【 4 】
四月四日の深夜から召集されたユダヤ衆議会では、イエスはほとんど沈黙を守っていた。ユダヤ法の規定で、すべての有罪の認定には、少なくとも二人もしくは三人の証人が必要とされていたが、イエスに対しては多くのものが偽証を立てた。しかしそれらの偽証は互いに一致せず、イエスの有罪を確定することはできなかった。 どうにでもイエスを死刑にしたい大祭司のカヤパは、焦れてきて、イエスの前に進み、聞き質して言った。「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。イエスはそれでも何も答えようとはしなかった。(マルコ一四・六〇-六一) 大祭司カヤパはさらに突っ込んで、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」(マタイ二六・六三)と迫った。これは、信仰の根幹にかかわる重大な質問である。避けては通れない。イエスははじめて口を開いた。 「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力あ る者の右に座し、天の雲に乗ってくるのを見るであろう」。(マタイ二六・六四) 「あなたの言うとおりである」は、マルコ福音書では「わたしがそれである」となっている。ここでイエスは、厳然として自分が神の子であることを、相手の言い方を通じて認めたのである。イエスを有罪にするための口実を求めていたカヤパたちには、この一言で充分であった。激怒したカヤパはイエスの衣を引き裂いて言った。 「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか」。 すると、彼らは答えて言った。「彼は死に当たるものだ」。それから、彼らはイエスの顔につばをかけて、こぶしで打ち、またある人は手のひらでたたいて言った。「キリストよ、言いあててみよ、打ったのはだれか」。(マタイ二六・六五-六八) こうしてイエスには死刑が宣告された。日は変わって、四月五日の朝を迎えようとしていた。この最初の裁判が終わって、翌日、四月六日の早朝、カヤパらによる二回目の裁判で死刑を確認した後、彼らはイエスを、ロ-マから派遣されていた総督ピラトに引き渡した。 イエスの裁判で、実質的な司法権を持っていたのは大祭司カヤパであったが、実際にユダヤを支配していたのは、ロ-マであり、政治権力を握っていたのはロ-マから派遣されていた総督ピラトである。そこでカヤパたちは、イエスに対する死刑判決を実効あらしめるために、ロ-マ総督の判決をも求めて、自分たちの行為を民衆の前に正当化しようとしたのである。 イエスは総督ピラトの前に立たされ、ここでも審問を受けることになった。ピラトはイエスに尋ねた。 「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは、「その通りである」とお答になった。そこで祭司長たちは、イエスのことをいろいろと訴えた。ピラトはもう一度イエスに尋ねた、「何も答えないのか。見よ、あなたに対してあんなにまで次々に訴えているではないか」。 しかし、イエスはピラトが不思議に思うほどに、もう何もお答にならなかった。(マルコ一五・二-五) 大祭司カヤパとその一派は、自分たちの裁判では、イエスをユダヤ教を冒涜した罪人として裁いていたのだが、ロ-マ総督ピラトの前では、イエスをユダヤの王を詐称した政治的扇動家として告発していた。ユダヤ王の詐称は、ロ-マ帝国に対する反逆でもある、という理由である。 当時は、ロ-マの権力による圧制の下で人々は苦しんでいた。農民は地主であるロ-マ貴族に搾取され、商人や労働者は、ロ-マ帝国に高い税金を納めなければならなかった。 そのような圧制をカムフラ-ジュするために、ロ-マ人は、ユダヤ人にユダヤ教を信仰することを許し、傀儡政権としてユダヤ人の王を擁立していたのである。 だからロ-マにとっては、ユダヤ王の詐称もさることながら、このようなロ-マの圧制を打ち破ろうとする民衆のエネルギ-というものは、常に大きな脅威であった。その脅威を押さえるためには、ロ-マ軍はどのような手段でも講ずるであろう。カヤパたちがイエスを政治的扇動家としてのロ-マ総督ピラトのところへイエスを引きだしたのには、そのようなもくろみもあったのである。 