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グルジェフ回想録(チェコビッチによる)

  2003 年10 月にフランスのL'Originel社から出版されたチェスラヴ・チェコビッチによるグルジェフ回想録『Tu l'aimeras』(「あなたもお好きのはず」)のうち、版元のウェブサイトで公開された部分の翻訳です。原著(フランス語)はオンラインで注文できます(紀伊国屋ブックウェブ)。チェコヴィッチは、レスリングのチャンピオン、サーカスの力持ちなどの経歴を持つ、グルジェフの肉体派の弟子の最右翼として知られています。


 チェスラヴ・チェコヴィッチは、一九一八年にグルジェフに出会い、コンスタンチノープルからプリュウレに至るまで行動を共にし、二十八年間にわたって頻繁にグルジェフと直接に関わった。チェコヴィッチは、グルジェフの教えを直接に耳にし、生のさまざまな局面におけるグルジェフの行動と対応を目撃する機会を持った。

六十歳を超えてから彼が書いた手記のなかで、彼は、自分の人生はグルジェフに出会ったときに始まったと書いている。その晩年にチェコヴィッチは、不穏なヨーロッパ情勢のなかでこの記録が失われることを恐れ、フォメンテラ島の友人に原稿を託した。そしてその四十年後、この原稿は、この島の小さな白い家の屋根裏で発見されたのである。

                   * * *
今日幸運にもグルジェフの教えに出会った者は、彼を直接に知るという幸せを得ることができない。グルジェフを直接に知った者は、グルジェフの死後にグルジェフの教えに出会った者に、グルジェフという人物から受けた印象を伝えるべきであろうか。その答えは明白である。だが、どのように伝えたらよいのか? 起こったことの客観的な記録というのは不可能である。だから私はただ、自分が受けた主観的な印象を伝えよう。

ゲオルギー・イヴァノヴィッチ[グルジェフ]の教えについて私から話を聞いた者たちは、この人物から私が受けた印象について知りたがった。彼らのうち何人かは、私が彼らに語ったことは記録されるべきであるといった。ミスター・グルジェフという人物の持っていたそれらの側面が忘れ去られることのないようにである。一部の者は、私の語ったことを書き留めた。この回想録は、そのようにして生まれたものである。

                   * * *
今日幸運にもグルジェフの教えに出会った者は、彼を直接に知るという幸せを得ることができない。グルジェフを直接に知った者は、グルジェフの死後にグルジェフの教えに出会った者に、グルジェフという人物から受けた印象を伝えるべきであろうか。その答えは明白である。だが、どのように伝えたらよいのか? 起こったことの客観的な記録というのは不可能である。だから私はただ、自分が受けた主観的な印象を伝えよう。

ゲオルギー・イヴァノヴィッチ[グルジェフ]の教えについて私から話を聞いた者たちは、この人物から私が受けた印象について知りたがった。彼らのうち何人かは、私が彼らに語ったことは記録されるべきであるといった。ミスター・グルジェフという人物の持っていたそれらの側面が忘れ去られることのないようにである。一部の者は、私の語ったことを書き留めた。

この回想録は、そミスター・グルジェフとの関わりのなかで私が目にした彼の行動と対応は、私に強烈な印象を与えた。それを知る者がほとんどいなくなった現在、それについて証言することは私の義務であろう。アレクサンダー・ザルツマンはすでに死んでいる。ドクター・シャーンヴァルもだ。トーマス・ド・ハートマンが私と同じ試練を受けたのか、彼の記憶が私の記憶と一致するのか、私には確信がない。

彼はミスター・グルジェフの音楽の整理に忙しい。彼も手記を書くだろうか? これをあてにすることはできない。いったん何かの思い出について語り始めると、一連の記憶が奔流のように呼び起こされる。私はそうして記憶をたどり、何が起こったか、どのような事実があったかを報告しよう。口述と初回の校正は一九五二年と一九五三年に行われた。私がこの回想録に引用したグルジェフの言葉が正確なものであるかどうか、疑う者もいるだろう。

それは当然の疑いである。だが、P・D・ウスペンスキーは『知られざる教えの断片』[奇跡を求めて]で「彼がわれわれに与えた答えがなにを指し示していたのか、私は長い歳月の後に理解した」と語っている。私の場合もまったく同じである。この回想録は、私が体験した本当の出来事について、それからかなりの時間がたってから、私がミスター・グルジェフに寄せる真実の情をもって思い出したことの記録である。

                   * * *
一九二四年、ミスター・グルジェフはアメリカに行き、いくつかの都市でムーヴメンツのデモンスレーションと講演会を行った。私はこれに同行したグループの一員だった。どの都市でも、われわれはデモンストレーションを行い、ムーヴメンツの後、超心理学的現象の実演をしてみせた。観客は、トリック、半トリック、本物の超自然的現象を見分けるように言われた。この種のデモンストレーションを何回かした後、ミスター・グルジェフは講演会を開いた。

これから話すことがどの都市で起こったかは重要ではない。ミスター・グルジェフが講演する日、会場は人であふれかえっていた。聴衆は何か刺激的なことを期待していた。劇場で夜のショーが始まる前のような雰囲気だった。そして幕が上がり、聴衆が目にしたのは、何か特別なものを提供するふうでもなく、およそ三十人の生徒に囲まれて静かに足を組んで坐るミスター・グルジェフの姿だった。

聴衆はショーの準備ができていないうちに幕が上がったかのような印象を受けたように見えた。しかし、ミスター・グルジェフが、人間の三つの脳(思考/感情/肉体のセンター)、それらのセンターの間の不均衡と不調和によって人間の内面生活に生じる混乱、そして粗雑なものを精妙なものの支配下に置くことの必要性について話しだすと(>参考)、聴衆の一部が苛立ちと不満を露わにした。

何人かが立ち上がり、座っている人たちを乱暴に押し分けながら退場した。ミスター・グルジェフはそのまま話し続けた。さらに退場する者が増え、その喧騒のために、続けて話を聴きたいと思っている人たちはミスター・グルジェフの声を聞き取れないまでになったが、ミスター・グルジェフは忍耐強く話し続けた。さらに退場する者が増え、ゆっくりと会場全体に動揺が広まっていった。

それでもミスター・グルジェフは、まるで聴衆全員が熱心に聴いているかのように豊かなゼスチャーとイントネーションを交えながら話を続けた。われわれの目に、講演会の失敗は確実に見えた。われわれは、完全に空っぽになった会場で話を続けるミスター・グルジェフの姿を想像して、耐え難い思いをした。

しかし、ミスター・グルジェフは、豊かなイントネーションをもって話し続けた。ときどきミスター・グルジェフは、自分の知らない英単語について、われわれに尋ねた。やがて突然、ミスター・グルジェフは話をやめ、咳をし、あごを撫でると、よく透る声で、聴衆への非難を開始した。

「おまえたちは、生まれてはじめて、真剣な話を耳にしている。この挑戦を前に、おまえたちは自分らが空っぽの人間であることをあからさまにした。これは重大な話であり、だからおまえたちはそれを嫌がる。軽いコルクが水に弾き出されるように、おまえたちは弾き出される」

「去りたい者は去れ! いますぐに去れ。だれもここを出られないよう扉に鍵をかける。その前に出て行け」ミスター・グルジェフは、われわれのひとりに、扉のところに行き、出入りのできないように閉鎖するように言った。聴衆の大多数が立ち上がり、会場から出て行った。ミスター・グルジェフは煙草を点け、静かに吸った。会場に沈黙が戻ると、彼は立ち上がり、次のように言った。

「他に出て行きたい者はいないか? 君たちは皆ここに残るのか?」残った人たちは、沈黙をもってこの問いかけに答えた。するとミスター・グルジェフは、完全に声のトーンを変え、とても快活な声で、みんなそばに来て坐るように言った。それまで椅子席や会場の隅にいた人たちはステージに昇り、ひとかたまりになって坐った。ミスター・グルジェフは、このようにして選ばれた聴衆に対し、明瞭な声をもって、自分が話したいと思っていることは万人向けではないのだと宣言した。

「馬鹿者どもが去った今、われわれは深く話すことができる。問題の根底まで掘り下げるのだ」聴衆は、非常な注意と関心をもってミスター・グルジェフの言葉に耳を傾けた。ミスター・グルジェフによる英語の発音の奇妙さをだれも気に留めなかった。彼らはミスター・グルジェフの言葉を飲み干しているかのようであった。ミスター・グルジェフは大量に話した。たまに話を中断し、他の教えとの矛盾に関する質問に答えた。

特に記憶に残っているのは、すでにムーヴメンツの公演を見て、ミスター・オラージュ(ミスター・グルジェフのアメリカへの招待者)のミーティングにも出席したことがある人物からの質問に対するミスター・グルジェフの答えである。彼は、自らの努力が、彼がそれまで揺るぎないものと信じてきた彼自身の内面世界の完全な崩壊を招くのではないかと予感していた。

このミスターは、彼の内面の動揺を物語る悲痛な声をもって、彼の抱いている恐怖について語った。それは、世界に対する彼の哲学的な見解や信念、そしてそれらが彼のなかに育んできた希望の基盤となっていたものが剥奪されるのではないかという恐怖である。ミスター・グルジェフの誘いに応じて、彼は立ち上がり、体を震わせながら、およそ次のようなことを話した。

「ミスター・グルジェフ、あなたは私の内面世界をかき乱した。私の意見、私の見解は、揺れ動いている。おそらくそれらは長くは持ちこたえられないだろう。やがて私には、これまでの人生が私のなかに培ってきたものすべてが信じられなくなるだろう。だから私は恐れている。空っぽのままで留まるのが恐ろしい。あなたの教えのなかに、新しい基盤を作るための素材を私は果たして見つけられるのか、私には心配だ。

大事なものを失った人間のように、自分の不運を呪い、苦しみに耐えるはめになるのではないかと予感している。かつて私は、自分の足が地面を踏みしめているのを感じていた。今、その地面は消えた。あなたはどんな権限をもって、私や他の人々に、われわれの心理的/精神的なバランスを乱すような、そんな仕打ちができるのか?」さらに彼は、彼の内面世界が被った破壊的な影響の数々について述べ、ミスター・グルジェフを非難した。

聴衆は静まり返り、だれもが彼の言うことを自分にあてはめ、ミスター・グルジェフの答えを待望した。ミスター・グルジェフは、このような非難をあらかじめ予想していたようであり、一瞬、彼の顔には満足げな表情が浮かんだ。「あなたの恐怖、あなたの心配を、私はよく知っている。私の教えはあなたの意識に急速に浸透したが、あなたはまだ、人が現実にどのような状況に置かれているかについての厳密な知識を欠いている。

だれもが、その時が来るまで(多くの人間は死ぬまで)、自分は人生で堅い地面の上を歩いていると信じている。だが、自分にはバランスなどないこと、自分の心理的/精神的な安定はスピリチャルな意味での盲目性を土台にしたものであること、自分の知人にも自分自身にも何をする力もないこと、すべてが無に消えていく流れに沿って自分たちは常に歩いていることを確信したならば、あなたはおそらく、今の道を歩き続けるなら自分はどこに行くのかを知りたいと思うかもしれない。

私はそれがどのような道なのかを知っている。そしてあなたがその道を避け、苦しんだり歯ぎしりしないですむことを願っている」「私が話すことを理解しだした人間が恐怖を予感する、そして本当に恐怖を感じるというのは、まさにそのとおりだ。しかし、この恐怖は、彼らが主体的に感じるものではなく、彼らのなかに機械的に生まれてくるものだ。

