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「世界霊魂」 アニマ・ムンディとは

 錬金術ではさかんに、アニマなる言葉が出てきますが、一般にはユング心理学の用語としての方が知名度が高いと思います。ユング心理学は有名ですので、この言葉の意味はご存知の方も多いと思いますが、具体的には男性の心理における、女性の姿に投影された己自身の心の分身のことを指します。

アニマの語源は「魂」を指しますが、錬金術ではこれが数百年前から女性の姿で描かれていたことも、ユングがこの言葉をこの意味にあてた理由の一つでしょう。アニマ・ムンディは「世界霊魂」又は「宇宙霊魂」などと訳されます。そして錬金術を心理学と同じと考えた場合、ダイレクトにこのアニマ・ムンディはユング心理学におけるアニマまたは女性の持つ場合はアニムスと一致すると考えて良いでしょう。
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ちなみに、ソクラテスは「ダイモーン(神霊)を信ずるもの」として告発されましたが、彼にもこの神秘の女性を知っていたと一部で言われています。(これについては、いずれ別に書きましょう。)次にダンテの「神曲」におけるベアトリーチェはダンテを神の世界に導きますが、文字通り彼女は彼を「案内」します。

ゲーテの「ファウスト」にも最後の一説に謎めいた言葉「永遠に女性なる者、我らを牽きて上らしむ」があり、確か後書きだったと記憶していますが、その著者が心理学に深いらしく「この一文はフロイト心理学と関係がある」ような書き方をしていました。これもユング心理学的に言えばアニマになります。

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つまり心の伴侶であるアニマまたはアニムスは、人間の心の変化・成長・革命に関係し、その変化を導く働きがあるのですが、ちなみにニーチェは「私はゲーテの言う『永遠に女性なるもの』の秘密を暴いた最初の人間かもしれない」と言っています。さらに「男性は『永遠の女性』を信じるが、女性については『永遠の男性』を信じているのだ」と、ユングのアニマ・アニムス論を先取りすることを述べています。

フロイトが自分の研究がニーチェの剽窃と評価されることを恐れたことは有名ですが、つまりフロイト心理学はニーチェ哲学と非常に近接しており、ユング心理学とも骨格的に大きく変わる物ではありません。アニマの意味する範疇は広く、秋葉原系アニメの美少女キャラクタも勿論、一つのアニマの現れですが、これは多く恋愛・性欲の対象ですので「低次アニマ」と表現して良い物で、この段階では心の成長に関わる機能は殆ど無いと思います。

これがあるきっかけにより、(私の場合は完全に一種の偶然ですが)自分の心の変容が開始するとともに自分が投影するアニマも成長し、より凛々しく、高貴に、そして恐ろしく厳しく成長します。非常に高次に達したアニマはギリシアの女神アテナのようになると言われていますが、私の経験から言えば「男性と見まごうごとき勇ましい女性」に進化しました。

簡単に言ってしまえば、自分の自我が成長すると、無意識としての伴侶のアニマも成長し、まるで2人で階段を上って行くように感じます。「神曲」にもこのような表現がありますが、非常に多くの錬金術絵画がそれを描いています。別の言い方をしますと、最初は可愛らしい愛でるべきアニマ(性欲の対象)であるのですが、次第に本人を「告発するアニマ」となり最後には、アニマ対自我の命を賭けた一騎打ちのような様相になります。

中高校生の時は理解できませんでしたが、プラトンの言葉「エロス(美しい肉体への愛)からフィロソフィア(愛智)へ」にも、おそらくこの意味が含まれているのでしょう。一部のキリスト教でYHWHの妻をソフィア(智)と呼ぶことがありますが、まさにそのような「智」を愛人とするような状態になり、はっきり言いますが、この段階のアニマは外見が美しくとも性欲の対象として絶対に見ないような「凄まじく厳格な人」のようなものになります。

実際、月と太陽が馬上で一騎打ちするような図や、雄雌のライオンが噛みつき合うような図が錬金術にありますが、正にこのように厳しいものであり、「アニマが勝つか自我が勝つか」という状況になります。このようなことで抜きつ抜かれつつ精神の階段を上って行き、上り切る時、終に自我は「永遠」と遭遇することになるのですが、これがゲーテの愛した「永遠」でありニーチェの言う「永遠回帰」の根拠になっていると考えています。

ユングはこの「そら恐ろしい宇宙のようなもの」を「自己(セルフ)」と呼びましたが、この時言うならば一種の全能感「宇宙と一体化したような気分」になります。(この時が自我インフレーションの極限状態です。)ユング心理学ではこの自我インフレーションが極大になった状態を「エナンティオドロミー」と呼びます。

ちなみにニーチェはユングより先にセルフという用語を使用しており、また「ツァラトゥストラ」の中で自己(セルフ)を「偉大なる天体=太陽」に喩えています。ニーチェの永遠回帰(永劫回帰)は、色々と文章的に小難しく解釈する哲学関係者がいますが私はこれは、一つの精神的変容の究極段階に達した状態と深い関係があるものと考えており、この、まるで時間を静止したような、「永遠(∞)=無(ゼロ)」というべき非常に仏教的境地と関係が深いと思います。

これがニーチェが「西洋の仏陀」と呼ばれる理由なのでしょう。しかしこれは文章に書いただけでは理解不可能であり、実際に体験しないと分からないのですが、経験してみると正にこのようにしか言えないものです。

ファウストは「止まれ、あなた(世界=全て)は美しい。」の一言を吐き、賭けで悪魔に負けますが、この言葉は、正に全ての世界と時間が停止し見事に美しい、完全で永遠なる世界への賛美であると思います。ニーチェは色々な先人にケチをつけることで有名ですが、彼はゲーテは絶賛していたと聞きます。


<プライマルジェム>
  プライマルジェムは、『至上の結晶(プライマルなジェム)』ですが、『プリマ(第一の)』が語源がここから来ているように感じます。こうなってくると、錬金術的にはプリママテリア(第一原質もしくは第一質料:prima-materiaもしくはprote-hyle)を思い出さずにはおれません。プリママテリアは賢者の石の初期材料である事から第一の物質みたいな感じで呼ばれております。

錬金術概念の第一の物といえば、世界霊魂。この世界霊魂(アニマムンディ)はいろんな物質の根元(イリアトでいえばマナ)みたいなもので、アニマムンディを手にできれば世界の全てを手にしたようなものだと考えられます。このアニマムンディは、世界の母体であり、この母体は、宇宙の全ての物質を含めた原材料の元となっている。

(伝統的)錬金術で言う「物質界」とは科学的な物質とは意味が違います。錬金術では「物質」と「精神」を2つの両極と考え、この世に存在するものはこの両極の間に位置し、その間を移動するものと考えます。すなわち「物質」が存在するためにはなんらかの「精神」的なものが必要であり、また「精神」は「物質」的な支えが必要という具合にこの両者は本質としては同じと見なします。

さて、(伝統的)錬金術の教義を一言で言えば、「物質を始め、この世に存在するものは唯一神を起源とする世界霊魂(アニマ・ムンディ)によって存在しかつ動かされている。神が世界霊魂によって物質という衣を与える事により世界霊魂の集合体となる。すなわちすべての被創造物は多様な形はとっていても、本質は唯一つである。それゆえ天上界と地上界には本質的な違いはなく同じ仕組みでできている。

