カテゴリ:水の精が戯れる「水の音楽」( 6 )

ドビュッシーとラヴェルの違い・・・『水の音楽』(6)

  ドビュッシーが優れたピアノの演奏家になれなかったのは、本人の努力や資質もあるが、当時のパリ音楽院の指導方法にも原因があったと青柳はいっています。ピアニストにとって、どの先生に師事するのかはとても重要なのです。

ドビュッシーは9歳でピアノをはじめていますが、ショパンの弟子といわれるモーテ夫人に師事して、ショパンのピアにズムの手ほどきを受けているのです。ところが、その1年後に入学したパリ音楽院では、旧態依然たるクラヴサン(チェンバロ)時代の指先に頼る奏法を指導されたのです。

ショパンは、上流階級の子弟にピアノを教えていたので、彼の画期的なメトードはプロフェッショナルな教育界にはまだ広がっていなかったのです。また、教育界はどうしても今までの奏法にこだわり、ショパンの革新的奏法には相当の抵抗感があって、そう簡単には受け入れなかったと思われます。

しかし、そういう状況の下でも革新を目指そうとする演奏家はいたのです。それは、ラヴェルより2歳年下で、ドビュッシーやラヴェルと同時期にパリ音楽院に学んでいたアルフレッド・コルトーです。コルトーは、パリ音楽院の指先に頼る奏法に疑問を抱き、ショパンの考え方を基調にして独自の奏法を編み出し、クープランのクラヴサン曲集などを次々とピアノ版に改訂していったのです。そういう意味でコルトーは、フランス近代ピアノ奏法の開発者と呼ぶのに相応しい存在なのです。

そういうこともあって、ドビュッシーは次第に演奏よりも作曲の方に傾注していったのですが、それは彼にとって正解であったといえます。なぜなら、もし、ドビュッシーが演奏家を目指していたら、名を残すことはできなかったからです。このドビュッシーは、ラヴェルとともに印象派と呼ばれています。

19世紀末期になると、ヨーロッパの文化的中心はドイツからフランスへと移ります。1870年代のフランスの財政的崩壊と不況の後、引き続き現れた繁栄の波が、パリに富と贅沢に満ちた社会的風潮をもたらすにいたるのです。パリらしい洗練された官能を持つ芸術性は、まず、モネやルノアール、ドガといった画家たちの間で生まれ、彼らはロマン派の作風とは異なり、深遠で情熱的な人生経験よりも、親しみやすい日常の出来事や光景を好んで描写し、それは静かな淡い色調や、輪郭のあいまいさによって表現されたのです。

その作風は音楽界においても同様で、ドビュッシーやラヴェルに代表される作曲家は、全音音階や中世の教会旋法、不協和音や非機能和声などを用いて、音色の淡い、リズムのあいまいな印象派音楽を確立させています。

また、彼らは一見、標題音楽を受け継いだかのようにも見受けられますが、ワーグナーやベルリオーズのように具体的内容を指す主題を用いたり、内容の説明を楽譜に書き込んだりなどはしていないのです。むしろ、「沈める寺」「水の反映」といった曲名を付けて、それが示す光景の雰囲気を音で表現することを好んだというわけです。

青柳いづみこは、ドビュッシーは美しいというよりも、背徳的なことやデカタンス(退廃)の要素が多くあり、きわめて耽美主義的であるといっています。青柳がこのことに気がついたのは、彼女の祖父が、青柳瑞穂といって、詩人でフランス文学者であった関係上、ジョイスの『ユリシーズ』やマルキド・サドなどの本がたくさんあって、小学生の頃から、そういうものをよく読んでいたからであるといっています。

ドビュッシーの研究者として、大阪音楽大学で講義をしている青柳が、インタビューで「ドビュッシーに会ってみたいか」と聞かれて次のように答えています。

そういうドビュッシーよりも13歳年下のラヴェルは、ピアノのウデこそドビュッシーよりも下でしたが、少なくともドビュッシーよりは、印象派風なピアにズムの開発には熱心であり、長じていたといえます。よく「ドビュッシーやラヴェル」と一緒に名前を並べますが、ドビュッシーとラヴェルは大きく異なります。ラヴェルの音楽について、青柳は次のようにいっています。