だから、あなたの言っている恐怖は、あなたの存在に関わる本当の恐怖ではない」「あなたが捨てなければならないすべてのことが、あなたが言うような恐怖をあなたに抱かせ、あなたにこれまでどおりの道を歩ませようとする。人のなかには大勢のつまらない『私』がいて、当人が現実を見始めた瞬間、それらは存亡の危機に直面する。だからそれらは当人のなかに恐怖を作り出し、私が話すようなことはすべて『悪魔に食わせたい』という衝動を当人にもたらす。

あなたは、不運への嘆きと苦しみを予感していると言う。それは正しい。自分の状況について何も知らない者は幸せだ。自らにふさわしい進化を遂げた者も幸せだ。だが、いくつかの基本的な真実を知ったばかりの者、良心が目覚めたばかりの者は、幸せではありえない。目覚めたての良心というのは犯罪人の前に現れた警官のようなものだ……」

「粗末なベンチに座ったままでいるなら問題はない! 客間の安楽椅子に座るのは、それよりはるかに快適だ。不幸せなのは、ベンチから立ち上がったはよいが、安楽椅子までたどり着いていない者だ。カラスというのはそれなりに美しい。クジャクはもっと美しく、はるかに賞賛に値する。尾に二本だけクジャクの羽を生やしたカラスは不幸せだ。

そんなカラスは、他のカラスを苛立たせるから、仲間のカラスにいじめられる。このクジャクのなりかけは、クジャクの仲間にも入れない。本当のところを言うと、これはクジャクが意地悪をしているのではない。このクジャクのなりかけは、一部のクジャクから言われたことをすべて自分への悪意と解釈し、自分で群れを離れるのだ」

「いつの日か、百万人がこの苦しい状況を体験するだろう。だが、それで終りではない。百万人が失敗し、自分の責任において百万人が苦しむ。たった一人でも、<自然>に対する自らの義務を果たすことに失敗したすべての人間を待つこの悲しい運命を逃れることに成功したならば、それがこの百万の苦しみの埋め合わせをする」

ここで何人かの聴衆が、ミスター・グルジェフに抗議した。「それならばあなたはどんな権限をもって?」、「それならばどうしてあなたは?」、「あなたはどんな目的で?」。ミスター・グルジェフはほほ笑み、慈愛に満ちた声で、次のように語った。「一人が救われたならば、その一人は百人を救う。百人は千人を、千人は百万人を救う。この百万人の幸せは、百万の苦しみと百万の不幸せの埋め合わせをする。

そして数億の人間が、彼らのなかに現れたこの新しい人類のプレゼンスから幸せを感じる。権限について言うならば、この権限は、客観的良心に基づくものだ。何の自覚もなしにどこにもたどり着かない道を歩む人間が体験する喜びや生理的な幸福感と、自分が破滅の方向に向かって動いていることを自覚するに至った人間の苦しみと不運とを天秤にかけるため、この二つを比較するなら、一方は何も自覚していないのに対し、もう一方は自分が自分にしたことを後悔し、それに苦しんでいる。

だが、この二つを比べ、どちらを大切にしなければならないかという問題は、客観的には存在しない。庭師は苗を植えるために、何の呵責も感じずに雑草を抜く! これは花を咲かせる可能性を増やすために必要なことだ。苦しみの原因は、用意された状況を利用しないことにある」ふたたび全員を沈黙が包んだ。しかし今度の沈黙は、肯定の沈黙、ミスター・グルジェフの使命に関する理解のあらわれとしての沈黙だった。だれもが時間の感覚を失った。

次のような言葉でみんなに家に帰るように促したのは、ミスター・グルジェフだった。「それではここで切り上げよう! 明日はみんなまた働かなければならない。今のうちに帰って、少し休みなさい」その晩、ミスター・グルジェフの言ったことから深い印象を受けた人々は、お互いの間の堅い結び付きを感じ、自分たちが受け取った真実への理解を深めるために、その後も共に集まりたいと願った。

このようにして、この都市では、ミスター・グルジェフの生徒たちの中心的な核が生まれた。
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by sigma8jp | 2008-12-31 01:58 | グルジェフの覚醒プログラム | Comments(0)

グルジェフが教えたエクササイズ

 グルジェフが教えたエクササイズの内容を初心者のために説明するのは、この個人的な回想録の本来の目的ではなく、私の手に余ることでもある。眠れない夜に頭を機械的に駆けめぐる思いを断ち切ろうとしたことがある人、あるいは三十秒の間だけでも機械的な連想に心を奪われることなく祈ろうとしたことがある人は、彼が私たちに教えた自らと関わるにあたっての毅然とした姿勢の持つ味わいをわずかなりとも理解できるだろう。

彼が私たちに教えたのは、人が内的なエネルギーを増すことを助ける、基本的なスピリチャル・エクササイズだった。エクササイズについて彼が与えた最後の指示は、私に深い印象を残した。「修行僧のように単純でありなさい」、と彼は言った。「するべき仕事を与えられた修行僧のように、信頼をもってこのエクササイズをやりなさい。知ったかぶりをもってではない」。

そう言いながら、彼は額を指さした。「知ったかぶりをもってではなく、確信をもってやりなさい」。彼は額から手を離し、太陽神経叢に触れた。「頭をもってするのではなく、フィーリングをもってやりなさい」[…略…]「人のなかでは、ひとつの部分があれこれを望み、それとは別の部分がそれを為す」、と彼は言った。

「人のなかにはこの二つの部分があり、その働き方には、このような法則がある。片方の部分だけに生じた望みが強ければ強いほど、その人間は、もう片方の部分をもって為すことができなくなる。持続的な努力においてさえ、これはそのようになる。若いうちは、<為すこと>への努力を<自然>が助けてくれる。だから、責任ある年代に達した人ほどは必死にならなくてもよい。

だが、ある年齢を越えた後では、この種の努力はとても難しく、不可能なときさえもある」[…略…]グルジェフのアパルトマンは、常にブラインドが降ろされ(だれもその理由を尋ねなかった)、客間のひとつだけの明かりが、じゅうたんに覆われた彼の長椅子の上を照らしていた。そこで私たちは、夜でも昼でもない、不思議な時空の世界、鎧戸の降ろされた窓の外の世界から完全に分離した世界にいた。

私たちは、いつも正確な時間にグルジェフのアパルトマンを訪れ、廊下でコートを脱ぐと、小さな客間に自分の場所を見つけ、ひとりひとりが別の部屋でエクササイズの進み具合について尋ねられる間、他の者たちは彼の執筆中の原稿を読んだ。深い理解をたたえた彼のまなざしを前にして、私はしばしば何も言えなくなった。

もっと単純で、もっと的確に真実を反映した言葉を捜して私が口ごもる間にも、彼のまなざしは、私が味わっている自己嫌悪の奥まで見抜いているようだった。ある日、私からとりわけ中身のない報告を聞いた後、彼は真剣にうなずき、こう言った。「クロコディール、簡単なことではないのだ。ここでわれわれが試みていることは……」。

[クロコディール(子供を食べてしまってから涙を流すというワニ)は、グルジェフが著者に付けたニックネーム]われわれが試みていること? 彼が「われわれ」と言ったことで、私は一瞬、動揺した。彼もまた、私たち同様に地面に縛られていて、私たちと一緒に、一歩一歩よろめきながら、意識の高みに向かおうと、闘っているのだろうか?

彼はすでに、私の目にさえもわかるほどの、非常な高みに達しているというのに? それとも、彼が「われわれ」と言ったのは、私たちが最初のハードルを越えて、機械的な世界――私たちがいま住んでいて私たちが知っているいまのところ唯一の世界――との同一化を離れて第一歩を踏み出すのを助けるための、計算された思いやりなのだろうか?

別の日、彼は、彼が外の世界で直面している厄介事について話しながら、また「われわれ」という言葉を使った。それまでにも頻繁に、彼の何気ない言葉が突然に別のレベルでの理解をもたらしたことがあったので、このときも私たちは、もしかしたら月賦なしで新車を買えるかもしれないという彼の話に、注意深く耳を傾けた。「これはめったにない儲け話だ。だからこれがうまくいくよう、誰かに加護を求めなければならない」、と彼は言った。

「君たちがそれにふさわしい聖人の名前を挙げなさい。私はその聖人にロウソクを捧げよう」。彼はそう言うと、私たちの先輩格にあたるミス・ゴードンの顔を見た。彼女は、願いをかなえてくれることで有名な、ある聖人の名前を挙げた。グルジェフは首を振り、その聖人のことならよく知っている、その聖人では「だめだ」と言った。「われわれのひとりに対して<弱み>を持っている聖人でなければいけない……。

このワークをしているわれわれのひとり、私または君たちのひとりだ」。彼は、呆然とした私たちの顔を順番に見つめてから、肩をすくめた。「君たちがそのような聖人を指名できないなら、私は自分の守護聖人、聖ジョージに頼むことにしよう。だが、彼はとても高くつく。彼は金とか、またはロウソクとかいった品物には興味がない。

彼は代償として苦しみを求める。内面における何かを求める。私が私の内面世界のために何かを作ること、彼はそれにしか興味がない。そして私がそれを作ったなら、彼は必ずそれに気づく。だが……このような苦しみは、とても高価だ」[…略…]グルジェフは、彼が意識的に蓄積した力を私たちに向けて頻繁に放射し、私たちが最初の試みで必要な強さを維持できるよう、助けてくれていたと思う。

「人間にとっての真の内面世界」に到達すること……。彼は私たちのなかに、この目標に向けての激しい願望をかきたてた。「人には三つの世界がある。第一の世界は、外側の世界、われわれの外側で起こるすべてから押し寄せてくる印象の世界だ。第二の世界は、いわゆる内側の世界、われわれの身体の内部的な働きが総体として作り出す世界だ。

そして第三の世界は、魂の世界……昔の人々は、これを人間にとっての真の内面世界と呼んだ。人にはこの三つの世界がある」。さらに彼の目は、「そして人は、このうちどの世界で生きたいかを決めることができる」と言っているようだった。「このエクササイズは、人間にとっての真の内面世界、魂の世界のためのエクササイズだ」[…略…]

二、三週後、まったく別の話をしていたグルジェフは、あたかも話のついでのように、私のなかにくすぶっている頑固な否定性について触れた。その日、彼はルーエンまで車で出かけ、全部で百六十八マイルの行程をいつもながら驚くべき速度で周遊し、夕方七時半には、私たちが待つカフェ・ド・ラ・ペに戻ってきていた。彼は晩餐室に入ってくると、うれしげな溜め息をつき、「バラまたバラ」と、自分の満足について語った。

彼はその日、あるビジネス上の取引に成功し、あと一週間は経済上の特定の問題について考えないでもよくなったという。だが、この「バラまたバラ」はやがて消え失せ、「トゲまたトゲ」になるという。それでもなお、外側の世界のトゲというのはよろしい、と彼は言った。外側の世界にトゲがあるおかげで内側の世界にバラが咲くのだから。

「これは法則だ」、と彼は言った。「ひとつひとつの不満に対応して、必ずひとつひとつの満足が存在する」。彼はコーヒーを飲みながら、「外側の世界のバラと内側の世界のバラのどちらが欲しいか?」と私たちに尋ねたが、「これは複雑すぎる問題だ」と言って、質問を取り消した。「それよりも、私から君たちに、ひとつ言っておくのがよいだろう」、と彼は言った。

「これを知ったなら、君たちは一生、裕福に暮らせる」。彼は人差指を立てたまま、次のように言った。「人のする努力には二つの種類がある。内側の世界での努力と外側の世界での努力だ。だが、この二つが出合い、第三の世界のための素材を作り出すことがない。内側の世界での努力と外側の世界での努力を出合わせるというのは、神のお膳立てによっては不可能だ。自分が親からもらったものによっても不可能だ。

