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心理学の夢分析 1

まずはニーチェの言葉を・・・・

「人間は、夢の世界を創り出すことにかけては誰でも完全な芸術家である。
この夢の世界の美しい仮像は、あらゆる造形芸術の前提である。
…夢の世界において、我々は物の形の直接的な理解を楽しむ。
あらゆる形相が我々に語りかけてくる。どうでもよいもの、不必要なものなどは何一つない」

夢の特徴として、その「自律性」があります。ご存知の通り、夢は自我の支配を受けません――自我や実生活の影響は受けますが、コントロールすることは基本的に出来ません。また、心や自己の均衡を保つ作用があると考えられます。バランスを崩した心を何らかのかたちで補償するのです。

夢は意識の支配を受けないが故に、「未知なるもの」を伝えてくれます。
・自我が頭ごなしに否定していること、
・自我が(駄目だと)決め付けていること、
・自我が見逃しているようなこと、
そのような、自我が否定的に考えているものに、よい面があることを教えてくれたりします。
(あるいは逆に、自我が高尚だと無理やり思っていることに、異を唱えたりします)

いかに自我が認めなくても、自我の支配を受けない夢は何かを囁き(ささやき)ます。しかし、夢が直接的なメッセージを持つわけではなく、そこから何かしらを得るためには、それなりの技法が必要です。近頃、「私、夢分析が好きなんです~。あなたの夢を見てあげましょうか~」な~んて言う、夢見る乙女みたいな人がいますが、こういう場合はたいがい夢を記号のように扱うだけで、これは夢分析ではなく、夢ゲームの類でしょう。

夢は内的なイメージの世界ですから、もちろん現実世界とは一線を画します。しかし、夢分析は、この非現実世界の産物を、如何に現実世界に活かすか…そういうところに意味があるのだと思います。また、夢が何を意味し、どういう特徴があるか、などを理解すれば、そこからメッセージを読み取り、それを実生活に適用することも可能でしょう。

実際、私は印象に残る夢は、枕元に置いたメモ帳に控え、そこからメッセージを読み取るようにしています。このすべてからメッセージを読み取れるというものではありませんが、中には非常に有用な、「気づき」があったと思っています。また、何年かしてから、そのメッセージに気づくこともあります。それはさておき、以上のような効果を心に留めながら、実際の夢分析についてみていきましょう。

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1.夢
 夢はその時の自我に対応する無意識の状態を、何らかの心像により物語ります。(自我が意識していないような内容を囁いてくれます)自我と無意識の「橋渡し」の効果がある、と言ってもいいでしょうか。このような夢を紐解いてゆくと、自我が認識していなかった無意識の状態に気づかされたりします。

例えば、思考にのみ囚われていた人が、夢を体験することで感情の大切さに気づかされたりします。あるいは、理性を重視し、本能的なものを否定してきた人が、夢を通して、本能的なものも、そうそう悪いものではない、ということに気づかされることもあります。このように、夢は「相補性」を持ちます。

一面的になった自我を、何らかのかたちで補おうとします。あるいは、頭ごなしに否定しているような事柄に、光を当て、そこにある肯定的な面を浮かび上がらせます。そして、「夢を体験する」と言ったように、体験することで、心像をこころに基礎付けることが出来ます。

真理は素晴らしいものですが、思考のみで体験が伴なわないと、非常に虚しいものとなります。
しかし、夢で体験することで、心に深く基礎付けることができるのです。皆さんも、心に沁みる自分だけの夢を持っておられるのではないでしょうか。

この「夢で心に基礎付けられたもの」を、更に現実世界との関わり合いの中でうまく表現したり、活かせると、それは更に心に根付き、人間が豊かになることでしょう。

夢は「未知なるもの」を伝えてくれる、と述べましたが、その創造的な例として、河合隼雄氏は、以下のような例を挙げてくれています。・タルティーニが作曲した『悪魔のリトル』(これは、タルティーニが夢の中で聴いた悪魔がバイオリンで弾いた曲をあとで思い出したものとされているそうです)

・スティーブンソンの『ジキルとハイド』
・ケキュレの『ベンゼンリング』の考え(これは夢の中で、一匹の蛇が自分の尾を呑み込んでいる姿を見て、それをヒントに考えられたと言われています)