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ラヴェルは、熱く燃えているものは持っているんだけど、それ を手にしようとすると、見えない壁があって中に入れてもらえないんです。いろいろなものが渦巻いているドビュッシーとは大違い。氷やドライアイスをさわるとやけどすることがありますよね。ラヴェルはその感覚に近いです。秘められた情熱を持っているような音楽なのです。ですから、ドビュッシーとは同列にできないタイプの音楽なんですね。
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ラヴェルの音楽は、ひとことでいうと「抑制の極致」というべきなのです。感情を素直に表現するのではなく、考えていることとは別のことをいったり、逆のことをしたりします。ですから、その故意のいい落としや婉曲な表現について、演奏家は考え抜いて解釈する必要があります。

青柳によると、ラヴェルはドビュッシーよりはずっと「歌」のある作曲家なのですが、きわめて恥かしがりやである性格から、そこに強い抑制が働くのです。したがって、抑制することが彼の裏返しのロマンチシズムの発露といえるのです。
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by sigma8jp | 2008-11-23 02:50 | 水の精が戯れる「水の音楽」 | Comments(0)

ラヴェルとリストの関係・・・『水の音楽』(5)

  青柳いづみこは、本と連動したCD「水の音楽/オンディーヌとメリザンド」の冒頭にリストの『エステ荘の噴水』を置き、そのあとラヴェルの『水の戯れ』、ドビュッシーの『水の反映』を置いていますが、これはきわめて意味のある配置です。



↑ リストの『エステ荘の噴水』



↑ ラヴェルの『水の戯れ』



↑ ドビュッシーの『水の反映』


『エステ荘の噴水』においてリストは、ピアノの技巧を駆使して、水そのものの擬音的な効果を演出しています。この曲はリストがローマ郊外のティヴォリにあるエステ家のヴィラエステ荘に滞在していたときに作曲されています。エステ荘には「コップの泉」、「百の噴水」、「ドラゴンの噴水」、「水オルガンの大噴水」など大小さまざまな噴水があり、リストはそれを見ながら何時間も立ちつくしていたといわれます。

少し専門的になって恐縮ですが、このリストの『エステ荘の噴水』は、属九のアルペジオではじまるのですが、和音の響きが独立した音の素材として使われており、明らかにドビュッシーやラヴェルの書法を先取りしています。ちなみに、アルペジオというのは、分散和音といって和音の各音を同時にではなく、下または上から順番に演奏することをいうのです。

ラヴェルの『水の戯れ』は、この『エステ荘の噴水』を意識して書かれています。実は『水の戯れ』の原題というのは、『エステ荘の噴水』の原題。メール上にフランス語は書けないので省略から後半の「ヴィラ・デ・エステ」をとって水を単数にしただけなのです。

ラヴェルはショパンに心酔していましたが、ピアノの技巧に関してはリストに憧れており、何とか自分の作品にとり入れたいと努力していたのです。『水の戯れ』でラヴェルは、神秘的な和音をベースに、水のさざめき、噴水、滝、小川などが織りなす音楽的な響きを重視して仕上げています。水を単数にしたことについて青柳は次のようにいっています。

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水が単数というのは重要なポイントで、リスト風の多量な水や大噴水は、音の細密画家ラヴェルには必要なかったということだろう。 
― 青柳いづみこ著、『水と音楽』、みすず書房刊
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 つまり、ラヴェルは、リストのヴィルトゥオジテを参考にしながらも、単なる軽業師的、技巧的表現に終わらないように、そこに純粋な音楽的な理由を取り込んでいるのです。まさに音の細密画家といわれるだけのことはあります。

ところで、このラヴェルの『水の戯れ』とドビュッシーの『水の反映』は、聴き比べてみるととても興味深いのです。実は、この2曲をめぐって因縁深い対立があったのです。それは、批評家のピエール・ラロが「ル・タン」紙上において、ラヴェルの『水の戯れ』をドビュッシーの『雨の庭』の二番煎じとこき下ろしたことに端を発するのです。 そのとき、ラヴェルは同じ「ル・タン」紙上に次のような反論を掲載して抗議しています。1907年4月9日のことです。

