
  「世界にはある種の人間がいる。しかしごく稀にしかいない。こういった人間は、エネルギーの偉大な貯蔵庫あるいは蓄電池とでもいうようなものとつながっている。こういうものを引き出すことができる人間は、他の人間を救う手段になり得るのだ。」と、弟子たちに言い残している。

グルジェフによれば、人間はだれでも体内に“磁力センター”を持っており、それを成長させることによって“エネルギーの偉大な貯蔵庫あるいは蓄電池”と接続できる可能性を秘めている。が、その方法は秘密であり、修道僧やヨーガ修行者はその秘密を知らないがために、数年、数十年と覚醒めざして苦行を積まなければならないのだ。

だが、その秘密を知っている人間もいる、とグルジェフはいう。彼はその高弟ウスペンスキーに次のように語っている。

「この〈ずるい人間〉はどのようにしてこの秘密を知ったか──それはわからない。たぶん古い書物の中で見つけたか、受け継いだか、買ったか、誰かから盗んだかしたのだろう。別にどうでもかまわない。ともかくこの〈ずるい人間〉はその秘密を知っており、その助けを借りて修道僧やヨーギを追いこしてしまうのだ。」

もちろん、これは間接的に自分自身のことを語っているのだ。そして、その秘密によって、彼は自分の弟子たちを覚醒に導こうとしていたのである。

グルジェフはその人間変成の方法を“道”と呼ぶが、そのうち3つはすでに広く知られた存在である。

すなわち、
●第一の道は、「ファキール(苦行者)の道」、
●第二の道は、「修道僧の道」、
●第三の道は、「ヨーギ(ヨーガ修行者)の道」
・・・だ。

この道について、彼は独特の考え方を展開する。あるとき彼は、高弟ウスペンスキーに次のように語っている。

「この教えの本質をつかむためには、道が人間の隠された可能性を開発する唯一の方法であるということをはっきり理解しなければならない。これは、逆にいえば、そのような開発がいかに困難でまれであるかを示している。これらの可能性を伸ばすのは、決して法則によるのではない。だから、隠された可能性の開発の道は、自然にそむき、神にそむく道なのだ。」

その道は、人間をどこへ導くのだろうか。グルジェフはいうのだ。
「道は人を不死に導く、あるいは導くべきものなのだ。日常生活の行きつくところはせいぜい死、それ以外の何ものでもない。」

“自然にそむき、神にそむく道” によってのみ、人間は “不死” に導かれる ── 不遜の響きさえあるこの確信が、ともするとグルジェフをうさんくさい人物だと思わせる。

グルジェフの思想のユニークな点は、この広く知られた「3つの道」のほかに、“第4の道”という考え方を導入した点だ。そう、彼自身がたどった “ずるい人間の道” の秘密を、その一部だが弟子たちに明かそうとしたのである。

グルジェフによれば、一般人は「ファキール」にも「修道僧」にも「ヨーギ」にもなれない。確かに、日常生活のすべてを捨て、多大な努力と忍耐が要求される修行の道へ踏みこむことのできる人間は、そう多くは存在しないだろう。

“第4の道” が存在することを理解し、師の監督と指導のもとで各自に必要なワークを積めば、ほかの「3つの道」のように世を捨てることもなく、しかも多大な時間を節約して、覚醒に達することができる ── と、グルジェフはいうのである。そのとき、人は偉大な能力を発揮することができる。「というのも、彼は肉体的、感情的、知的機能のすべてをコントロールする力を手に入れたからだ」(グルジェフ)。

こうした考え方が、すでに他の「3つの道」の伝統さえ失ってしまっていた西洋に、どれほど大きな衝撃を与えたか想像もつかない。その影響はいまなお、欧米の各地に数多く存在するグルジェフ・グループとして生きているのである。


■〈創造の光〉のシステムと人類の進化・退化
  古代からの秘義、あるいは卓越した霊的資質によって、宇宙と人間の恐るべき秘密を探り当てたグルジェフ。彼が説く“自然にそむき神にそむく道”(超人への道)とは何か?このグルジェフの神秘思想を理解するためには、まず彼の宇宙論について知る必要がある。

グルジェフは、この宇宙を〈創造の光〉のシステムとして説く。彼によれば、それは古代の知識に由来するものであるという。

〈創造の光〉の原動力、または初源は〈絶対〉と呼ばれ、この〈絶対〉から膨大な〈創造の光〉が進展し、そこからまず全宇宙が流出するという。そして、その全宇宙から次に銀河系が流出し……と、次々に段階をたどっていくという。