夢の中の心像は、具象性を持ちます。抽象的な事柄も、具体的な形や姿をもって、現れます。
例えば、自分の感情を殺し、思考機能にばかり頼って生きている人の思考機能が『殺人犯』として現れることもあります。行き過ぎた冷徹な言動が『刃物』となって現れることもあるかもしれません。

家につながれ、自由がきかない状態が、『かごの鳥』や『つながれた犬』という姿で現れることもあります。硬く、融通が利かない考えが、『硬い鉛筆』や『強固な鎧(よろい)』として現れることもあるでしょう。間接的なつながりを示すものとして、『電話』が出てくることも、あるかもしれません。また、コミュニケーションが、『キャッチボール』や『パスワーク』というかたちで現れるかもしれません。

このように、夢に現れる心像は、具象性を持ちますが、元型がそうであるように、それが「伝えたいそのもの」の姿というわけではありません。「それを表現するにはこれしかない」という仮の姿をもって現れます。ゆえに、これを知らない人にとっては、夢が本来伝えたい事が、なかなか見えてきません。不思議に思ったり、非現実的に思ったりします。

が、これを理解している人にとっては、合理的であり、現実につなげることもでき、いろいろなメッセージを得ることも可能でしょう。

夢は人間の内的世界の出来事ですが、外的刺激にも関係する部分があります。例えば、眠る前に見たニュースなどと関連した夢を見ることも多いでしょう。ただ、それを考慮して、「ああ、あのニュースを見たから、こんな夢を見たのか…」というのは、少し浅薄です。確かに、ニュースは「きっかけ」になっているでしょうが、その夢の詳細を見極めた場合、そこから得られるメッセージは別にあることが多いようです。

つまり、ニュースが「きっかけ」になっているものの、その姿を借りて、何かしら伝えたいことがある、ということです。これは、「目覚ましの音」や「寝ているときの状態」(例:布団からはみ出していた、とか、テレビをつけっ放しにしていた、とか、重い布団で寝ていた、とか)という場合も、同じような事がいえます。

例:「目覚ましの音」とシンクロするかたちで、夢の中で「電話のベルが鳴る」とか、「重い布団」で眠ったために「怪獣に踏みつけられる」夢を見るとか…。これらは確かに外的刺激に関連していますが、それはあくまで「きっかけ」であって、そのときの内的状況(心理的問題)、外的状況(現実問題)を考慮すると、やはり夢から得るものはあるようです。外的刺激とは別の、その夢をみるだけの理由があるように思います。

夢には追体験の効果もあります。生活の中で認識されなかった感情を、心像の形で体験することによって、消化されなかった感情を消化しようとするのです。この時、夢の背後にあるものに気づき、自身を見つめなおすことが出来たなら、それは宝になると思います。

上のような例は、①「外的なものを消化する働き」ですが、夢には②「内的なものを外界に展開する働き」もあり、これら二つの相互作用により夢を見る、という表現が妥当であると考えます。
ゆえに、「夢は自我と無意識の『橋渡し』をする」と言えます。

もう一度、言いますと、
①「外的なものを消化する働き」とは、現実世界や日常生活で経験しながら、意識化できなかったり、見逃しているような事柄の中で、実は大切であったようなことを、「夢」というかたちで「追体験」することによって、意識化したり、認識したりします。

②また、「内的なものを外界に展開する働き」とは、無意識を源泉とするメッセージのようなものを、「夢」から受け取り、そこから考えを得たり、実生活の態度や行動として活かしたりします。
芸術表現なんかも、これに近しい場合があるかもしれません。(もちろん、①に関わる場合もあるでしょうが)

特に②の様な場合は、「元型的な心像」が夢として現れるようです。

夢は心像の世界ですから、直接的に考えるのは危険です。夢に現れた要素が、当人にとって何を意味するのか十分に考える必要があります。いわゆる「夢判断」などの資料により、ある種の傾向は見えるかもしれませんが、あくまで個人を扱うのですから、その要素の持つ個人的な意味も重要です。何度も言いますが、心像は記号ではありません。

これを見る方法に「連想法」があります。例えば、夢の中に「A」という要素が現れたのなら、その「A」から何を連想するか挙げてゆくのです。これは「A→B→C…」ではなくて、「A→B、A→C…」という風に、要素Aに対して連想を繰り返すものです。

これにより、要素Aが当人にとって何を意味するのかが見えてきます。が、しかし、以前「象徴」で語ったように、そのものでしか表現できないものも存在します。また、あまりに夢分析にこだわりすぎると、夢の持つ効果が損なわれる場合もあります。夢の生き生きとした心像の効果が、解釈によって壊される場合もあるのです。