神が世界創造で行った事と同じ原理は実験室でも-規模ははるかに小さくても-実現できる。
そして神が創造した世界の原理を肌で感じ、理解するのが目的である。現代科学が自然を理解し認識するのは自然を理解し、利用するのが目的であるが錬金術では認識し自然を超越して神に近づくために実験を利用する。」

そして「世界霊魂」を手に入れれば(すべての物質の根源は同じですから)自由自在に物質の変成ができる(たとえば卑金属を金に変えるのはその一例にすぎません)のみならず、病気を治し永遠の命すら手に入れる事ができるわけです。

したがって(伝統的)錬金術のテーマはこの「世界霊魂」を手に入れる方法になるわけです。
この世界霊魂が極度に純粋になると「石」の形をとると言われこれを「賢者の石」と呼びました。すなわち(伝統的)錬金術とは「賢者の石」を捜す(または作り出す)実践の道と言えるわけです。

「神」の被創造物は多様な形をとってはいますがそこにはすべて「神」がいます。人間もまた「神」の被創造物であるが故に当然我々の中にも「神」がいます。しかし物質界で生きている宿命(物質界での穢れ&錆)で「エレウシスの密儀」で書いた事を書き直せば、「生きている間に無知であれば生きている間も、そして死んでからも決して内なる神に気がつく事はない」


錬金術の目的は、「賢者の石」を生成すること
  錬金術は金を精製するのが目的ではなく、完全な金「賢者の石」を作るのが目的とされる場合が多い。賢者の石自体が不老不死の薬として扱われたり、他の金属と混ぜることにより金が精製できるといった話があるが、錬金術が盛んな時代にこの手の詐欺が多かったためとも説明できるため具体的なことは不明だが、賢者の石が精製できれば錬金術は成功と言える。

中国などでは不老不死の薬、「仙丹」を作る「仙丹術」が錬金術にあたると思われる。賢者の石の具体的な色、形、外見は不明。文献により「金のような石」、「外見のつまらない石」「ルビーのような赤く透き通り液化する石」、「赤い粉末」などいろいろあり、あたりまえだが確証のある物はない。

具体的な錬金術(すなわち賢者の石の精製方法は文献により二通りに分けられる。

◆一つには、古来の三大元素(三基本素)とされる「水銀」「硫黄」「塩」から、純粋な金「賢者の石」を作る方法。
(ただし、ここでいう三種類の物質は、現在の科学で一般にいわれる硫黄(S)水銀(Hg)塩(NaCl)ではなく、硫黄 [Sulfur]能動的特性(男性)可燃性、金属の腐食、 魂、意志、生活水銀 [Mercury]受動的特性(女性)輝き、揮発性、可溶性、可鍛性、霊、 感情、塩、[Solt] 結合、硫黄と水銀を結び付ける、肉体、無気力とされ、全ての物質を形成する要素であるとされる場合が多く、科学的に物質そのものを使用することは誤りでされるとされる場合が多い。

◆二つには、精製方法として「プリマ・マテリア」つまり第一(最初)の物質から、金を生成するという方法。この物質の選択を誤ったために失敗したという推測も多い。一般にはどこにでもあるが誰も気にしない物、つまらない価値の無い物といわれ、粘土、灰、糞尿、馬糞、土、鉛などが有力であるとされた。中でも鉛が重さ、価値の低さ、反応の鈍さから特に有力視された。この方法で具体的に精製する手順は第一に、この「プリマ・マテリア」の正しい選択。そして、文献によってかなり差があるのだが大体は、

◆第一過程、発芽(ゲンミナティオ)
◆第二過程、形成(フルマティオ)
◆第三過程、結合(コンジュクティオ)

◆第四過程、黒化(ニグレド)
◆第五過程、白化(スペル)
◆第六過程、黄化(?)

◆第七過程、赤化(ルペド)
◆第八過程、投企(プロジェクティオ)
◆第九過程、輪廻(ロタティオン)となる。

黒化(ニグレド)は「燃焼の後の黒き物」「物質の死」などを示し、赤化(ルペド)は「物質の生き返り」を示すという。尚、赤化の前に輝きを放つという文献、赤化で完成という文献もある。投企(プロジェクティオ)は文献によっては最終段階とされる場合もある。

その他に二基本素、全ての物は本質(エイドス)と形相(ヒュレー)により、構成されるという考え方からこれらを完全に分離し、形相(ヒュレー)を思い通りに変更(操作)するのが錬金術で物質から形相(ヒュレー)を取り除いた完全な物質(完全な金?)が賢者の石でされるという方法。

さらに、二基本素、三基本素と考え方が似ている四大元素という考え方。つまり全ての物質は、

◆火の要素(精霊サラマンダー・爬虫類)
◆水の要素(精霊ウインディーネ・水銀)
◆風の要素(精霊シルフ・中和剤)
◆土の要素(精霊ノーム・憂鬱質)で形成され、
◆エーテル?つまり光・空気の要素(精霊ウィル=オ=ウィスプ・霊的物質)

を結び付けるものとして使用し賢者の石を精製する方法。ここで示すエーテルとは現在科学でいわれるエーテル基をもつ物質のエーテルではなく錬金術の用語のエーテルとみられる。さらに中国では五大元素(火・水・風・木・金)の考え方もあるが、具体的な錬金術との関連が確認できなかったためここでは割愛する。
# by sigma8jp | 2008-12-22 16:28 | 錬金術の奥義 | Comments(7)

「生命の樹」にみる上昇と下降の流れ

 エデンの園には、「禁断の樹」と「生命の樹」の二種類の樹が植えられているといったが、アダムとイヴの楽園追放にみる意識進化のドラマは、人間の誕生と人類の歴史的進化をもたらした。しかし、ここに見るルシファーの化身とされる「誘惑の蛇」は、イヴに語りかけ罠にはめたことで、神の逆鱗に触れ、楽園追放へと追い込まれる結果となった。

しかし、ここに登場した「誘惑の蛇」は、カバラ生命の樹に記されている「上昇の蛇」とどのように違うかということである。ようするに、イヴに対し、「禁断の木の実」への好奇心・欲望を注ぐように言葉巧みに語りかけ、遂に食するように罠にはめた。食したアダムとイヴは意識の分割が生じ、結果、認識をもたらす旅が始まったのである。それは同時に、意識の下降の始まりを意味し、未知なる外界へと追いやられ、更なる意識進化の旅へと繋がっていく。

意識進化とは、一口に言って意識の内部分割化を意味し、ちょうど脳内のしわが多くなればなるほど、意識の発達は明らかなように、認識の範囲が広がれば広がるほど、意識は細かく細分化(内部分割)されていく。このことは、つまり物質世界への下降を意味しており、カバラ生命の樹では、これを「神の閃光」(創造のための光の流出)、といって意識の下降は、そのまま、「世界の創造」を意味している。これは、人間に初めて自由意思がもたらされたことに由来し、これによって、人間に創造意思が芽生え、世界を創造する能力が備わったと見る。

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 私は、エデンの園の中央に植えられた「禁断の樹」は、おそらく「生命の樹」の下降側の樹を意味しているように思われる。一方、上昇側の「生命の樹」には、「上昇する蛇」が樹に巻き付いており、「誘惑の蛇」とは正反対の方向へと誘う働きを持つ。その違いは、歴然としている。この「誘惑の蛇」は、喩えて言えば、黒い猛毒を持った毒蛇であり、一方、「上昇する蛇」は、神の使いとされる聖なる白蛇である。