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私が『水の戯れ』を書いたときドビュッシーは、ピアノ曲はまだ3つの作品しか書いていなかったのです。3つの作品というのは、私自身熱烈な賛嘆の念を抱いていることをいまさら申すまでもない曲のことですが、ピアノ手法という点からみればこれらの作品には取り立てて新しいものはありません。
― 青柳いづみこ著、『水と音楽』、みすず書房刊
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  この件に関しては、ラヴェルの主張は正しいのです。なぜならドビュッシーの『雨の庭』を含む組曲『版画』は1903年に書かれていますが、ラヴェルの『水の戯れ』は、1901年の作であるからです。それにピアノ手法としても、ドビュッシーよりもラヴェルの方が先んじていたと思われるからです。

というよりは、『水の戯れ』と『水の反映』には、その基本的な考え方において、根本的な違いがあるのです。というのは、ラヴェルの『水の戯れ』の主役はあくまで水そのものであるのに対して、ドビュッシーの『水の反映』は、水そのものよりも、絶えず変化し続ける水面に焦点が当っているのです。

水面におどる光の粒、木々の影、したたり落ちるしずくとひろがる波紋――水の中をのぞき込む人間自身の心象風景が描かれているのです。そのため、ドビュッシーの場合、表現は象徴的になり、音色はにごって不透明になります。『水の戯れ』と『水の反映』におけるラヴェルとドビュッシーの違いを青柳は、誰でもわかる表現で次のようにいっています。

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もし、彼らの水を飲めといわれたら、ラヴェルの水は飲めるけれども、ドビュッシーの水は、あおみどろが浮かんでいたり して、あまり飲みたくない、そんな気がしないだろうか。
― 青柳いづみこ著、『水と音楽』、みすず書房刊
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ラヴェルのピアノ曲は、明らかにリストの影響を受けていると思います。音楽に詳しく、とくにラヴェルとドビュッシーについての著作まであるフランスの哲学者、ジャンケレヴィッチは、ラヴェルの作品について次のようにいっています。
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『水の戯れ』は、(リストの)『エステ荘の噴水』や『泉のほとりで』なしに、『スカルボ』(「夜のガスパール」の第3曲)は(リストの)『メフィスト・ワルツ』なしに、『水の精/オンディーヌ』は、(リストの)『波を渡るパオラの聖フラ ンチェスコ』の 急速な走句なしに存在しえただろうか?
― ジャンケレヴィッチ
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↑ リストの『泉のほとりで』



↑ ラヴェルのスカルボ(夜のガスパール)



↑ リストの『メフィスト・ワルツ』



↑ ラヴェル/夜のガスパール 1.オンディーヌ


↑ リストの『波を渡るパオラの聖フランチェスコ』
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by sigma8jp | 2008-11-23 02:44 | 水の精が戯れる「水の音楽」 | Comments(0)

オンディーヌはなぜメリザンドなのか・『水の音楽』(4)

 水に関わる青柳いづみこの音楽論――もう少し続きます。青柳によると、『夜のガスパール』には日ごろ愛聴している次のピアニストの名演があるそうです。

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   1.マルタ・アルゲリッチ
   2.イーヴォ・ボゴレリッチ
   3.アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ
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 私はこのうちミケランジェリ以外はCDを持っており、聴いています。そして、青柳いづみこの弾いている『夜のガスパール』のオンディーヌも、もちろん聴いています。アルゲリッチは感情のこもった情熱的なピアノを弾く人です。しかし、ラヴェルはきわめてクールであり、ちょっと考えると合わないのではないかと思ってしまいますが、これが大変な名演なのです。青柳は次のようにいっています。少し専門用語がまじりますが、イメージはわかると思います。

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  アルゲリッチは、ときおり拍がずれたり、トレモロの音が抜けたりするところがあるが、左手のベルカント奏法がすばらしく、ときおりみせるアルペジオのゆらぎが何ともいえない。しなだれかかるようなルバート、かと思うと無慈悲に鋭くはねてみせるグリッサンドの尻尾。全体をつつむ煽情的・蠱惑的なひびきは、あたかも彼女自身がオンディーヌであるかのようだった。― 青柳いづみこ著、『水と音楽』、みすず書房刊
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 確かにアルゲリッチの演奏は、女性ならではというところがあります。本当にアルゲリッチがオンディーヌであるかのような感じがするのです。青柳が留学したときに国立音楽院の教授に「もっと濃艶に歌って弾くように」といわれましたが、その「濃艶に歌う」演奏がアルゲリッチに見られるのです。これと対照的なのは、イーヴォ・ボゴレリッチの演奏です。ポコレリッチの演奏についての青柳の評価は次の通りです。