ですから、場合によっては、解釈するよりも、夢を味わうことが大事であることもあります。カウンセリングにおいては、夢を共に、深く味わい、経験することも大事でしょう。これらをバランスよく適用すると、夢から豊かなものを得ることが出来そうです。

さて、夢の「源泉」ですが、「外界からの刺激」「身体感覚」「心理的経験」「自我は忘れているが無意識に残っている経験」などがあるようです。

例えば…
・「外界からの刺激」:電話の音や、目覚ましの音、など…
・「身体感覚」:暑さ寒さ、尿意をもよおす、など・・・
・「心理的経験」:深い感情を伴なう体験、など・・・
・「自我は忘れているが無意識に残っている体験」:言葉のまま…。あるいは、無意識に抑圧された体験。

そして、無意識の深い層、集合的無意識(あるいは、普遍的無意識)からの産物もあるでしょう。

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2.夢の機能(夢のメカニズム)
  夢は意識の埒外(らちがい)にあるものに気づかせ、意識化させてくれます。これを意識に対する「補償作用」といいます。この「補償作用」こそ、夢の持つ最大の意義だといわれます。しかし、夢が必ずしも補償的とは限らず、時には深く暗いものも投げかけてきます。(まったく意味不明のものもあるでしょう)

逃げ出したいほどの、おぞましさを伴なうものもあるかもしれません。無意識の影響がより強くなった場合、このような事が起こるようです。夢は無意識からの産物ですが、やはり、それを受け取る自我の働きがなければ、意味は薄くなったり、時に、破壊的になったり、否定的に働く場合もあるようです。(無意識に呑まれるのは危険です)

では、夢の機能について詳細をみていきましょう。

(1)単純な補償
「これは意識の態度を補償したり、意識的な体験の足りないところ、未完なところを補償する夢です」

例えば、価値観の逆転を感じる夢がこれでしょう。自分が軽んじていたものに、「意外とよい面」を見つけたり、自分を過小評価していたが、自分に「意外と高い価値」を見出すといった、ものです。これは夢のみではなく、現実世界でも体験できます。内的事実と外的事実が違う場合が多々あります。

内的に劣等と思っていたことが、外的には些細なことだったり、あるいはよい面だったりします。
しかし、これに気づくにも、何かしらの「きっかけ」が要るわけで、その役割を夢が担う場合もあるということです。

人間誰しも、「頭ごなしに否定して」いたり、「決め付けている」場合が多いものです。それが許される範囲ならいいですが、それが原因で、自分や周囲の者が、日々、生きた心地がしないなら、やはり問題でしょう。しかし、それに対し、誰かが「それは間違っている」と言ってみても、効果は薄いようです。

それよりは、夢で、「その一面的な考えゆえに大失敗したり」、「頭ごなしに否定していたものに、新たな価値を見出す」方が、より心に響き、考えや態度を修正してくれる事があります。知識として訴えるより、やはり、経験して知る方が、心に響くし、心に基礎付けられるようです。

このような「補償的な夢」を見ること、体験することで、価値観の変換や、態度の修正がなされることもあります。


(2)展望的な夢
「夢が遠い将来へのひとつのプランのような意味を持って現れるものです」ここで、注意する点が幾つかあります。まず、いわゆる「予知夢」との区別です。予知夢は、相当、細部にわたって夢と現実が一致します。一方、展望的な夢は、細部というよりは、その大まかなプランを与えるところに大きな意味をおきます。

そして、一番重要なのが「夢に支配されない」ことです。いかに建設的なプランを提示する夢を見ようと、それのみに囚われ、現実世界での『努力』を忘れたならば、そのプランが実現するはずもありません。あくまで「仕事をするのは自分」であり、夢ではありません。これは宗教にも言えます。

神頼みは、あくまで「助け」を願うのであって、自分のやるべき仕事を神様に負わすものではありません。そんなことを神様が認めるわけがないでしょう。神様が与えてくれるのは「きっかけ」や「助力」です。また、この「きっかけ」が重要だったりします。(それが『奇蹟』であり、『信仰のきっかけ』なのかもしれません)

ともかく、無意識の産物である「夢」から展望的な何かしらを得て、同時に現実世界で努力したときに初めて自己実現がなされるのだと思います。もうひとつ注意すべきことがあります。それは、夢は心像の世界であり、必ずしも夢に見たことがそのまま現実世界での出来事とは限らない、という点です。