この神の聖なる白蛇は、神秘学では「性エネルギーの象徴」でとされ、クンダリーニの上昇として、元のエデンの園へと返り咲く力を持つ。ここで、更なる疑問が残る。何故、エデンの園には、始めから「二本の樹」が植えられていたかという謎である。この謎が、ようやくここに来て分かってきたような気がする。

それは、要するに意識進化とは、より細やかな立場をどれだけ把握できたかということであり、意識の内部分割化を意味するが、しかし、その時に費やされる意識エネルギーは膨大であり、エネルギーはたちまち消耗してしまうからである。要するに、物質にかまけることは、それだけ物質世界に興味の対象が向かうことになり、その分、有機体のエネルギーが奪われ消耗するからである。

この活動を推し進めれば、それだけ楽園にあった統一性から遠のき、知性は豊富になる一方、バラバラになり分裂化の方向に向かう。要するに、物質界に入り込むことは、生命の原点である光の神聖から遠のくが、逆に物質世界への下降が促進されたことを意味する。このような一方通行の流れで生きる現代人にとっては、下降の流れだけしか持っていないため、有機体がたちまち物質化し化石化へと向かう。このように、上昇の流れが途絶えた現代人にとっては、本来の生命の持つ瑞々しさが失われ、朽ち果てることは明白である。

(※本来の上昇する流れを持っていれば、宇宙のエネルギーに触れるので、有機体に瑞々しさが取り戻せる。更には、下降したことによって得た経験値を統一するにも、高度な叡智と十分なエネルギーを必要とし、これらの条件を満たしていなければ、「神の楽園」に回帰することは不可能なのである。)

この現象からも分かるように、「原罪」としてアダムが神から言い渡された、「寿命が尽き、土に返るだろう!」と、言ったことと繋がる。この人間の宿命となった、化石化の流れを食い止めるためには、もう一方の上昇する流れを作り出すことをしなければ「原罪」は、永延に人類から解けないのである。

グルジェフは、エネルギーと物質の密度の違いを次のように表現した。
◆物質密度が高くなれば、それだけ振動密度は低くなる、逆に
◆振動密度は高くなれば、それだけ物質密度が低くなる・・・といった。

この表現を次のように置き換えると・・・
◆意識の進化は物質への下降を意味し、そのまま物質密度を高める働きをする。それは、同時に振動密度が低くなることを意味している。
◆エネルギーの上昇は、楽園(統一)への回帰を意味し、そのまま振動密度を高める働きをする。それは同時に、物質密度が低くなることを意味している。

ここで、二方向のつじつまの合わない流れが存在しているが、要するに人間の精神進化の流れは、意識が下降したならば、必ずその分、エネルギーを上昇させ、経験値を統一し意識を整理しなくてはならないという鉄則がある。これら双方向の流れをバランスよく働きかける以外に、正しい精神進化の道はありえないということである。人は、上弦と下弦とに均等に力を配分させ、発達させていくことが大切である。
# by sigma8jp | 2008-12-20 00:16 | 「アダムとイヴの楽園物語」 | Comments(0)

クンダリーニ上昇による覚醒の体験談

<サハスラーラ・チャクラの開花>
↓ 《 あるネットからの引用 》

  マニプラチャクラの活動が活発に始まり、そして、炎が噴出してきて覚醒が始まったと認識したのですが、その後、ほぼ落ち着いた直後にクンダリニーの上昇が起こったのではあるが、そのクンダリニーの上昇現象後、表現の方法がないほどにほっとしてきて安堵感が生じ、嬉しくて気が抜けたようになり、更には、意識が飛んだようになり、その後、ふと気が付くと、頭の上面背部周辺に大変気持ちが良い暖かさを感じたのです。

なぜに暖かく気持ちが良いのかとよく観察し、よくよく意識すると、仏陀やキリストなどの背後上面などに描がかれているような、円形状の大きな輪の形状をした光りが、私の背後上面にも、同じように、しかも、金色に光り輝きながら見えたり、感じたりしていたのです。

クンダリーニ上昇による覚醒の体験談_b0140046_4115247.jpgこの光は、何度も見えたり、感じたりもしているのですが、この円形状に見えたり、感じたりする光りの場合には、他の様々な強力な光りや、その他の光り輝くものを見た場合や感じた場合と比較すると、全く比較にならないほどの幸福感と安堵感があり、何とも表現をする事ができないものである事を述べておきます。

これはもう、例えるものがないぐらい気持ちが良いと暫らく味わっていると、今度は、頭の天辺、サハスラーラチャクラの部分に突然、大きな口がイソギンチャクの頭部が開いた状態に似た形状に開き、その中から手筒花火に火を付けたように、最初は少しの量であったのだが、様々と多くなりながら、大変きれいな様々な色の付いた炎が噴き出した状態になって見えたり、感じたりしていたのです。

その後、暫くすると、その炎で筒のような形状になった部分が、炎を頭部上面上空に噴出しながら、気が遠くなるように、本当にゆっくりと徐々に時間をかけながら、下腹部のスワディスターナチャクラのところまで下がって行ったのです。

私としては、この現象もやはり、クンダリニーの上昇の変形したタイプに間違いがないと確信したので、いっその事、クンダリニーの上昇の時と同じにように、下方にも突き抜け、そして、伸びて行ってくれないかと意識をしながら、心を鎮め、願っていると、今度は、下の方向にも伸びて行き、最下部のチャクラ、ムーラダーラを突き抜けていったのです。
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その後、クンダリニーの上昇時と同じで、表現のできないような嬉しさがこみ上げ、表現に困るような大変なる興奮をしていたのです。そのうち、クンダリニーの上昇時と同じように気が遠くなり意識を失ったようになったのです。

その後、ほとんどが、クンダリニーの上昇時と同じであったのだが、ふと気が付くと、私は地球の遥か遠くの宇宙空間に横になり、浮いている状態に見えており、そして、感じたのです。更には、地球は、遥か下側にサッかーボール大の大きさに見えていたのです。その時の地球の輝きは、青く透き通った色にて輝いていて、これまた、表現が難しいほどきれいであったとしておきます。

他の無数に存在する星も、握り拳大であったり、様々な大きさなのですが、やはり、透き通ったような様々な色にて輝いていたのです。全く不思議で理解ができないのではあるが、私はそのように感じたのです。

その時、自分の身体の意識は、地球の数百倍もあるように大きく見えたり、感じたりしていたのです。この様々に見えたり、感じる際には自分自身の肉体はなく、理解に苦しみますが、透明人間にでもなっているように見えたり、感じたりもするのです。

また更に、その炎のような筒の柱が、私の身体に比較して、絶対にこんな事があるはずがないというように、非常に太く上下に何万キロメートルもあるかのように、途方もなく長く伸びて見えたり、感じたりしていたのです。

非常に太くとは、自分自身の身体も、とてつもなく大きく感じるのですが、その身体と比較しても、絶対にあるはずがないのであるが、身体の意識より太く見えたり、感じたりしていたのです。

その現象が、宇宙空間に浮いている状態と地上にいる自分が一緒に見えながら、そして、感じるのですから、理解するのにも無理があるのかも知れないのです。しかし、私自身は事実そのように感じたのです。