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  ボゴレリッチの演奏は、アルゲリッチに比べると、ずっと閉鎖的で耽美的な印象がある。かなり遅いテンポ。ミケランジェリに劣らず、完璧な指の分離を誇る彼のトレモロはひとつひとつの音の粒がしっとりと露をふくみ、果肉の奥に核がすけてみえる葡萄の実のようだ。水そのものが言葉をもち、ささやきかける。メロディもよくのびる音でたっぷりと歌われるが、それは聴き手に呼びかける歌ではない。彼の内部で完結している歌だ。   
― 青柳いづみこ著、『水と音楽』、みすず書房刊
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  アルゲリッチのように弾くには、できるだけ指先をのばして天井を高く取り、手のひらの内側だけを緊張させた手を鍵盤の半分まで沈め、力を完全に抜いて、ひじと手首を微妙にふるわせ、鍵盤が反発しようとする力を利用しながら、その動きにさからわずに弾かなければならない。しかし、青柳は手が硬く、とうていできない芸当であるというのです。そこで、青柳はボゴレリッチ・スタイルをアレンジしようとしたと述懐しています。

それに、青柳が指導を受けた国立音楽院の教授は、アルゲリッチ・スタイルのピアニズムで、トレモロの霧の上にくっきりと、計算して甘く歌い上げるロマンチックな演奏をするのです。しかし、青柳はこの曲の解釈として、あまりロマンチックなアプローチは、水に合わないと感じたのです。そのため「もっと濃艶に歌って弾くように」という先生の指示に反発したのです。
つまり、反発の理由は、水というものの解釈の違いにあるのです。青柳は次のようにいっています。

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  水は本来抽象的なものである。水はどんな形でもとることができるが、そのどれでもない。それは、ピアノの音についてもいえる。ピアノは、イマジネーション次第でオーケストラのいかなる楽器にも擬せられるが、実は何でもない。
水はピアノに似ているのである。その証拠に、水をテーマとした歌曲の水の描写の部分は、いつも伴奏のピアノが受け持つではないか。
― 青柳いづみこ著、『水と音楽』、みすず書房刊
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  青柳が弾きたかったのは、水そのものだったのです。水は鏡のように静かなときもあるが、突然何メートルもある渦を巻き、人に襲いかかる。また、心地よいさざ波のときもあれば、どんよりとしたよどみ水になったりしてさまざまに形を変える。しかし、水の本質そのものは変わらないのです。ただひたすらに水であり続けるのです。

そして、青柳は、ラヴェルの音楽には、そういう水の何気ない恐ろしさというようなものが潜んでおり、それを表現する必要があるといっているのです。国立音楽院の教授に対する「オンディーヌはメリザンドである」という反論の根拠は、こういうものではなかったのかと考えられるのです。
青柳いづみこの弾く『夜のガスパール』の「オンディーヌ」はボゴレリッチのようにやや遅いテンポをとり、けだるくまとわりつく女性を象徴するような演奏になっています。

それが水そのものを表現できているのかどうかはわかりませんが、明らかに、単に美しいだけで終わってしまう演奏家の解釈とは一線を画す、青柳いずみこ独特のオンディーヌ論を展開しているようです。

なお、アルゲリッチとボゴレリッチには、面白い話があるのです。アルゲリッチは、1980年にショパン国際コンクールの審査員をしていたのですが、ボゴレリッチがコンクールに落選したとき、これに抗議して審査員をやめています。それほど、アルゲリッチはボゴレリッチを高く評価していたのです。演奏スタイルはまったく違うのですが、「天才は天才を知る」でボゴレリッチの才能を強く感じていたのだと思います。
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by sigma8jp | 2008-11-23 02:29 | 水の精が戯れる「水の音楽」 | Comments(0)

水の精の4つのアーキタイプ・・・『水の音楽』(3)

  水の精は人間に対していろいろワルサをするのですが、その原型は次の4つになる――青柳いづみこはそういっているのです。
4つのタイプを再現します。

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   1.網をはり待つタイプ ・・・ メリザンド
   2.引きずり込むタイプ ・・・ セイレーン
   3.出かけて行くタイプ ・・・ オンディーヌ
   4.何もやらないタイプ ・・・ メドゥ-サ
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 「網をはり待つタイプ」の典型は、定められたある約束の時に選び出された若者が来ることを網をはって待つタイプで、メリザンドはこのタイプです。深い森の泉のほとりで若者がくるのを網をはって待つのです。「眠れる森の美女」のお姫様も妖精と考えると、このタイプに当たります。
「引きずり込むタイプ」の典型は、あの人魚ローレライです。
ライン河の岩の上で金髪をくしけずりながら、美しい歌声によって船乗りを惑わせ、海底へと引きずり込む恐ろしい妖精――セイレーンという人魚なのです。