方法はただひとつ、あなたは意図的に、外側の世界での努力と内側の世界での努力を出合わせなければならない。そのときはじめて、あなたは人にとっての第三の世界、魂の世界の素材を作ることができる」十一月十七日、私たちは、グルジェフの指導のもとで、第三シリーズのエクササイズへの取り組みを始めた。

この新しいエクササイズは複雑で、これまでになく、内的な注意力を持続させる必要があった。私たちがそのときに体験したような「存在における努力」のことを、グルジェフが若年時代の探求の旅で訪れた古い僧院の先達たちは、「自らを打つこと」と呼んだという。「自らを打つ」という言葉は、横暴きわまりない自我の主人となることに向けての毅然とした努力という意味では、私たちの体験した努力を適切に描写していた。

しかし、私たちの試みには、「自らを打つ」という言葉から連想されるようなマゾイスティックな要素は、ひとかけらもなかった。その逆に、私たちが体験したのは、かつて味わったことのない深さの内的な満足感だった。エクササイズの毎回のセッションで、私たちは自らの存在の中心に、グルジェフが「稼ぎ取った真珠」と名付けたものを見出した。グルジェフは私たちに、毎回のエクササイズの前に必ず口にしなければならない誓いの言葉を教えた。

このエクササイズから何かを得たら、私はそれを自己満足のためにではなく、全人類のために使うという誓いである。この「すべてに対する善意」の誓いは、その意図の深さにおいて私を深く揺さぶり、私に甚大な影響を及ぼした。私は生まれてはじめて、自分が自分に任された小さな部分の成長のために努力することで、人類に対して真の意味で役に立つ何かをしているという実感を持った。

かつて私は、ワークというものを、完全にエゴイスティックで、自己中心的な観点から理解していた。ところが突然、ワークという言葉の意味は大きく広がり、まるで生命の樹のように、無数の枝を伸ばして花を咲かせ、全人類を包含するものとなった。それは途方もないことを意味していた。より深く存在することに向けてのたったひとりでの努力を通じて、人は全人類がほんの少しだけ神に近づくことを助けられる。

エクササイズの前にこの誓いの言葉を口にするたび、私は、私が私の真の内面世界のために何かを作るということは、全人類のために何かを作るといういうことなのだと思った。これが「キリストの神秘の体」についての私の最初の体験である。「キリストの神秘の体」の教えについて、当時の私は何も知らなかったが、その後の長い年月を経て、それはいまだに底知れない神秘をたたえてはいるが、私が身をもって理解できる教えとなった。

(Kathryn Hulme, Undiscovered Country: A Spiritual Adventure, pp. 88-116 の一部抜粋)

私は存る。私は存りたい。私は存れる。
悪にではなく、善に仕え、仲間を助けられるのは、
私が存るときだけなのだから。
私は在る。
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by sigma8jp | 2008-12-31 01:24 | グルジェフの覚醒プログラム | Comments(0)

フォーカス35~49とミラノンの意識の階梯

  モンローはミラノンという高次の生命存在からさまざまなことを教わったが、その一つに「意識の階梯」がある。意識状態にはさまざまなレベルがあり、それぞれに異なる振動数が対応する。
低い振動数に対応する意識レベルから高い振動数に対応する意識レベルがある。生命の発展段階に応じて次のようになる。

■レベル1~7   植物の意識

■レベル8~14  動物の意識

■レベル15~21 人間の意識

このようにレベルは7個で一つのグループを形作り、それぞれのグループに学習すべきテーマがある。1、8、15のように7離れたレベル間には似た性質があると言われる。これは1オクターブ離れた音階同士に似た響きがあるのと類似している。
人間意識のさらに上がある。

■レベル22~28

■レベル29~35

■レベル36~42

■レベル43~49
レベルは49で終わらない。さらに上がある。
モンローのフォーカス・レベルはミラノンの「意識の階梯」とは異なるものであるが、フォーカス18以降はミラノンのレベルに従っていると思われる。

■フォーカス22~28
いわゆる死後の世界 (27まで来て次生へ輪廻転生する)

■フォーカス29~35
モンローがI・There(向こうの自分)と呼ぶところのすべての過去世、現世の自分の集合体意識を体験できるレベル。
内的世界は外的世界とつながっていて、フォーカス35では太陽系内を探索可能。

■フォーカス36~42
I・Thereクラスター(自分のI・ThereとつながったすべてのI・Thereの集合体)の意識を体験できるレベル。
フォーカス42まで来ると太陽系を脱出し、銀河系内の星々を探索できる。

■フォーカス43~49
I・Thereスーパークラスター(I・Thereクラスターの集合体)のうち、自分のI・Thereクラスターの近傍の意識が体験できるレベル。
銀河系のコア、銀河系外宇宙を探索できる。
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by sigma8jp | 2008-12-29 01:24 | 「体外離脱」と「臨死体験」 | Comments(0)

体外離脱と死後の世界

  ここではロバート・モンローやモンロー研の人たち(ブルース・モーエン等)により明らかにされてきた死後の世界について記述する。ロバート・モンローについての解説のセクションで書いたが、モンローによれば意識というものは本来、光・電磁波のように連続スペクトルである。

覚醒時には、意識はその連続体のうち物質界にマッチした部分に主にフォーカスされている。意識が覚醒状態からずれていくにつれ、連続スペクトル上をドリフトし出す。そして次第に物質界から離れ非物質界に入っていく。それにつれ超常的な知覚が可能となる。モンローはそういった変性意識状態を表すのにフォーカス・レベルという概念を導入した。レベルが大きくなるほど、意識は物質界から離れていく。


◆フォーカス10
  意識ははっきりと目覚めているが、体は眠っている状態。自分の寝息が聞こえる。実際のところ意識のフェーズは覚醒時から比べればずれている。五官からの信号は弱まっている。


◆フォーカス12
 意識の拡張した状態。肉体からの信号はさらに弱まる。頭がぬっと上に突き出てパノラマ的な視界が得られたという体験報告もある。様々な映像が見える。これはモンローによれば夢の素材になる材料ということだ。自身のガイド(守護霊、ハイヤーセルフ、光の存在などいろいろな呼ばれ方をする)との交信が可能になる。


◆フォーカス15
  無時間の状態。時間の概念が存在しない。物質界からの信号はさらに減少する。真っ暗な奥行きのある空間を見る人も多い。仏教で言うところの「空」の世界に近いという指摘もある。自分の過去世情報にアクセス可能。


◆フォーカス21
 時空の縁。他のエネルギー・システムへの架け橋。深いデルタ睡眠の状態に相当する。ただし、精神は完全に覚醒している。ここは物質世界と非物質世界・死後の世界との境界であり、日本人的に言えば三途の川のある場所である。


◆フォーカス22
  薬物常習者、精神撹乱状態や昏睡状態にある人の意識状態。

23以降27までの意識状態は死者の取る意識状態で死後の世界に相当する。モンローはフォーカス・レベルという言葉を使い始める以前(「魂の体外旅行」を書いたころ)は環体世界という言葉を使っている。死後の世界はいくつもの環体世界から成り、最も内側の環体から外側の環体まで何層にも分かれているとしている。


◆フォーカス23
 「魂の体外旅行」では最も内側の環体と呼ばれた世界。この意識状態にいる魂は何らかの形で未だに地球の物質世界とのつながりが切れないでいる。自分が死んだことがわかっていない場合が多い。生きている人と会話をしようと試み続けたり、あるいは自分の住んでいた家に居続けたりする。俗に言う幽霊はここの住人。

また、自分の思いが生み出した世界に閉じ込められている人もいる。戦場を友軍を探して戦車で果てしなく走り続ける人の例がモーエンの本に出てくる。自分が爆死したことに気づかず、同乗していたはずの戦友たちがいなくなっていることもさして気にせず、炎天下の砂漠を果てしなく戦車で走り続けている。彼にとって時間の感覚はない。

100年以上前に船が爆発して溺れ死んだパトリックというスコットランド人の話がロザリンド・A・マックナイトの本(関連文献参照)に紹介されている。マックナイトはモンローの初期における共同研究者・被験者である。この本にはコントロール・ルームにいるモンローと被験者であるマックナイトの間の会話の実録が載せられている。

ここでマックナイトはチャンネラー(媒体)としての役を取り、パトリックの声を伝えている。パトリックは自分が死んだことを知らず、凍りつくような北の海の波間を木片にしがみついて浮遊していた。助けが来るのをずっと待ち続けて。

彼にとって船が爆発したのは昨日のことのようにも、遥か昔のことのようにも思えた。長い会話の後、モンローらはパトリックを救出しフォーカス27へ連れて行くことに成功する。このエピソードはパトリック事件という名でモンロー研関係者内では有名である。ゲートウェイ・プログラムに参加すると水曜日の晩に実録テープを皆で聴く機会がある。

その他、自分の思いが作り出す世界に閉じ込められている人の例はモンローやモーエンの本に数限りなく登場する。数例挙げると、自分が死んだことに気づかず、病院のベッドの上で死が来るのをいつまでも待ち続けている人、キリスト教の教えの最後の審判のラッパが鳴るのを待ち続ける人、戦争での槍の傷にいつまでも苦しんでいる人など。


◆フォーカス24~26
  信念体系領域と呼ばれる。この世界はいくつもの世界に細分化されている。それぞれはある特定の共通の信念や価値観を持つ人々が住んでいる。あらゆる時代、地域の人たちがここにいる。たとえば、キリスト教の一つの宗派を信じる人たち(の想い)が造った世界。彼らはそこが天国だと信じて疑わない(疑った人は抜け落ちてしまう)。

キリスト教の様々な宗派に応じた「疑似天国」がいくつもある。死後の世界に一般的に言えることは、自分の想いが具象化・物質化するということだ。一人の想いは弱く、造られたものはすぐに雲散霧消するが、大勢の人が共通の強固な信念を持つと、それにより造り出されるもの・世界は強固で、そこに住んでいる人たちにとっては現実世界である。

人をだましたり、人の持っている最も大切な物を盗むことで相手を傷つけることに生きがいを見出す人たちが集まり住んで、互いに永遠に傷つけあっている世界もある。互いに強姦しあう世界、アルコール中毒者が集まっているアル中地獄など。ここにはありとあらゆる信念に基づいた世界があるという。地獄的世界とも言える。同じ信念が生み出す世界でも26から24へ行くほど程度が激しくなる。


◆フォーカス27
 霊的に極めて進化した人達の想念により創り出された世界。人はここに来てはじめて次の生へ転生することができる。機能によりいくつかのセンターに分けられる。


〔 レセプション・センター 〕
  死者を暖かく受け入れる場所。死のショックを軽減するようこの世の環境が再現されている。モンローがまるで地上の「公園」のようだと言った場所はここの一部である。多種多様な人々に対応した様々な環境が用意されている。ヘルパーと呼ばれる人たちが、死んでここまでやって来た人の親や祖母、友人、牧師、僧侶などに変装して死者を暖かく迎え入れ、死者が死のショックから早く立ち直れるようにする。


〔 癒し・再生センター 〕
 リハビリ・センターとも呼ばれる。怪我や病気が原因で死亡した人たちは、ヘルパーの手助けでフォーカス27までやって来ても、未だに地上の病院にいると錯覚している場合がある。怪我や病気は死と共に無くなっているのだが、心の想いが未だにそれらを造り出している。それらを徐々に除いていく必要があり、それを提供するのがここである。また、心的なダメージ(エネルギー体へのダメージ)なども癒される。

