ユングにおける「個性化」

  ユングにおける「個性化」を論じるためには、人間の心における「意識」と「無意識」を考察する必要がある。自らの「心」を知り得てこそ初めて、「個性化」は成立するであろうし、これは絶対的な大前提なのである。では、意識と無意識とは何なのか。まずはここに焦点を絞ってみる。

ユングにおける無意識というのは、非常に興味深い考察であり、「無意識」とはつまり、感情や夢を通じて顕在化し、且つ、無意識は常に人間の行動や心の動きに働いているらしい。これらの仕事は当然、直接、観察できるわけではなく、間接的な結論を導くに過ぎない。

つまりは、夜間における夢の中での直接的な「無意識」であったり、昼間の「意識的活動」による「阻止」を破る「無意識」であったりし、しかし、その程度に終始してしまう。以上の性質を持つ「無意識」は人間の「人格」を構成する大きな材料となる。

自我で自らの「無意識」を「意識」で抑える事などは決して出来るものではなく、「無意識」のいわば爆発を防ぐためにも、「無意識」に対する自らの弱さを全面的に白状する事が必要となり、こうした一連の流れは「人格」の形成における構成要素になるのである。

故に、私たちは「無意識」を1つの完成体としてとらえ、自らでそれを知り得る事で、まさに人格的である「意識」を作っていくのである。つまり、無意識は自動的に反応する、ここに収束するのであり、これと自我との関わりが「個性化」の第1歩なのである。

さらに、「無意識」を掘り下げて考察していく。無意識には、「集合的無意識」と「個人的無意識」がある、とユングは唱える。「集合的無意識」は、個人的体験に由来するのではなく、本質的に「元型」によって構成されている。

対して、「個人的無意識」は、一度は意識されながらも、忘れたり抑えられたために「意識」から消えていった内容であり、その構成要素はほとんどがコンプレックスである。ここで、「元型」と記したように、「心」にはいくつもの特定の形式が存在している。

つまり、心における様々な形式の中で、「集合的無意識」は、遺伝による継承であり、生まれつきのものであるため、他人に指摘されて気付いたり、「癖」などの形で、意識の内容にもしっかりと形式を与えるものである。

これと言うのは、無意識ではあるが能動的要素として表現され、思考・感情・行為に予め形式を与え、影響を与えるという事なのである。しかし、この「形式」というのは、あくまでも限られた仕方に過ぎないという事も強調しなければならないだろう。いわば、人間の一様性と人間の多様性と言えるのではないだろうか。

本質的な「元型」によって構成された「集合的無意識」と「経験」によって構成されていく「個人的無意識」は、つまりは、「意識」の「材料」に過ぎないのである、と。「前もって一定の形式を与えており、それでいては物質的には存在しない」のであり、それは、「形式であり、表象ではない」と。続いて、「意識的個人」に触れていこうと思う。

「個性化」を説くためには、当然、「個人」を考慮しなければならない。自分の中の理想像を作り上げるために、自らを抑えつけ、仮面をかぶる。これをユングは「ペルソナ」と表し、「個性」との相違を唱えている。「ペルソナ」は、自分の理想を目指すが故の、個体と社会との間の「妥協」なのである。

仮面をかぶる事に対する「反抗」「抵抗」を感じ、さらには「違和感」を感じて、それが爆発し、「限界」となってしまう。
完全に自らを見失ってしまうのである。その負担は非常に大きいのである。これは決して「個性」とは異なる。これは、「無意識と意識の補償関係」という事につながっていく。2つは決して対照的なのではなく、互いに補償し合って1個の全体、本来的自己になるからである。

「無意識」には、普段生活している「意識」の裏側の態度が存在していて、それはまさに補償関係なのである。心の中には、どんなに意識化しよとしても意識化されない無意識が存在する。
故に、先に記した「ペルソナ」として抑えつけられた「無意識的事象」は、「夢」の中で観察する事が出来る。

つまりは、「知らない所で気になっている」という事なのであろう。しかし、「抑えつける」のではなく、「理解」していけば、「生まれつき」という「個人的無意識」は消えていく。こうした流れで、自我世界という狭い世界が広くなっていく事は、より良い人間関係の構築につながり、「ペルソナ」とは決して違う形で「個性化」していく事が出来るのであろう。

以上のように、自らを知る事による無意識の意識化は良いのだが、これを抑えつけていては、「気にしすぎるようになり、」「自分らしさがなくなり」、「人格変貌」となってしまう。そこに存在しているのは「葛藤」であり、自我と無意識との関係は非常に困難な問題である事が理解できる。
「無意識の意識化」において、強い意識を持てば、新しい人格を発見する事もできるが、それと同時に心が疲労してしまう可能性もあるのだ。

ここで、最後に、「個性化」という事を考察していく。大きなポイントは、「個人主義」と「個性化」との相違であろう。「利己的」になるのではない。集合的要素を見た上で、個人的要素を出さなくてはならないのである。それは普遍的であり、程度の差である事も理解しなくてはならないのであろう。

「個性化」の為には、他人との関わりが非常に重要になってくる。しかし、答えは自分の中にしかない。仮面をとり、より良い個性を自ら見出していかなくてはならない。ユングにおける「個性化」においては、「集合的無意識」を理解し行動していく事が絶対的な条件となり、「人は何をなすべきか!」ではなく、「人はなにをなすことができるか!」 という非常に、優しい見解を感じ取る事が出来る。優しい見解は、相手と共感する事からも考察できる。

どんな人間の行動でも、ある程度は共感できるのであろう。「個性化」とは、これらを大前提にして起こるものなのだ。ユングにおいては、他人との「柔軟性」「吸収性」「共感性」により、自らの意識化を無理なく図り、人間関係をより良く構築し、自らをも成長させていく事が「個性化」なのだ。そして更にいえることは、人間には一様性があり、その「個性化」というのも程度の差であり、且つ、普遍的な存在なのである。

加えていうならば、それは簡単に自らで知り得る事は出来ず、日々自らの慣習となっている個人主義的なものではなく、しっかりと目指さなければならないものなのである。人間の心には様々な形式が存在している。それぞれの中から、自分で自ら、自分の形式を選んだり変えていく事こそが、一人ひとりの「個性化」だと思うのだ。

私にとっての「個性化」とは、「自律」に関係していると思う。「普通」からの自律、「価値」からの自律、様々なモノから自律していき、自分を確立していく。この流れの中で、「苦しみ」を伴ってはいけない。「普通」からも「自律」するのだから、それに寄り添う事もなければ、抑えつけられる必要もないのである。

今回の機会を通じて、「個性化」の困難さを非常に感じ取る事が出来た。
[PR]
by sigma8jp | 2008-11-21 01:01 | ユングの「個性化とマンダラ」 | Comments(0)
<< 「宇宙的孤児性」(1) 『ヤコブ・ベーメ開けゆく次元』 >>