そうですね、マニプラチャクラの覚醒が始まってから、この現象が終了するまでの時間は、約七時間半前後の体験であったと記憶しています。ようするに、そのような理解のできない、そして、得体の知れないような様々な現象体験が一晩中続いていた事になるのです。

そのクンダリニーの上昇の変形タイプ現象があった後に、神様に直接遭った感覚になったり、神様からの声と思われる声が聞こえ出したり、全てが神様からの贈り物のように自覚したり、嬉しくて、嬉しくて涙が出て止まらなくなったり、愛とは、自然とは、神様とは、宇宙とは、何であるかの意味がなぜか理解する事ができるようになってきたのです。

また、様々な光りの体験や幽体離脱、身体が激しく動く事や、訳のわからない声のようなものが出たりする様々な体験については、より一層現象として現れ易くなり、頻繁に起こったと記憶しています。そのようなでき事があった以後、体もすこぶる快調になり、更に、一段と病気の治療をしたり、癒をしたりする能力が増してきたのです。

このサハスラーラにも、そうですね、太陽が千個一度にとは言えないまでも、とにかく、強烈な光りが直接頭頂部の部分めがけて入ってきたように幾度も感じ、また、見た事があります。その度ごとに、この体験はもう衝撃はあるし、恐ろしく怖いので、避ける事ができるなら避けたいと思うぐらいの恐ろしさがあった事を思いだします。

それと、アジナチャクラの時と同様に、下痢と下血が非常に激しくあり、驚いていた記憶があります。その都度、大変恐ろしく感じていたのですが、そのうち習慣になり段々と慣れてきて恐ろしさもあまり感じなくなり、心も、身体も、嬉しい感情というか、安堵感のような、しびれたような不思議な感覚になったり、また更に、リラックスなどをしたりすると、激しく身体全体がガタガタとところかまわず勝手に動いたりしていたのです。

ここのチャクラが覚醒すると、霊とか神様の声が聞こえるとされていますが、私が現在理解できる事は、私のアジナチャクラの覚醒についてのところでも述べているので参考にして頂ければ幸いです。

この部分も大変感じやすく、意識などを致しますと、すぐに、むずむずと言うか、ピリピリと言うか、エネルギーと言うか、何かが回転しながら出入りしているのが感じられるのです。また、アジナチャクラと同じで、空気の圧力と言うかよく理解できないのですが、圧迫感があり、更に、意識も意識した場所に自由に送ることもできるような感じになっている気もするのです。
# by sigma8jp | 2008-12-17 03:33 | 眠れる蛇・クンダリーニの覚醒 | Comments(19)

禁断の木と生命の木

<楽園追放とクンダリーニ>
  エデンの園には二本の木がある。「善悪の智恵の木と命の木」である。禁断 (きんだん) の木の実を食べてしまったために、われわれはエデンの園を追い出された。この木の実を食べ続ける限り、エデンの園に入ることはできない。

脊柱 (せきちゅう) の基底には、尾骨 (びこつ) という骨があり、ここにムーラダーラと呼ばれている霊気的なセンターがある。そして、この中に火の蛇が眠っている。この蛇はペンテコステの火、聖霊の火である。

この火は恐るべきものであり、巨大なパワーを宿している。これが「神々の力を持つ火の蛇」である。この蛇は、インドではクンダリニーと呼ばれている。

インドの賢者は「性の秘儀」によってクンダリニーを目覚めさせる。既婚者が性的に結びつくとき、その衝動を抑制することによって、精液はごく洗練されたエネルギーに変換され、二本の繊細な神経経路を通って、脳に上昇する。

この神経経路は『黙示録』に記されている「二人の証人」(新約聖書『ヨハネの黙示録』11:3~13) である。彼らは「地上の御前(みまえ)に立つ二本のオリーブの木、また二つの燭台」である。

ヨガ行者は、神の法の第六番目の戒律「姦淫することなかれ」をおかすことなく、家庭を築く。性の秘儀の間、精液を失うことなく、子宮を受胎させるのに、月の天使団 (ルナー・ヒエラルキー) が用いる、一つの精子が脱出することは可能である。

モーゼの十戒の一つ、姦淫とは性エネルギーの消耗をも意味する。旧約聖書『出エジプト記』20:14『申命記』5:18。

禁断の木と生命の木_b0140046_153173.jpg ▼左図 エデンの園の守護天使ケルビムに追放されるアダムとイブ      

神はインティモ(魂)であり、その玉座は脊柱である。性の力は太陽的であり、また月的である。太陽の原子と月の原子が尾骨で結合するとき、神秘の力を持つ火の蛇が覚醒する。

この蛇によって、賢者の持つ全てのパワーを目覚めさせることができる。
この蛇は、脊髄下部の穴を通って脊髄の中に入る。脊髄の内部は空洞である。

脊髄に沿って一本の管があり、それを通って聖霊の神聖な火が少しずつ上昇し、ついには脳に達する。

火の蛇が脳に達するとき、霊はインティモと融合し、こうしてエデンの園に入るのである。

インティモと融合した霊は、土、水、火を支配するパワーを持つ。また、風やハリケーンに命令することもできる。そして天や地や奈落のものごとを見聞きし、ありとあらゆる神聖なことがらを知ることができる。

イエス・キリストは言った。「私が行った奇跡を、あなたがたも行い、また、もっと大きな奇跡を行うことができる」(新約聖書『ヨハネによる福音書』14:12)。それゆえ、楽園に入る唯一の方法は、そこを出て行くのに通った門から入ることである。その門とは性である。間違った門を通って楽園に入ることは誰にもできない。

独身者は深呼吸をして、三十秒もしくはそれ以上、肺を空気でいっぱいに満たして、性エネルギーを昇華すべきである。このエクササイズを毎日行う必要がある。
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▲図 カドゥケウスの杖を持つ夫婦。

カドゥケウスはローマ神話に登場する、神々の使者、マーキュリーのシンボルである。カドゥケウスは、イダとピンガラと呼ばれる二本の神経経路を象徴する二匹の蛇の巻き付いた脊髄を表現している。この経路を通って、太陽原子と月原子は脳まで上昇する。イダとピンガラは生殖器から始まる。イダは脊髄経路の左に、ピンガラは右に位置する。女性ではそれらが逆になる。この経路は延髄で終わっている。この対の経路は、半エーテル的、半物質的であり、宇宙の高次元に対応している。

男はあらゆる生物の中で最も高尚であり、女はあらゆる理想のうちでは最も崇高である。
神は男のために王座を、女のために祭壇を造った。王座は男の意気を高め、祭壇は女を神聖化する。