 
〔 教育/トレーニング・センター 〕
  すべての人間の過去世データが蓄えられている場所があり、データを取り出し追体験できる。また必要に応じて新しいアイデアが生み出される(発明がなされる)場所もある。そのアイデアには誰でもアクセス可能。似たような発明が世界中でほぼ同じころになされるのはこのためである。宇宙の他の生命系に行ってそこを観察することもできる。


〔 計画センター 〕
 次の人生についてカウンセラーと協議し概要を計画する場所。
カウンセラーと一緒に過去世データを見て、今までどのように進歩してきたか、どこが更に改善が必要か見極める。次の人生にはどのような選択肢があるか教わり(あまり選択肢のない人も多い)、生まれる環境を選択する。重要な出会いとかはあらかじめ設定されるが、人生の詳細は決まっていない。

またこのセンターではすべての人間の願いや意思を実現すべく、これから起こるすべての事象のタイミングを常にアレンジしている。これを担当する知的存在たちはその意識の中に担当領域内のすべての人間の思いや行動を把握すると同時にすべての事象をも把握する能力を持つ。


〔 次の生を受けるまで待つ場所 〕
  人間に生まれるまで順番を待つ人の列は長い。順番を管理する知的存在はED(エントリー・ディレクター)と呼ばれる。人は全員生まれる前に一切の記憶を消去する場所を通過しなければならない。そこを通過する際に拡大していた意識は物質界のみに集中するように圧縮される。
中には広がったままで人間に生まれる場合がある。

そういう人は過去世の記憶を持っていたり、他の人の考えがわかったり、いわゆる霊感が働いたりする。その場所を通過後、各自の生まれる時、場所へ向けて飛び去っていく。親子や夫婦として生まれる人たち、何らかのつながりのある人たちは意識の細い糸で互いにつながっている。


〔 フォーカス27を維持運営する複数の知的存在 〕
 各センターには大勢の知的存在が働いている。彼らはヘルパーと呼ばれる。ブルース・モーエンは彼らをConsciousness Workers(CW、意識労働者)と呼ぶ。あまりふさわしい名前とは思えない。彼らの中にはフォーカス23、24~26に囚われている人達を27まで連れてくるという任務を負っている存在たちもいる。

ヘルパーたちはフォーカス27で働くことで、よりいっそうの霊的成長を遂げ、「卒業生(グラッジュエート)」になることを目的としている。卒業生は「光の存在(Being of Light)」とも呼ばれる。


〔 人は死後、どの世界に行くのが一般的か 〕
  統計的な数値は明らかになっていないが、相当数の人達がフォーカス23~26に囚われているということだ。「究極の旅」では十人中、九人は信念体系に囚われているという表現がある。またかなり昔の人達もそこに含まれている。ネアンデルタール人のグループの造る信念体系領域の話が「究極の旅」に出てくる。

フォーカス27まで来る人はたいていヘルパーや後述するガイドたちの手助けを得ている。ある人が死ぬと、ヘルパーたちはその人より前に死んだ肉親や友人の姿になってその人の前に現れる。あるいは光の存在として現れる(これをキリスト教徒はキリストと見る場合が多い)。

ただ心を閉ざしている人や自分の想いや恐怖の中にどっぷり漬かっている人の場合にはこの姿がまったく見えない。そのためその人の思いに応じてフォーカス23や24~26へ行ってしまうのだ。我々生きている人間に幽霊が見えないのと同じで、死んだ直後の人間にはフォーカス27のヘルパー達の姿は見えにくいのである。


〔 救出活動(レトリーバル) 〕
 フォーカス23に囚われている人たちを27まで連れて行くのをレトリーバル(救出活動)と言う。生きている我々が体脱などでフォーカス23へ行った場合、そこの住人は我々の姿を見ることができる。その理由は我々は未だに物質界とのつながりがあるのと、23の住人は物質界のことしか把握できないからである。彼らはヘルパーの姿は見ることができないが、我々のことは見ることができる。

これを利用すれば効率よく救出活動が行える。つまり、我々生きている人間とヘルパーやガイドが組みになるのだ。ヘルパーらは23に囚われた人たちの居場所がわかるので、我々をそこまで連れて行く。そして我々がその人たちに声をかけ、27まで一緒に連れて行く。

27まで行けば、そこにはヘルパー達がその人の親族などに変装して待っているので、後はうまくいくのだ。27のレセプション・センターには様々な環境が用意されていて、到着した人たちが恐れたり違和感を抱いたりしないようになっている。

フォーカス23に囚われた人を救出しフォーカス27の安全な場所へ連れて行く活動。モンロー研でのライフライン・プログラムはまさにこのための体験プログラムである。救出するのは過去世の自分だったり、自分と何らかのつながりのある人の場合が多いという。

フォーカス23に囚われている人の意識は、この世への未練や執着、怨念のため、あるいは自分が死んだことを認識していないために、未だに物質界に強く結びついている。そのためヘルパーやガイドなど高次の存在がコンタクトしても、その存在や声を認知することができない。それに反し、我々のように未だ肉体を有する人がコンタクトすると容易に認知する。

救出活動とは、我々生きている人間がガイドやヘルパーの手助けのもとフォーカス23へ行き、そこに囚われている人にコンタクトし、フォーカス27まで連れて行く活動を言う。ただ助け出される人の信念や好奇心に応じて、フォーカス27へ行く途中でフォーカス25などの信念体系に吸い寄せられてしまうことが往々にしてある。

ブルース・モーエンの著作(このHPの関連文献参照)には、ブルースが救出活動を通じて徐々に死後の世界について、直接体験を通して知見を得ていく様が描かれている。ブルースによれば、最初はまったくフォーカス23の人が見えなかったのが、次第に見えるようになったという。またコミュニケーションがうまくできるようになったという。


〔 トータル・セルフ 〕
 トータル・セルフとはグレーター・セルフとも呼ばれ、より大きな自己のことで、過去世のすべての自己の集合体である。すべての人にはそれぞれ、ガイドと呼ばれる霊的存在が複数いる。ガイドは一般には守護霊とか守護神、ガーディアンと呼ばれることもある。またハイヤーセルフと呼ばれることもある。

何百、何千といる過去世の自分の中で人間として輪廻することを終了した者達である(中には別の生命系での人生を終了したものもいる)。大勢いる自分の中で霊的に進歩前進した者達とでも言ったらいいだろうか。

この定義は何だか矛盾しているように思われるかもしれない。ある時点で輪廻を終了したのならその時点から後の人生というのは存在しないはずじゃないのかと。モンローの「究極の旅」180ページによれば、毎回ガイド達が、過去世の要素や人格、記憶を混ぜ合わせて、新しい人格を創り出して人間として送り出しているとのことである。

トータル・セルフとは過去世の自己の集合体であり、ガイド達がそのコアにいる。今の自分とは意識の糸でつながっているが、それを顕在意識的に明らかに知っている人は少ない。自分の意識の階梯を上がっていくと、上の方でこのコアに、つまりガイド達につながることができる。そのため、ハイヤー・セルフという把握のされ方をすることもある。

モンローはトータル・セルフという言葉は使わず、「向こうの自分」(I/There、IT)と呼んだ。あるいはその中の代表格(つまりガイドたち)のグループをエクスコム(EXCOM、エグゼクティブ・コミッティー)と呼んだ。ブルース・モーエンはガイドたちをディスク・メンバーと呼ぶ。その理由はディスク(円盤)の上に彼らが並んでいたからだ。

ガイドはそれぞれが別々の人格、経験を持つが、集合体全体(トータル・セルフ)としてみれば、可能な限りのありとあらゆる経験、知識、感情が蓄えられている。ガイドたちは我々が生まれたときから、我々のことを見守ってくれている。ただこちらが意識を閉ざしているので通常はコミュニケートできない。

彼らはときどき存在を示そうとするのだが、我々はほとんどの場合に気が付かないか、気が付いても「まさか」と無視してしまう。危ないところで大事故を免れたとかいう場合は、ガイドが何らかの手助けをしていることがある。ただ、人間は皆いずれ死ぬのであるから、手助けがないことの方が多いと考えた方がいい。

ガイドは全知全能ではなく、彼らにも知らないこと、できないことがある。これはフォーカス27で働くヘルパー達全般に言えることで、モーエンの本を読んでいると、ときどきそういう場面に出くわす。これこれについてはどこそこのセンターの連中の方が詳しいからそっちに聞いてくれとか言われたりする。

モンローの場合でも、初めインスペックという「光の存在」が現れていろいろ教えてくれるが(後でガイドであることがわかる)、あるところで消えてしまう。モンローがインスペックと同じレベルまで達したからだ。
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by sigma8jp | 2008-12-29 01:19 | 「体外離脱」と「臨死体験」 | Comments(0)

体外離脱とフォーカスの世界

  ロバート・モンローについて今更ここで説明する必要はないだろう。知らない人はTMIのオフィッシャル・サイト(リンクページ参照)を訪問されることをお薦めする。このサイトは日本語で読むこともできる。OBEのGuru的存在である。

彼のこの分野における一番の貢献は、モンロー研を設立したことと、ヘミ・シンク(Hemi Sync)と呼ばれる音響技法を開発し、誰でも自宅でテープまたはCDを用いて変性意識状態を体験できるようにしたことである。もっともモンロー研で聞くのと自宅で聞くのとではその効果に大きな差があるのも事実ではある。

モンローは40年間にわたる数千回に及ぶ体脱体験から人間の意識状態について次の知見を得るに至った。まず体外離脱という言葉は不適切で、意識の状態をずらしていくと空間的移動を伴わなくても種々の異なる世界(次元)へ行くことができる。さらにこういった世界は三次元物質世界に非常に近い世界からそうでない世界まで何十も存在している。

人間の意識の状態をどこにフォーカスするかに応じて異なる世界に行ける。ちょうどラジオの周波数を変えていくと、周波数に応じた局が選局されるように。これは、言い換えれば白色光がプリズムで分光すると波長(振動数)に応じて七色のスペクトルを呈するように、意識もスペクトル状であるということだ。

意識は低い振動数に相当する状態(物質界の肉体内に局在している状態)から振動数の高い状態まで取りうる。これらのいくつもの意識状態を表すのにモンローはフォーカス・レベルという言葉を便宜的に使った。たとえばフォーカス10とか、フォーカス21など。日常起きているときの意識状態に近いほど番号が小さい。代表的なものは以下である。

ここで23以降は死後の世界(死者が取る意識状態)である。なお、以下の記述はモンローの3部作だけでなく、TMIで受けた説明とブルース・モーエン(Bruce Moen)の著作も参考にしている。

Bruce MoenはTMIでの自らの体験を4冊の本に著している[Exploring the Afterlife Series (Hampton Roads Publishing Company]。

邦訳が出ていないのが残念だが、各フォーカス・レベルでの体験が詳述されている。特に死後の世界や高いフォーカス・レベルについては「向こうの世界」にいるモンローに導かれて探索し、生前のモンローも記述し得なかった多くの発見をしている。体脱探索者の必読書である。

◆フォーカス10
体は眠っているが意識は明らかな状態

◆フォーカス12
意識が拡大した状態。自分のガイド、守護霊、ハイヤーセルフなどと呼ばれる知的存在とのコミュニケーションが可能になる。これができるかどうかでその人の霊的成長に大きな差が生まれる。

