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2つの喜び(Two Pleasures)「愛と放棄」

人間は2つの対極で喜びを感じます。
  1つは「愛」。仏教的に言えば「執着」と言え換えられますが、何かに対する愛情や自己愛そのものに人は癒しを感じます。その反対に「前進」又は「克服(超克)」という、例えば昨日まで出来なかった逆上がりができるように成長した時、又は今まで分からなかった数学の原理が理解できた時などに感じる喜びがあります。

西洋神秘学では「放棄」と呼び、人が成長するに際、何かを克服する時、過去の自分を乗り越え超克する時の喜びです。仏教それも天台山や高野山の密教に反れますが、ここには有名な胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の2つがあります。

胎蔵界曼荼羅は「愛」の世界であると喩えられ、そして金剛界曼荼羅は「智」の世界であると喩えられます。前者をマトリックス(MATRIX)と呼ぶ人もいますが、まさにその意味です。愛と智の2つはお互いに存在しなければ片方も存在し得ないけれども、性質・意味はお互いに相反する。大きく言えば矛盾する。

フロイトは「愛」と「死」を対立させ、ユングも似たような図案を描いていましたが、結局人は知らず「愛」に漬かった状態から「智」により己は何者かを明確にして行くことで成長するという点で、密教(仏教)と心理学は非常に近似していると考えます。

ニーチェは東洋の仏陀と呼ばれることがありますが、つまりはフロイトやユングの心理学的における一つの理想的境地が、仏教におけるそれ(解脱と呼んで良いかは置いておきますが)と一致するのではないかという考えに基づきます。

もちろん、仏教を科学または哲学としてではなく、神秘的宗教として深く信仰する方にはこれが非常に不快であり許し難い冒涜に感じる方もいるようですが、短絡に言ってしまえば上のようになります。

さて多くの「癒し」では前者の「愛」を扱いますが、ニーチェの超人とは平たく言ってしまえば、後者の「智」により次々に己を乗り越え前進することにより「健康になる人=癒される人」のことを言うと考えて良いでしょう。

現存するこの世の全てのモノ(現象)は確かに「愛」の化身なのですが、つまらない表現ですが、愛は盲目であることが問題になります。「愛」のみでは盲目になるが故に「智」の剣により己を切り刻み無明を明らかにして行くことが必要なのですが、これが仏教(密教であり禅)であり錬金術であると考えています。
by sigma8jp | 2008-12-22 16:36 | 宇宙の神秘哲学論 | Comments(0)
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