しかしピラトは、イエスになんの罪も認められなかった。イエスの言う「ユダヤ王」が政治的な意味を持つものでないことも見抜いていた。それにイエスは、権力そのものを認めてはいなかったが、武力でロ-マに反抗しようとしていたわけではない。むしろイエスは、反抗しようとする民衆を精神的な教えで導くことにつとめ、少なくとも表面的には、無抵抗主義に徹していた。それはロ-マにとっても都合のよい態度であった。 そこでピラトは、イエスがユダヤ王「ヘロデの支配下のもの」であることを確かめたうえ、ちょうどその頃エルサレムにいたヘロデのところへイエスを送りとどけた。ユダヤ王ヘロデにイエスの処置を一任したのである。イエスのことを聞き知っていて、イエスが奇跡を行うのを見たいと望んでいたヘロデは喜んでイエスに会った。しかし、イエスはいろいろな質問にも何も答えず、沈黙を守ったままであった。ヘロデもまた、イエスを有罪にする根拠を見いだすことができず、もてあました彼は、イエスをもとのピラトのところへ送り返してしまった。 四月七日、金曜日になった。イエスの最後の日である。ピラトは祭司長たちと、役人たちと民衆とを呼び集めて言った。 「おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面 前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。ヘロデもまたみとめな かった。現に彼はイエスをわれわれに送りかえしてきた。この人はなんら死に当たるようなことはして いないのである。だから、彼をむち打ってから、ゆるしてやることにしよう」。(ルカ二三・一四-一六) しかし、祭司長たちと彼らに扇動されていた民衆は納得しなかった。「その人を殺せ。バラバを許してくれ」と一斉に叫びはじめた。 当時、過越しの祭りには、総督が囚人一人を特赦するならわしがあり、誰を特赦するかについてはユダヤ人の意向が尊重されていた。それは民衆の人気を得たいとするロ-マの巧みな統治政策のひとつであった。イエスに罪のないことを知っていたピラトは、この慣例を利用してイエスを釈放しようとしたのである。ところが民衆は、イエスではなくて、バラバを釈放せよと言いはじめた。 バラバというのはユダヤの独立運動をしていて、民衆の支持が厚い革命家であった。ロ-マの圧制に苦しみながら、キリストの出現を期待していた民衆は、イエスがその奇跡を起こす力でユダヤをロ-マから独立させてくれるのではないかと、現世的な希望を託していたこともある。 しかし、イエスの教えがあまりにも精神的で、現実ばなれしたものであることをみてとると、大きな期待は失望と憎しみに変わっていった。純粋に革命家として立ち上がり、民衆の期待に応えようとしてロ-マに対する国家反逆罪の嫌疑で逮捕されていたバラバのほうへ、その時の民衆のこころが惹かれていたのも、無理からぬことであったかもしれない。 専横な総督ピラトも、予想を越えた、あまりに多い祭司や民衆の声を無視することはできなくなった。イエスにはなんらロ-マ帝国に危害を及ぼすような意図はみられないと内心では思いながら、民衆の圧力に屈して、ついにイエスの死刑に同意してしまったのである。 このように、ロ-マ総督ともあろう者が、なぜ群衆に譲歩せざるをえなかったのか。これは、彼の地位が決して安定したものではなかったことがその一因である。当時のロ-マも一種の派閥政治であり、ピラトはロ-マ皇帝側近のセヤヌスという人物の系列に属していたが、そのセヤヌスの地位が脅かされており、紀元三十一年には処刑されている。(10) その当時のピラトは、不安定な地位を維持しながら、現地での民衆の騒動に巻き込まれることを警戒していた。社会的暴動が起こるようであれば、総督はその統治能力を疑われ、罷免されることもまれではない。彼としては、無実であることはわかっていても、イエス一人が処刑されてそれで平穏が保てるなら、処刑もやむを得ないと思ったのかもしれない。ピラトはバラバを釈放し、そして遂に、イエスを十字架につけることを許した。
by sigma8jp
| 2008-11-10 19:27
| 暗夜とキリストの受難
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