◆フォーカス15
無時間の状態(過去世の情報にアクセスできる)。人によっては奥行きのある三次元的暗闇を見る。

◆フォーカス21
他のエネルギー・システムへの架け橋

◆フォーカス22
夢、精神撹乱状態

◆フォーカス23
各人が自分の想念の創り出した世界の中に囚われている状態。
死ぬときの恐怖心のままの状態に囚われた者、死んだことがわからず体の傷の激痛に何百年も苦しんでいる者、瓦礫の下敷きになったまま助けが来るの待っている者、戦場を友軍を求めてあてどなくさまよい続ける者、最後の審判のラッパの音が鳴るのをただひたすら待ち続けている者など。俗に言う幽霊もこの層にいる。自分の住んでいた家にいつまでも住み続け新しい住人を驚かす幽霊など。

◆フォーカス25(信念体系)
似たようなことを信じている人が集まってその想念が生み出した世界。たとえば、キリスト教の天国の存在を信じている人たちの思いが造り出した世界。他人をだますのを喜びとしている者が集まって互いにだましあい続けている世界。

◆フォーカス27
モンローが公園(Park)と呼んだ場所。暖かく迎え入れる人達が待っている世界。次の輪廻転生先に行く準備をする。霊的に進化した人達によって造られ維持運営されている。以下のセンターがある。

Reception Center(受け入れセンター:死者の受け入れ場)、
Rehabilitation Center(再生センター:死のショックを癒す場)、
Education Center(教育センター:過去世データの貯蔵場、新しいアイデアが生み出される場)、
Planning Center(計画立案センター:次の生について計画する場)

それぞれ知的存在(Intelligences)によって運営されている。
人は死後、フォーカス23~26の世界へ行く場合が多い。
27のヘルパーと呼ばれる存在達はフォーカス23~26の住人を何とか27まで連れてこようと努めているが、23~26の住人は自分の思いの中にどっぷり漬かっていて、ヘルパーの声が聞こえない。

モンロー研でのライフライン・プログラムでは23に囚われている人たちをガイドやヘルパー達の手助けを借りてフォーカス27まで救出する活動を行う。我々のようにまだ肉体を保有する人は23に囚われている人とコミュニケートしやすい。23の住人にヘルパーの姿は見えなくても我々の姿は見える。だから我々がまずコンタクトし、その後27まで連れて行くのだ。

◆フォーカス34・35(ギャザリング)
モンローはこれを「魂の体外旅行」の第16章で大集合と記述している。
このレベルに多くの異エネルギー生命体が集まり、これから地球生命系で起こる大きな変化(Earth Change)を目撃しようとしている。

地球生命系が人間を含め次の段階へ進化するらしい。こういった変化は数百万年に一度しか起こらないということで、宇宙中の生命体の興味を集めている。人類が次の進化を遂げた後は地球生命系から卒業する。モンローの著作に若干の記述があるが、詳細は今TMIで探索中。
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by sigma8jp | 2008-12-29 01:04 | 「体外離脱」と「臨死体験」 | Comments(0)

『シャーマンズボディ』 アーノルド・ミンデル

 プロセス指向心理学を打ち立てたミンデルの本はどれも素晴らしい。『うしろ向 きに馬に乗る』は、分かりやすい実践的な視点からの論述で、『24時間の明晰夢』 は、その理論展開の包括性で、『昏睡状態の人と対話する』は、コーマワークを中 心とした探求の深さで、それぞれが魅力を放っている。

そして、『シャーマンズボデ ィ』 もまた、他にない独自な魅力を発散する濃密な本だ。訳者あとがきに 「プロセ ス指向心理学の基本的な考え方をカルロス・カスタネダの著作やミンデル自身のシャ ーマニズム体験から語り直すスタイルをとっている」とあるが、むしろシャーマニ ズムに引っ張られるような形で、「心理学」という枠をはるかに超え出るような深さ の次元を、他にない大胆さで率直に語っている。

ミンデルを読んでいつも思うのは、タオ、ブラブマン、「大きな自己」、つまり ドリーミングが、私たちの夢や身体や病気や日常生活に働きかけてくる、その接点 がつねに語られているということだ。日常のあらゆるところにドリーミングからの 働きかけが潜在している。

いかにしてその働きかけを感じ取り、いかにしてその大 いなる流れに従っていくかがつねにテーマとされる。ミンデルを読むたびに魅了さ れるのは、まさにこの点だ。『シャーマンズボディ』は、その魅力がシャーマニズ ムを触媒に、さらに際立つ。

シャーマンは、自分自身や周囲の世界に起こる思いがけない出来事やプロセスに 注意を払う。それは「第二の注意力」と呼ばれる。それに対し「第一の注意力」は、 日常的な現実にたいする注意力である。日々の仕事をこなし、定めた目標を達成し、 自分のアイデンティティを保つのに必要な自覚である。第二の注意力は、無意識的 (で夢のような)動作、偶然の出来事、うっかりした言い間違いといった、自発的 なプロセスへ向けられる。

「第一の注意力」「第二の注意力」という区別はドン・ファンによるものだが、こ れはミンデルのいう「一次プロセス」と「二次プロセス」の区別に対応する。つま り、第一の注意力ばかりを使い、一次プロセスである通常のアイデンティティやそ れに対応する日常的現実ばかりに焦点を当てていると、二次プロセス、すなわち偶 然の出来事やうっかりした言い間違いといった夢のような出来事への焦点付けは衰 える。第二の注意力が弱まるのだ。

戦士としてのシャーマンは、第二の注意力によって思いがけないプロセスへの自 覚を育み、それに従う。ドリーミングボディをより深く生きることによって、全体 性や創造性を取り戻す。その自然な展開に従い、根源的な何かものかとの結びつき を感じ取る。そうした経験に開かれていき、時空間や世界から独立した自己の全体 性を体験する。

シャーマニズムもプロセスワークも、自我を強化することに重点を置くのではな く、身体や身体を含むプロセス、その変化に対する自覚を育むことを重視する。た とえば、「あなたが自分のエネルギーを支配しようとしたり、操作しようとすると、 結局のところ、病いや死に直面することになる。

一方、あなたが自分の身体感覚に 従うならば、今ここにいることを十分に感じ、真に人生を生きて創造している感覚 が得られる。たとえば、痛みやめまいといった感覚を大切にするということが、ド リーミングボディを生きるということなのである。」 ドリームボディ・ワークをシャ ーマニズムの観点から見れば、身体に従うことは失われた魂のかけらを探すことに 相当するという。

ほとんど全ページに散りばめられた、印象的な言葉、胸を打つ言葉、心に留めた い言葉の数々、その一頁一頁の密度の濃さ。そして、シャーマニズムに導かれつつ 信じられないような精神世界の不思議を語る大胆さも、ミンデルの他の本にはない 魅力だ。

「運命によって急性あるいは慢性の疾患、学問あるいはビジネスの失敗、性的な悩 み、狂気、自殺願望、あるいは不倫などの問題を抱えたとしても、そうした苦悩を 反転させる『ドリーミングボディを生きる』という新しいパターンが背景に潜んで いる。

私たちは直面する難問によって日常生活を中断せざるを得ないが、そのとき こそ、潜在的な可能性、戦士の精神、そして死に目覚めることができる。それまで 身につけていたパーソナリティに別れを告げ、心のある道を見いだすことができる のである。」
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by sigma8jp | 2008-12-27 01:58 | 「夢見」の心理学・象徴解読 | Comments(0)

ドリーム・ボディの活用 (プロセス指向心理学)

  プロセス指向心理学(POP)への、平易ですぐれた入門書である。私はプロセス指向心理学の創始者であるミンデルの着眼と、心理療法として方法、そしてその世界観に強く引かれ、共感する。この本でもその魅力が十二分に伝わる。

しかもこの本は、痛みや症状から始まり、人間関係、死のプロセスを生きるコーマ・ワーク、 社会的・政治的問題を扱うワールド・ワークまで、プロセス指向心理学の幅広い領域を偏らずに紹介し、ミンデルの方法と世界観が、ミンデルや著者が扱った事例を織り交ぜながら、たいへん分かりやすく語られている。

プロセス指向心理学の基本的な考え方を確認しよう。ミンデルは、身体と夢とを同 じ本流から流れ出た支流と考えて、その「つながり」、「関係性」を注意深く見て いく。体の症状も夢と同じように無意識の創造的な発現である。夢に意味があるように身体に起こっていることにも恐らく意味がある。それは単に悪いものではない。

夢=身体(ドリームボディ)における夢と身体との関係には、原因も結果も ない。夢と身体には鏡を介在したような相互に反映しあう関係があるだけだという。 夢と身体症状は、お互いに分身であり、夢のイメージも、身体の症状も根元は同じと考 え、その共通の根元を夢と身体の一体になった「ドリームボディ」と名づけた。

そしてドリームボディは、心と身体の中間にある「第三の存在」といえる。これを サトル・ボディ(霊妙体、微細身)と呼んでもよい。つまり、物、肉としての身体 とは異なる「もう一つの身体」ともいえる。そしてこの高次の実在の次元において、 心身は究極的に一如である。それは心と身体の中間に位置すると同時に高次元(あ るいは深い次元)において両者を超えて、統合する存在である。この「第三の存在」 をユング派では「魂」と呼ぶ。

このように、心と身体、夢や身体症状が、心身やドリームボディさらには魂のファ クターであるなら、症状や夢は単に否定的なもの、病理的なもの、わけのわからないものではなく、そういった「高次元の存在」に至る、糸口あるいはチャンネル (通路)と捉えなおすことができるとPOPは考える。

本書には、かんたんに取り組むことのできるセルフ・ワークが、1から13まで挿入されている。これを試みるだけでも、POPの考え方がかなり実感できるかもしれない。ひとつ例を挙げよう。 たとえばこんなワークがある。現在患っている身体症状などに気持ちを向ける。現在とくになければ過去に患い治ったものでもよい。その部位をていねいにじっくり と感じる。

身体の感覚を保持したまま何かのイメージが浮かんでくるまで待つ。意識状態がふんだんより深まると、イメージが現れやすくなる。身体症状から浮上したイメージ、思い出された夢が、ドリームボディあるいは、その現れであるという。現れてきたドリームボディを、自分とは異なる命、意志、自律性をもった他者存在 と仮定して、それが身体症状や病、身体感覚、夢、イメージという形を通して表現 している意味や目的を、想像してみるのだ。

症状は夢と同様、私たちの生き方に訴えかけるメッセージとして出現するのだ。病 気や身体症状などのマイナスと把握されやすいものに隠されたメッセージ・知恵を 見て、それを自覚的に生きることによって全体性が回復されるというというのが、 POPの捉え方である。

ワークの実際においては、見落とされがちな「起こりつつ あること」がそのプロセスを全うできるようサポートする。そのプロセスに十分に自覚して関われば、症状や対人関係、身体感覚や動作などとの関係が深まり、統合され、症状が役割を終えて消失することも起こるという。

夢、すなわちドリームボディは、夜眠っているときだけではなく、病や身体症状、 さらに他者(との関係)のなかにも何らかの形で、常に介在している。現実の中に はいつも夢が流れていて、それは自らの表現する媒体を探しているのかもしれない。 私たちは、現実に生きながら、同時に夢の世界に足を踏み入れているのだという。

これはまるで文学的な表現のようでありながら、POPの背景となる真実を語ろう としている。こうした考え方にミンデルの奥深さとなんともいえない魅力がある。 「深さの次元」が、たえず私たちの周囲の現実にその表現を求めて立ち現れている、 という捉え方は、私たちの心を揺さぶる不思議な魅力をもっている。そして、気づこうとする意志と注意力さえ持っていれば、それは確かな真実として実感されるのだ。
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by sigma8jp | 2008-12-27 01:54 | 「夢見」の心理学・象徴解読 | Comments(0)