ローレライというと、「なじかは知らねど、心わびて」というあの有名な歌が反射的に出てきますが、これはハイネの詩にジルヒャー(1789~1860)という作曲家が1838年に作曲したものなのです。しかし、あのフランツ・リストもこの同じハイネの詩に作曲して歌曲を書いています。のちにリストはこれをオーケストラ伴奏付きに改訂し、さらにその翌年にそれをピアノ独奏曲に編しています。

しかし、このことを知る人はあまりいないのです。それに「ローレライ」は民謡といわれていますが、それはこの詩を書いたハイネがユダヤ人であったため、ナチス政権下では民謡として扱われたからです。青柳いづみこは、CD「水の音楽」の中でこのリストのピアノ独奏曲「ローレライ」を弾いています。

水の精の第3のタイプ「出かけて行くタイプ」の典型は、あのオンディーヌです。そもそもこのオンディーヌ――ピアノの作品としては、あまりにも有名な次の2曲があります。もちろん、青柳いずみこは、CD「水の音楽」で両方を弾いています。

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   モーリス・ラヴェル作曲
   『夜のガスパール』第1曲 水の精オンディーヌ
   クロード・ドビュッシー作曲
   『プレリュード』第2集/第8曲 オンディーヌ
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  このうち、ラヴェルの『夜のガスパール』は、19世紀のフランスの詩人アロイジウス・ベルトランの同名の散文詩なのです。この『夜のガスパール』には、次の3つの詩が含まれますが、この詩はベルトランの唯一の代表作であると同時に、文学史においては、散文詩という新しいジャンルを確立したエポック・メーキングな詩集として位置づけられています。

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   1.水の精オンディーヌ
   2.絞首台
   3.スカルボ
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  実はベルトランの『夜のガスパール』が世に出るのには興味深い話があるのです。この詩集はベルトランの生前には話題にもならず埋もれていたのです。その埋もれていた詩を発掘したのは、大詩人ボードレールでした。ボードレールが注目したのは散文詩という新しい表現スタイルで、これに啓発されたボードレールは小散文詩『パリの憂鬱』を書き上げて、その序文でベルトランを絶賛したのです。これでベルトランの名が世に出るのです。

さらに『夜のガスパール』をさらに有名にしたのは、かねてからボードレールの詩を愛読していたモーリス・ラヴェルで、これをピアノ曲として世に送り出したというわけです。ベルトランは彼の死後、こういういきさつで認められたのです。さて、オンディーヌは「出かけて行く女」ですが、その目的は人間の男を婿にむかえて水底の国に連れていくことなのです。

オンディーヌは、ささやく声で歌いながら、指輪を受け取って欲しいと男に哀願します。しかし、男に自分は人間の女の方がよいと拒否されると、オンディーヌは、幾しずくかの涙を流したかと思うと、突如甲高い笑い声をあげ、窓ガラスに白々と流れる水滴になって消えてしまうのです。水の精オンディーヌの一節をご紹介しましょう。

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― ≪聞いて下さい!― 聞いてください!― 私です、オンディーヌです。
淡い月光に照らされた響くような菱形の窓に、雫となって軽く触れているのは、波の衣装を纏って、星のまた たく美しい夜と、眠りについている美しい湖を露台から見つめているお姫さまです≫。
― 水の精オンデイーヌより ―
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  水の精の第4のタイプ「何もやらないタイプ」とは、どういう行動をするのでしょうか。これは、自分からは何ひとつ行動を起こすわけではないのですが、存在そのものが悪になるというタイプです。その典型は、ゴルゴーン3姉妹のメドゥーサです。

ゴルゴーン3姉妹は、ステノ、エウリュアレ、メドゥーサの3姉妹で、髪の毛はからみ合う蛇で、猪のような牙があり、手は青銅でできており、黄金の翼を持っている――その中でとくに容貌が恐ろしいのはメドゥーサで、これをひと目見た者は一瞬のうちに石に変えられてしまうのです。

