『大魔神』は、鬼門の方角に押し込められた神(鬼)



 昔、放映してた映画で 『大魔神』 というのがあったが、この神こそが丑寅の方角に押し込められた神(鬼)であり、これらの神々のことを「封印された神」といって、太古の時代にその当時、国土を治めていた保守的な神々によって捕らわれの身となり、二度と出てこれないよう東北の方角にある岩屋に閉じ込められてしまったのである。この神のことを「艮の金神」=「国常立の神」といって「鬼」にたとえられた。

この名残が、「節分祭」であり立春の時期に、”鬼は外、福は内”といって煎り豆を「鬼」にぶつけて撒く儀式である。煎り豆をぶつけるそもそもの理由は、”煎った豆に花が咲いたら出て来い!”といって皮肉っぽい「呪文」をかけ「鬼」を追い祓う儀式であるが、煎った豆に芽が出て花が咲くわけないので、裏を返せば「二度と出てくるな!」という意味が込められている。

この神が「鬼」と呼ばれる所以はどこにあるのか、というとそれは極めて「厳しい神」だからである。大本教でも、「国常立の神」のことを 【厳の御霊】 といって、厳格さゆえ人々に恐れられた。また古神道でも「鬼」のことを別名「禍津神」といって、祝詞でも、”罪、禍事を祓い給い、清め給い!”といって祈るが、この禍事の(マガ)は「曲った事柄」に通じ、これを真っ直ぐな精神である「素直で真の精神」に戻すよう、厳しく正すことから「罪罰系の神」とされた。

例の 『日月神示』 という有名な神示があるが、これは岡本天明が千葉県にある「麻賀多神社」の末社、「天の日津久神社」で突然、神憑りになり自動書記で書き記した神示である。この神は「国常立の神」であるが、この神社の名称である「日津久」は「日月」に通じ、それを「マル・チョン」といっている。また、麻賀多の(マガ)は、禍津神の「禍」であり、「津」は「津々浦々」=全国いたる所、すなわち「多くの」という意味があることから「麻賀多」も「禍津」も同じ意味がある。この神社こそ、「禍津神」の総元締め的な役割を担う神社となっている。

現在は、「国常立の神」による「世の立て替え、建て直し」の時期であるため、政治の世界でも様々な汚職を暴き、世を正す働きもこの神の意思によるものでもあるが、新しく産み出すためには、先ず表面に表れていない裏側の「膿」を出すことから始めねばならない。その意味から、「世の立て替え、建て直し」について、別な言い方をすると、「新しく産み出すためには、先ず内側の膿を出さねばならない」ということである。これらの働きも実は、「鬼の神」が活発に働き、水面下に隠れた様々な「罪」・「禍事」を次々に暴き、変革力のテコ入れをしている。

この「変革力」の象徴でもある、「鬼門の力」とは、太極の静寂から先天からの力の発動により、静寂を一瞬にして切り裂く閃光が放たれる。その瞬間、太極から陰陽の二極に力は分裂する。この時に、発生する生命の衝動を「水輪」といって雷電のような閃光に喩えられた。その結果、得られた陰陽の二力は、「左右の眼」に対応するが、この二極の力を生み出す元となった「水輪」を発動させるスイッチが、「眉間」(第三の眼)の位置にある。

映画 『大魔神』 も、このスイッチである「眉間」に何と「たがね」を打ち込んでしまったため、不用意にも 『大魔神』 を目覚めさせてしまった。まさに、 『大魔神』 開眼法要の儀式となってしまった訳だが、道教でも「眉間」を特別な中枢として扱い、「眉間」は神とつながる重要な「玄関」とされた。

また、東北は十二支では「丑寅」にあたり、これを時刻に対応すると、深夜の2時から4時の時刻であり真夜中である。これを、「草木も眠る丑三つ時」といって、この時刻に「鬼」たちは活発に活動を開始する。このことは、何を意味するのか?それは、すなわち人々の意識の水面下である潜在意識に「鬼」たちは強く反応する性質を持っていることから、例えば人々の「隠し事」に代表される「罪」・「禍事」を素早く見抜いてしまう。そこで、「鬼」は、罪を犯した人々を夢の中で強く問いただす働きしている。

その時に見た夢で、強くうなされた時など、おそらく「鬼」に追いかけられた夢を見ていたのかもしれない。あるいは、上司にお仕置きをされた夢を見たのかもしれないし、友人から強く問い質された夢を見たのかもしれない。このように「鬼の神」の働きは、自己修正の手が自ら施せなくなってしまった人間、すなわち甘えの極致で、精神が曲がってしまっていて、どうしようもない人間。または、自己中心的で、その場をうまく立ち廻るズル賢い人間に、その神の意思が及ぶよう仕組まれている。これも、ある意味、その人にとっては最大級の「救い」なのである。

このように、潜在意識である四次元世界を深夜に喩え、死後の世界を「黄泉の国」とし、「鬼」を「冥土の神」すなわち、「閻魔大王」になぞられた。東北(秋田)でも「鬼」の面を被り、親の言うことをしっかり聞くように、子供たちに「鬼」となって脅すのも、これら「鬼」の持つ性質から来るものである。

時代と共に、親が子供を正しく躾(しつ)けることができなくなってきているが、昔から日本人の怖さの代名詞として「地震・雷・火事・親父」があったが、徐々にその効力も失われてきた。子を躾ける役柄に「鬼」というのは、あまりにも、我々現代人にとって不可知性過ぎるところがあるが・・・。

しかし、「鬼」という存在は、現在でも人々にとって不可知性過ぎる故、認識出来ていないところがある。それは、人間にとって触れることの出来ない「未知なる扉」を意味しており、”未知への脅威や大自然に対する威厳、神に対する恐れ多さ”等を無意識ながらも教えている存在となっている。時代と共に科学が進歩し、合理主義がはびこる人間社会にあって、それら枝葉末節に偏りがちな人間たちに唯一、警告を発し、恐れ多さや未知なる脅威を知らしめることで、人間の持つ傲慢さを正し、より謙虚で素直な人間になるための最後の砦として、それら「不可知性」を残している。

まさに、時代の節目に来ている現在、より強い変革の力を必要としている時期に、彼らが目覚め、活動を活発に開始してくる。当然、我々人間にも目覚めを促す働きを強烈なインパクトをもって働きかけてくる訳であるが、前回、紹介した「外在神」も実は、今回の「鬼の神」も同じ系列の「神々」である。変革力を必要としているこの時期に、「鬼の神」を追い祓って、穏便な「福の神」だけを内側に招き入れる気持ちは分からないでもないが、変化の起こらないマンネリ化を好む人たちにとって、これからの時期、永久に取り残されてしまうことも事実である。
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by sigma8jp | 2010-02-03 01:57 | Comments(0)
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