シャーマンの方法論

  シャーマニズムは世界の至る所に存在し、名称は異なるが地方の共同体の重要な構成要素として存在していた。シャーマンは、魔法医、治癒師、呪師、巫女、賢者、魔女などと呼ばれるが、その本質は同じである。かれらは特殊な意識状態で、不思議な技を用いる。

第2項でアルテル・エゴに近似した意識状態として、SSC(シャーマン状意識)をあげた。これは、人類学者であり自分自身もシャーマンであるマイケル・ハーナー博士の造語であるが、シャーマンの特殊な変成意識を上手く表現している。

そもそもシャーマンとは、ヴェーダ語の「スラム」(暖める、禁欲生活を行う。)、ロシア語の「サマン」(呪術)などが語源であると言われている。ヴェーダ語の意味は興味深い。インドのヨガ行者は、行を積むことを体内にタパス(熱)を生むと言う。

そして、実際にかれらは瞑想によって体温を上昇させるのである。これがどういう生理学的システムで引き起こされるのか判明していない。熱を発生するメカニズムは、筋肉の運動、2、3の体内物質による細胞代謝の促進しか知られていないからである。

シヤーマンは恍惚状態にあって、呪的飛翔を行い予言や治療をなすものである。エクスタシーエクスタシアとは、トランス状態でもある。その意識状態とは、前述したように覚醒夢に似た境界の意識状態アルテル・エゴである。シャーマンは治療や呪術を行うので、患者や依頼人に指図し、施術する通常の意識野と、夢意識が明確に共存している。

アフリカの大地を少人数の部族で移動する狩猟民族サン(ブッシュマン)は、恍惚の踊りにより治癒の力を得る。男たちが焚き火を囲んで座る女たちの周りを一晩中踊り続ける。やがて、男たちは一人、一人と恍惚状態に入る。

男たちは、神霊のエネルギーがお腹のなかで高まり、背骨を溢れるように駆け上り、頭の中に充満するのを感じる。この恍惚状態に入ると踊りをやめて地面に倒れ込み意識を失う。およそ部族の半数の男たちがシャーマンであり、「半分死んだ」意識状態で、地下を通って天界に赴く。

かれらは理性的な世界とサイケデリックな世界の双方に存在する「境界の遊歩者」である。そもそも文明人の見る「機械的な宇宙」が本物で、よりプリミティブで感受性の強い原始的社会の見る「柔らかな宇宙」が幻想であると誰が決めたのか。シャーマンは、自己と他人、数と区分の存在しない世界を自由に往来できる。こればかりは、体験しなければ分からないだろう。

さて、文化的背景によって、シャーマンの用いる道具の名称は多々変化するが、かれらの技法は基本的に同じである。それらは意識を変成させる補助手段と、変成した意識状態で用いる武器の二つで構成される。

○ 意識を変成させるもの
◆ 幻覚物質
マヤの祭司:ビール等の低アルコール飲料の痛飲(腸内吸収のため潅腸器が用いられた。)
中米インデイオ:キノコなどの幻覚植物(ペヨーテのサボテン、ダツーラなど)南米インデイオ:タバコ、タバコ水(麻薬を用いることもある。)
西欧の魔女:ベラドンナ、マンドラゴラ(極めて致死性が高い。)

◆ 楽器
ガラガラ、ドラム、特殊な管楽器など低い音を出す単純な楽器が用いられる。リズムは必要ではない。低音領域の音は脳内部に大エネルギーの信号を発生させ、過剰刺激により、意識を遮断する。意識水準低下のための強力な武器である。

◆ 力の歌
個々のシャーマン、またはその一族によって違うが、一般に単調な反復の多い歌が用いられる。マントラと同様に自己興奮型の刺激を発生させる。カソリック教会の歌ミサに現れる恍惚境を想像せよ。宗教において歌と意味不明の詠唱は、常に最強の武器である。

◆ 儀式舞踏
スーフィー・ダンスが有名である。シベリアのシャーマンは、楽器に合わせ回転して踊りながら、トランス状態に入る。アフリカでは、踊りながら野獣に変身するシャーマンがいる。

◆ スウェット・ロッジ
北米インデイアンの用いる蒸気サウナ。治療のため、老いも若きもこの狭く暑い空間に囲いこまれる。体温の上昇は免疫作用を増大させるとともに、意識水準を低下させ、意識変成の引き金となる。大汗を流しながら陶然とした患者は癒されていく。

◆ 焚火、松明、蝋燭
これらは電気照明のない時代に連続光による脳内の「光ドライブ」を誘因する手段として用いられた。ストロボ光の続くディスコなどで、連続した光を浴び続けると軽い陶酔状態に移行する。

◆ 力の物体
荒野で見つけた石、乾いた動物の骨など外見上は特別なものではないことが多い。これらはアルテル・エゴで見て始めて価値が生まれる。そして、しばしば、その形態が個人的な意識変成の引金となる。

○ 変成した意識で用いるもの
◆ 守護霊
アステカのナワーリ、

◆ 霊的盟友または力の動物
魔女の「使い魔」は、歪められた「盟友」の例である。
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by sigma8jp | 2008-12-26 00:47 | Comments(0)

呪術師の 「力の約束」

力の約束はいつも守られる約束である!

《 約 束 》
 力の約束は自己の時代 the age of the self にあって行き渡っている闇への回帰の信号灯である。それは人間の限界なき力 potential のかすかな光であり、スピリットの無限のデザインが到達しうる限りのところから、我々のために明るく輝いている。

力の運動は人間の機械的な把握を乗り越える。そしてそのリズムは第1の注意力の世界で、測りがたい神秘として、またはげしい矛盾として己を映している。いかにこの複雑さから意味を取りだそうと闘っても、スピリットのデザインは我々に知られることはない。

力の約束はこの測りがたい神秘の中心に座している。このようなものとして、同じ様な不調和を持つ。遍く不変の範囲と適用を持ちながらも、人はいかにして力の約束がそれ自体、地上のあれこれの人間の運命へと翻訳されるのかは、決して予言することはできない。

我々は戦士として、敬意と謙虚さを持ち、この矛盾に同意する。我々は理解を越えた神秘の手中にあることを認める。完璧な impeccable 解放の態度を現実にすることによって、我々は力の謎をもっとも良く尊重する。この離脱 detachment の力ある意味はトルテックの戦士の定式の言葉に雄弁に述べられている。

わたしは自分の運命を支配する力にすでにひき渡されている。
そして何ものにもしがみつかない。
だから何ものも守るべきものを持たない。
わたしは思考を持たないがゆえに見る。
何も恐れないがゆえに、わたし自身を想い出す。
離脱し detached、そしてくつろぎ at ease
矢のようにイーグルの脇を駆け抜ける、自由へと。

しかし戦士の同意は全面的で絶対的ではない。それもまた力の理解しがたいデザインの矛盾した本質を映し出しているからだ。知の道をゆく旅人として、私たちは完璧さをもって、また個人的責任を冷静に引き受けることによって、放棄 abandonment と解放 release が調和しなくてはならないことを知る。回帰への究極の旅は完全なバランスの中で巧みに混合された節度 sobriety と放棄 abandon の同じ重みなしには成し遂げられない。

ふらつく矛盾の極の間で微妙に漂いながら、我々は戦士-呪術師としてこの調和を達成する。力への放棄の感覚を、最も大切なエネルギー資源の節度ある管理 conservation と釣り合わせる。真の抽象的戦士として、我々は意図へ自己を再結合するために無慈悲に relentlessly 闘わなくてはならない。我々の運命の機械的な詳細 mechanical details と格闘するのではなく、どこへ力が導こうと完璧な道を旅する努力をすることによって。

力の約束は輝く光としての全ての男と女に作られた約束である。固体的物体の世界を越えた不変の現実へ全ての人間 humanity を結びつけるのは、揺れることのない不動者 constant である。我々の生活が個々の状況でいかに異なって見えようとも、我々個人個人は意識の同じ契約の意味するところにより、普遍的に祝福されているのである。それは普遍で否定し難い、必ず守られる力の約束なのである。


《 自由の鳥 》
 隠された直観的レベルで、力の約束の瞬く信号灯が我々一人一人をじらしている tantalize 。抽象への回帰の個人的な旅をイニシエートするために我々を誘いながら。不幸にして、人類はナワールのこれら永続する瞬きを無視するように条件づけられてしまった。第1の注意力の複雑さによって、多くの人が抽象の親しみ安い一つの表現に完全に焦点を合わせ続けている。その結果、人はそのすべてのすることのただなかに、さまよい続けている。

たいていの男女が知覚する唯一のことは、自分たち自らが創造した宇宙の限界である。それは固体的物体の世界、トナールの世界である。人間の多数は生涯親しまれた世界の安全な境界の中に幽閉されたままである。己の作際した知覚のバリアを越えて広がろうとはしない。

我々を力から分離しているのは、全てを消費する all-consuming 自己の感覚である。それは我々の持ち得るエネルギーを漏らし、我々の自己-投影の鏡で取り囲む。日々目前で魔術は飛翔し、踊る。しかし我々はあまりに自己に関わりすぎている self-involved。 そしてその現前を認知するための力が流れていってしまっている drained of。

知に到るためには、この自己-投影のトンネルから、未知 the unknown と不可知 the unknowable の想像不能の拡がりへと出て行かねばならない。トナールの世界へ我々を幽閉するものから自身を解放させることによって、条件づけられた期待 expectations の彼方に我々の知覚を拡げなくてはならない。

トルテックの伝統にある戦士として、我々は自己のエネルギーを集め、力の約束の光へと自らを開く。スピリットへの勝利 victoriousへ我々を戻す力の通りが存在するという不可能な展望 impossible prospect へ我々を明け渡す release。

そのような奇跡的な勝利の約束はナワリズムの信号灯であり、戦士の知の道のエッセンスである。地上のあらゆる生き物はチャンスを持つチャンスを持っている。我々個人個人が究極の創造的勝利 creative victoryを実現する隠れた能力を持つというチャンスである。この回帰への魔術の戸口は自由の鳥のメタファーとして戦士の対話を通して見られることができる。

トルテックの言によれば、この神秘的な鳥は全ての人の上を沈黙のうちに舞い上がり、力の約束の意識をその身にたずさえている。この畏るべき生き物は我々一人一人の上を滑空し、意図の構築物を通してその現前を認知する準備ができた者に普遍的希望と目的をもたらす。

ひとたび知覚されれば、自由の鳥はしばしその飛行のうちに休息し、そのときは個人として我々は選択しなければならない。我々はその鳥を過ぎ去らせるかも知れない。あるいは従う勇気を奮い起こすかも知れない。もし留まることを選択するならば、自由の鳥は舞い上がり、決してまい戻ることはない。もし従うことを選択するならば、戦士と呪術への不可解な道へ我々はとりかかることになる。

そしてそれでも、知の神秘的道に関する他の全てのことと同様、このトルテックのメタファーは混乱させる矛盾を持っている。戦士は全てのことにも関わらず、誰にとっても真実に戦士を「選択する」ことはできないということを知っている。それはちょうど、他のものから区別してある選択をするときに優越性を認めるのが馬鹿げたものであるのと同様である。

我々はみな力の手の内にある。そして我々の決定に対して誤っているとか正しいとかいう断言的な categorical 権利は存在しない。しかしながら我々は選択する可能性がある。however we may choose

見る者は、すべてが平等である、トナールの領域においてはなにも重要ではないことを理解している。我々一人一人は自らの運命 fate の複雑さによって、結びつけられている【原語:is bound 他に「方向づけられている」「決心している」など】。我々が自由の鳥とともに行こうとも、それとも留まることを選択しようとも、何ものも力の約束が永遠に不変 constant であり続ける事実を変えることはできない。