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【詩】 ビクトル・ユーゴーの「男と女」

男はあらゆる生物の中で最も高尚であり、女はあらゆる理想のうちでは最も崇高である。

神は男のために王座を、女のために祭壇を造った。

王座は男の意気を高め、祭壇は女を神聖化する。

男は脳であり、女は心である。

脳は光を造り、心は愛を生ずる。光が生じ、愛が甦る。

男は理性ゆえに強く、女は涙ゆえに無敵である。

理想はわれわれを納得させ、涙はわれわれを動かす。

男はあらゆる英雄的行為を行うことができ、女はあらゆる受難に打ち勝つことができる。

英雄的行為はわれわれを高潔にし、受難はわれわれを崇高にする。

男は支配権を持っており、女は選択権を持っている。

支配権は力を意味し、選択権は正義を意味する。

男は天才であり、女は天使である。

その天才は無限であり、その天使には限界がない。

男が熱望するのは崇高な栄光であり、女が熱望するのは優れた美徳である。

栄光はあらゆる偉大なものを創造し、美徳はあらゆる神聖なものを創造する。

男は法であり、女は福音である。

法は正義を行い、福音は完全無欠にする。

男は思考し、女は夢想する。

思考とは脳の中に幼虫を持つことであり、夢想とは額に光輪を持つことである。

男は大洋であり、女は湖である。

大洋は真珠で飾られ、湖は詩でまぶしく輝いている。

男は空を飛ぶ鷲であり、女は歌うナイチンゲールである。

空を飛ぶということは空間を支配することであり、歌うということは霊を征服するということである。

男は寺院であり、女は拝殿である。

われわれは寺院の前で自分自身を発見し、拝殿の前にひざまずく。

最後に男は地の果てに置かれ、女は空の始まるところにおかれる。

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<第9球体への下降>
  第9球体への下降は、古代から秘儀司祭の至高の威厳の何よりの証明であった。ヘルメス、ブッダ、イエス、ダンテ、ゾロアスター、ケッツァルコアトル等は、この恐るべき試練を受けなければならなかった。

マルスは彼の剣を鍛え直すためにそこへ降り、ビーナスのハートを捕らえる。 ヘラクレスはアウゲイアスの牛小屋を掃除するために、ペルセウスは炎の剣でメデューサの首を切り落とすためにそこに降りる。

中心に魔術的点を持つ真円、すなわちキングスター(太陽)の恒星状ヘルメティック・シンボル、生命、光の本質的原理および宇宙意識のシンボルは、疑う余地なく、すばらしい性の象徴である。

そのようなシンボルは、明確に第9球体の男性原理と女性原理を表している。

疑いもなく、第9ダンテ・サークルにおいて、放射と浸透の能動的原理は、受容と吸収の受動的原理と補い合い完全になる。

聖書の蛇から、創造的なロゴスすなわち性力のイメージが浮かぶが、それは潜在力を秘めた状態から姿を見せはじめる。

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<性昇華と聖なる蛇>
 蛇行する炎、魔術的力を持つ火の蛇は、尾骨に位置するムラダーラ・チャクラの中で、3回転半とぐろを巻き眠っている。

もし、とても真剣に「S」とタウ十字つまり「T」の間における親密な関係について思案するのであれば、サハジャ・マイトゥナ(性魔術)を通してのみ、創造的な蛇を目覚めさせることができる、という理論的結末に至る。

その「鍵」や「秘密」については、過去の私のほとんど全ての著作で公表したが、それは性的トランスの間、決して「ヘルメスの器」(エンス・セミニス、精液の本質)を一生こぼしてはならない、ということにある。

あの柔軟で順応性のある透明な液体(エンス・セミニス)を射出しない、リンガムとヨニ(男根と子宮)の結合。 なぜなら姦淫者がみじめにこぼすこの前述の物質の内に「火の力の本質」が全て潜在しているから。

「オム(Om)、スワヤンブーリンガムに眠る一匹の蛇に似た女神に従順で、すばらしく着飾った彼女は、愛するもの、その他魅力的なものを享受し楽しむ。 彼女はワインに魅惑され、何百万の光線を放射する。 彼女は、風と火による性魔術の間、ヤム(Yam)とドラム(Dram)のマントラ、そして、フム(Hum)のマントラで目覚めるであろう。」

イー・アー・オー(I.A.O.)は、サハジャ・マイトゥナの基本的で重要なマントラである。 第三ロゴスの実験室-礼拝室で作業しているとき、その音を長く延ばし、それぞれの文字を別々に、歌うように発音する。

エンス・セミニスを創造エネルギーにする性的変換は、ヘルメス主義の叡智のまことの真理である。

人体におけるこの種の宇宙エネルギーの両極性は、古代からエジプトやメキシコ、ギリシャやインド、ペルシャ等の奥義秘伝のスクールで、とても綿密に分析された。

8の字の形で背骨の左右にみごとに展開する、ある一対の神経経路のおかげで、精液エネルギーは脳まで超自然的に上昇できる。

こうして魂の翼を驚異的に広げたマーキュリーの杖にたどり着いた。

上述の一対の神経経路は、決してメスで取り出すことはできない。 これら二筋の経路は、むしろ霊気的な四次元の性質を持つ。

疑う余地なく、それらは『ヨハネの黙示録』の二人の証人である。 彼らは全地の主のみまえに立っている二本のオリーブの木、また二つの燭台である。

ヴェーダの聖なる国では、この一対の神経は、イダとピンガラというサンスクリット語の名前で古典的に知られている。 イダは左の鼻腔に、ピンガラは右の鼻腔に関連する。

禁断の木と生命の木_b0140046_2462232.jpg明らかに、これらの二本のナーディー(経路)の最初のものは月の性質を持ち、次のものは太陽の種類に属する。

時代の深い夜から魔法のように現れる古代の伝説が述べるところによると、精液組織の太陽原子と月原子が尾骨付近のトリベニで接触するとき、電気誘導により第三の魔術的力が目覚める。 アルハットの神秘的な火、クンダリニーのことを言っており、これを通して動物的エゴを宇宙のチリにすることができる。

古代の叡智の古書には、平凡な一般人の脊髄下部の開口部は密閉されていると記されている。 精液の気体はそれを開き、聖なる蛇はそこへ入り込む。

脊髄管に沿って様々な経路が驚異的に機能するが、それらは違う次元にあるために混ざり合うことなく浸透し合い、互いに融合する...

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<ハートの価値>
  脊髄に沿ったクンダリニーの上昇は、ハートの価値に従ってとてもゆっくりと行われる。 ハートの火は、聖なる蛇の超自然的な発達を支配する。

デビ・クンダリニーは、多くの人が考えるような機械的なものではない。 火の蛇は、夫と妻の真正な愛によってのみ目覚める。 それは決して姦淫者の脊髄管を上昇することはない。

名前なきものの御名により私は述べる。 クンダリニーは神秘主義の二元性、母神、イシス、マリア、もっと言えば、ラム・イオ(Ram-Io)、アドニア、インソベルタ、レア、シベレス、トナンツイン等であり、それは私達の本質的存在の奥深くにある、全ての神聖なモナドから超越的に分離したものである。
# by sigma8jp | 2008-12-17 02:07 | 眠れる蛇・クンダリーニの覚醒 | Comments(0)

クンダリーニの覚醒

<クンダリーニ・ヨーガの実践>
 クンダリーニっていうのはサンスクリット語で「とぐろを巻くもの」という意味。これは誰もが持っている根源的な「生」のエネルギー、地球のエネルギーで、古来より眠れる龍とか蛇に例えられている。

場所は背骨の一番下、尾骨・仙骨のあたりにあって、通常は眠っていて動いていない、機能していない状態。で、これが覚醒、活性すると背骨に沿って螺旋状に上昇して頭頂まで上がってくる。これがクンダリーニが上がった状態。
クンダリーニの覚醒_b0140046_2503060.jpg
この状態からさらに活性していって、天地との交流が活発になると頭頂を突き抜けて宇宙と一体化する。これがクンダリーニの昇華でここに到ると色々な潜在能力が覚醒して肉体、波動も大きく変わる。