つまり、この宇宙は、〈絶対〉──全宇宙銀河系──我々の太陽──太陽系の全惑星──地球──月という構造を持っているというのだ。

そして、このシステムの中に存在するすべての被造物は、このシステムを維持するための役割を与えられているという。地球についていえば、そこに存在するすべての有機生命体は、不断に進化する宇宙において重要な位置をしめるエネルギーの交換機として機能し、太陽──全惑星──月の経路をつなぐ架橋になっているというのだ。

しかし、グルジェフはいう。
「人類は他の有機生命体と同じく、地球の必要と目的のために地球に存在しているのだ。そしてこの現状が、現時点における地球の要求にとって最適な状態だ。つまり自然の発展の一時点においては、人間の進化は自然にとって必要ではないことを把握しなければならない。」

もし、人類だけが進化し、その意識水準全体が大変化すると、〈最高の段階〉から〈最低の段階〉へ向かう〈創造の光〉の流れが破綻してしまうことになる。だから、ある時点では人類が種として進化することは禁じられている、とグルジェフはいうのだ!

とすると、はるかな古代からの様々な試みにもかかわらず、人類が戦争その他の愚行にいまだに終止符を打てないでいる理由も理解できる。グルジェフはそんな恐るべき真実を見抜いたのだ。

しかし、ある時期までは進化が制限されているとしても、宇宙的な大きな時間の流れの中において、やはり人類には“進化”という課題を課せられているとグルジェフは言っている。

「もし人類が進化しなければ、それは有機生命体の進化の停止を意味し、それはまた〈創造の光〉の生長が止まる原因にもなる。それと同時に、もし人類が進化をやめたら、それは人類創造の目的という観点からすれば無用なものとなり、その結果、人類は滅ぼされるかもしれない。つまり、進化の停止は人類の滅亡を意味するかもしれないのだ。」

そして、人類、いや人間個人には常時“進化の可能性”をその内にはらんでいる、というのだ。彼はそれを自分の探求の旅の終わり近くでつかんだという。流れ弾に傷つき、ゴビ砂漠のオアシスで療養しているとき、次のように悟って雷に打たれたようになったのだった。

「私は人間だ。その他の生物の外観とは違って、私は“彼”の似姿として創造された存在なのだ! “彼”は神であり、そうである以上、私もやはり私自身の内部に“彼”が所有しているありとあらゆる可能性、不可能性を所有している。

“彼”と私の相違は単に規模の点にあるのみにすぎない。“彼”がこの宇宙のありとあらゆる現存の神であるからには!ということから私もまた、ただし私自身の規模なりにではあるが、(私の中の)ある種の現存の神でなければならないわけである。」

にもかかわらず、神の似姿である人間は、ほんのわずかな力しか発揮できないのはなぜか。これは自分が自分自身の“内なる神”に気づかないことに大きな原因がある。その内なる可能性に気がついたとき、人間は大きく進歩すること、つまり進化することさえできる。グルジェフはここに“人間を超える道”、「超人」への道を発見したのであった。

グルジェフはいう。
「このような進展(=進化)は、いわゆる惑星界の利害と力とに抵抗する人間の中にだけ起こりうる。人は次のことを理解しなければならない。彼個人の進化は彼自身にとってのみ必要なのだ。他には誰もそんなものに興味はない。

誰にも彼を助ける義務はなく、またその気もない。それどころか多数の人々の進化を妨げる力は、個人の進化を妨げるのだ。だからその力の裏をかかなくてはならない。そして、1人の人間ならそれはできるが人類にはできない。」

1個の細胞あるなしは、肉体の生存に何の変化ももたらさない。それと同じように、個々人の存在は“宇宙有機体”の生命に影響を及ぼすには小さすぎる。が、人類全体が変成しようとすれば、それはガン細胞の増殖のように、宇宙有機体の生命を脅かすことになり(ただし時期がくれば必要)、当然、対抗策が講じられよう。

だから、人類にはできないことが1人の人間にならできるのであり、その隠された可能性の開発は“自然にそむき神にそむく道”なのだ。グルジェフは「その意志さえあれば人間は個として全宇宙に対峙できる」とまで考えたのである。これがつまり、彼の“超人思想”なのだ。


グルジェフの説く「宇宙論」

■人類の歴史は円還運動をしている
  我々は人類が円環運動をしていることに気づかざるをえない。ある世紀にあらゆるものを破壊したかと思うと、別の世紀には創造している。また過去百年間の機械的な事物における進歩は、おそらく人類にとって最も大切な多くのものの犠牲のうえに進められたのだ。