《 戦士であることを選ぶ 》
  戦士であることを選ぶ、ということは実は選択などではない。たとえ信じることの中に我々自身を欺き入れることは可能であるとしても、自由の鳥に従う決断を理解し、コントロールすることは可能である。

その選択は我々の意識的コントロールを越えた神秘のたんなる別の反映 reflection である。知の道へ我々を導くのは力である。そして我々のできる最大限のことはそのデザインに同意する acquiesce ということである。

見ることによって、戦士は決定が真実にはトナールの世界に属してはいない、ということを理解する。世界の記述は人間がするように信じることを人間に訓練する。しかし人間はその選択をそういう風にコントロールすることはできないのである。

決定 decision はナワールに属している。そこではコントロールと理性 reason の概念は意味を持たない。地上を歩く人間として、我々は選択し、それでも選択しない。これは戦士の知の道のもう一つ別の基本的な矛盾である。

トルテックの視点からすれば、知に接続する access ために「選択する」ことは単に不可能である。スピリットが前に踏み出すように決定するのを避けることもまた不可能である。力へと到達すること business はたんに操作しうるすること doingではない。

戦士はこれを理解し、了解不能のしないこと not-doingとして、知の道へ接近する。彼らの力の通りを機械的にコントロールする闘いをする代わりに、戦士はその旅のエッセンスを何もコントロールしないことによって命令する。

この意味で、選択する戦士の状態 warriorship は条件づけられたコントロールの行為というよりは、無条件の解放 unconditional release の行為である。知の抽象的順序はいかなる人間の把握も越えている。

そして戦士は敬意と究極の謙虚さをもってこの事実を受け入れることにより、自らを自由にする。力は存在する。力は運動する。これらが力の約束への途上にあって唯一確かに知っておくべきことがらである。
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by sigma8jp | 2008-12-25 03:40 | 高次な身体と霊的フィールド | Comments(0)

ヤキ・インディアンの呪術の世界

 ドン ファンの教え:ヤキの知の方法は1968年に初めて刊行された。その30周年を機に私はこの著作自体についていくらか明確にしたい。また真剣で永続的な努力を何年か続けたあとで達したこの本の主題についての一般的な結論を述べてみたいのである。

この本はアリゾナ州とメキシコのソノラ州で行った人類学のフィールドワークをもとにしている。ロサンジェルスのカリフォルニア大学人類学で卒業論文を書いているとき、私はメキシコのソノラからやってきたヤキインディアンの老シャーマンと出会うことになった。彼の名前はファンマトゥスといった。

この老シャーマンを中心的情報提供者として人類学のフィールドワークができないか、私は人類学部のいろいろな教授に相談した。誰もが言うことには、フィールドワークについて考えるよりも一般的に要求される学術的主題の山を優先するべきだし、筆記、口述試験という卒業論文の形式を優先するべきだということだった。

教授たちはまったく正しかった。私としては彼らのアドヴァイスの論理性を見て取るのに説得される必要はなかった。ところが、一人、クレメント メイガン教授はフィールドワークへの私の関心に拍車をかけてくれたのだ。この人は人類学的調査を遂行するよう奮起させてくれた人で、私は完全に信頼しなければならない。

自分にとって開かれる可能性にできる限り深く沈潜するよう促してくれた唯一の人であった。彼の促しは考古学者としての個人的な経験にもとづいていた。時は本質的なものであり、傾きつつある文化によって獲得された知の膨大で複雑な領域が、現代技術と哲学的衝動の衝撃のもとに失われてしまうのに、残された時間はあとほんのわずかしかないことを、自分の作業を通じて学んだ、と彼は言うのであった。

例として世紀の変わり目、今世紀の初期に登場した何人かの人類学者を取り上げた。彼らは高原地帯、カリフォルニアのアメリカインディアンの文化について、できるだけ素早くしかし方法的に、民族誌的データを集めたという。彼らが急いだのももっともである。というのは、とくにカリフォルニアのインディアン文化にあっては、その土着の文化の大部分に関する情報源がおよそ一代で消失したからである。

こういうことがあったときに、UCLAで社会学部のハロルド ガーフィンケル教授の授業に出席するという幸運にめぐまれた。彼は途方もないエスノメソドロジーの範型を与えてくれた。そこでは日常生活の実践的行動が哲学的言説の真の主題となっていた。そして調査される現象はすべてその独自の光の中で、その規則性や恒常性に従って調べられなくてはならなかった。

もし法や規則が判明にされるのであれば、それらは現象それ自体に固有のものと成らなければならなかった。従って、その独自の規則や構成を持つ一貫したシステムとして見られたシャーマンの実践的行動は真剣な探索の確かな主題であった。そのような探索はアプリオリに作られた理論の主題となる必要はなく、また異なった哲学的理屈の助けによって得られた題材と比較する必要もない。

彼ら二人の教授の影響によって、私は自分のフィールドワークに没頭していった。私の二つの衝動はこの二人の人間との出会いから引き出されたのだ。つまり、すべてが現代技術の寄せ集めの中に消失していく前に、ネイティブアメリカン文化の思考プロセスがとどまり続ける時間はあまりにわずかだということ。そして、なんであれ、観察される現象は探索の真の主題であり、最大の注意と真剣さに値する、ということである。

自分のフィールドワークにあまりに深く飛び込んでいったので、結局私は自分を後援してくれた人たちを失望させることになった。私は人のいない土地に立っていた。実際それは人類学、社会学、哲学、宗教の主題ではなかった。

私は現象のそれ自身の規則性と構成に従った。しかし安全な地点で抜け出す(emerge)可能性を持ってはいなかった。だからその価値やその価値の欠如を計る適当な学術的ものさしを手放すことで、全体的な努力と折り合いをつけることにした。

フィールドでやったことの記述は何にも換えがたいものだが、それは言ってみれば、インディアンの呪術師であるドンファンが古代メキシコのシャーマンの認識 cognition へ私を引き入れた、ということになるだろう。認識 cognition ということで、日常生活の意識 awareness に影響しているプロセス、記憶、経験、知覚、そして与えられたシンタックス(構文)の熟練的な使用を意味している。

認識の観念は当時私の最も強力な障害物であった。教育を受けた西洋人としての私にとっては、現代哲学的言説で定義されるような 認識 が人類全体にとって全てを含む同質的事態をわきにおいて、なお何かである可能性は理解し難かった。西洋の人間は文化的差異を考える。それは現象を記述する興味深い方法を説明する。

しかし文化的差異は我々に知られていない記憶、経験、知覚、言語の専門的使用のプロセスをなんとしても説明できないだろう。言い換えれば、西洋の人間にとっては一群の一般的プロセスとしての 認識 しかない。

ところがドンファンの系統の呪術師たちにとっては、現代人の認識も古代メキシコのシャーマンの認識も存在する。ドン ファンはこの二つを日常生活の全体的な世界と考えていた。それらは内的に異なったものである。あるとき、気づかないままに、自分の作業が人類学のデータを単に集めることから新しいシャーマン世界の認識プロセスを取り込むことへ神秘的に変化した。

そうした理屈を取り込むことは一つの変容を、あるいは日常生活の世界への異なった応答を含んでいた。この変容の最初のひと突きはいつも知的な献身 allegiance として生じた。たんなる概念として現れるが、疑いなく力に満ちた底流でもある何かへの献身である。これは次のようにドン ファンが言うとき非常に良く描写されている。

「日常生活の世界が我々に力を及ぼす個人的なものと見てはだめだ。我々を作り、また壊すものと見てはいけない。人の戦場は身の回りの世界との格闘にあるわけではないからな。彼の戦場はあの地平線の上にある。普通の人間には考えつかないところの中に、人が人であることを止める ところにある。」

その言葉を説明しようとして彼は言った。人間存在にとって唯一重要なことが 無限 との出会いだということを理解することはエネルギー的には避けようのないことなのだ。この 無限 という語をもっと扱いやすい説明に直すことはドンファンにはできなかった。 それは無限 lo infinito という漠然とした語によってしか具体化できない、いな言及することすらできない何かだった。

当時ドン ファンが私に対し魅力的な知的概念を与えていたのではない、ということを私はまず知らなかった。彼は エネルギー的事実 energetic fact と呼ぶ何かを記述していたのである。エネルギー的事実 とは、彼にとっては自分とその系統の他のシャーマンたちが 見ることseeing と呼ばれる機能に関わったときに到達した結論であった。このような仕方でエネルギーを知覚する能力はシャーマニズムの頂点の一つである。

ドン ファン マトゥス によれば、古代メキシコのシャーマンの認識 cognition へ私を案内する仕事は伝統的なやり方でなされた。すなわち彼が私にしたことは何であれ世代を越えてすべてのシャーマンの参入者になされたということである。

異なった認識システムの過程を内化することは、いつもシャーマンの参入者の全面的注意を私たちが死につつある存在者であることの理解へ向けることから始まった。ドン ファンと彼の系統のシャーマンたちはこのエネルギー的事実の完全な理解、この何にも言い換えがたい真実が新しい 認識 cognition を受け入れることに繋がっていると信じていた。

ドン ファン マトゥスのようなシャーマンたちがその弟子たちのために求めていた結果はその単純さによって手に入れることが難しいひとつの理解であった。つまり私たちは実際死に行く存在なのである。従って、人間の本当の戦いは彼の仲間の者たちとの間の戦いではない。そしてこれは戦いですらない。それは本質において、同意 acquiescence である。

私たちは意図的に無限に対して同意しなければならない。呪術師の記述では私たちの生は無限において始まり、それが始まったところ、無限 において終わる。私が刊行した著作で述べた過程の大部分は、新しい合理性の衝撃のもとで社会化された存在としての私のペルソナの自然なやりとり give and take に関わっていた。

私の作業状況で実際に生じたことは、新しいシャーマン的認識 cognition の過程を内化することへの単なる招待というよりも、もっと緊急な何かであった。それは一つの要求だったのだ。私のペルソナ的接触の境界を維持しようとして何年も闘ったあとで、その境界は負けた。

それらを保つ戦いはもしドン ファンとその系統のシャーマンたちがしようと望んだことの観点からすれば、意味のない行動であった。しかしながら、それは私の必要性から見ればとても重要な行動だったのだ。それは文明化された人なら誰でも持っている必要性であろう。つまり知られた世界の境界を維持するということである。

ドン ファンによれば、古代メキシコのシャーマンたちが持つ知覚の標識であるエネルギー的事実とは、宇宙のあらゆるニュアンスがエネルギーの表現であるということであった。直接にエネルギーを見ることのレベル plateau から、それらのシャーマンたちは宇宙全体が二つの力、対立し同時に相互補完的な二つの力から成っているというエネルギー的事実に達した。

彼らはそれらの二つの力を生きているエネルギー animate energy と生きていないエネルギー inanimate energy と呼んだのだ。彼らは生きてないエネルギー inanimate energy が意識 awareness を持っていないことを見た。意識はシャーマンたちにとっては 生きているエネルギー の振動する状態だった。

古代メキシコのシャーマンたちは地上の生き物全てが振動するエネルギーの所有者 possessor であることを見たはじめての人間だとドン ファンは言った。彼らはそれを有機的存在 organic beings と呼び、そうしたエネルギーのつながりと境界を設定するのは有機体自身であることを見た。

彼らはまた有機体の境界から自由で、それ自身のつながり cohesion を持つ、振動し 生きているエネルギー の集まりがあることも見たのだ。彼らはそれらを非有機的存在と呼んだ。人間の目には見えず、それ自身を意識し、有機体の粘着力とは別の粘着力によって決定される統一体を所有するつながったエネルギーの束として、彼らは描写した。