妖精について、本を調べてみたのですが、いろいろな本が出ています。『水の精の系譜』などというぴったりの本もありましたが、こういう本は価格が高くて閉口しました。世の中、いろいろなことを調べている人がいるものですね。
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by sigma8jp | 2008-11-23 02:20 | 水の精が戯れる「水の音楽」 | Comments(0)

水の精は音楽にフィットする・・・『水の音楽』(2)

  オンディーヌが水の精「ウンディーネ」であることについては説明しましたが、一方の「メリザンド」とは一体何者なのでしようか。メリザンドとは、もちろん、メーテルリンクの原作戯曲『ペレアスとメリザンド』のメリザンドのことです。

この戯曲は、1893年5月17日に、リュニェ・ポーの演出によって初演されているのですが、この初演をドビュッシーは観ているのです。その後、この戯曲の原作戯曲を手に入れて一読したドビュッシーは感動し、音楽をつけることを決意するのです。

ドビュッシーと原作者のメーテルリンクは、同じ1862年生まれであるので、ドビュッシーは人を介してメーテルリンクと交渉し、すぐ音楽化の許可をもらっています。音楽は1895年の夏には歌劇『ペレアスとメリザンド』として完成し、その秋にメーテルリンクから上演の許可をもらったのですが、つまらぬことでゴタゴタし、結局約7年後の1902年4月30日に、オペラ・コミック座で上演されたのです。

この『ペレアスとメリザンド』という歌劇に登場するメリザンドは、アルモンド国の王子ゴローが深い森の中の泉のところで見つけた正体不明の女性なのです。王子ゴローはあまりの美しさに心を奪われてメリザンドを城に連れて帰ります。そのときゴローは最初の妻を亡くし、独身だったのです。

メリザンドは自分の素性については一切明かさなかったのですが、結局ゴローはメリザンドと再婚するのです。しかし、メリザンドは、あまりゴローが好きでなかったらしく、ゴローからもらった結婚の指輪を泉のそばで放り投げて遊び、泉に落としてしまうなど不可解な行動をとります。そどころか、メリザンドは、ゴローの弟であるペレアスに心を惹かれ、愛し合うようになるので。やがて、そのことを知ったゴローは怒り狂い、ペレアスを刺し殺し、メリザンドも死んでしまう――話はこういう悲劇で終わるのです。

それでは、メリザンドはなぜ水の精といわれるのでしょうか。これには諸説があるのです。王子や騎士が獣を追って深い森の中を行くと、泉のほとりで若い女に出会うという話は、中世の人魚の伝説「メリュジーヌ」に酷似しています。しかも、メリザンドと名前までよく似ています。
メーテルリンクが作劇の構想をメモした手帳が残っているそうですが、その内容を分析した研究者によると、『ペレアスとメリザンド』のヒロインの名前は次のように変遷しているのです。

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   クレール → ジュヌヴィエーヴ → メリザンド
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  「クレール」は「光」を意味しており、「ジュヌヴィエーヴ」は、ベルギーではよく知られている中世の伝説『ブラバンのジュヌヴィエーヴ』のヒロインの名前なのです。しかし、このジュヌヴィエーヴは信仰の篤い聖女のような女性であり、弟と不倫を働くような女性のイメージには合わないそういうわけで、メーテルリンクは、妖精のようなあやうい魅力を持つ人魚「メリュジーヌ」にちなんで、メリザンドと名づけたのではないかと考えられるのです。

ちなみに、ドビュッシーの歌劇『ペレアスとメリザンド』にはペレアスとゴローの母として、ジュヌヴィエーヴというという名のアルトが登場しますが、メーテルリンクは最初のうち、メリザンド役にジュヌヴィエーヴの名前を考えていたのです。

青柳いづみこは、『水の音楽』の副題に「オンディーヌとメリザンド」と付けただけあって、これらの妖精――水の精について非常によく調べています。ドビュッシーの研究家である青柳としては、避けては通れない問題であるといえます。確かに妖精はよく音楽のテーマになることが多く、とくにオペラでは、歌劇『ペレアスとメリザンド』のように、タイトルロールとして取り上げられているものも多いのです。