このときに得られる能力は一般的に超能力と言われて非日常的な能力なんだけど、本人が潜在的に許していた範囲の事しか起きないし、クンダリーニ昇華から数日から数週間で波動は元のレベルまで戻って、あいにく能力もその一部しか残らない。

このクンダリーニの昇華によって到達する世界っていうのは、創造主の領域で自分自身が神であると悟ることができる場所。

クンダリニーは、普段は尾てい骨付近のムーラーダーラチャクラに眠っているが、ヨーガの実践や宗教の各種修行によって活性化し始め、生涯をかけ各チャクラを開花させグランティ(=結節。ブラフマー結節、ヴィシュヌ結節、ルドラ結節の3種類がある)を破壊し、最終的には頭頂のサハスラーラを押し開け解脱に至る。今世で解脱できる魂は極一部といわれている。性欲を昇華させたものがクンダリニーとなるため、梵行(性的な事柄を避ける)修行が重要となる。

体内(霊体)にあると言われるナーディ(管)の中でも代表的なものは、動的で男性的性質のピンガラー・ナーディ(別名・太陽の回路)、静的で女性的性質のイダー・ナーディ(別名・月の回路)、そして身体の中央を貫いており、調和をもたらすスシュムナー・ナーディの3つがある。安全にサマーディを得、維持していくためには、ピンガラー・ナーディとイダー・ナーディをバランスよく活性化させることによりスシュムナー・ナーディからクンダリニーを通す必要がある。

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◆ムードラ(Mudra=印)とバンダ(Bandha=ブロック)
 ムードラとバンダは別々の名前がつけられていますがもともとは同カテゴリーのものです。ヨガのレッスンのとき、「胡坐で座り、手はムードラ(印)を作って膝に…」と毎回やっていますが、そもそも何故ムードラをつくるのでしょうか?ムードラをする理由がある筈です。チン・ムードラ(Chin Mudra)やギャン・ムードラ(Gyana Mudra)、手の指をつけておくことにはそれなりの理由があります。

大きく2つの理由があります。
◇1.エナジーをリサイクルするため=体の中に流れている気・エネルギーを再利用するために体の部分をつなげておいてあげます。

◇2.エナジーの方向を変えてあげるため=体の中のある部分に気を集中させるためにあえて気の流れの方向を変えてあげます。

例えばチン・ムードラで人差し指と親指をつけておくのは、指を真っ直ぐに伸ばしたままだと外に逃げていってしまう気を体の中にまわしてあげるためだし、胡坐で座るのも足と足をくっつけておくことで気が外に逃げずに体の中に巡るためだという理由があります。

しばらく胡坐で座り、手をパーにして座った状態とムードラをつくった状態とで比べて自分なりに観察してみました。親指と人差し指とその他3本の指の「感じ」を観察しました。

感じられた人も感じられなかった人も、敏感になると少しづつ何か感じられるようになるということだけ知っておきましょう。大事なことは「何を?」「どんな感じ?」ということに捉われず、自分で観察すること、敏感になることが大事です。

ムードラやバンダは私たちの身体的な身体を使って気・エナジーの流れを調節したり、コントロールしたりするための方法です。

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◆ナディ(Nadis)について
  前回のレッスンで少し触れましたが、私たちの身体の中にはナディ(Nadis)と呼ばれる沢山の気・エナジーの流れる道があります。その中に3つのおもなナディがあります。このナディは大小様々76000位あるといわれているそうです!!

■イダ(Ida Nadi)は女性的エナジー=感情・直感・感じること・静的・陰・-(青の線)
■ピンガラ(Pingala Nadi)は男性的エナジー=論理・知識・考えること・動的・陽・+(赤の線)
■シュシュムナ(Shushumna Nadi)はからだの中心を、全部のチャクラを突き抜けて通るハイウェイのようなもの。イダとピンガラがひとつに出会って上に流れる時の道。

 全てのヨガの練習、アサナもプラナヤマも、全部の練習はこのイダとピンガラのエナジーをひとつにしてシュシュムナを通ってチャクラを突き抜けてサワスワラ・チャクラにエナジーが通るようにしてあげることを目指しているといえます。アサナで身体を動かしてチャクラを開く準備をしたり、呼吸法でバランスをとったり、バンダなどで気・エナジーの流れの方向をコントロールしてシュシュムナのほうに集中させてあげたい…などなど。

このシュシュムナ、身体の中心にエナジーを通してあげたいんだけれども、ここで大きな問題にぶち当たります。イダとピンガラがバランスが取れていてもうまくエナジーが上に流れない…。このシュシュムナに大きな障害物=ブロックがあります。

大きな3つのブロックがあります。高速道路のような真っ直ぐな道に大きな障害物がある、もしくはチューブに結び目が出来ているために流れが止まってしまうような、そうした結び目をイメージするといいかもしれません。

ヨギ達はそれらの障害物=ブロックを破壊して流れをよくするために、私達の体内の気の流れをコントロールする方法を見つけました。障害物=ブロックがある場所に集中的に沢山の気・エナジーを送ること(=気の流れの向きをコントロールする)でそのブロックを壊してあげる方法です。

エナジー(気)の流れを妨げる障害=ブロックはグランティ(Granthi)と呼ばれます。インドの神様の名前を借りて3つのグランティにそれぞれ名前がついています。

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■ブラマ・グランティ【結節】(Brahma Granthi)
  ムラダラ・チャクラの近く、一般的にはムラダラとスワディスタナの間といわれますがムラダラのエナジーの辺にある大きなブロック=グランティ。

ここのグランティ=障害が強く効いている場合というのは、欲望とか欲求とか、何かを「やりたい!」ということに執着、固執するむきがあります。「自分を変えなきゃ!」とか、あれが欲しい!あれをやりたい!と欲することが意識や行動の多くを支配している状態。

スワディスタナ・チャクラを思い出すとわかると思いますが、快楽を求める、本能的な欲求を満たすことに執着してしまう。本能的な欲求を満たすことに固執するためにそれ以外のことを気づかない、無知の状態だということがいえます。

ここのグランティを壊し、解放してあげることが出来るようになると体の中のエナジーを自分で使うことができるようになります。ムラダラ=地球・地・肉体的な個、スワディスタナ=水・感情的な個、マニプラ=火・エゴ・自我な個、のそれぞれのエナジーを自分でコントロールして使うことができるようになります。

ヨギは大抵このグランティを壊し、エナジーを自分でつかえるようになるまでにそんなに長い時間がかかりません。
*ブラマ=インドの神様の名前で、創造神

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■ヴィシュヌ・グランティ【結節】(Vishnu Granthi)
 アナハタ・チャクラの近く、一般的にはマニプラとアナハタの間とされます。ここのグランティ=ブロックがきいている場合、感情、特に愛情に固執します。愛する気持ちや愛される気持ちにしがみつき、執着するむきがあります。「愛こそが全て・・」「この愛を失いたくない・・・」というように。

ヨギは愛情や愛することも大切なものとして認めます。でも、愛こそが全て、とか、この気持ちを失いたくない、というように抱え込まないことを説きます。全てのものは新しく生まれ、なくなってゆくものだと全てのことを受け入れてしかも切り離すことが大切だといいます。

愛情や愛もそのときにあるものは楽しんで、でもそこにとどまらないこと。そこにとどまりたければそれも自由です。でもそのほかにもっともっといろいろなことを知ったり体験する自分の可能性を開いてあげましょうというのがヨガの考え方です。