有機的であれ、非有機的であれ、生きているエネルギーの本質的状態とは宇宙に偏在するエネルギーを感覚データに変えることであることをドン ファン マトゥスの系統のシャーマンたちは見た。有機的存在の場合であれば、この感覚データは解釈体系に変換され、そこでエネルギー一般は分類され、その分類がどんなものであれ、与えられた反応が分類に割り当てられる。

呪術師の確信とは、非有機的存在の領域において、エネルギー一般が非有機的存在によって変換される感覚データはその定義により、それがどんなものであれ理解不能の形に解釈される。

シャーマン的論理学によれば、人類の場合、感覚データを解釈する体系 system はその認識 cognition である。彼らは人間の認識が一時的に temporarily 解釈されうるものであると主張する。なぜならそれはたんに分類システムであり、そこでさまざまな反応は感覚データの解釈に従って分類されてきたのである。

この解釈が生ずるとき、呪術師たちはエネルギーが宇宙に漂うがままに直接に知覚されうることを主張する。呪術師たちはエネルギーを直接知覚することを目で見ることの効果として描写した。とはいえ、目は最小限の関わりしか持たないのであるが。

エネルギーを直接知覚することによって、ドン ファンの系統の呪術師たちは光り輝くボールの外観を持つエネルギーフィールドの集まりとして人間を見ることができた。そうしたやり方で人間を観察することで彼らシャーマンたちは日常性を超えるエネルギー的結論を引き出すことができたのである。それらの光り輝くボールはそれぞれが途方もない大きさを持ったエネルギーの塊に個別的に繋がれ connected ていることに気づいた。

その塊は宇宙に実在し、それを彼らは意識の暗い海 the dark sea of awareness と呼んだ。そして光り輝くボールよりももっと明るい点で、それぞれのボールはその 意識の暗い海 に結びついている attached ことを彼らは観察したのである。彼らシャーマンたちはその結節点を集合点 assemblage point と呼んだ。それというのもそこで知覚が生じるからである。

その点で自由なエネルギーの流れが感覚データに変わり、このデータが今度は我々を取り巻く世界として解釈されるのである。どのようにしてエネルギーの流れが感覚的データへ変換されるのがドン ファンに説明を求めたとき、彼はこう言った。シャーマンが知っている唯一のことは、意識の暗い海 the dark sea of awareness と呼ばれるエネルギーの巨大な塊が、感覚データへのエネルギーの転換を誘い出すのに必要なものを何でも与える、と。

そしてそのようなプロセスはもともとのソース source の広大さからして、解読できないということだった。 意識の暗い海 に彼らの見ること seeing の焦点を合わせたとき、古代メキシコのシャーマンたちが発見したのは全宇宙が自身を無限に広げる光り輝く束 filament から出来ているということだった。シャーマンたちはそれらをお互いに触れずに独自の道を行く光り輝く束として記述した。

彼らはそれらが個別的な束であり、それでも考えられないほど巨大な塊の中に集まっている grouped ものであることを見た。その振動でシャーマンたちが気に入り観察した意識の暗い海に加えて besides そうした束の塊のもう一つを彼らは意図と呼んでいた。

(Another of such masses of filaments, besides the dark sea of awareness which the shamans observed and liked because of its vibration, was something they called intent) そして一人一人のシャーマンは彼らの注意力をそのような塊に向ける、これを意図すること intending と呼んだ。

宇宙全体が意図の宇宙であることを彼らは見た。そして意図は彼らにとっては知性と同じもの equivalent だった。従って彼らにとっては宇宙は至高の知性の宇宙だった。一部は 認識的世界 cognitive world から彼らは結論した。振動するエネルギーはそれ自体を意識し、究極において知的である intelligent であると。

その意図の塊は、この宇宙の全ての可能な変化と全ての可能な変動の原因であることを見た。それは恣意的で盲目な状況のためではなく、エネルギーそれ自体の流れにレベルで、振動するエネルギーによってなされる意図することのためである。

ドン ファンが言うには、日常的世界においては世界を解釈するような仕方で人間たちは 意図 と 意図すること を使っている。その例として、私の日常的世界は私の知覚によって支配されているのではなくて、私の知覚の解釈によって支配されている事実にドン ファンは注意を促した。彼は 大学 university という観念を例にとった。

当時私にとっては最も重要なものだった。大学 というのは私の感覚で知覚できるような何かではないと彼は言った。私の視覚や聴覚、味覚、触覚、臭覚はどれも 大学 についての手がかりを与えるものではないからだ。大学 は私の 意図すること の内でのみ生ずる。そしてそこに構築するために、意識的下意識的に文明化された人間として知りうる全てのことを利用しなくてはならない。

光輝く束から出来ているという宇宙のエネルギー的事実から、それ自体で無限に広がるこれらの束のそれぞれがエネルギーフィールドであるとシャーマンたちは結論することになった。それら光り輝く束、あるいはむしろそうした性質のエネルギーフィールドが集合点に集まってくる converge のを彼らは観察した。集合点の大きさが現代のテニスボールのそれに等しいので、ただ限られたエネルギーフィールド、とはいえ無数のそれがこの点に集まって行く。

古代メキシコの呪術師たちが 集合点 を 見た とき彼らが発見したのはエネルギーフィールドの衝撃が 集合点 を通って行くとき、感覚データに変換され、そのデータが日常世界の 認識 cognition へと解釈されるということだった。彼らシャーマンたちは人類にとってはその 認識 が同質なものであることを説明した。

すべての人間にとって 集合点 は我々がそうであるエネルギー的輝きの領域の同じ場所に位置しているという事実によってである。それは光り輝く玉の境界に接して私たちの背後、肩胛骨の高さで腕をのばしたところにある。 集合点 を 見ること -観察で、その 集合点 が通常の眠りや極度の疲労、病、向精神性の植物摂取によって位置を変えることに古代メキシコのシャーマンたちは気づいた。

集合点 が新しい位置にあるとき異なったエネルギーフィールドの束 bundle がそこを通り、集合点 はそれらのエネルギーフィールドを感覚データに変え、知覚すべき新しい真実の世界を結果として与え、解釈せざるをえない。新しい世界のそれぞれはそうしたやり方で全てを内含する all-inclusive 世界であり、日常的世界とは違っているがしかし人がそこで生き、かつ死ねるという点で完璧に似ていると彼らシャーマンたちは主張した。

ドン ファン マトゥスのようなシャーマンにとって、意図することの最も重要な訓練とは集合点を意図的に動かすことを含んでいる。そうやってエネルギーフィールドの全集積 conglomarate に存在するあらかじめ決まった地点に達するわけである。この全集積が人間を創っている。つまり何千年もの探索を通して、ドン ファンの系統の呪術師たちは人間がそうである光り輝くボールの中にある鍵となる位置が存在していることを発見した。

そこへ集合点を移動させることができる。そしてそのエネルギーフィールドの爆発の結果まったく真実な新しい世界を創ることができる。それらのいくつかの世界、またはすべての世界へ旅する可能性がすべての人類にとっての遺産であることは エネルギー的事実 であるとドン ファンは断言した。

ちょうど問いがなにか問われるべきものとして要求されているように、それらの世界は訪ねられるべきものとなっており、呪術師あるいは人間がそこに達するために必要とするものは 集合点 の運動を意図することだけであると彼は言った。

意図 に関する別の問題、しかし宇宙的な 意図すること のレベルに移し置かれた問題は古代メキシコのシャーマンたちにとってはエネルギー的事実なのだが、それは私たちがたず宇宙自体によって押され、引かれ、試されている tested ということである。一般的に宇宙というのが最大限捕獲的 predatorial であるということも彼らにしてみればエネルギー的事実である。

しかしそれは略奪したり盗んだり、傷つけたり、あるいは自分の獲物として他者を利用するという我々が理解する意味ではない。古代メキシコのシャーマンにとって宇宙の捕獲的状況とは宇宙の意図することが意識をいつも試しているということを意味する。彼らは宇宙が無数の 有機的存在 と 非有機的存在 とを作り出していることを見た。

それらに圧力を及ぼしながら宇宙の力はそれらの意識を高め、こうして自己に対する意識を持とうとしている。したがってシャーマンの 認識世界 では意識が最終的問題となる。ドン ファン マトゥスと彼の系統の呪術師たちは 意識 awareness を人の全ての知覚的可能性について慎重に意識している conscious 行いとみなしていた。そのメンバーの知覚能力を制限するように見えるなにがしかの文化によって述べられたたんなる知覚的可能性ではない。

ドン ファンの主張するところによれば、人間の全知覚能力を解放し、あるいは自由にすることはいかにしてもその機能的行動 functional behavior によって干渉されるわけにはいかない。実際、機能的行動は新しい価値を獲得するので異常な問題となるだろう。この状況下での機能はもっとも命令的な必然性 demanding necessity となる。

観念性とか偽の目標から自由になれば、人はただ彼を導く力としてただ機能 function を持つ。シャーマンたちはこれを 完璧さ impeccability と呼ぶ。彼らにとって、完璧であることは最大限のこと、そしてまだもう少しすることを意味する。エネルギーが宇宙に漂っているのを直接 見る ことによって、彼らは機能を導いた derived 。ある仕方でエネルギーが漂うと、エネルギーの流れに従うことは彼らにとって機能的となるのである。

従って、機能とはシャーマンたちが彼らの 認識世界 のエネルギー的事実に面と向きあうための共通分母である。 呪術師たちの認識 の全単位を訓練することによって、ドン ファンと彼の系統のシャーマンたちは奇妙なエネルギー的結論に達することになった。

それは最初のうちは彼らとその個人的状況にのみ関係していると思われたのだが、もし注意して試されたならば私たちの誰にでも適用可能なものになりうるということであった。ドン ファンによれば、シャーマンの探究の極地は究極のエネルギー的事実と考えられる何かであり、それは呪術師ばかりでなく、地上のあらゆる人間にとってそうなのである。これを彼は 決定的な旅 definitive journey と呼んだのだ。

個体的な意識がシャーマンの 認識 へと個体的に結びつけられて、有機体が一貫したユニットとして機能する限界、つまり死を超えて維持されうる可能性、これが 決定的な旅 である。この超越的な意識は古代メキシコのシャーマンたちによって、宇宙に漂うエネルギーのレベルで、このようにして知られるもの全てを超えて行き到達する人間の意識の可能性と理解された。

ドン ファン マトゥスのようなシャーマンたちは彼らの探究を最終的には 非有機体 となる探究と定めていた。つまりそれ自体を意識するエネルギー、一巻した単位として、しかし有機体をもたずに行為するエネルギーである。彼らは自分の認識 cognition の側面 aspect を完全なる自由 total freedom と呼んだ。そこでは意識は実在するが、社会化 socialization や統辞法 syntax の枷から自由なのである。

これらが古代メキシコのシャーマンの認識 cognition に私が没入したことから得た一般的結論である。『ドン ファンの教え:ヤキの知の方法』の出版後何年もしてから、私はドン ファンが提示していたものが完全なる認識的革命 cognitive revolution であることを理解した。続く著作で私はこの認識的革命を成し遂げるための手順を与えようと試みた。ドン ファンは私に生きた世界とその世界での変化の過程を知らしめようとしていた。

その事実の観点からして生きた世界は止まりはしない。したがって、結論は想起のための道具、あるいは操作的構造にとどまる。それは 認識 cognition の新たな地平への跳躍板という機能なのである。
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by sigma8jp | 2008-12-25 03:24 | 高次な身体と霊的フィールド | Comments(0)