一般的に妖精は、人間の赤ちゃんの笑顔から生まれてきたといわれており、無邪気で可愛いというイメージがあります。しかしそういう妖精は少数派であって、大半は恐ろしい悪魔の化身なのです。例えば、ムソルグスキーの組曲、『展覧会の絵』に登場する「バーバ・ヤガー」は、森の中で道に迷って困っている人間を喰ってしまうロシアの残酷な妖精なのです。

また、一見可愛らしく見える妖精――とくに水の精のように美しい女性の姿をしている妖精も、人間社会の常識を知らず、善悪の判断を持たず、自らの意識のおもむくままに天衣無縫の行動する――それがときとして人間に役立つことがある反面、次の瞬間にはとんでもないいたずらをやってのけたりするのです。それが妖精であり、根本的に人間とは違うのです。 

水の精は水に準じた特徴を持っています。流れるような長い髪を持ち、着物からはしずくがぽたぽた垂れています。その性格も水のように気まぐれでかわいらしかったり、突然癇癪を起こしたり、煽情的だったり、いたずらっぽかったり、あるいはイジワルで冷酷無比だったりする。

これが、音楽のさまざまな律動に自然に乗るのです。そして、水の精は波のようにしなやかに踊ったり、この世ならぬ声で歌ったりする――音楽によくフィットするので、作曲家が進んで取り上げたくなる対象なのです。

青柳いづみこは、水の精の中には意図的に人間たちを誘惑し、自分たちの世界に同化させようとする人間くさい目的意識を持つものが多いと指摘し、それらの水の精が人間を誘惑するタイプには、次の4つの原型があると述べています。

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   1.網をはり待つタイプ ・・・ メリザンド
   2.引きずり込むタイプ ・・・ セイレーン
   3.出かけて行くタイプ ・・・ オンディーヌ
   4.何もやらないタイプ ・・・ メドゥ-サ
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by sigma8jp | 2008-11-23 02:11 | 水の精が戯れる「水の音楽」 | Comments(0)

音楽の中の「水の精霊」・・・『水の音楽』(1)

  青柳いづみこの本『水の音楽』には、「オンディーヌとメリザンド」という副題がついています。この副題によってもわかるように、彼女はこの本で、水に加えて水に関わる2人の女性/オンディーヌとメリザンド――これらの女性はいずれも水の精である――に焦点を当てて、女性の作家ピアニストならではの独創的アプローチによって『水の音楽』を分析しているのです。
そもそもこの本は、フランスの地方の国立音楽院のピアノ科に留学した青柳いづみこと指導教官との対話からはじまるのです。

ちなみに、フランスの地方の国立音楽院のピアノ科というところは、生徒はみんな12~15歳の子供ばかりだそうです。 そこに日本の音大の大学院を卒業した学生が留学するのですから、ちょうど中学校に大人が中途入学するようなものです。

そういう状況で、ある日のクラス・レッスンで青柳は、先生からモーリス・ラヴェルのピアノのための組曲『夜のガスパール』の第1曲「オンディーヌ」を弾くように指示されるのです。 ところが、弾き終わったとたん先生に「もっと濃艶に弾くように」と注意されたというのです。しかし、このひねた学生は、先生のこの指導に対して、次のようにイチャモンをつけたのです。

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されど我が師よ、我オンディーヌなるもの、かのメリザンドの如しとみるも如何に?
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 もちろん青柳本人は、こんな芝居がかったいい方をしたわけではないのですが、フランス語は日本語よりも少し感じが固くなるので、先生にはこんな感じで聞こえたはずだと青柳は解説しているのです。なかなか面白い人です。 要するに、「私のイメージするオンディーヌは、ドビュッシーのオペラ『ペレアスとメリザンド』のヒロイン、メリザンドだと思いますが、先生はどうお考えですか」――このように、青柳は先生にイチャモンをつけたわけです。

いかにもフランス人らしいと思うのは先生の対応です。いきなり留学生から「オンディーヌはメリザンドである」と反撃されて困惑しながらも、青柳の反論をしきりと面白がって、考え込んでしまったというのですから・・。 ところで、「オンディーヌはメリザンドである」――といわれても当惑される方が多いと思いますので、しばらく「オンディーヌ」と「メリザンド」についてご説明することにします。