「この人を愛している」とその気持ちが生活の中心になって何年も過ごしたり、失恋した気持ちを何年も引きずったり、感情や愛情に執着するのはここのヴィシュヌ・グランティに大きなブロックがあります。

感情・愛情は自分のところに「きて・つづき・去るもの」なんだということをわかってあげること。
同じようにマニプラ寄りのブロックは目標とか、自分の大志に執着すること。将来の目標を立てたりすることは大切だけれど、その目標に執着、固執しないということ。

うまくいかなかった場合に落ち込み続けたり、そのことに全ての意識を捉われるのではなくて、10年もやってみたけどだめなこともある、とか、やはり受け入れて切り離すことをヨガではといています。

ここのグランティを壊し、解放してあげることが出来るようになると地球上、この世の全てのものからエナジー・気を自分のために使うことが出来るようになるといわれています。気の源が自分の体ではなく、自然や宇宙や全てのものからエナジーを使います。このブロックが解けた状態は自分の存在が自分の体だけではない、自分に執着する必要性がなくなったということを少しづつわかってきた状態でもあるからです。

この状態に達したヨギは60日土中に埋められるという苦行(サダナ)や、サチャナンダ・サラスワティ先生のようなパンチ・アグニ(火の苦行)ができるようになります。それは自分の体の中のエナジーだけではなく森羅万象からエナジーを取り込むことが出来るようになるからです。
*ヴィシュヌ=インドの神様の名前で継続、生命力の神様

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■ルードラ・グランティ【結節】(Rudra Granthi)
  おそらく一番壊すのが難しいブロックです。アギャ・チャクラの近くのブロックで、ヨガの練習をつむことによってだんだん会得した力、直感や超能力的な力=シッディ(Siddhi)に固執、執着することとしてあらわれます。自分が持っている能力や力に執着すること、すなわち「自分」とか「私」に執着してしまうということです。

自分と他人の違い、自分と木が違うことをまだ見てしまっているうちこのブロックは解けません。自分自身が全く無になってしまうことから、他人とか自分以外の生きとし生けるものとの違い、境目がなくなってしまう状態がここが解けた状態です。

例)よくご存知、サイババの例を挙げましょう。サイババが掌から金を出したり、いろいろなことが出来ること、本当か嘘かは別にして、この力がシッディ=超能力です。でもサイババはこれを「サイババの力」として自分のものとして執着しています。

この執着から解放されるのは本当に難しいことです。何年も何年も勉強したり、苦行を積んでやっと手に入れた「自分の力」や超能力を自分のものとしないこと、なんにもない。とすることは、ある意味勿体ない、とおもうはずです。やっと自分で手に入れた力を自分のために使わないなんてそんな!と思う場合、サイババのようにそこでとどまる選択をするのでしょう。

逆にこのブロックをも壊すことが出来たであろうとする例はシバナンダ先生。おそらくシバナンダ先生はこのブロックも解けて、全ては自分ではないことを悟られたと思います。だから一生を完全に自分ではなく人のために、とにかく与えることにささげることができたのでしょう。

インド各地に無償の病院を建てたり、あれだけ沢山の偉大な13人のヨガの先生を育てたり。自分の名前を売るとか、自分が有名になるためではなく、完全に人に与えることにささげた聖者です。

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<クンダリニーヨーガの心得>
  クンダリニーを意図的に上昇させようとするクンダリニーヨーガを実践する場合、そこには大抵の場合我が介在しているため、クンダリニーエネルギーがピンガラー・ナーディのみを通ってしまうことがある。

この場合、程度にもよるが、神経系統のショート現象が起こり、全身の激しい脈動、極度の疲労困憊や精神錯乱、重度の鬱症状、知覚過敏、最悪のケースでは脳溢血や自殺などを招いてしまう。よってイダー・ナーディを強力に活性化させる技法を知らぬままクンダリニーヨーガを行うことは無謀ということができる。

また、クンダリニーヨーガを実践するつもりでなくても、早く悟りたいという性急な我を保持していたり、あるいは神への絶対帰依に欠ける修行をし続けた結果として上記のような現象が起こる場合があるため、注意が必要である。このため、実践者は菜食をして、刺激物の摂取を避け、過食、不規則な食事、否定的な態度を避けるべきである。

クンダリニー覚醒が一定のレベル以上に達すると、人間に果てしないイマジネーションの拡大がもたらされるといわれており、実際その事例を見ることも多い。クンダリニーの覚醒者と自称する人(その多くは覚醒者とはいえないレベルではあるが)は多くいるが、彼らの中の一部に空想的世界観を見ることができる。

人間が自分を実際以上のものである(あるいは実際以上のものでありたい)と思うたびに、イマジネーションの力がそこで働いている。イマジネーションの力は、過去において不可欠であったのであり、さらに人類にとって今後もまだまだ必要な力である。

あまりに現実を見てしまうと、世界の進歩が阻害されてしまうのであり、クンダリニーにより神の夢を個々の人間の器に応じて実現させることができるのである。しかし、修行者がイマジネーションの拡大に溺れてしまい、それを自分の力だと思い欲望のままに行動してしまうならば、悟りへの道を逸脱することになってしまう。

クンダリーニのエネルギーは根源的な生のエネルギーですから誰もが持っています。
通常は眠っていてほとんど動いていない状態なのですが、いろんなきっかけによって大きく活性をします。きっかけというのは瞑想やエネルギーワーク・呼吸法による活性、または尾骨周辺を強打したり外部からの物理的などです。

そして眠っている状態から活性して大きく動き出した状態のことを覚醒といいます。
そしてこのクンダリーニ覚醒の状態になりどんどん活性していくと、そのエネルギーは頭頂まで上がります。ここまでくると色んな変化が現れてきます。また潜在能力、超能力といわれる能力も覚醒することがあります。

クンダリーニのエネルギーが制御不能なところまで活性して、背骨と頭を突き抜けて宇宙と一体化することを、「クンダリーニの昇華」といいます。宇宙の一体、それはすなわち悟りの境地です。

イエスキリストや釈迦、アセンデッドマスターと呼ばれる存在や今この世界に生きている覚者と言われる人たちは、クンダリーニの昇華によってアセンションし、悟りを得た人達です。

クンダリーニが昇華すると肉体・精神・意識は変容し、サイキック能力も開花します。ただし、その期間は短く、3日から一ヶ月程度と人によって様々です。

その期間が過ぎると波動が落ちて、以前に近い状態まで戻ってしまいます。クンダリーニ昇華の状態のときに使えていた能力もほとんどなくなり、その一部の能力が残ることになります。クンダリーニの昇華によって得られる能力は本人が許す範囲の能力です。ですから意識的、無意識的に望まない能力というのは発現しません。

クンダリーニは覚醒後にまた眠って動かなくなることもありますが、覚醒のレベルを維持して意図的に活性することも可能です。また意図しなくても自発動して活性することもあるのがクンダリーニの面白いところでもあります。

またクンダリーニは昇華時に制御不能なレベルにまで活性しますが、そのときのエネルギー量は凄まじい為、意図的に覚醒、昇華しようとする場合はエネルギーラインの整備が必要不可欠です。

今は天地のエネルギーが大変活性してきているので、クンダリーニも昇華しやすい状態になっています。ハートを開いて天地と交流していくと、クンダリーニはどんどん活性していきます。嬉しい事、楽しい事、気持ちのいい事が波動を上げて、それがクンダリーニのエネルギーの活性にも繋がります。