夢で何かしらの成功の夢を見たとしても、その心像は現実そのものではなく、むしろ心像の背後にあるものこそが、現実世界と密接につながっているのです。例えば、医者になる夢を見たからといって、無意識が医者になることを望んでいるとは限りません。

むしろ、「医者に象徴されるもの」が求められている、という解釈が正しいように思います。(もちろん、人によっては、医者そのものになる事が望まれている場合もあるでしょうが、慎重な見極めが必要だと思います)内的事実と外的事実は違います。夢に支配されず、その一歩奥にあるものを見極めることが大事になります。

また、「初回夢」というものもあります。治療の初期の段階で、非常に展望性の高い夢を見ることが多いようです。また、この初回夢を支えにすることで、長い治療の過程を歩むことが出来るという面もあります。ある意味、「希望」でしょうか…。

このように、「展望的な夢」を見ることで、方向性が示されることもあります。(繰り返しますが、方向性が示されても、意識的な努力がなければ、達成されることはないでしょう)


(3)逆補償
「これは否定的な補償ともいえるもので、意識の態度を引き下げようとするものです。どうも意識の態度があまりに良すぎたり、高くなりすぎたりしていると、それを下げようとする機能が夢にはあるようです」要は、バランスでしょうか?

いくら意識の態度が高貴であっても、人間としての全体性がそれを成すに足りないなら、その高貴な態度は危険なものになります。ある人がキリストを目指そうとしても、人間にその器があるかどうかは疑問です。そういう場合に、折り合いをつけようとするのが、この種の夢でしょう。

また、ある対象を心の拠りどころにしている場合、それが過ぎると、その対象を引き落とす夢を見る場合があります。これはその対象そのものを引き落とすのが目的ではなくて、むしろそれに支配されていたり、それに頼りきっている自我に対して、物申しているのでしょう。

ですから夢の通り対象を引き落とす作業をするのではなくて、むしろ当人の自主性を発展させるのが重要になります。(ただ、現実問題として、その対象がどうであるか、見極める必要もあります)

例えば、尊敬していたり、慕っている対象(親や先生、医師など)が、なんでもないことで失敗したり、馬鹿げた行動をとったりする…そういう風な夢が、これにあたります。そして、前述の通り、その夢を見たから、実際の人物まで無理やり低く見るというのではなくて、むしろ、実際より相手を高尚に思おうとしている自身の態度を修正したり、その対象に頼り切っている自分の態度を修正した方がよさそうです。

このように一見否定的に見える夢もありますが、その背後にあるメッセージに注目するとき、夢は建設的なものに変わります。要は受け取る側の気持ち次第なのです。ただ、「警告夢」のように、未来の不幸を予感させるような夢も、確かに存在するようです。このような夢を頭ごなしに否定した場合、現実の不幸が訪れる場合があるので注意が必要です。


(4)無意識の発言(発現)
  「夢は意識と無意識の相互作用のうちに形成されますが、無意識の力があまりにも強いときは、意識への補償作用が認められないような夢を見ることがあります」

このような夢は補償的な意味合いが薄く、それよりは無意識の心的過程を直接表すような夢を見るようです。このような夢は強い無意識のパワーに根ざしているので、印象が強い場合が多く、また、圧倒的なパワー、印象度がある反面、理解することは難しいようです。

この夢の特徴としては、本人が登場しないこと(自我が不在)、元型的なものが多く、神話のモチーフと重なったりすることが挙げられます。(無意識的要素が深く、普遍的無意識の影響が大きいということでしょう)このような夢を病的であると決め付けるのは簡単ですが、そうすると、せっかくの財産を失うことにもなります。ただ、現実世界に結びつく解釈は非常に難しいでしょうし、無理やりこじつけると、インチキ臭くなります。この辺が難しいところです。


(5)予知夢
 「これは、細部に至るまで予見的な夢です」先の展望的な夢のような、プランの提示というだけでは片付けられない一致度が示されます。ただ注意しなければならないのが、意識が忘れた外的事実が夢に現れることがある点です。意識が忘れていても、すでに体験したことかもしれないのです。この辺の細心の注意が要求されます。(何事も、盲目的には信じないことです)