「オンディーヌ」といえば、ジャン・ジロドゥが1939年に発表した戯曲として知られています。劇団「四季」などでもよく上演されています。このように「オンディーヌ」は、ジロドゥの戯曲によってあまねく知られているのですが、その原作は、ラ・モット・フケ-で、1811年に彼が書いたメルヘン小説『ウンディーネ』なのです。 「ウンディーネ」とは何でしょうか。

青柳いづみこによると、フケーが『ウンディーネ』を発表した翌年の1812年、この話の出処を聞かれたフケーは、16世紀の錬金術師パラケルススの『水の精、風の精、土の精、火の精その他の精霊の書』(ズートホフ版全集、第14巻)という論文であるといったというのです。
錬金術師パラケルススによると、この世の中は、4つの元素によって構成されていて、それぞれに次の妖精が宿るといっているのです。

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  水の精 ・・・・・ ウンディーネ(UNDINE)
  風の精 ・・・・・ シルフ(SHYLPH)
  土の精 ・・・・・ ノーム(GNOME)
  火の精 ・・・・・ サラマンダー(SALAMANDER)
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 これでわかるように、ウンディーネというのは水の精霊のことなのです。フケーが小説の中で美しい人間の女性の姿をしたウンディーネを登場させて以来、ウンディーネといえば女性の姿をした妖精のことであると伝えられてきているのです。フケーは、小説の中でウンディーネを、気まぐれで、勝手で、恐れを知らない、いかにも妖精らしい妖精として描いています。

そのため、ジロドゥも彼の戯曲「オンディーヌ」で、この影響を受けてオンディーヌを描いているのです。かつて、女優の加賀まりこがオンディーヌ役をやって成功していますが、まさにぴったりのキャスティングといえると思います。なお、戯曲「オンディーヌ」では、「魚を食べない女」として描かれています。

一般に妖精は魂を持たないといわれています。ウンディーネにも魂はなく、人間と結婚することによってそれを得ることができるのです。しかし、魂を得たウンディーネは、人間と同じように心配や悲しみを感じるようになり、それだけ不幸になるのです。また、人間の男と結婚した場合、そこに破ることのできない契約が生まれるのです。その契約とは次の内容を持っています。

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  1.夫は、水辺でオンディーヌの悪口をいわないこと
  2.夫は、他の女と浮気をすることは厳禁であること
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  この契約が破られると、オンディーヌは水の世界に戻らなければならないし、夫も死ぬことになるのです。そして、その契約が守られているかどうかを四六時中ウンディーネの仲間の妖精たちが見張っているというのですから、ウンディーネの夫になるのは相当の覚悟がないとなれないのです。

このフケーのウンディーネは、いろいろな音楽家によって取り上げられています。ラヴェルのピアノのための組曲「夜のガスパール」の「オンディーヌ」、ドビュッシーのピアノのための前奏曲「オンディーヌ」、日本人では、三善晃による音楽詩劇「オンディーヌ」、それから、ドイツのウェルナー・ヘンツェのバレエ音楽「ウンディーネ」など――たくさんあるのです。

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b0140046_312489.jpg『水の音楽』 オンディーヌとメリザンド (青柳いづみこ/著) みすず書房刊
[本の内容]
ラヴェルの『夜のガスパール』から第一曲「オンディーヌ」を弾き終わったとたんに、先生から「もっと濃艶に歌って弾くように」と注意された。でも、この曲を高踏的に、人に媚びず、自身の美しさで聴くひとを惹きつけずにはおかないように弾いてみたい。
あたかもドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』のヒロインのように。

 「この世にことさら男を誘う女と誘わない女の二種類がいるとすれば、明らかにオンディーヌは前者であり、メリザンドは後者である。(…)水の精とはどういうものなのか、オンディーヌはその中でどの部類に属するのか、音楽は彼女たちとどうかかわっているのか、ドラマ『ペレアスとメリザンド』は水の精の物語とどのようなつながりがあるのか。」(プロローグより)

[目次]
第1章 水の精のイメージ
第2章 善い水の精と悪い水の精
第3章 創作された水の精
第4章 魔界と人間界
第5章 音楽になった水の精
第6章 『ペレアスとメリザンド』とおとぎばなし
第7章 『ペレアスとメリザンド』のドラマ構造
第8章 「宿命と女」と「つれなき美女」
第9章 メリザンドと水
第10章 水の音楽

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by sigma8jp | 2008-11-23 02:00 | 水の精が戯れる「水の音楽」 | Comments(0)