これから沢山の人がクンダリーニ昇華して、よりこの地球での生を楽しむことになるでしょう。
あなたもその中のひとりとなることが出来ます。

クンダリーニの覚醒時に見られる兆候の一部を以下に掲載しておきますので、ご参考までにご覧ください。

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《 クンダリーニの覚醒時に見られる兆候 》

・穏やかなあるいは強烈な恍惚感,至福感が数分間もしくは数ヶ月持続する。

・陶酔感,分離感,軽い体外離脱感、トランスに移行する,空間を凝視する。

・心拍数の増大、電気のソケットに接続したような感じ,ピリピリ,チクチクした痛み、神経力、高血圧、動悸。これは、昏睡状態と交互にくるかもしれない。

・吐き気、腹痛、蛇が体内にいるような感じ、特に腹部や脊椎を這い上がるような感覚。

・心臓発作のような胸部の痛み、全身の慢性的もしくは一時的な痛み、診断が困難である。

・背中の痛みと脊椎に沿った疝痛、頭痛、頭の中をエネルギーがブンブン飛び交っているような感じ、ピリピリ、チクチクする、頭皮を虫がはい回るような感覚、頭部の電気的な感覚、頭皮がパカッと開いたような感じ。

・手や腕もしくは足のしびれ、足の親指の痛みもしくは電気的な感覚、足指の爪が黒ずんだりはがれ落ちたりする。

・性的エネルギーの大きな変動、偶発的なオルガスムス、性器もしくは"脳内オルガスムス"のいずれか。

・子宮頚部の吸い込むような感覚、身体が空気のように軽く感じる;体外離脱体験、聴覚の鋭敏化・・・非常に遠距離の声が聞こえる、色がそれぞれの音に結びついているかのように聞こえる。

・波動やエネルギーが耳を突き抜ける。

・深い内的な音が聞こえたり感じたりする。

・多動の次に来る極度の疲労、髪の毛が逆立つ、妊娠したように胃が膨らむ。

・肺がひとりでに空気でいっぱいになる。

・甘い蜜の味が喉に降りてくる。(ヨーガではアムリタという)


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クンダリーニの覚醒を導くには

 タントラは、主に母なる大地を中心に一番下のチャクラであるムラダーラにエネルギーを蓄え、クンダリーニを覚醒させるメソッドに通ずる。クンダリーニの覚醒には、永い間の瞑想を通して、ムラダーラ・チャクラに眠っていた蛇(3回半トグロを巻いた蛇)を目覚めさせるのだが、成功する例があまり報告されていない。

クンダリーニ瞑想での覚醒のプロセスは、始めに軽い振動と同時に頭上のチャクラであるサハースラーラへ、一気にエネルギーは上昇していく。その時、クンダリーニの蛇は3回半、螺旋状に回転しながら七つのチャクラを貫通していく。

私も以前に、瞑想中に突然、耳鳴りがし始めたかと思った瞬間、強烈な振動が起き始めた。その時は、まだ初めての出来事でもあり、これらの知識がなかったので、自分でも一瞬何が起きたのかさっぱり分からず、恐怖のあまり慌てて床に伏せてしまったのを記憶している。

この振動を導くプロセスは、精神のリラックスを通した安心感と統一が重要であり、それにより空間のプラーナが徐々に振動を開始する。その状態へ持っていくためのコツは、精神的な緊張や身体のこわばりを取り除くために、脱力気味に空間に全重心(精神と身体感覚)を寄りかかるように預ける方法をとる。

その状態まで持っていくことに成功したなら、空間はプラーナで満たされるので既に空気を吸っているという感覚がなくなる。むしろ、しっとりとしたプラーナが徐々に身体の中枢まで浸透してくるので、細胞の隅々が生き返えるように輝き出し、それと同時に、精神はこの上ない平安で満たされる。

もう既に、プラーナが内と外で満たされた状態になっているので、相互にプラーナが共鳴現象を起こし、耳の奥で微かにピーッという耳鳴りが激しさを増す。私はこの音をエーテルの共鳴音を呼び、この共鳴音を瞑想の出来具合の目安にしている。

ここまでくると、精神的な平安から息は自然と脱力してくるので、腰の深部(根の尾?骨)にまで息がストーンと下りるようになり、濃厚なプラーナ呼吸に変わってくる。このプラーナ呼吸の反復が、プラーナ・エネルギーの増殖を導き、腰の位置にあるムラダーラにプラーナが蓄積される。そして、遂に眠っていた蛇を起こすまでにエネルギーは成長し、始めは微かな振動を感じるが、次第に腰の奥がブルブルと回転するような力強い振動に変わってくる。

遂に、サーペント・ファイアー(燃ゆる蛇)の目覚めた瞬間である。この時、強烈な振動と共に3回半の螺旋を描きながら七つのチャクラを一つひとつ貫通しながら、頭上のチャクラであるサハースラーラを目指して、一気にエネルギーは上昇し最終的に天へ突き抜けていく。

この一連の現象を冷静に受け止め、覚めた意識でいられるかが問題であり、大概は恐怖心により、意識の集中を切らしてしまうのが常である。それをクリア出来なければ、次のプロセスへの移行は、先ずないと思った方のがよい。

また、このクンダリーニ瞑想は、意図的にやろうとして出来るものではない。何故なら、意図する意識があると、どうしても野心や好奇心が働くので、息を高ぶらせ空間のプラーナをかき乱すことから、殆どといっていいほど成功せず、これらの変化も起きない。結論として、無心で行なうのが最大の近道であるように思うからである。

しかし、諦めずにこれらのことを念頭において、日々平安を楽しむ意味で、無心で瞑想を続けて行くことをお薦めする。なぜなら何時、クンダリーニが目覚めても落ち着いて対処できるようになるからである。

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(追伸)
  ここで、大事なのは空間に全重心を預け、寄りかかることである。これは、腰を大地と結合させることに通じ、いわば、「大地との契約」 を果たすことであり、「大地の神」への神託でもある。この神託とは、文字通り、神に託すことであり、神に対する全幅の信頼の証である。これなくしては、空間に全重心を預け、寄りかかることはできない。この大地とは、地球の根源的な生命の大地であるが、大概、この生命の大地と殆どの人が繋がっていない。

というのも、現代人の多くはアクセクしてた生活リズムで普段過ごしているため、浮足立ち、完全なる平安を味わうことが出来ないでいる。そのため、おそらく一生、生命の大地とは遊離したままだろう。この根源的な大地のことを 「大地の神」 といっている。この領域と繋がって、はじめて「大地の神」 と契りを結ぶことができる。

クンダリーニの覚醒_b0140046_16352770.jpg

これにより、ムラダーラ・チャクラが大地の精霊である四大力場(四大元素)と結合することで、残りの6つのチャクラが連動し、エネルギー循環を開始する。大自然との調和と一体化には、この大地の四大元素と結合して、はじめて心に平安が訪れるのである。チベットでは、五体投地(ごたいとうち)という、両手・両膝・額の五体を大地に投げ出し、礼拝する姿勢をとる。これも、大地との契りを交わす姿勢と言える。
# by sigma8jp | 2008-12-17 01:19 | 眠れる蛇・クンダリーニの覚醒 | Comments(0)