全体的に言えば、あらゆる点から見て人類は行きづまっており、この行きづまりからは下降と退化への一直線の道が続いていると考えられる、いや断言することができる。行きづまるとはプロセスが平衡のとれた状態になったということだ。

ある一つの性質が現われると、ただちにそれに敵対する別の性質が呼びおこされる。一つの領域での知識の増大は別の領域での無知の増大を喚起し、一方での上品さは他方の粗野を生みだし、あるものに関する自由は他に関する隷属をひきおこし、ある迷信が消えたかと思うと別のものが現われて増大するといったあんばいだ。

さて、今もしオクターヴの法則を思いだすなら、一定の方向に進んでいる平衡のとれたプロセスは、変化が必要な瞬間にも変化することはできない。それはある〈十字路〉でのみ変えられ、新しい道を始めることができるのだ。〈十字路〉と〈十字路〉の中間では何もすることはできない。

それと同時に、もしプロセスが〈十字路〉を通り過ぎるときに何も起こらず、また何も為されないならば、後では何もできず、プロセスは機械的な法則に従って進む。しかも、たとえこのプロセスに加わっている人々があらゆるものの不可避的な滅亡を予見したとしても、何一つ為すことはできないだろう。

もう一度くり返すが、私が〈十字路〉と呼び、オクターヴの中ではミとファ、シとドの間の〈インターヴァル〉と呼んでいる一定の瞬間においてしか、何かを為すことはできないのだ。もちろん人類の生が、彼らの信じるあるべき方向に進んでいないと考えている人はたくさんいる。

そこで、彼らによれば人類の生全体を変えずにはおかないさまざまな理論を編みだす。ある者が一つの理論を編みだすと別の者がただちにそれとは相容れない理論をうちだす。そして両者とも誰もが自分の方を信じると期待しているのだ。

また実際、多くの人がそのどちらかを信じる。生は自然にそれ自身の道をとるものだが、人々は自分の、もしくは他人の理論を信じるのをやめようとはせず、また何かをすることは可能だと信じている。

むろん、これらの理論はみな全く空想的なもので、その理由は主に、彼らが最も重要なことを、つまり宇宙のプロセスにおいて人類と有機生命体が演じている従属的な役割を考慮に入れていないことにある。

知的な理論は人間をあらゆるものの中心に置く。すべては人間のために存在しているのだ。太陽、星、月、地球みなしかり。彼らは人間の相対的な大きさ、無であること、はかなく移ろいゆく存在であることを忘れている。

彼らはこう主張する──人間は、もし望むなら自分の生全体を変えることができる、つまり理性的な原理に則って生を組み立てることができる、と。そしてひきもきらずに新理論が現われ、それがまた別の相反する理論を喚起し、そしてこういった理論やその問の論争がみな、今あるような状態に人類をひきとめておく力の一つになっているのはまちがいない。

そのうえ、全体的な福祉や平等に関するこれらの理論はみな実現しえないだけでなく、もし実現されれば致命的なものになるだろう。自然界のあらゆるものはそれ自身の目標と目的をもっており、人間が不平等であり、その苦しみが不平等であることにもまたその目標と目的があるのだ。

不平等の破壊は進化の可能性の破壊を意味する。苦しみをなくすということは、第一に、人間がそれゆえに存在している一連の知覚全体を殺すことであり、また第二には〈ショック〉の破壊、つまり状況を変えることのできる唯一の力を破壊することになる。このことはあらゆる知的理論についても同様だ。

進化のプロセス、人類全体にとって可能な進化は、個人に可能な進化のプロセスと完全に相似している。しかもそれは同じものから始まる。つまりある細胞群が徐々に意識的になることから始まるのだ。

それから、その細胞群は他の細胞をひきつけ、従属させ、そしてしだいに全有機体をその最初の細胞群の目的に仕えさせ、ただ食べ、飲み、眠るだけという状態から連れだすのだ。これが進化であり、この他にはいかなる進化もありえない。

人間においては個人においてと同様に、すべては意識的な核の形成から始まる。生のあらゆる機械的な力は、この人間の中の意識的な核の形成に抗して闘う。ちょうどすべての機械的な習慣、嗜好、弱点が意識的な自己想起に対して闘うように。
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by sigma8jp | 2008-12-03 05:42 | グルジェフの覚醒プログラム | Comments(1)