また繰り返し言いますが、この予知夢に支配されてしまうと意味を失います。人間である以上、毎度毎度予知夢を見るわけではないでしょう。もし、そうだと言うなら、それなりの外的現実の証拠を提示しなければならず、しかも不一致は許されません。(勘違いはあるかもしれない)

更に言うなら、自分の内的真実をさも一般論であるかのように持ち出して、さらには自分の影を社会に投影し、周囲を巻き込んで攻撃するなんぞは害悪にほかなりません。これは到底許される行為ではないです。カルト宗教の犯罪がこれに当たります。

何かしらの宗教に加担する場合、あるいは思想に加担する場合、これらの注意が必須になります。ことが起こってから、知りませんでしたでは済まされません。現実世界では法が裁くし、内的世界においては魂が裁きます。逃げ切れるものではありません。

話を戻します…

また、この予知夢に、理由をつけようとしても無理が生じます。
「~だから、~が起こった」とか、「テレパシーなどの超能力の仕業だ」とか、「~霊の仕業に違いない」とか、無理やりこじつけると、インチキ宗教やニセ科学の類になってしまいます。
それよりは、「ともかく、それが起こった」と受け取り、それが起こったことによって生じる情動や影響を大切にした方がよさそうです。

(ただ、そのシステムを解明しようという作業そのものをまったく否定しようとは思いません。大事なのは、不確定なものを金儲けの道具にしない、不確定なものを一般論として扱わない…そういうことです。あるいは、「説明を急ぐな、ともかく事実を受け入れろ」…そういうことでしょうか。これも、あまり一面的になると、乱暴で、危険になりますが…)


(6)反復夢
  「現実で起こった出来事が夢で反復されることがあります。これを反復夢と言います」しかし、細部に注目すると、差異が認められることがあり、そこに注目すると、補償的なものが得られます。このような時は、反復夢ではなくて補償夢です。区別して考える必要があるでしょう。

反復夢の典型的な例がいわゆる「フラッシュ・バック」でしょう。例えば、戦争で陰惨な体験をした人が繰り返し、その体験を夢として経験するのです。これは自我が一度に取り込めなかった経験を、何度も夢で経験することにより少しずつ自我に統合してゆくものです。

このような時、カウンセラーが簡単に夢を無視するように言うのは間違っていると思います。(よく考えた上で、一度ひく、ということはあるかもしれません)無意識の強いパワーで浮かび上がってきたものを無視しようとしても無理だし、というか、無視すればするほど、無意識の中の要素は肥大化します。

それよりは、カウンセラーはクライアントさんの話すことを十分に受け止めるべきだと思います。
解釈抜きで、クライアントさんに体験を語ってもらうのです。それにより互いの相互作用で見えてくるものもあるはずです。(但し、時に、今は受けきれないと思う時は、一度退くといいでしょう)

このように、内に取り入れるには厳しい夢もあります。しかし、少しずつ、二人三脚で、統合できることもあるでしょう。カウンセラーは安易に「対決せよ」とは言えませんし、言うべきではないですが、相手が苦しい思いをしながらもなんとか対決しようかとし始める時に(自分に技量がないからといって)、その対決を止めさせるのはいかがなものかと思います。

せっかくの成長の芽をみすみす摘むことになるのでないでしょうか?それなら、それを受けきれるだけの専門家を紹介した方がよさそうです。受けられない用件は受けないのが、カウンセラーとしての良心だと思います。単なる傷の舐め合いは、プロのする行為ではありません。それは責任回避に他ならないと思います。

そして、それはクライエントさんの成長の可能性を摘む、愚かな行為です。対決を避ければ避けるほど、無意識はなんとしてでも真の問題と対決させようとします。その分だけ、症状も重くなるでしょう。

一番の解決方法は、自己対決という、つらく厳しい作業なのかもしれません。だからこそ、カウンセラーには強さが要求され、その為にもカウンセラー本人が自己対決を済ませておく必要があると私は考えます。(尚、治療の場においては、何度か「ひく」ことが必要になるかもしれません。 ただ、これは「逃避」ではなく、「勇気ある一時撤退」でしょう)

以上のように、夢の機能について述べてきたわけですが、時に、象徴性の高い、あるいは統合性の高い夢を見ることがあります。その中に、幾何学的なイメージや、曼荼羅的なイメージ、数字の「4」を表すイメージが現れることもあります。
by sigma8jp | 2008-12-01 20:07 | 「夢見」の心理学・象徴解読 | Comments(0)
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